灯りを少し落とした部屋の中で、ドライヤーから出る温風が、耳をかすめていく。
私は、乾いた髪を整えて、スイッチを切った。
夕方から降り続いている雨音に混じって、つけたばかりのテレビの画面から流れてくるジングル
ベルの音を聞き、私、西村由利は小さくため息をついた。
今日はクリスマスイブ。本来はイエス・キリストの誕生日なのに、ここ日本では『恋人たちの聖
なる夜』とされている日だ。
缶ビールを口に含み、ドレッサーの引き出しを開けて、一枚の写真を取り出す。
「……隼人」
3人写っている写真の真ん中でほほえむ短髪の男の顔を、私は指でそっとなぞった。
野田隼人は、有名外資系企業に勤める私の同期。
精悍な顔つきの割には明るくて人懐っこい。取引先の評判が上々で、成績はいつもトップクラス。
ゆえに、彼に熱い視線を送っている女性が会社の内外問わずにいることは知っている。
毎日顔をつき合わせ、いろいろ話をしているうちに、いつの間にか、私も隼人に『落ちて』いた。
でも、私達は部署の中で一番気の合う友達。
隼人に好きな人がいるらしいことは知っていたし、今の関係を壊すつもりもなかった。
確かに少し物足りないけれど、ずっと一緒にいられたらいい――私はそう思っていた。
だけど……2ヶ月くらい前かな。
隼人から受付嬢人気ナンバー1の篠崎千鶴ちゃんとの橋渡し役を頼まれたことから、私の気持ち
は違ってきた。
隼人にその話を持ちかけられたとき、私は、背が高くてスラッとした隼人と、目がパッチリして
いて、今流行りのモデル風の髪型をした千鶴ちゃんは、お似合いだなと純粋に思った。
それに、私は隼人の喜ぶ顔を見るのが好きだった。隼人が笑っていてくれたら、私も幸せな気分
でいられる。
だから、申し出を引き受けて、今日までずっと世話を焼いてきた。
人当たりはいいのに、恋となると途端に臆病になるあいつが、最初はおもしろかった。
……今は、正直おもしろくない。それどころか、つらい。
二つ返事でOKしたくせに、ふたりが一緒にいるところを見ると、やきもちを焼いてしまう自分
を抑え切れなくて、陰でこっそり泣いてれば世話ないよね。
今朝も、
『どんな格好がいいと思う?』
と訊いてきた隼人のメールに
『あんたが一番かっこいいと思う服装にしたら? ただし、決めすぎはカッコ悪いよ』
そう返して電源を切って以来、私の携帯はただの赤い置物と化している。
今ごろふたりは、どんな夜を過ごしているんだろう……?
気になるくせに、電源を入れられない。
このままじゃいやだ、と心は叫んでいるのに、今の関係が壊れてしまうのが怖くて、告白する勇
気も出ない。
「情けないぞ。由利」
自分で決めたことじゃないの。友達のままでいい、って。
心にためこんだマイナスの感情を大きく吐き出して、写真をいつもの場所にしまった。
すると突然、チャイムの音が鳴った。
時計を見ると、もう11時をまわっているのに。
私は居留守を決め込み、もう一口、ビールを口に運んだ。
その間にも、チャイムはしつこく鳴り続けている。
「……ったく、こんな時間に何よ」
築10年以上経っている1DKのマンションには、テレビ電話という便利なものはついていない。
これ以上居座られると近所迷惑になりそうだし、玄関越しに応対して追い返そう――そう思った
私は、傍らに置いてあった厚手のカーディガンを羽織り、玄関に続く扉を開ける。
「どちらさまですか?」
「由利、いるのか?」
少し聞きにくいけど、この声は……。
「隼人?」
「いるんなら早く出て来いよ。開けてくれ」
「開けてくれ…って」
「寒いんだよ。早く」
私が戸惑っている間に、隼人の声はどんどん大きくなる。
仕方なく、私はドアを開けた。
「ど、どうしたの? その格好」
頭からつま先まで、という表現がピッタリなくらい、全身濡れねずみだ。
このままだと、風邪をひいてしまう。
「とにかく中に入って。ね」
私は隼人を招きいれ、そのままバスルームへ直行する。
入ったばかりの湯船にお湯を足し、早口で彼にタオルのある場所や、キッチン横の乾燥機の使い
方を説明して、リビングへの扉を閉めた。
隼人の着ていた革ジャンをハンガーにかけようとしたとき、胸のポケットから携帯電話が落ちた。
「いっけない」
拾い上げた私は驚いた。
私のと色も機種も一緒だ。なぜか、黒板消しの形をしたストラップまでおそろい。
私の心臓の音だけが、耳に入ってくる。
「偶然……よね」
私は、隼人の携帯電話を握りしめる。
部署は同じでも、回る地区が違う私達。どちらかが真似をするなんて、ありえないもの。
そう言い聞かせて隼人のを私の携帯の隣に並べて置いたものの、私の心には、もうひとつの疑問
が渦を巻いている。
『どうして隼人は、こんな時間に私のところに来たんだろう? 千鶴ちゃんは?』
頭はパニックに陥っているのに、私はポットの電源を入れ、戸棚にあったインスタントのカップ
スープの箱を取り出していた。
「お、いい匂い」
スポーツタオルで頭を乱暴に拭きながら、隼人が部屋に入ってきた。
「やっぱり、小さかったね」
自分が持っている中で一番大きなスウェットを用意したんだけど、隼人と私の身長差は15cm。
中途半端に出ている足元を見て、私はぎこちなく笑う。
「へぇ〜、木目調かぁ。由利の部屋って、案外乙女チックなのな。普段からは想像も出来ないぜ」
「何よ。その『普段からは』って」
「しょうがないだろう。部署の連中、みんな言ってるぜ。西村は女じゃないってな」
「余計なお世話」
熱湯を注いだミルク色のカップを、隼人の前に乱暴に置く。
「コーンポタージュ好きなんだよね。いただきます」
隼人の吐息が、立ち上った湯気の形を揺らす。
無心にスープを飲む彼に千鶴ちゃんとのことを訊くのは、何だか気が引けた。
でも、あんなに張り切っていたクリスマスイブの夜なのに、ずぶ濡れになって私のところに来る
なんて、きっと、何かあったに違いないんだ。
「ねぇ。隼人。千鶴ちゃん……どうしたの?」
おいしそうにスープを飲み干し、おかわりを要求してきた隼人からカップを受け取ると、私は、
思い切って訊ねた。
「ふられた」
「ふ〜ん。……え?」
袋から落ちた粉が、カップの外側にばらけて落ちる。
「おい、何やってんだよ」
「ふられた、って。どうして? あんなにいい雰囲気だったじゃないの」
隼人の言葉には答えず、私は問う。
私の耳にはまた、大きくなった鼓動だけが聞こえてくる。
「千鶴ちゃんに何したのよ」
「何もしてねえよ。今朝、お前からメールもらった後に電話来て、『やっぱりつきあえません』っ
て一方的に言われて。どうしようかと思って何度も電話したのに、お前、出なかったじゃん」
「バッテリー切れてたの」
私に助けを求めてくれていたんだ――。嬉しさといたたまれない気持ちがごちゃごちゃになった
私は、隼人を見ずに短く答える。
「俺、千鶴ちゃんだけじゃなくて、由利にまで見捨てられたかと思ったよ」
「そんな情けないこと言わないでよ。千鶴ちゃんに理由訊いたの?」
今度は無言で首を振る。
「ねぇ、このままでいいわけ? あんなに千鶴ちゃんのこと想ってたくせに」
「…………」
「隼人ったら!」
言葉を出さない隼人に焦れて、思わず叫ぶ。
何だか、くやしくなってきた。
自分の気持ちを精いっぱい抑えて、隼人のためだからと思って、千鶴ちゃんに頭下げて一生懸命
協力してきたのに……。このままじゃ納得いかない。
私はテーブルの上に置いてある携帯を手に取った。
「おい、何するんだよ」
「千鶴ちゃんに電話するの」
「止めろって」
隼人が、私の手から携帯を取り上げる。
「もういいんだよ、由利。……ありがとな、今まで」
隼人が、私の手を握りしめる。
こぼれ落ちる涙とともに、今まで抑えてきた私の気持ちがあふれだす。
「何でお前が泣くんだよ」
隼人のもう片方の手が、私の頭を優しく包み込んでくれたとき、隼人への想いを封じることでで
きていた壁が、崩れた。
私はそのまま、隼人の手をきつく握りしめて、顔を上げた。
少し、驚いたような表情の隼人に近づいて、自分の唇をそっと重ねた。
浅い口づけを終えた私は、また、彼の胸に頬を寄せる。
「私が、彼女になってあげるよ」
「由利……」
「私が彼女だったら、隼人にこんな思いはさせない。絶対に、大事にする」
隼人の動きが止まり、伝わる心臓の鼓動が、少しだけ早くなる。
何も言ってくれない時間は思いのほか長くて、私は、隼人は困ってるんだな、と咄嗟に思った。
だから。
「……なぁんてね。驚いた?」
呆然とした表情の隼人から離れて、無理やり笑顔を作る。
「冗談に決まってるじゃない」
隼人に涙を見られたくなくて、背を向けてわざと高い声を出す。
「隼人みたいな男を彼氏にしたら、私のほうが」
疲れちゃう――。そう言い切らないうちに、後ろから抱きすくめられた。
「は、隼人?」
「ひとつだけ、教えてやるよ」
いつもよりかすれた声とともに漏れた吐息が、私の耳朶をくすぐった。
小さく、身体が震える。
「……何を?」
「俺、ずっと由利のこと好きだったんだぜ」
「え?」
驚いて振り返った私の唇が、今度は隼人に塞がれた。
さっき、私が彼にしたような触れるだけのものではない。
突然のことに戸惑っている私の心をこじ開けるように舌を絡め、深く、強く侵していく。
『どうして? 千鶴ちゃんのこと、好きじゃなかったの?』
そんな疑問も、何度も重ねられる唇の熱さに溶けていく。
隼人の唇が、うなじを捉えた。
身体の中から湧きあがる甘い刺激に耐えられなくて、私は小さく声をあげる。
私の顔をのぞきこみ、いたずらっ子のように笑った隼人は、膝を立てたかと思うとすぐに私を抱
き上げた。いわゆる『お姫様だっこ』だ。
「ちょっと」
「……今さら、キャンセルはないだろ?」
「でも、千鶴ちゃん」
彼女の名前を出すことで心にブレーキをかけようとするが、隼人は答えずに私をベッドに横たえた。
私に覆い被さった隼人は、口づけを繰り返し、私のパジャマのボタンに手をかける。
その指を止めようとした手にはもう、力なんて残っていない。
冷えたシーツにじかに触れた私の肌は、戸惑う心とは裏腹に熱くなり、身体の芯が隼人を求めて
うずいている。
それに応えるかのように、隼人が、敏感になった部分を指で強く、そして唇で優しく刺激する。
身体いっぱいに広がる、蜜を飲み下したような甘い感覚が、違う次元へと私を誘い、普
段出さない高い声が、口から漏れた。
襲いくる快楽の波にこらえきれなくなった私は、その先をねだるように隼人の名前を呼ぶ。
「かわいいよ。由利」
耳元でささやいた隼人が、大きな楔を打ち込んだ。
今まで感じたことのない強い刺激に、私は身体を大きくのけぞらせる。
息が苦しい。もう……何も考えられない。
全身がとろけそうになった次の瞬間、頭の中が真っ白になって、私の意識がゆっくりと別の世界
へ飛んで行った……。
気がついたら、朝だった。
私に腕枕をしてくれている隼人は、まるで遊び疲れた子供のように、気持ち良さそうに寝息をた
てている。
彼を起こさないようにゆっくりとベッドから離れた私は、脱ぎ散らかされたパジャマを手にとっ
て、バスルームへと移動した。
首すじや胸元に残る、赤いあざ。
彼と愛し合った証拠は確かに存在するのに、私の気分は晴れない。
どうしても気にかかるのは、千鶴ちゃんのこと。そして。
『ずっと由利のことが好きだった』
という隼人の言葉。
私のことが好きだったなら、どうして、千鶴ちゃんを好きだなんて言ってたの?
千鶴ちゃんが、土壇場で隼人をふった理由は?
昨日、記憶の彼方に追いやっていた疑問や不安が、どんどん私の中で膨らんでいく。
熱いシャワーをあびているのに、なぜか、私の心は冷えていた。
すっきりしないままダイニングに戻ると、隼人はまだ眠っている。
テーブルの前に腰を下ろし、昨日散らかしたスープの粉を片づけていると、携帯のバイブ音が鳴った。
表示を見ると、「篠崎千鶴」の文字が浮かんでいる。
私はすぐに、発信キーを押した。
「もしもし」
『え? あの……』
千鶴ちゃんは突然黙り込む。
「千鶴ちゃん、でしょう?」
『これ、野田くんの携帯じゃないんですか?』
消え入るような声で彼女が訊ねる。
よくよく見ると、黒板消しのストラップの色が、私のと違う。
『野田くん、今、西村さんの部屋にいるんですよね?』
隼人が私の家にいるのがわかっているような口ぶりで、千鶴ちゃんは訊ねてくる。
どうして、隼人をふった千鶴ちゃんの口からそんな言葉が出てくるのだろう?――私の不安は頂
点に達していた。
「ね、訊きたいことがあるんだけど」
そう口を開いたとき、私の手から携帯電話が抜けた。
「もしもし。俺。……うん、そう。由利の部屋にいる。とりあえず、あとで電話するわ。じゃ」
振り返ると、私から携帯を取り上げた隼人が、千鶴ちゃんと親しげに話している。
「どういうこと?」
電話を切った隼人に背を向けたまま、私は低い声で訊ねた。
「いや、それは。その……」
「どうして隼人をふった千鶴ちゃんが、携帯に電話してくるわけ? そもそも、何であんたが私の
部屋にいるって彼女が知ってるのよ!?」
「ごめん! 由利!」
私の言葉が終わるとすぐ、顔を手の前で合わせた隼人が頭を下げる。
「実は……千鶴ちゃんが好きだっていうのは、嘘なんだよ。彼女もそれを承知で、協力してくれて
ただけなんだ」
「嘘?」
私はただ茫然と、身体を起こした隼人を見上げた。
「昨日言ったとおり、俺は、ずっと由利が好きだった。千鶴ちゃんに協力は頼んだけど、お前が俺
のことどう思ってるか全然わからないし、途中からはもう、友達でいいやって思ってた。けど千鶴
ちゃんは『西村さんが名前を呼び捨てにするのは、野田くんだけだもの。絶対なんらかの感情はあ
るはず。頑張って』って、ずっと励ましてくれた」
隼人のことを頼む以外、たいして面識のなかった彼女に、気持ちを見抜かれていたなんて。
私は恥ずかしくなって、目を伏せた。
「それでも俺、昨日まで自信がなかった。お前が『彼女になってあげる』って言ってくれるまでは」
言葉を切った隼人が、私の手を取った。
「改めて……俺と、つきあってほしい」
一線を越えておいて今さら、だけど、はっきり言われると嬉しい。
でも、今までのことを考えると、何か言ってやらなきゃ気がすまない。
「悪いけど、つきあえないよ」
超がつくくらいまじめに言って、私はわざと、視線をはずした。
「じょ、冗談……だろ?」
隼人が、本気でうろたえてるのがわかる。
「今までのことは、本当に悪いと思ってる。だからさ。その……」
その様子があまりにもおかしくて、私は思わず吹き出してしまう。
「……このやろう」
いたずらに気づいた隼人が、笑い続ける私を引き寄せる。
隼人がくれる、優しいキス。私はもう、このぬくもりから逃れることはできないだろう。
「もう、友達には戻らないからな」
長い口づけを終えてつぶやく隼人の胸の中で、私は、はっきりとうなずいた。 |