猫の“さかる”家
梅雨が終わった頃だった。
バイト帰り、暗い夜道を一人、自転車で走っていた。深夜一時。耳をすませば遠くの方――幹線道路のある方から、車の走る音がする。また、数日前から聞こえ始めた蝉の鳴き声も、かすかに聞こえる。この世界の時間が正確に流れていることを実感できるものは、それくらいだった。辺りは静まり返り、動くものは一つもない。
たまたま気分でいつもと違うルートで帰っている途中。家の近く、かつて通った小学校の裏を通っている時、妙な音が聞こえてきた。
わぁーん――わぁぁーーん――。
それはこの先、左斜め前方から聞こえてくる。――この先、何があったっけ。そんなことを思いながら、自転車を漕いだ。その音はどんどん、大きくなる。
わぁーん――わぁぁーーん――。
最初、それは“赤ちゃんの泣き声”だと思った。しかし、予想は外れたようだ。
そこには、空き家があった。
確か俺が小学校に通っていた時は、そこには家族が住んでいたはずだった。外で奥さんらしき人が掃き掃除をしていたのを、見た覚えがある。しかし現在そこには、色褪せた外壁と伸び放題の蔦に縛られた古びた廃屋があった。
――時の流れは残酷だと思わざるを得ない。かつては幸せに満ちていたであろう“家族の家”は、今や“お化け屋敷”と化している。
そして通り過ぎる時、ピンときた。これは、猫の“さかる”声だと。
発情期の猫が発する、奇妙な鳴き声。わぁーん、わぁぁーんと、辺りにかなり大きな音量で響いている。周りに住んでる人は、これじゃあ眠れないだろうと同情した。空き家に、猫が住み着いてしまっているのだ。
その証拠に、玄関前に一匹の猫がいた。黒猫が大股を広げて、毛づくろいをしている。俺が近くを通り過ぎても、全く微動だにしなかった。
――人に慣れている! おそらく、小学校に隣接している立地。通っている小学生なんかが給食の残りをあげたりなんかして、住み着いてしまったのだろう。
わぁーん――わぁぁーん――。
そこを通り過ぎ、しばらくするまでその音は聞こえた。
家に着いた時には、(家の近くじゃなくてよかった)と、強く思ったものだ。
*
「……拓也っ!」
「えっ? ……おぉ!」
いつものバイト帰り、深夜一時。自転車で帰っていると、見覚えのあるシルエットが前方に見えた。特に特徴的だったのは、背中に背負ったギターバッグ。
近所に住む幼馴染、拓也だと、すぐにわかった。
「久しぶりじゃんかぁー。今日は練習?」
「いや。ライブだったんだ」
拓也はロックバンドに所属し、ギタリストとして活躍しているのだ。今はバイトをしながら、ライブハウスでのライブを主に活動しているらしい。
お互いの予定が合わず、会う日も少なくなっていたため、久しぶりの再開に会話が弾んだ。自転車を降り、歩いて帰ることにした。冗談を交えた近況報告が、静まり返った深夜の住宅街に響き渡る。
ふと気づくと、俺たちはかつて一緒に通った小学校の裏を通っていた。
わぁーん――わぁぁーん――。
夜の闇の中、そびえ立つ黒い校舎の向こう側――左斜め前方より、あの鳴き声が聞こえてきていた。
(あぁ。また鳴いてら)
それに気がつきながらも、話を続ける。鳴き声はどんどん、大きくなった。
小学校の角にまで差し掛かり、家の全貌が見えた。古く、汚くなった空き家からは、全く人気を感じない。
わぁーん――わぁーん――。
「……あれ、うるせぇよな」
たまらず、俺が言った。
「え? 何が?」
拓也の方を見ると、キョトンとしている。
「何、って……。あの鳴き声だよ。猫がさかってる……」
「鳴き声なんて、しないだろ」
――俺は、自転車を押す足を止めた。聞こえない……? 聞こえないだって? この大きな“鳴き声”が?
「してるだろう! あの、“赤ちゃんの泣き声”みたいな――」
わぁーん――わぁぁーん――。
――俺は、ふと気づいた。聞けば聞く程、それは“赤ちゃんの泣き声”に聞こえてきた。いや、そのものとしか思えない。
誰もいないはずの空き家。そこから聞こえてくる“赤ちゃんの泣き声”。――それは、俺にしか聞こえてない。
「――いや、なんでもない。……行こう」
俺は拓也を促し、家に向かって歩き出した。
それはそこを通り過ぎ、しばらくするまで聞こえていた。
――もう、そのルートを通って帰ってくることは、なかった。
その家で以前何があったのか――俺は知らない。