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翼が見た灯り

作者:天海六花
ちっちゃな天使とちっちゃな男の子とのちっちゃな冒険。
彼女の想いは伝わるの?
彼の想いはどこにあるの?

即売会イベントで無料配布していた小冊子の改稿版となります。
翼が見た灯り

     1

 アイタタタ……。
 あたしの背にある小さな翼の羽ばたきなんて、イタズラ好きな風の妖精が起こした突風にはまるで太刀打ちできなかった。一生懸命羽ばたいたけど、途中で流れに逆らうのはやめちゃった。だってチラリと見えた〝外界(げかい)〟の様子がとっても面白そうだったんだもの!
 天界と下界の境界でふらふらと一人で遊んでいたあたしは、人間ではなく天使なの。まだ見習いだけど。一人前の天使になるためのお勉強をサボって遊んでいたあたしを、からかうように巻き起こった突風に体が絡め取られ、あたしは天界から外界まで落っこちた。
 天使はその背に一対の翼を持っているから、高い所から落ちても人間みたいに怪我したりしないわ。でも痛みは同じように感じるの。
 石畳の上に盛大にお尻から落っこちて、あたしは涙目になってジンジンと痺れる手足とお尻を擦る。
 天使は人間たちを見守るのが仕事だから、その姿を見られちゃいけない掟がある。幸いあたしが落っこちた場所には誰もいなくて、たぶん落っこちる姿も誰にも見られてない。
 あたしの不注意と風の妖精のイタズラが原因の事故だけど、黙って下界に来ちゃっただなんて大天使様に知られたら……きっと怒られるわよね?
 早く帰らなくちゃ。
 でも……うーん。こっそり帰っても無駄かな? だって大天使様は全ての天使や天使見習いの行動を見ていらして、何もかも把握していらっしゃるの。きっとあたしの事ももうご承知になってるわ。早く天界に戻って、おとなしくごめんなさいして叱られよう……。大天使様はお優しいから、ちゃんと反省してごめんなさいすれば、きっと許してくださるわ。

 あたしはのろのろ立ち上がる。まだちょっと足が痺れてるけど、翼はちゃんと動く。大丈夫。飛べるわ。
 翼をパタパタと羽ばたかせようとした時、路地の向こうから硬い石畳を革の靴底が蹴る軽やかな足音が近付いてきた。大変! 人間かしら?
 さっさと飛んで逃げればいいのに、あたしは焦って慌てちゃって、どこか物陰に隠れようと右往左往する。そうこうしている内に、ドシンと背中に誰かがぶつかってきた。

「きゃっ!」
「わっ!」
 あたしは前につんのめり、後ろから来た誰かは尻餅をつく。驚いたあたしはつい声を荒げて叫んでしまったの。
「痛いじゃない! どこ見てるのよ!」
「す、すみませんごめんなさい! 急いでいたのでちゃんと前を見ていませんでした! あのっ……え、えと……すみませんっ! とにかくこっちへ!」
「えっ? なに?」
 あたしはその子に手を掴まれ、路地の端に積み上げられた樽の影に引っ張り込まれる。そのままその子は口元に指を立て、シィーッと「静かに」のポーズ。事情はよく分からなかったけど、有無を言わせない勢いに飲まれたのか、ついおとなしく従ってしまった。

 バタバタと、複数の騒がしい足音が近付いてくる。
「こっちの路地に逃げ込んだよな?」
「遠目だったからよく分からなかったが、もう一つ向こうじゃなかったか?」
「じゃあそっちだ! 逃がすなよ!」
 何だか不穏な会話を交わす人間の男たち。そして足音はまた遠ざかっていった。
 あたしを樽の陰に引っ張り込んだその子は、青い大きな帽子をサラサラの蜂蜜色の髪に乗せた、すっごく小柄な男の子。一瞬女の子かと勘違いしそうなくらい見目の可愛らしい子だったけど、あたしは天使だから、人間の性別なんて隠しててもすぐ分かるのよ。
「……ふぅ……」
 彼は男たちの気配が完全に消えたのを確認して、安堵の息を漏らした。どうやら彼にとっての危機は去ったようね。
 あら? この子……よく見たら、北方の人ね。髪の隙間からナイフみたいに尖った耳が見える。じゃああたしが落っこちてきたこの場所は、世界中から様々な人種が集う、中央大陸にある町の一つなのね。
 大きな中央大陸には、この子みたいな耳の尖った人間や、あたしたち天使の使うような〝魔法〟を行使できる人種がいる。いろんな人種の人間が集まって、それぞれに〝国〟という領土を作って暮らしていて──魔物なんかもいるけど、まぁ、おおむね平和な大陸ね。
 同族同士の国に分かれて暮らしてはいるけど、特にいがみ合ってる訳じゃないし、どちらかといえば持ちつ持たれつの国交があって、天界から見ている限り、助け合って仲良く暮らしてるように見えるわ。
「ううん……もう少し隠れていた方がいいかな……?」
 用心深く樽の向こう側を確認しながら、彼はブツブツ独り言。
 あら、あたしの事はまるで無視? この子の勝手な都合で不平を漏らす暇も与えずにこんなところに引っ張り込んでおいて。あたしはちょっとムッとして、声のトーンを落として口を開く。
「……ねぇ、ちょっと?」
「はい? ……あっ! す、すみません!」
 彼は慌ててあたしの手を離し、顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 僕の個人的な問題に巻き込んでしまって、ご迷惑をお掛けしてしまって……えと……あのっ、本当にごめんなさい!」
 そういう風に作られた人形みたいに、何度も何度も頭を下げる彼の様子がおかしくて、あたしはつい、ぷっと吹き出してしまった。
「え、あの? 怒って……ませんか?」
「あははっ! 全然。むしろおかしいわ。あなたの様子が」
 確かに何かの問題に巻き込まれたんだろうけど、でもこういうのって、(ゆる)やかに退屈な毎日が過ぎていく天界にはない刺激的な出来事だから面白くって。

 ……って、あ! あたしったら、うっかり人間と喋っちゃってる!
 どうしよう……あたし天使なのに、人間に見つかっちゃうなんて。このまま慌てて天界へ逃げ帰っても、大天使様は全てお見通しよね? きっと怒られるだけじゃ済まないかも。
 そうだ! こうなったらこの子の記憶を魔法で消して、うやむやにしてしまえば。幸いあたしの姿を見たのはこの子だけだし!
 不思議そうな顔であたしを見つめている彼。彼の空色の大きな瞳に、一人で百面相しているあたしの顔が映ってる。
 えっと……うんと……急いで天界に帰っても、きっと大天使様にすっごく怒られるよね? だって大天使様は全ての天使の行動を見ていらっしゃるから、きっとこの様子ももうご承知のはずだわ。だったら同じ怒られるなら、急いで帰らなくても、もうちょっと下界を見物して楽しんじゃってから帰っても同じ事よね? 最後にこの子の記憶を魔法で消せば、あたしが人間界にやってきた痕跡(こんせき)は残らないもの。他の大勢の人間だって、小さなあたしの姿なんて、そんなに気に留めないだろうし。
 よし、決めた! 天界(てんかい)の掟は大事だけど、でもちょっぴり破っちゃおう!
 あたしはニッコリと笑って彼に詰め寄る。
「ねぇ! あなたはなぜ、あの人たちに追われてたの? それって面白い事? 楽しい事?」
「お、面白くなんてないですよ! あの人たちは人さらいで、僕を誘拐しようとしていたんです。あの、えと……こ、こういう人通りの少ない裏路地などでは……ごく稀に人さらいが出るんです。町の自警団のみなさんも見回りしてくださってますが、あまり努力の甲斐なく残念ながら、町の外の荒廃地区(スラム)などでは人身売買はまだ撲滅には至ってないようなので」
 ずいぶん物騒な事を、事も何気にさらりと言う彼。しかもなんか小難しい言葉を使って大人ぶっちゃって。
「誘拐されそうになった当事者なのに、随分のんきに状況分析してるのね」
 訝しげに彼を見ると、彼はほんのり頬を染めて肩を竦める。
「はい。もう七回目なので慣れちゃいました」
「……それって慣れる慣れないの問題じゃないと思うけど」
 この子、見た目はおとなしそうだけど、けっこう胆が据わってるというか、神経が図太いのかも。
 言葉使いは丁寧だし、物腰もなんとなくいいお家のお坊ちゃんって感じだし、それなら身代金目当ての誘拐とか何回も遭遇して、毎回運良く逃げ出せたり、うまく助けられたりして、状況に慣れちゃったっていう言い分も理解できない事はない。やっぱり変だけど。
「でも慣れてしまったのは事実ですし……あっ! だ、大丈夫です! いつもちゃんと()いて誰も付いてきていないのを確認してから帰ってますので、姉様たちにはご迷惑をお掛けしないように気を付けてます。あ、でも今回は……その……あなたを巻き込んでしまいましたけど……すみません」
 しょんぼり肩を落として、彼は申し訳なさ気にあたしを上目使いに見る。
 天使に〝年齢〟という区切りはないけれど、あたしの見た目は人間になぞらえるなら、まだ子供。たぶんこの子と同じくらいの年齢か、ちょっとお姉さんかな?
「そうね……じゃああたしに申し訳ないって思うなら、ごめんなさいしてくれる?」
「あ、はい! 本当にご迷惑をお掛けしてしまって、申し訳ございませ……」
「そうじゃなくて!」
 あたしは彼の手を引っ張って、樽の影から勢い良く飛び出した。
「ゴメンとかそういう言葉なんかいらないから、この町の楽しい場所や賑やかな所を案内してよ! あたし面白い事、大好きなの!」

     2

「えっと……この市場(いちば)には、いつも姉様たちと買い物に来ます。少し向こうに商店街もありますが、大抵のものはこちらでも揃いますし、金額も安いので」
 果物を売る露店。お肉やお魚を売る露店。反物や服や雑貨を売る露店。いろんな露店が集まって、市場という小さなコロニーが形成されている。
 ふぅん……確かに人間が生活するのに必要なものを買うお店が集まっていたら、町中をあっちこっち歩き回らないで便利かもね。天使にはそういうものは必要ないから、露店で売ってるものも、露店自体も珍しくて、あたしは感心しながら周囲を眺める。
 あたしは興味津々で周りを見てたんだけど、喋るのも忘れて黙っている事に彼は不安を覚えたようで、遠慮気味に声を潜めて問い掛けてくる。
「あの……つまらないですよね。市場なんて、どこの町にもありますし……すみません。僕ひとりでいることが多くて、誰かと一緒に遊べるようなところ、あまり知らなくて」
「そうでもないわ。あたしが住んでるところにはこういう場所が無かったから、いろいろ珍しくて楽しいわよ」
「それならいいのですけれど……でもあまり楽しそうには見えなかったので……あっ、す、すみません。不躾(ぶしつけ)にお顔をジロジロと……」
 そんなにつまんなそうな顔してたのかな?
「ええっと、そうだ。あたしこんなに人間の多いところって初めてだから、ちょっとびっくりしてただけなの。不安にさせちゃってごめんね」
 あたしが笑って見せると、彼もようやく表情を和らげた。
「それなら良かったです」
 一人じゃつまらないっていうのもあるけど、案内役がいないとどこに行けばいいのか全然分からないんだもん。だってあたし、生まれてから下界に降りてきたのなんて、今日が初めてなんだもの。

「あ、えっと……の、喉、乾きませんか? も、もし良かったらお昼ご飯、とか……その……もう随分陽が高くなってますし……」
 彼がすごく遠慮しながら、だけど妙にそわそわしながら問い掛けてくる。
「いらないわ。そんなの時間がもったいないじゃない。早く次の場所を案内してよ」
 即答するあたし。だって本当に喉なんて乾いてないし、おなかだって空いてないもの。天使は飲食なんて必要ないのよ。食べろって言われたら食べられない事はないけれど、でも命を見守る天使が、別の〝生物の命〟を食べちゃうのはちょっと……ねぇ?
「そう、ですか……」
 彼は両手を胸の前で合わせて落胆したように視線を落とす。するとグゥと、皮袋か何かを引き絞るような音が聞こえた。
「え?」
「あっ……ご、ごめんなさい! 違うんです!」
 彼が顔を真っ赤にして、両手で恥ずかしそうに頬を抑える。あ、そうだった。この子はあたしと違って普通の人間だったんだ。
「あなた、おなか空いてるの?」
「い、いえっ! そうじゃなくて……っ! 僕、そういうつもりでは……」
 必死に否定するけど、耳の先まで真っ赤になった彼の様子と、あたしの疑問に素直に肯定の意を知らせるおなかの音が、彼の言葉をはっきり嘘だと表している。
「クスッ! あはは! そんな遠回しに言わなくても、普通に誘ってくれれば付いて行ったのに。いいわよ、何か食べたいんでしょ。付き合ってあげる」
「す、すみません……」
 おかしな子。なんで「おなか空いた」って言うくらいで、そんなに恥ずかしがるのかしら?
「じゃあ、あたしは本当におなか空いてないから……飲み物だけね」
「は、はい分かりました。僕もあんまりたくさんは食べられないので、露店で何か軽いものを買いますね。あ……お、お金は僕、ちゃんと持ってますから大丈夫です!」
 ああ、そっか。人間は何か品物を手に入れるには、対価としてお金っていうものが必要なんだっけ。人間の世界のルールって面倒くさいわね。

 彼に案内された露店で、彼はパンに野菜とハムとチーズを挟んだものを、あたしには果物を絞ったジュースを買ってくれる。お水で良かったのに、とか言ったら彼はしょげちゃうかな? うふふ。果物さん、あなたの〝命〟をちょっとだけいただくね。
 この食べ物や飲み物を買った露店の横に広げてあるシートに並んで座って、彼にとっては昼食を、あたしにとっては特に必要のない休憩をとる。
 天使は見た目が人間と大して変わらないから、人間のフリをするのはそんなに苦にはならないんだけど、余計な事を言っちゃわないか気を使うのが大変かな? でも市場の人間の様子をぼんやり見てるのもちょっと楽しいかも。
 この子みたいな耳が尖った北方の人間や、褐色の肌の東方の人間、小柄で小人みたいな西方の人間。いろんなたくさんの人間たちが、忙しそうに、賑やかに楽しそうに、市場を右へ左へ行き来している。誰もあたしの事なんて気に留めてない。
 うんうん、これなら予定通り、彼の記憶だけを消せば安心して天界に帰れそうね。
 あたしはにこにこしながら、甘いジュースを飲む。

「あの……すごく今さらなんですけれど……お聞きしてもいいですか?」
 遠慮気味なもどかしい問い掛け。彼って引っ込み思案みたいだから、ちょっと話をするにもすごく遠回しな言い方をするのよね。直球で質問できないのかしら?
 でも今度はなんだろう? おなかがいっぱいになったから、眠くなったとか? ここで帰るなんて言われたらちょっと困るんだけど……。
 首を傾げると、彼は両手の指を絡ませてもじもじしながら、おずおずと口を開く。
「えっと……お名前、聞いてもいいですか? ずっと聞きそびれてしまっていて……」
 あたしは口籠ってしまった。
 だってあたしには〝名前〟がないんだもの。あたしだけじゃない。天使には、個体識別用の名前なんてものは存在しないの。
 大天使様は全ての天使や天使見習いの存在を認識してくださってるし、特定の天使を呼び寄せるにしても、その天使の頭に直接声を響かせてくださるの。仲間同士で呼び合うにも、〝あなた〟や〝私〟で充分通じるんだもの。だからお互いを呼び合うための〝名前という識別記号〟は必要ない。
 そういった理由から、あたしは彼の質問に答えられずにいた。あたしの動揺に気付かないまま、彼ははにかむように笑って片手を胸元に置く。
「僕はコートニスと言います。姉様や親しい方はみなさん、コートという愛称で呼んでくださってます」
 彼の自己紹介を聞きながら、あたしは思案する。あたしは彼を呼ぶのに不都合を感じてなかったけど、彼が名前を教えて欲しいというなら偽名を考えた方がいいかしら? 媚びる訳じゃないけど、意地悪だと思われて置いて行かれても困るもの。
「……あたしの名前、ねぇ……」
「はい。お呼びするのに不便だと思って。あっ……で、でもご無理にとは言いません。あなたとはさっき会ったばかりですし、その……急に困りますよね。すみません、僕……つい調子に乗ってしまって」
 彼──コートニスはたどたどしく指を絡ませ、頬を紅潮させる。
「その……ぼ、僕は……本当はすごく人見知りするんです。で、でも……あの……あなたはなんだか親しみやすくて、ついお喋りになってしまって……えっと……僕の好奇心でいろいろ詮索されるのって、お嫌ですよね。僕、気になったらつい余計なことに首を突っ込んでばかりいて、いつも姉様たちにご迷惑を……」
「コートニスを誘ったのはあたしなんだから、そう卑屈にならなくていいわよ」
 礼儀正しいを通り越して、引っ込み思案が過ぎる。内向的で社交性が低くて、だけどあたしと同じで好奇心は人一倍強い。かなり面倒臭いわ、この子。
 だけど……面白いじゃない。こういう人、天界にはいなかったもの。
 コートニスの控えめで不器用な親切は、時々もどかしいけど心地よくて、一緒にいてすごく楽しいよ。一言話すにもびくびく怯えてばかりの彼を安心させてあげたいし、やっぱり偽名、考えよう。あんまり適当だとふいに呼ばれた時に分からなくなっちゃうから、何か天使にまつわる言葉とか。でも直接的過ぎると、正体がバレたら厄介だから。
 ええと……たしか、西方には〝天使草〟って俗称の花があったはず。それの正式名称はたしか──。
「エイミィ」
 そう、エイミィフラワー。
 この名前なら、直接的にはあたしが天使だって分からないだろうし、あたしも頭の中で自分とすぐに結び付けられる。
「エイミィさん……ですか?」
 コートニスは指先を頬に当て、あたしの〝名前〟を復唱する。そしてにこりと微笑んだ。
「素敵なお名前ですね。たしか西方にだけ咲く、珍しいお花と同じですよね? エイミィフラワーでしたっけ」
 あたしは内心ギクリとして、手にしていたコップを落としそうになる。な、なんなの、この子? なんであたしの考えた事をそのまま言い当てちゃうの?
 彼の言った通り、エイミィフラワーは西方にしか咲かない珍しい花で、この子の故郷である北方では絶対お目にかかれない植物よ。そんな珍奇な、それこそよほどの植物マニアしか知らなさそうな事を、なんでこんな子供の彼が知ってるの?
「天使草ともいいますよね。エイミィさんのお洋服の羽根飾りと相まって、本当に天使さんみたいで素敵だと思います」
 えっ、と驚いて、あたしは思わず自分の肩越しに背中を見る。
 わわっ……翼、出しっぱなしだった! 魔法で見えなくするの、忘れてたわ! だってコートニスとぶつかった時、魔法を使っている暇はなかったんだもの!
 でもコートニスは服に付いてる羽根飾りだと思ってるみたいだから、そのまま勘違いで話を合わせておかないと、今更魔法で消したら怪しまれるわよね? 市場には他に人もいるし、消すところを見られたら厄介だし。
「か、可愛いでしょ!」
「はい。とても」
 どうとでもなれ! という気持ちで苦し紛れにわざと翼を自慢してみる。でも本物だと気付かないで!
 内心冷や冷やするあたしだったけど、彼はニコニコしながら翼を褒めてくれた。あたしはさっさと話題を変えようと、コップをその場に置いてコートニスの腕を引っ張った。
「ね、ねぇ! あれは何を売ってるお店なの?」
 とっさに適当な露店を指差す。コートニスはあたしの指先を辿り、コクンと頷いて膝の上に両手を乗せて微笑む。
「はい。あれは西方の鉱山で取れる珍しい鉱石を売っています。宝石ほどの価値はありませんが、独特の輝きや(おもむき)に味わいがあって、収集する方は多いですよ」
「そうなの?」
「ええ。エイミィさんは西方の(かた)ではなかったのですか? 僕、てっきりお名前がエイミィさんとおっしゃるので……」
 うっ、墓穴。
「ええーっと! じゃああっち! あっちのあの建物は何?」
 あたしは慌てて、今度は少し遠くに見える、高い建物を指差す。高い塔に黄金色(こがねいろ)の鐘が吊り下げられていて、十字を円で縁取ったオブジェが塔の先に……って、あ。
「は、はぁ? ええと……あの建物見たままの教会、ですけど……エイミィさんは教会に礼拝されたことがないのですか?」
 やんっ、これも失敗! 大天使様を(まつ)る場所なのに、大天使様ごめんなさい!
「あ、あたしの事はどうだっていいの! ほら、えっと、もっと楽しい場所を……」
 まくし立てるように、コートニスの前で両手を振っていると、あたしの背後から突然、馬の(いなな)きが聞こえた。あたしは振り返り、コートニスは首を伸ばす。

 重たそうな荷馬車の車軸が壊れて、馬を繋いでいる大きな金具が馬の体や足を圧迫して、馬は激しく嘶いていた。周囲には大勢の人が集まってきて、どうにか馬を転倒した荷馬車の下から引っ張り出そうとしている。
「わ……あの馬、痛そう……」
「あ、あのエイミィさん、少し待っていてください! なるべく早く終わらせますから!」
「は? 終わらせるって何?」
 あたしが驚いてコートニスを見ると、コートニスは慌てた様子で人垣を掻き分け、騒ぎの中心へと入っていく。あたしは不安になり、彼を追い掛けた。
 コートニスは倒れた荷馬車の側にしゃがみ込み、馬を圧迫している連結金具をいろんな角度から眺めて状況を把握しようとしている。そんなコートニスをよそに、周囲の大人たちは力づくで、馬を荷馬車の下から引っ張り出そうとしている。
「無理に引っ張らないでください! 金具がお馬さんに刺さっちゃいますから! これ分解しても大丈夫ですよね? なら僕が外します!」
 コートニスはキョロキョロと周囲を見回し、落ちていた細長い金属の棒を掴んで、びっくりするくらい手際よく、荷馬車を繋ぐ金具を分解して外していく。
「これ使えるか?」
「はい、ありがとうございます! お借りします!」
 金属のボルトを外す時に使う工具を受け取り、コートニスはうんうん唸りながらボルトを緩めようとしている。そんな彼に、周囲の大人たちが手を貸し始めた。コートニスはテキパキとみんなに指示を飛ばして、だけど手元は着実に連結金具を分解していってる。
「ここが外れれば……あ、今です! お馬さんを引っ張ってあげてください!」
 数人がかりで、馬が怪我一つなく荷馬車の下から引っ張り出される。コートニスはふぅと息を吐き出して、工具を傍にいた人へと返す。
「ありがとうございました。助かりました」
「凄いな、チビちゃん? 大の大人でもあんな手際よく連結金具は外せないぜ」
「え、あ……あの……あの……ごめんなさい! で、出過ぎた真似をしてすみませんでした! じ、じゃあ僕はこれで……」
 コートニスは真っ赤になってあたしの方へと走ってくる。そしてあたしを見付けると、逃げるように手を引いてその場から立ち去った。
 驚いた……あんなあり合わせの適当な道具で、複雑に折れ曲がった連結金具を簡単に外しちゃうんだもの。見た目によらず、すごく手先が器用なのね。

     3

 太陽が町と空の境界をあかね色に染めながら西の空に沈みかける頃、教会かどこかから打ち鳴らされる日暮れを告げる鐘の音が優しく町を包み込む。
「どうして逃げちゃったりしたの?」
「はい?」
 市場を出て住宅地を二人で歩きながら、あたしは何気なく昼間の事をコートニスに聞いてみた。コートニスは恥ずかしがって、ずっと話を避けてたのよね。
「大人が数人がかりでもどうにもできなかったのに、コートニスはあり合わせの道具一つで下敷きになってた馬を助けちゃったじゃない? みんなに感心されてたのに、もうちょっと自慢しても良かったんじゃないの?」
「えっ、と……褒められるのは、ちょっと苦手で……恥ずかしいですし」
 コートニスは両手の指を絡めながら、照れた様子で頬を紅潮させている。
「変なところで謙虚なのね。もっと自分に自信持ってもいいんじゃない? だってコートニスはいろんな事知ってるし、昼間みたいな器用な事もできるし」
「僕……今のままでいいです。ほんのちょっとだけ、姉様やみなさんのお手伝いができればそれで……充分ですから」
 呆れるほど欲のない子。
 何事も控えめな彼らしい謙虚過ぎる謙虚さに、あたしは苦笑するしかなかった。でもそういうの、嫌いじゃないわよ。
 今日一日あたしはコートニスに案内されて、いろんな所を見て周った。いっぱいお喋りした。いっぱい笑って、いっぱい驚いて、ちょっと怒るフリしてからかうつもりでコートニスを慌てさせたりした。

 今まで人間の世界は天界からただ見るだけだったけれど……こうして直に触れ合ってみると、人間の世界はすごく刺激的で、面白い事がたくさんあって、でもちょっぴり危ない事もあって、だけどそれすらもあたしには物珍しくて、時間を忘れて楽しんだ。
 本当に何もかもが新鮮で、驚きの連続で、すっごく面白くて、楽しくて、あたしは人間の世界が大好きになった。
 一人だったらきっとこんなに楽しくなかったんだろうな。
 口下手だけど、引っ込み思案だけど、それでも一生懸命あたしを楽しませようとしてくれたコートニスが一緒にいたから楽しかったんだと思う。
 何かあったら簡単にすぐ謝っちゃうし、気は弱いし、自己主張は下手だし、ちょっと面倒臭い子だなって思ったのは事実。だけどあたし……彼を人間として、あたしとは違う世界に生きる初めての〝友達〟として、彼の事がすごく気に入ったみたい。

 夕日の色がコートニスの蜂蜜色の髪の色と混ざって、不思議な風合いの色味になっている。人とは違う、天使とも違う、そんな別のモノのようにも見える。
 コートニスはチラチラとこっちを伺いながら、両手を体の前で合わせてぎゅっと握り締める。そして意を決したように口を開いた。
「あの、僕……もうそろそろ帰らないと……姉様たちが心配なさいますので……」
 コートニスが町の高台にある大きな建物を見上げて、ぽつりと呟いた。そっか、もうそんな時間なんだ。
「もう帰るの? じゃあ明日もあっちこっち連れてってよ」
 天界と下界の時間の流れ方は違うから、あたしも一度天界に帰ってまた明日下界に降りてきて、という事はできない。もし帰っちゃったら次に下界に降りてきた時、人間の時間は何年も何十年も経っているはずだから。
 だからあたしは人間の時間でいう今夜一晩、どこかにこっそり隠れて、明日までコートニスを待っていよう。そして明日も、彼とたくさんいろんな所を見て(まわ)るの!
 あたしの提案に、彼は口籠って申し訳なさそうな顔になる。
「……明日は都合悪いの? それとも今日、あたしが強引に誘った事、迷惑だった?」
「そ、そんなことないです! エイミィさんとお話しするの、す、すごく楽しかったです! でも……えと……僕、明日からお仕事でしばらくこの町を留守にするんです」
「仕事? あなたみたいな子供が?」
 コートニスはこくりと頷き、高台にあるさっきの大きな建物を指差す。あたしが目をそちらへ向けると、コートニスが言葉を続けた。
「僕まだ子供ですけど……特別な条件付きであちらの冒険者組合にお世話になっているんです。僕はちょっとだけ人より物知りで、調べ物とか、謎解きとか、からくりとか作るのが得意で、姉様と一緒に冒険者組合のお仕事をしているんです。それで明日から組合のお仕事で、しばらく南方へ行くことになっていて……」
 驚いた。コートニスってすごく小さくて弱そうで、それなのに冒険者みたいな過酷なお仕事が務まるの?
 でもコートニスが物知りなのは事実。だって何を聞いても、すぐに分かりやすく答えてくれるの。ちょっと意地悪な質問しても、真面目に真顔で答えるのよ。分からなかったら、わざわざ調べたり人に聞いたりしてくれて。手先が器用なのは昼間の騒動で実証済み。
 そんな彼なら、冒険者の手伝いみたいな仕事だって可能かもしれないわ。
 だけどそんなのどうだっていい。あたしはもっと人間たちの世界の面白い事を、見たり経験したりしたいの。
 明日会えないとなると、もうしばらく下界に留まる事になるけど……どうせ怒られちゃうなら目一杯楽しんでから帰っても同じ事よね? 大天使様にはいっぱい怒られちゃうだろうけど、でもこんな楽しい事をやめてすぐ帰るなんてもったいないわ!
「いいわ。帰ってくるまで待っててあげる。それでいつ帰ってくるの?」
 下界で二、三日過ごしたとしても、天界で過ぎる時間はほんの一瞬だもの。待ってる時間は退屈だけど、でもまたコートニスに案内してもらいながら、あちこち行ってお喋りできるなら少しくらいへっちゃらよ。
 だけどコートニスは両手を胸の前でぎゅっと握り、ますます申し訳なさそうに項垂れて、前髪の隙間からあたしのご機嫌を損なわないか、不安そうに怯えた眼差しを向けてくる。
「……あ、の……ごめんなさい。帰ってくるのがいつになるか、分からないんです。だからちゃんとした約束ができなくて」

 すぐには会えない、約束もできないのだと告げられ、あたしの心の中がゾワゾワしてきた。
 焦燥感、落胆、怒り。
 コートニスのせいじゃないのに、彼には彼の事情もあるのに、分かってるはずなのに、あたしはすごく身勝手に……自分の思い通りにならなかった事に苛立って眉尻をつり上げた。

「なによそれ! 言い訳のつもり? あたしに振り回されたのがそんなに嫌だったのなら、もっと早くに断ってくれればよかったでしょ! 楽しかっただなんて、調子のいい嘘だったんでしょ!」
「ち、違います! 僕、本当にエイミィさんと一緒にいるのが楽しくて。でも……」
 彼は空色の大きな目を涙で潤ませる。男のくせにあっさり泣くなんて、情けない!
「あ、の……あの! 帰ってきたらすぐご連絡します。僕は、その……ええと……エイミィさんの事、すごく素敵なお友達になれたと思ってます。だ、だから帰ってきたら必ずまたオウカの町をご案内します。ですからご迷惑でなければ、エイミィさんのお家を教え、て……? あ、れ……ご案内……案内……?」
 コートニスはようやく気付いたらしい。あたしに〝案内〟が必要だって意味に。
「エイミィさんは……この町の……かたじゃない、んですか?」
 あたしは仏頂面のまま、一度だけ頷いた。
 いつ帰ってくるかも分からない彼を、ずっと待ち続けるなんてできない。あたしには一人前の天使になるためのお勉強があって、天界に帰らないといけないから。突然下界に落っこちちゃったあたしを、大天使様は心配してくださっているかもしれない。
「……いつまで……この町にいらっしゃるんですか?」
 あたしがはぐれ者の天使で、天界へ帰る必要がなければいつまででも彼を待っててあげられる。だけど……それは無理。
「……明日。あたしも帰らなくちゃ……いけないから……」
 あえて期限を設けるとすれば、明日。さっきはコートニスが戻ってくるまで待ってられるって思ったけど、でもいつ彼が帰るのか分からないまま、無駄に外界で時間を過ごす事はできないもの。大天使様にも、仲間のみんなにも迷惑掛けちゃう……。
 コートニスが俯いて黙り込む。あたしも何も言えなかった。
 一度天界に戻って、また別の機会に下界へこっそり降りてきたとしても、きっともうコートニスには会えない。外界の時間はたくさん流れていて、あたしの姿はこのままだけど、コートニスはずっとずっと大人になってる。もしかしたらおじいちゃんになって、あたしの事なんて忘れちゃってるかもしれない。

 ──コートニスが一緒じゃなきゃ……全然楽しくないよ……。

 ……あ、あれ? あたしは今日、コートニスと一緒に遊んで、それからコートニスの記憶を消して天界へ帰るつもりだったのに、なんでコートニスに忘れられるかもって事がこんなに辛いの? 記憶を消すんだから、何もかも忘れるのは当然じゃない。
 今日、偶然会っただけの人間。今日しか一緒にいられないあたしの事情。天界でない、違う世界で出会って仲良くなった、仲間以外の初めての……〝友達〟──コートニス。忘れたくない、忘れられたくない、あたしの大切な……友達。

 一所懸命考えた。いっぱいいろんな事を考えた。そして、あたしは一つの〝結論〟を導き出した。
行こう……決心が揺らがない内に……!

「コートニス。お別れする前に、あとちょっとだけ、いい?」
「え、はい? 少しくらいなら……」
「じゃあ町外れまで来て!」
 あたしはうろたえるコートニスの手を掴んで、町はずれの草原まで走った。
 お願いよ、太陽さん。お願いします、大天使様。もうちょっとだけ……あたしに時間をちょうだい。

     4

 思いっ切り走ってきたので、あたしもコートニスも息が切れている。だけどそんなあたしたちの様子をあざ笑うかのように、辺りはどんどん暗くなってくる。もうあんまり時間はない。暗くなる前に、彼の顔がまだちゃんと見える間に……。
 向かい合って、あたしはコートニスの両手をしっかりと握る。
「コートニス。今日一日、あたしのワガママに付き合ってくれてありがとう!」
「い、いえ。僕も楽しかったです」
 あたしが早口でお礼を言うと、コートニスははにかむように口元を綻ばせる。
「だから最後にあたし、コートニスに素敵な思い出をプレゼントするわ。ううん。あたしの気持ちだから受け取って」
「え? あの……僕はそんな大したことは……」
 あたしは数回深呼吸して心を落ち着け、ゆっくりと──背中の翼を羽ばたかせた。
「えっ、わ……わっ!」
 あたしはコートニスの手を取ったまま、ふわりと空へと舞い上がった。

 本当はね。あたし、やっと一人で飛べるようになったばかりだから、誰かと一緒に飛ぶのは上手くないの。それが飛べない人間だったら余計に大変。だって手を離したら落っこちちゃうし、怪我したり死んじゃったりするかもしれないでしょ。
 でもあたし、最後にどうしてもコートニスと一緒に空を飛びたかったの。今日出会えた、仲良くなれた、その記念になるような、特別な思い出を作りたかったの。
「わっ、わっ……エイミィさんっ!?」
 自分の体があたしに手を引かれる事によって浮かび上がり、彼はバタバタと足をばたつかせて慌てふためいている。そんな彼に、あたしはとびっきりの笑顔を向けた。
「大丈夫。絶対手を離さないから。だからあなたもあたしの手を離さないで」
「……エイミィさん? その羽根飾り……」
 彼の空色の目が、羽ばたくあたしの翼を捉えた。あたしはこくんと頷く。

「うん。あたしね、天使なの。天界からやってきた、天使の卵なの」
 正体を、明かした。

 驚いて、ただでさえ大きな目をまんまるにして、コートニスは小さく口を開いたままあたしを見つめている。
「いつも天界から下界を見てた。人間の生活する世界はキラキラしてて綺麗だな、素敵だなって、いつも思ってた。ほら見て」
 あたしが視線を下へ向けると、コートニスもあたしにならうように、何にも触れていない足元の、遥か下の町を見る。
 あかね色と群青色の混じった色に染め上げられた町に、人間たちが生活している証である灯りがポツポツと輝いている。それはキラキラした小さな宝石みたいにいっぱいに散りばめられていて、天界から見えるこの時間のこの景色が、あたしは一番好きだった。
 だからどうしても、コートニスと一緒に見たかったの。

 声もなく眼下に広がる──きっとこの先、彼が見たくても見られない光景を──ただじっと魅入っているコートニス。あたしも同じキラキラの灯りを見つめながら、囁くように今のあたしの、素直な気持ちを声に乗せる。
「綺麗だよね……あたし、この景色、大好き。だからあなたにも見てほしかった。コートニスと一緒に見たかった」
 驚いてるのか、怯えてるのか、感動してるのか、彼は何も言わない。だけどそんなの気にしない。あたしはコートニスと一緒にこの景色を見たかっただけだもの。
 あは! コートニスにお礼だなんて言ったけど、結局最後もあたしのワガママに付き合せちゃっただけだよね。
コートニスはあたしの事、ちょっと呆れちゃったかな? 彼みたいなのんびりした子に、あたしの言動は忙しなくて目まぐるしいかもしれないもの。でも自分と違う世界に生きる〝違うモノ〟だからって、怖がってないならどう思われててもいいわ。
「高い所、怖い? もう降りる?」
「……あ、いえ……もう少し……見ていたい、です」
 コートニスが下を向いたまま、あたしの手を強く握ってくる。
 あたしは一生懸命羽ばたいた。少しでも長く、彼とこの景色を見ていたかったから。コートニスとの思い出を、もっと強く心に刻み付けておきたかったから。
 空の上の風は冷たかったけど、でも繋いだ手はあったかい。コートニスの不器用で控えめな優しさと同じくらい……あったかい。
 ──ねぇ、コートニス。あたしは今日の事、絶対に忘れない。もうあなたには会えないから……あなたの事は忘れないよ。約束する。

 あかね色は群青色にどんどん塗り潰され、あたしはゆっくりと地上に降りた。コートニスは腰が抜けたのか、呆けているのか、ペタンと草の上に座り込んでぼんやりしている。
「コートニス」
「……は、はい?」
 あたしが呼び掛けると、コートニスは一瞬驚いたように身を竦ませたけど、座ったままあたしを見上げてきた。
「あたしも帰らなくちゃ」
 お別れを意味するって、きっとコートニスは理解してない。
「……エイミィさん」
「なぁに?」
 コートニスは立ち上がり、何かを言い掛けるけど、口籠る。そして頬を赤くして、俯いて、物言いたげな上目使いであたしを見る。
「なに? はっきり言ってよ」
 もう一度促すと、コートニスはやっと辿々しく言葉を紡いだ。
「あ、あの……また、連れていって、ください。もっと見たいです……空からの、町の姿。キラキラしてて……僕、すごく感動してしまって……だけどエイミィさんと一緒に……もう一度……ぜひ……」
 きゅっと胸が苦しくなる。
「できないの。ごめんね」
 できるだけ平静を装って答える。
「あたしは天使で、あなたは人間。本当ならあたしたちは関わっちゃいけないの。こうやって向かい合って、手を繋いで、話したりしちゃいけないの。あたしとコートニスは違う世界に生きる者同士だから」
「で、でもエイミィさんは今、こうして僕と……」
 焦った様子でコートニスが声を震わせる。
「うん。だからね。今日一日のコートニスの記憶をあたしの魔法で消すわ。あたしと会った事も、いっぱいお喋りした事も、一緒に空を飛んだ事も、あなたはみんな忘れちゃうの。でも一つだけ約束する」
 あたしはずっと握ったままだったコートニスの手を離す。彼のぬくもりを失った手は、ひんやりした風にさらされて一瞬で指先まで冷たくなってしまう。

「あなたはあたしを忘れても、あたしはあなたを忘れない」

 草原の草が風に煽られて、サワサワと音をたてる。あたしたちの髪や服を揺らす。じわりとコートニスが涙ぐんで唇を噛んだ。
 そんな顔しないでよ。本当に泣き虫ね、コートニスは。あたしだって辛いよ。コートニスと一緒にいた時間、本当に楽しかったから。
 あたしはゆっくり手を胸の位置まで上げて、彼の記憶を消すための魔法の準備をした。だけどその手を、コートニスが乱暴に掴み取った。
 記憶を消すために発動しかけていた魔法が消失する。
「ど、どうしてそんな言い方するんですか! ぼ、僕はエイミィさんを忘れたくないです! だって僕はっ! 僕、は……えと……だから……あなたのこと、天使だってこと、誰にも言いません。今日のこと、絶対誰にも喋りません。だから時々でいいです。時々でいいですから、また……一緒にお話ししてください。僕と会ってください。……僕は……エイミィさんのこと忘れたくないです! もっとエイミィさんと一緒にいたいです!」
 あたしは驚いて息を飲む。気弱なコートニスがこんな事を言うなんて、思ってもいなかった。嬉しい。だけど──。
「……ごめん、ね。天界の掟は破れない。あたしは天使だもの」
「嫌です! だって! だって僕……僕は!」
「あたしは天使で、あなたは人間なのよ! あたしとあなたは違う世界に住んでるの!」
 あたしだってコートニスともっと一緒にいたいよ! もっといろんな所に行って、お喋りして、思いっきり笑いあいたい。同じ時間を共有したい。だけどそれはできない事なの。あたしは天界に帰らなきゃいけないの。

 天界の掟なんて破ってしまいたい。コートニス一人にあたしの正体がバレたからって、天界にも大天使様にも何の不都合もないに決まってる! だけど……だけどあたしがこのまま天界に帰ったら、もうコートニスと会えないの! それは変わらない、変えられない事実なの! 彼を悲しませるくらいなら、彼の記憶を消して、あたし一人が彼を覚えていればいい。それが一番、コートニスのためになるの!
 必死に自分に言い聞かせて、自分に都合のいい言い訳で彼の気持ちを拒絶して、あたしは天界の掟なんか投げ出したくなっている、いけない感情を押し殺し、一気に魔法の紋章を描き出し、コートニスの精神に叩き込んだ。
「エイミ……ッふぁ……」
 雷に打たれたようにビクッと体を痙攣させ、コートニスの空色の瞳から光が失われる。ゆらゆらと揺れる彼を見ると、何も映らない瞳が虚空を見つめていた。
 ──彼の意識を一時的に乗っ取ったわ。そして今日一日の記憶を強引に削り取った。今の彼は、術者であるあたしの命令に従うだけの傀儡(かいらい)のようなもの。
「……そのまま後ろを向いて帰って。無事に帰ったら術は解けるようになってるから。目が覚めた時、今日の事は何もかも忘れて、誰にも会わなくて、何もなかった事になるの。あなたの今日は、特別な事が何もなかったの。いつもと変わらない一日に塗り替えられたの」
 すぅっと一度だけ、深呼吸する。そしてあたしの術によって自我を失った彼を見つめて、ちょっとだけ涙ぐんで、お別れを告げた。
「……じゃあね。さよなら、コートニス」
 ゆっくりと丘の上の大きな建物──彼に教えてもらった、彼を待つ人がいる冒険者組合の建物を指差すと、コートニスはあたしに背を向けて、覚束ない足取りで歩き出した。

     5

 彼にかけた魔法は効いた。彼の記憶から、あたしの事、今日の事は全て消えているはず。もう彼があたしの事を思い出す事はない。
 ──天使は下界を見守る事が仕事で、決して下界の者と関わってはいけない。
 天界の掟。天使たちが、絶対に守らなければいけない掟。その意味、今、分かったわ。
 お別れが寂しいの。悲しいの。胸が切なくて、苦しいの。
 天界と下界の時間の流れは違う。出会ってしまったら、言葉を交わしてしまったら、その瞬間にもうその人とはお別れの覚悟をしなくちゃいけない。一期一会を大切にしたくても、天使はそれすら適わない時間の中を生きる。だから天界の者より遥かに短い時しか生きられない者と関わる事は、たくさんのお別れを経験しなくてはいけないという事なの。
 そういった辛くて苦しい感情から、特別な時間を生きるあたしたち天使を守る方法こそ、大天使様が定めた掟だったの。大天使様は下界の人間たちだけでなく、あたしたち天使をも守ってくださっていたの。
 堅苦しい掟なんて少しくらい破ってもいいなんて思ってたけど、それはあたしの身勝手で短絡的な考え方でしかなく、彼と出会って……今、ようやくその掟の本当の意味を、重要性を理解した。大天使様の御心を、大天使様の優しさを、大天使様の教えの意味を、彼と出会う事で、心を引き裂かれる事によって痛感した。

 コートニスの姿が見えなくなるまでその背中を見送って、あたしはその場に蹲った。胸が苦しくて、切なくて、涙で視界がグチャグチャになって、あたしは袖をゴシゴシと目元に擦り付ける。誰もいないから……泣いてもいいよね? 今のあたしは人間を見守る天使じゃなくて、大好きなお友達とお別れした、ただの女の子でいいんだよね?
 そんなあたしの傍に、誰かがふわりと降り立った。顔を上げて確かめなくても、気配だけでそれが誰かは分かる。
「……ごめんなさい大天使様……あたしは勝手な行動をして、天界の掟を破りました。どんな罰でも受けます」
 大天使様は神々しい光に包まれていて、ご尊顔は見習いのあたしには見えない。だけどそのオーラは紛うことなき、あたしたちの父であり、(あるじ)であり、尊敬する創造主のもの。
 俯いたまま、ただただ自分で心を締め付けて、反省と後悔をするあたしの傍に立つ大天使様の、長いローブや髪、大きくて立派な翼が風に揺れている。
「辛い経験をしましたね」
 大天使様は身勝手な行動をしたあたしを責めるどころか、優しく語り掛けてくださる。
「悪いのは……あたしです……罰を与えてください」
 涙がぽたぽたと膝に落ちる。
「罰、ですか。そうですね……。あなたに一つ、お話をしましょう」
 サワサワと草原の草が揺れる。あたしの服や、大天使様のローブも揺れて、大天使様の慈愛に満ちたお声が風に溶けて流れる。
「人間に恋をした天使は、天界から落ちるのです。本人が意識しているか、していないか、それは当人になってみないと分かりませんが、恋という道を見つけた天使は、その運命に導かれ、天界から落とされるのです」
 恋? あたしにそんなつもりはない。コートニスは違う世界のただの友達で、それ以上の感情なんてあたしは……。
「あなたは恋をし、天界から落ちました。いえ、まだ恋というには程遠い、淡くて脆い、陽炎(かげろう)のような儚い想いかもしれない。けれどあなたの心には、一人の人間の名が強く刻み付けられました。そしてあなたも〝己の名〟を得ました」
 名前……エイミィの事……?
「あなたは罰を与えて欲しいと、私に言いました。でも私には、あなたに罰など与える事はできません。なぜならあなたはすでに、天界の掟を破った罰を、その身に受けています」
 え? 罰をもう受けている? でもあたしにそんな自覚はない。体は痛くもないし、頭だって正気……だと思う。
「……あなたはもう、天界へ戻れません」
 大天使様のお言葉を聞いて、あたしは息を飲んだ。全身が震え、思わず両腕を擦る。そして恐る恐る背中の翼を見て、小さく羽ばたいてみた。
 あたしの意思で動く翼。まだ、飛べるよね? 飛べるなら、天界に帰れるよね? だけど大天使様が天界へ戻れないと仰るのは……戻ってはいけないという罰なの?
「恋をして、天界から落ちた天使は、もう二度と天界へ戻れないのです。それこそがあなたが運命から課せられた罰です」
 そんなの……そんなの、イヤ。あたしは一人前の天使になって、大天使様のお力になりたいの。大天使様のお力になる事が、天使として生まれてきたあたしの存在意義であり、あたしの全て……だから。
 ──ううん……だった、から……?
 あたしの心に刻まれているのは、大天使様への忠誠。だけどもう一つ。彼の──名前。
「あなた自身がまだ分かっていなくとも、私には分かっています。純粋なその想いを持ち続け、そして再び彼に会いなさい。気持ちを告げなさい。天界へ戻れないのならば、地上に残り、想いを遂げなさい。それが天界から落ちた天使に課せられた、罰に対する償いとなります。あなたの道を、あなたの足で歩みなさい。エイミィ」
 あたしは驚いて大天使様を見上げた。ご尊顔は光で見えないはずなのに、あたしに微笑んでくださっているように見えて、あたしは堪らず、声をあげた。
「──ッ!」
 だけど声は出なかった。喉の奥がヒリヒリ傷んで、何度声を出そうとしても、ひゅうひゅうという空気だけが漏れる。大天使様が戸惑われたように長い髪を揺らす。
「……名を得た代償に、声を失いましたか……おや? 〝(ちから)〟も、ですね。あなたはまだ一人前の天使ではなかったのに、力を使い過ぎました。そのような状態で、地上で人と交わり過ぎ、人の〝色〟に染まってしまったのやもしれません」
 そんな……声を失って、天使としての力も失って、どうやってコートニスに気持ちを伝えればいいの? あたしはさっき、コートニスの記憶を消したわ。だからコートニスはあたしの事を覚えていない。
 それじゃ彼に会いに行ったとしても、あたしがエイミィだって事も、彼への気持ちも、何一つ伝えられないわ! 彼はあたしを覚えていないんだもの!
「……エイミィ。天界から落ちる事の意味は分かりますか?」
 あたしは首を振る。
「天使でなくなったという事です。恋を知り、想う者と生きたいと願う事は、天使という役目を捨てるという意味なのです。あなたは天界から落ち、彼と出会い、彼に恋をしました」
 冷たい風があたしの頬を打つ。
「私が定めた掟を破り、あなたは運命から罰を課せられました。天使でなくなり、そしてまだ人でもないあなたは、ひどく儚く脆い存在といえるでしょう。あなたは運命に従い、その翼ではなくその足で、歩まなければならない。想いを成就できなければ、願いが叶わなければ、あなたの存在は──」
 大天使様のお声がどんどん小さくなっていく。それだけじゃないわ。そのお姿が、夕闇の群青色に溶け込んでしまうかのように、透けるように見えなくなっていくの。
 あたしはもう天使でなくなった。だけど人でもない。儚い、脆い、〝エイミィ〟という名を持つだけの、希薄な存在。
 どうなってしまうというの? 大天使様、あたしは、あたしがコートニスへの想いを遂げられなければ、どうなってしまうというんですか?
 どんどん聞こえなくなっていく大天使様のお声を、一生懸命聞き取ろうとする。だけどもう、大天使様のお声も、お姿も、あたしにはほとんど認識できなくなっていた。
 天界から落ちて、あたしは……天使でなくなった……の?

「……ッ!」
 ふいに胸が締め付けられるように息苦しくなった。喉を抑えて空気を貪るけれど、何かに体が圧迫され、呼吸が出来なくなって、体が動かなくなって、視界が白く霞み始める。気配だけの大天使様が何か仰っている気はするけれど、それももう全く聞き取れない。
 重たい瞼を懸命にこじ開けると、透き通った艶やかな桜色の唇が動いているのが見えた。

「──い──ま──は──ね──む──り──な──さ──い──」

 眠る? そっか……あたしは天使としての力を使い過ぎて、天使でなくなったから、消耗してしまった体力を回復させなきゃいけないのね。
 天使としての……てんし? あれ……〝てんし〟って、何?
 あたしは崩れるようにその場に倒れた。意識が遠のいていく。記憶が混濁して、闇に溶け込んで、交じり合って、何が現実か夢か、判断できなくなってきた。それどころか……。
 ……分からない……分からないわ。あたしの傍にいるのは、誰? あたしは誰の姿を、瞼の奥に見ているの? あたしは……何者、なの?
 瑞々しい青い草のにおいが鼻孔を擽る。薄れゆく意識の中で、キラキラ輝く町の灯りを見た。 霞む視界の中でキラキラ輝く、町の灯り。綺麗な、たくさんの、灯り。〝つばさ〟が見ていた、命の灯り。
 そうだ……思い出した。この灯りをまた一緒に見たいんだ。〝彼〟と、一緒に。だから──会いに行くの。次に目が覚めたら、一番に会いたい彼の所へ……。

     6

 仮初(かりそめ)の恋のような、淡いピンクの丸い花弁と、羽毛のような柔らかな葉の形が、空想上の天使の姿に似ている事から、この花は通称「天使草」と呼ばれています。西方のごく一部の地域にだけ咲く、可憐で儚い花。刹那の時しか輝けない、小さな花。
 儚く可憐に生きる、〝彼女〟にそっくりなのです。
 彼女は自分の生き様にそっくりなこの花と、同じ名を得ました。だからこの花を、彼女の想う彼のところへ届けてあげたい。
 少し乱暴な風が、花弁をむしり取って空へ舞い上げました。花弁は風に乗って、彼女の想いをはらんで、彼に届くでしょう。これで少しは彼女の手助けになればよいのですが。
 私がしてあげられる事はこのくらいしかありません。私は全ての命を見守る事しか、許されない存在だから。
 背の翼を大きく広げ、私は天へと舞い上がりました。これで 〝我が子〝 の一人との、永遠の別れです。
 想いを、遂げなさい……エイミィ。

                了

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