【八】翠玉の庭
朝陽が頂点に向かって昇り始めた頃、白高を見下ろせる丘を、一頭の黒馬が荒々しく疾走していた。
「はっ!!」
その背に跨る一人の青年は、それでも足りないというようにさらに速くと手綱を握る。
年の頃は二十歳ほど。短い黒髪に、まだ幼さが抜けきらない少年顔。真っ直ぐに正面を見据える意志の強そうな瞳だけが、妙に精悍な印象を与える。
屈強とは言い難い華奢な肢体に纏うのは、青い袍。蒼天よりも深く、綿津見よりも澄んだその色は「青嵐」と呼ばれる。北の大国、西崘の秘色である。秘色とは、天子とその眷属だけが身に付けることを許されている色彩のこと。額には同じ色の布地が巻かれている。
春風に煽られ眩しい青をたなびかせながら、駿馬は颯爽と駆け抜けていく。霞を払い除けた空は目映いばかりの蒼色に彩られ、緑豊かな春の野辺と優しく調和する。
丘陵はやがて平原へと繋がる。延々と広がる常盤色の海原の向うに、まもなく巨大な城門が見えてきた。
「はぁっ!!」
一層強く、青年は馬の腹を蹴り速度を上げた。
“明朝至急来られたし”という書状が統の王から届いたのは一昨日の晩のこと。
急な呼びたては珍しいことじゃない。それが取り立てて「急事」でないこともよく知っていた。だが従わなければどんな嫌味を落とされるか――
――まったく、高慢チキな国主だぜ。
知己の仲だというのを理由に、自分をからかって遊んでいるだけなのだ。だが何事においてもまだ対抗出来る相手ではない。
自覚している己をなんとも情けなく思いながら王城の門をくぐり抜けると、その先の広場で青年は手綱を強く引いた。
いななき声を上げて、馬が前足を振り上げてばたつかせた。両足を地に着け落ち着かせたところで、青年はひらりと背から降り立った。
袍の襟元をゆるめて、青年は広場の先にそびえ立つ広壮な大保殿を見上げた。
外朝の中枢であるこの宮殿の中に、玉座は据えられている。万劫の綺羅と謳われる統の歴史を支えてきた証――「太平の治」と称される良政を施いた多くの王達が受け継ぎ、国の繁栄を繋いできた。そしてこの時世にその栄華を難なく引き継いだ男こそ、青年の無二の朋友であり、好敵手であった。
――見てろよ、いつかぜってー、追いついてやる。
天に続いているかのごとく積み上げられた階の先を、青年は見据えた。新王が即位したり功績をあげる度に、この石段は積み上げられる。まさに天子とは、神と近きに座す者というわけだ。
いつまでも見上げるだけでは終わるものか――。そう青年が再び意志を新たに持ち直した時、高台の上に人影が現れた。それに気付いて、青年の口元がにやり、と笑みを含む。
「……へえ。お出迎えとは珍しいこった」
額に巻かれる青の先が風に舞い、頬を掠めた。
それを払いのけ、青年は長い石段を登り始めた。
同じ時分、瑚蝶は扉を叩く音で目を覚ました。
「失礼いたします、瑚蝶様。――あら、まだお休みでしたか」
扉を開けたすらりと背の高い少女が、寝台から起き上がった瑚蝶を見て目を瞠った。だるさで重い体を起こし、瑚蝶は少女に尋ねた。
「……今何時かしら」
差し込む陽射しに、瑚蝶は目を細めた。いつもなら赤紫の薄明かりが滲んでいるはずの窓の外は、もうすっかり明るい。
「五つ刻でございますよ」
茶器の載ったお盆を寝台の脇の台に置きながら、少女が答える。
見慣れない官女であった。顔は知っているものの、名前が思いつかなかった。薄紅色の女官服は尚位と呼ばれる、雑務を担当する一般的な官女のものだ。桔久と同じ位の少女であることだけはわかった。
「そう……ずいぶん寝過ごしてしまったみたいね。ところであなたは……」
「あ、申し訳ありません、名乗りもせずに。わたくし、紅鈴と申します。今朝は桔久の代わりに朝湯をお持ちしました」
朝に似つかわしい清らかな笑顔を見せ、紅鈴は窓を開けにかかった。年は桔久とそれほど変わらないように見えるが、慣れた身のこなしが大人びた雰囲気を彼女に与えている。
統王朝の宮官試験は、文官試験に劣らぬ難関と言われている。宮官達を束ねる抄 官正(女官頭)は家柄云々よりも淑徳・才気を重んじており、「才女」の育成に力を注いでいるのだ。紅鈴はその模範的な例のように思えた。
――いつの間に眠ったのだろう。
鈍い痛みに覆われているこめかみを、瑚蝶はそっと指で押さえた。
「珍しいですわね、瑚蝶様が朝寝坊なんて。でもたまにはいいと思います。少しお疲れのように見えますわ」
「……でも紫芳の間に香を焚くのを忘れてしまったわ。毎朝朝議の前に焚く慣わしなのに」
こめかみを押さえながら、瑚蝶は細く溜め息を吐いた。きっと劉王に揶揄を飛ばされるに違いない。白花の香を焚く仕事は、劉王から直々に仰せつかった瑚蝶の役目だ。
「あら、今朝は朝議はありませんでしたのよ。ご存じなのかと思っていましたわ。桔久が昨日そう申し伝えませんでした?」
黒子のある口元に手を添え、紅鈴が首を傾げる。
「いいえ――……桔久は、今日はどうしたのかしら?」
毎朝、朝議の始まる半刻前には必ず桔久は瑚蝶を呼びに来る。そして二人で紫芳の間へ向かうのが常だ。そそっかしいところはあるが、桔久のひたむきさと真面目さを瑚蝶は買っていた。寝過ごすことは滅多にないにしろ、彼女が起こしに来るという安心感に身を委ねてしまっている節もあった。
「それが突然今日は仕事を代わって欲しいと頼まれまして……。それに少し顔色が優れないようでしたので、抄官正に許可を得て部屋で休ませておりますの。ご諒恕くださいませ」
「そう……」
桔久が仕事を放棄した日など、今までに一度もなかった。――原因はわかっている。
――私が、傷つけたんだわ。
おそらく昨晩部屋を訪ねて来たのは、朝議の中止を伝えるためだったのだろう。
透き通った大粒の涙が、瑚蝶の脳裏を過ぎった。
――必要な、嘘だった。
後悔はすぐにしたが、一晩たった今でもそれははっきりと肯定できる。そうでもしなければ、桔久を遠ざけることなど出来なかっただろう。
「あら?」
紅鈴が小さく声を発した。中央の卓に近付くと、そこに広げられていた白い手巾の中を長身を屈めて覗き込む。
「まあ、割れた鏡じゃありませんの、いったいどうしたのですか? ……あら、これ見覚えがあるわ。桔久の物ではありませんか?」
「……え?」
「やっぱりそうだわ、この裏面や柄の彫刻……。桔久の兄君が作ったものですわ。彼女の兄君は腕のいい彫物師なんですのよ。今は衛都に工房を構えているとか。これは先日彼女に贈られてきたものですわ。そういえば彼女、これを瑚蝶様に差上げようってうれしそうに話していましたわ。きっとお似合いになるからと」
もったいないですわね、と紅鈴が漏らす。
――桔久。
そんな彼女の思いなど知る由もなかった。瑚蝶の脳裏を、菫の花のようなかわいらしい笑顔が過ぎった。
きっと大事に鏡を腕に抱えて来たのだろう。瑚蝶がどんな反応をするのかを思い浮かべながら。――だが鏡とともに、その純粋な気持ちも壊してしまった。
「片付けますわね、危ないですから」
紅鈴が破片を折り込みながら手巾を畳み始める。
「待って」
素早く寝台を下り、瑚蝶は紅鈴の腕を引き止めた。瞠目して紅鈴が瑚蝶を見上げる。
「……このままにしておいて、私がやるわ」
「え、でも――」
「いいのよ、私の不注意で割ってしまったのだけれど……せっかく桔久がくれた物だから」
瑚蝶の制止に従い、紅鈴が破片を包みかけていた手巾から手を離した。引継いで包み終えると、瑚蝶はそれを蝶貝の螺旋細工の施された蓋付きの箱の中に収めた。
出来る限り修復して、出て行くときに持っていこうと瑚蝶は考えていた。
側にはいられないが、せめてもの思い出として――
「扉を開けておいてもよろしいですか? 今日は特にいいお天気ですね、雲ひとつありませんわ。翠苑が一層引き立ちますわね」
気にする様子もなく紅鈴は最後に部屋の扉を完全に開け放つと、額に手をかざしながら眩しそうに内苑を見た。
四方から綾布のように柔らかい春の陽射しが部屋に差し込む。扉の向うに広がる内苑は、爛漫と咲き誇る花々に彩られた春の宴。それはまるで額縁の中の一枚の絵のようだ。
「梓宮にはたくさんお庭がありますけれど、ここほど丹精を凝らした花園はありませんわ。特別なお庭ですからね」
「……特別?」
訊き返した瑚蝶を、入り口から紅鈴が振り返る。
「ええ。この離宮は翠遥宮と呼ばれておりまして、輝公……先の皇帝陛下の正妃様の居室だったんです。翠妃様は花を愛でるのがお好きな方で、そのために輝公はこのお庭だけは花を絶やさぬようにと命じられたとか。それにどの季節でも存分に景色を楽しめるようにと前栽の配置はすべて計算されているそうですわ」
「先代のというと……劉王の、お母君?」
「ええ、そうです。奥深い愛情を感じるお話ですわね」
恍惚とした表情で溜め息をつき、紅鈴は再び内苑に目を戻す。
――なぜ。
瑚蝶の脳裏に咄嗟に浮かんだのはその二文字であった。その事実は瑚蝶に動揺を与えるのには十分であった。
翠妃については瑚蝶はほとんど何も知らない。劉王が話したがらないことに関しては、暗黙のうちに緘口令が布かれるからだ。ただ劉王が幼い頃に亡くなったということだけは耳に挟んだことがあった。
「……ではここは、劉王にとってお母様と過ごした思い出の場所でもあるのね」
そんな大切な場所を、どうして与えたりしたのか――それもいつ自分の命を狙うかもわからない女に。
「現陛下もこのお庭には随分とお心を注いでいるようですわ。今もこうして美しい風景があるのは、その証でございますわね」
紅鈴の返答を聞きながら、夜着のまま引き寄せられるように瑚蝶は回廊の桟まで出た。
――目の前に広がる、春夏秋冬廃れを知らず息づく庭。
春には長閑に千々の花々が戯れ
夏には深緑の木立が惜しみなく大空に葉を広がり
秋には各々の色に染まった落葉の絨毯が敷かれ
冬には銀雪が裸木を飾り、閑寂で包む。
当たり前のように見ていた景色が、それほど想いがこめられたものだったとは――
劉王は何も、瑚蝶に教えてはくれなかったのだ――
それはとても大事なことのように思えた。
「そういえば先程、阿榑様がお見えになりましたわ」
思い出したとばかりに、紅鈴があ、と声を上げた。挙げられた隣国の皇太子の名に、瑚蝶は思わず振り返った。
「阿榑様が?」
「はい。陛下とご一緒に煬心殿へ行かれましたが……なにやら険悪なご様子でしたわ」
紅鈴があからさまに眉をひそめる。その名を聞けば大抵の官女は体を竦めてしまうほど、「阿榑」は怖れられた存在だった。
――また、あの方の気まぐれで呼ばれたのかしら……。
どうやら行かなければならないようだ。一方的に吠えられている、涼しい容貌が目に浮かぶ。
「……紅鈴、着替えを手伝ってくれるかしら。私も阿榑様にごあいさつに行かなくてはね」
――でもこれで最後。こうして義務を果たすのも。なにもかも。もう二度と……会うことはなくなるのだから。
そう自分に言い聞かせて、瑚蝶は桟から離れた。
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