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踏む女

作者:深月咲楽
「早くその絵を」

 役人に急かされ、足を上げる。その下には板踏み絵。木枠の中に、イエスを抱くマリアの聖像がはめ込まれている。幾人もの人に踏み付けられたのであろうそれは、既に凹凸がなくなり、その表情すらわからなくなっていた。

「何をしている、早く」

 役人の声に、親友お夏との約束が脳裏を掠める。

「何があっても信仰は捨てへん」

 十字架が隠された屋根裏部屋で、私達は誓い合ったのだ。

「せやけど」

 と私は思う。

「もし私が捕らえられてしまったら、両親はどうなるんやろう。妹は、この先無事に生きていけるんやろうか」

 ――イエスは、家族を思うこの気持ちを、本当に認めては下さらないのか。

 背中を汗が伝う。

「お夏ちゃんかってきっと同じことを……」

 私は足下の聖母をしっかりと踏み付けた。


 川の土手を歩いていると、向こうの方から、手と腰を縄で繋がれた人々が連れられて来た。その中に1人だけ、若い女の姿がある。

 ――お夏ちゃん!

 彼女はまばたきひとつせず、私の顔を見つめていた。その目に怒りはなく、あるのはむしろ、私に対する憐れみだけだった。

 耐え切れなくなり、私はそっと目を伏せた。役人の怒号と人々の罵声の中、行進は乱れなく続く。彼らの姿が見えなくなっても、私はその顔を上げることはできなかった。

 と、どこからか鈴虫の声が聞こえて来る。――この寒いのに鈴虫?


 私ははっと目が醒めた。

「何や、夢か」

 ほっとしながら、携帯を手にする。さっきの鈴虫は、メールの着信音だったらしい。差出人は「尾形夏子」――夢に現れたお夏ちゃんだ。

『はーい! 亜矢ちゃん。日本史、ヤマ張った?』

 メールにはそう書かれていた。時計を見て舌打ちする。

 明日は期末テストの最終日。一夜漬けも1週間続けば、疲れも相当溜まるというものだ。夕食後、勉強を再開したのが午後7時。それから3時間も寝込んでしまった。

 よだれでてろてろになった日本史の教科書を眺める。開かれているページには、踏み絵をする人々の絵が載せられていた。

「せやから、あんな夢見たんや」

 裏切られたとも知らずメールをくれた夏子。私は、ごめん、と心の中で謝った。

+++++++++++++++

 テストが終了し、所属している美術部を訪れた私は、かん高い怒鳴り声に迎えられた。

「何でこんなことしたんよ!」

 その声の主は、同じ2年生の高瀬佐知子だった。責められているのは、あの夏子だ。

「どないしたん?」

 私の声に、皆が振り返る。

 佐知子が私に見せたのは、2週間ほど前、彼女が作り上げた塑像だった。広隆寺の半跏思惟像を現代風にアレンジした、彼女の自信作だ。

「テストが終わって来てみたら、こんなことになっとってん」

 指差された先を見て、私は驚いた。頬に当てている右手の小指が、根元からぽっきりと折られている。

「テストが始まる前日に、青い顔をして美術準備室を飛び出す夏ちゃんを見たっていう子がいてるんよ。亜矢ちゃん、あんた、部長やろ? 何とか言うたってよ」

 美術準備室は美術部の部室として使われており、部員の作品もここで保管されていた。

 私は、椅子に座ってうなだれている夏子の横にしゃがみ込んだ。

「準備室で何してたん?」

「美術の……美術の教科書を取りに来てん」

 期末テストでは、芸術科目の筆記試験もある。私達2年生は初日だったから、その前日に教科書を取りに来たのだろう。そう言えば、私もその日、ここに来たのだった。

「3時頃やって」

 佐知子が付け加える。私が来た、ほんの10分ほど後だ。

「この作品、その日の昼休みに、ロッカーの上に場所を移したんよ。窓際の台、安定が悪くて心配やったし。ちょうど夏ちゃんのロッカーの上ら辺やったわ」

 そのロッカーは胸の辺りまでの高さで、上が作品を置くスペースとして使われている。

「なあ、正直に言うてえや。何かのはずみなんやったら、怒ったりせえへんし」

 佐知子が困ったように話しかけた。

「ほら夏ちゃん。さっちゃんもこう言うてくれてることやし」

 私も説得したが、彼女は何も答えずうつむいたままだ。正直にバカが付きそうな性格の夏子が、なぜこんなに頑に口を閉ざしているのだろう。

 私は首を傾げながら、教科書を取りに来た日のことを思い出していた。

 たしかあの日は小雨が降っていた。本降りになる前に帰ろうと、大急ぎで準備室に飛び込んで……。

「あっ」

 思わず目を閉じる。

 ――塑像の小指を折ったのは私かもしれない。

 私のロッカーは夏子のそれの真下にある。しゃがみ込んで教科書を取り出し、勢いよく立ち上がった時、頭に何かが当たってコトリと音がした。

 そこにはそれまで、私の駄作が置かれていた。壊れたとしても自分のものだ。わざわざ布をとって確認する必要もないだろう。私はそのまま準備室を後にした。

 ――まさかそれが、佐知子の作品と入れ替わっていたなんて。

 夏子が準備室に入ったのはその直後だ。もしかしたら、私が出て来るところを見たのかもしれない。その後、何らかの理由で布をめくり、折れた指に気付いたのだとしたら……。

「かばってくれてるの?」

 喉元まで声が出掛かった。しかし、それはすなわち、私が犯人であると自白することでもあった。部長である私が、部員の作品を壊した。その後の皆の反応が恐かった。

 私が頭をぶつけたのはロッカーの角かなんかで、本当は夏子が壊したのかもしれない。こんな不確かなことを、わざわざ話す必要があるだろうか。

 しかし、それでは夏子の行動の説明がつかない。やはり犯人は私……。

 胃がきりきりと痛む。

 あの夢と一緒だ。私は自分の身を守るために、夏子を裏切ろうとしている。私はまた、踏み絵を踏もうとしているのだ。

 あの時の夏子の、憐れむような目。私はあの目に耐え続けることができるだろうか。

 葛藤が続いた。背中を汗が伝う。

「私かもしれへん」

 声が掠れた。夏子が弾かれたように顔を上げる。

「壊したの、夏ちゃんやなくて私かもしれへん」

 立ち上がり、今度はしっかりと佐知子の目を見て言った。皆の視線が集まる。

「ごめん。ほんまにごめんなさい」

 頭を下げる私の顔を、夏子が覗き込む。

 涙をいっぱい溜めた彼女の目は、いつも通りの優しい目だった。

 ――今度こそ、私は踏み絵を踏まずに済んだのだ。

 涙が頬を伝うのを感じた。


<了>

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