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真夏の日課
作:上月


           夏は短し 恋せよ男子


---真夏の日課


 じりじりと太陽に焼かれた、コンクリートの坂を自転車でいっきに駆け上った。額から汗が噴き出て、Tシャツがべっとりと背中に張り付いている。時折背中を押すように、後ろから吹いてくる風が、すうっと体の熱を奪ってくれる。それがまた心地よい。
 通称心臓破りの坂として、地元の人々に親しまれているこの坂を、ぼくは毎日登っては下りる。元来体の弱いぼくのすることといえば、大抵は読書か、幼少の頃から習っていたピアノを弾くことくらい。野球やサッカーなどのスポーツに特別憧れを抱いているわけでもないぼくにとっては、たった一冊の本の中に広がる世界に入ることだけで満足だった。けれど、やはり夏休みに入ればいくら本を読んでもピアノを弾いても、時間は空くもので、暇を持て余したぼくは、ちょうどつい最近、心臓破りの坂を越えて少し行ったところにある、大きな県立の図書館の存在を知ったのだ。怠けた体を動かすついでに、足を運んでみようと思い起こし、そして今に至る。
「あっちい」
 シャツを引っ張って顔の汗を拭うと、坂のてっぺんまできて、一旦自転車を止めた。生い茂る木々から、蝉がひっきりなしに鳴いてるのが聴こえてくる。それはもう、耳が痛いくらいに。
 今年の夏は、平年よりもうんと暑かった。夏の初めは少し外に出ただけでも、肌が焼けて赤くなり、ヒリヒリと痛んだのだが、さすがに毎日図書館に通っていると、肌もそれに適応して、段々と小麦色になり、どことなく自分が男前になったような気がして、この前鏡を見て、少し自惚れたくらいだった。
「よし、行くか」
 一通り休憩したところで、ペダルに足を掛けると、今度はいっきに坂を下った。ごおごおと耳の奥で風の音が鳴る。真夏の風を全身に浴びて、あまりの風圧にどこか遠くへ吹き飛ばされるんじゃないかと思った。
 坂は段々緩くなっていき、ぼくはようやくブレーキに手をかけてゆっくりと減速していく。次第に風もやわらかくなり、町を上から見下ろしていたぼくの視界は、今度は町に見下ろされたみたいに、低くなっていた。坂を越えてしまえば、あとはもう一直線で、いつ見ても誰もいない、古ぼけた交番を過ぎればあっという間に図書館に着く。ぼくが住んでる町の隣町というだけなのに、人々はもちろん、雰囲気もどこか違っていて、この夏が終わるまでに、ぼくもこの隣町に解け合えたらいいのに、と思っている自分がいることについ最近気がついて、少し驚きもしたが、本の中だけではない自分の世界がちょっと広がった気もして、嬉しかったりもした。
 
 自動ドアが、難聴者用に流れるアナウンスと共に開く。一歩館内へと踏み込めば、あたたかな雰囲気と涼しい風に包まれた空間が広がる。本を黙々と読み続ける人々から一言も話し声が聴こえなくても、なんとなく、同じ気持ちを共有しているような感覚がして、この図書館に来るたびに、わくわくした不思議な気持ちになる。
 昨日は文学本を読んだから、今日はファンタジーにしようか、などと考えながら、棚の壁面に掲示された、ジャンルの書かれたボードを歩きながら見ていく。
「あ」
 ふと、目を前に向けると、つい最近、ここで知り合ったばかりの古川こがわさんの姿を見つけて、思わず小さく声を上げた。その声に気がついたように、古川さんもぼくの方を向くと、一瞬だけ目を丸くしてから、すぐにやわらかく微笑んだ。
「今日も来たんですね」
 ひっそり声で話す彼女の唇が、小さな顔と同様、上品に整っていることに気がつく。声も至極落ち着いてる。制服の胸元にある、ネームプレートに載っている顔写真よりも、実物は何倍も可愛らしいように思える。
「ぼくら、毎日会ってますよね」
 小さく笑って、ぼくも古川さんに微笑み返すと、お互い何がおかしいわけでもなく、くすくすと笑い合った。
「今日も、お手伝いですか?」
 古川さんの着ている、深緑の少し古いデザインの図書館の制服を見て、ぼくは訊いた。彼女は軽くうなずいてから、「もっと割りのいいお給料くれたらいいんですけどねえ」と笑った。
 図書館で働いている母親に、人手が足りないからといわれて、彼女は渋々、この夏限定で、アルバイトをしているらしい。元々ぼくと同じように、本が好きな性分であったため、あまり仕事の内容にも抵抗がなく、次第にこのアルバイトが楽しくなってきた、という話を以前彼女から聞いた。
 古川さんと別れて、ぼくは「海外のよみもの」とボードに書かれた棚の方へ向かう。邦書と違って、洋書は分厚いものが多い。特にファンタジーは、ハリー・ポッターのように、一巻が上下二冊に分かれているものが多く、今日一日で読めそうな本を探すのに一苦労した。それでもやはり図書館は、ぼくの部屋にある本棚と違って、ジャンルも色々あれば、目を引くような本も山ほどあり、どれを読むかでまた一苦労した。
 そうしてようやく手に取った本は、真っ白な猫がバケツに入ってる姿が描かれた表紙の、少し薄い小説。背の低い椅子に腰をおろして足を組み、一番リラックスできる体勢になってからようやく一ページ目をめくった。
 館内で閉館のアナウンスが流れ、ぼくははっと顔を上げた。いつの間にか、本に没頭しすぎて時間を忘れてしまっていたらしい。ふと辺りを見回してみると、来たときよりも館内はがらんとしていて、ぽつりぽつりと人がいるくらい。近くの窓から外を覗いてみると、空は橙色に染まり、もう陽が落ちようとしていた。
 ぼくは本を閉じて、元にあった場所に戻すと、両腕を伸ばして大きく伸びをしてから、長い間同じ位置に傾けていたせいでかたくなった首をひねる。はあ、と深く息を吐いてから、そろそろ帰ろうかと図書館の出入り口に向かって足を運ぶ。途中でばったりと古川さんにまた出くわし、二言三言、話をしてから、図書館を出て自転車を留めておいた駐輪所に向かう。
「あのっ! 城谷しろやくん!」
 不意にぼくの名前が呼ばれ、声がした方向を見ると、さっきさよなら、と言葉を交わした古川さんがぼくの方に向かって走ってきていた。ぎょっとして、「どうしたんですか」と、ぼくの傍で息を切らしている古川さんの背中をなでると、「これ、渡しそびれちゃって」と苦笑しながら、一冊の本を手渡された。
「城谷くん、前話したときに月が好きだって言ってたから。わたし、もうこれ読み飽きちゃったし、城谷くんなら読んでくれるかなあって思ったんですよ」
 ほんの少しの距離を走っただけなのに、頬を赤くして息を乱している彼女の姿はとても愛らしくて、ぼくはあまりのおかしさに笑いながら、本をぺらぺらとめくって、適当に目を通してから、「ありがとうございます」と本を胸に抱えて礼を言った。
「あ、じゃあ、これで」
 全てをやりおえたといった表情で彼女は微笑むと、少し気まずそうにはにかみながら、ぺこぺこと頭を下げて、今度は図書館の方へと走り去ってしまった。あまりにも台風のように来ては行ってしまった彼女の小さな背中を見て、何かあたたかなものが体を流れる感覚がした。
 ぼくは自転車のカゴに本を入れると、全速力で自転車をこいで、足が重たくなっても気にせず、坂を全力で越えて、そのままいっきに今度は坂を下った。古川さんにもらった本が、カゴの中でぱらぱらと様々なページを開いていた。
 家に着いたころには辺りも薄っすらと暗くなってきていて、ふと空を見上げると、一番星が、ついさっき灯ったばかりの電灯に負けないくらいの明るさで、今から訪れるであろう夜を照らそうと、輝いていた。

 「毎日毎日、ご苦労様です」
「城谷さんの方が本当、ご苦労様ですよ。あんな坂、毎日のぼってたら、本当に心臓、破裂しちゃいますよ」
 古川さんは小さく笑ってから、「じゃあ、またあとで」と、にっこり微笑んで図書館の奥の方へと、大量に本を抱えていってしまった。
 夏休みの終わりが近づくにつれ、ぼくと古川さんは次第に親しくなっていき、そしてゆっくりと、隣町にもとけ込んでいった。ぼくの夏の日課は、また新たにひとつ増え、図書館に通い、本を一冊読み、そして必ず彼女と言葉を交わす、この三つになった。
 ついでに、以前渡された本にはさまっていた、古川さんのメールアドレスと電話番号が記されたメモ用紙を見つけた日から、彼女とのメールと電話も日課になり、そしてそれは、この暑い夏を過ぎても続きそうな日課だった。
 うだるような暑さの中、ぼくは夏の終わりと恋のはじまりを予感するように、心臓破りの坂を、いっきに駆け上った。

---了














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