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春夢槿花
作:貴水 玲



【七】 虚 偽


「瑚蝶殿、お話ししたいことがある」

 誅易が突然瑚蝶の部屋を訪れたのは、すべてのものが深い漆黒の闇に沈みきった夜半近くだった。
 すでに髪に櫛を通し夜着に着替えていた瑚蝶だったが、今夜は寝付けず、円形の格子窓から朧ろな月を眺めていた時であった。
 いつもの重苦しい装甲姿ではなく、誅易は官吏たちが着る浅葱色のゆったりとした寛衣姿で現れた。そのせいか、いつも巨体を取り巻いている近寄りがたい威儀ある雰囲気は、幾分か和らいでみえる。

「――夜分にご婦人の閨を訪れるなど失礼極まりない行為をお詫び申しあげる。ですが、少しばかりお時間をいただきたい」

 冥夜にふさわしい厳かな調子で、誅易は一礼した。口周りに髭をたずさえたいかめしい面立ちは、今夜はどこか悄然としていて気迫がない。何か思いつめている様子が窺えた。

「構いません。どうぞ、お入りになってくださいませ」

 窓辺を離れ夜着の上に紫苑色の外套を羽織り、瑚蝶は誅易を部屋の中へ招き入れた。卓子を勧めると、誅易は無骨に頭を下げて腰を下ろした。瑚蝶も円卓を挟んで向かい側に座った。

「お話というのは、他ならぬ皇帝陛下のことであります」

 ――そうであろうことは、誅易の姿を見た時にすでに察しがついていた。瑚蝶は誅易の次の言葉を待った。

「……何年になりますかな。貴女様がここへ来られて」

 核心部には入らずに、誅易は瑚蝶に問うた。すぐには切り出せない迷いがあった。

「……三年になります」
 
思惑ありげな表情の誅易と視線を合わせながら、瑚蝶は答えた。誅易が小さく息をついた。

「もうそれほどになりますか……」

 普段豪快な大声を響かせているとは思えないほど静まりきった口調で誅易は呟いた。誅易の心中を代弁するように瑚蝶は口を開いた。

「……将軍にしますれば、さぞ心休まらない存在でしたでしょう。当然でございます。本来ならば、このような寛容な処遇を受けるべき身ではありませんから」

 それを聞いて誅易は吃驚したようだった。礼儀としてか、頭を横に振る。

「瑚蝶殿に非があるわけではありません。ええ、わかっておるのです。しかし――正直申しますと疑問を持たずにはいられないのです。なぜ劉王は……瑚蝶殿をこの城へ縛り付けておくのか。――貴女にとって我々は敵同然、目の上の瘤ではないかと。今だ私にはあの方の真意はわかりかねます。ですが、そろそろ時期なのではないかと思いましてな……」

 言い淀んで、誅易は誤魔化すように咳払いをした。

 ――今夜のことがもし劉王の耳に入ったら、逆鱗に触れるのは歴然。だが誅易もこれ以上我を折るのは躊躇われた。幾許の覚悟を胸に、その先を切り出した。

「瑚蝶殿を、解放すべきだと」

 瑚蝶は黙って誅易の言葉を聞いていた。驚きはしなかった。「解放」と言えば聞こえはいいが、それはすなわち「追放」を意味する。

「――実は此の度、陛下には内密に触れを出しました」

「……宮女公募のお触れでございますか」

「いかにも。劉王には幾度進言しても取り合われず、私も天子の裁断と隠忍しておりましたが……後宮を持たぬ皇帝など前代未聞。統の存続の為にも后妃を立てる必要があると臣下一同に是認しております。それにもうすでに正妃候補にと目をかけている方がおりましてな……入宮を待つばかりでございます。その為に――」

 “ 傾国の種になるものは取り去るべし ”

 そう言いたいのだろう。誅易が拭いきれないもの――それは瑚蝶への不信感だ。いつか裏切り、皇帝の寝首を掻くやもしれない。
 誅易だけではない。城の皆の眼差しの中にそういった翳りが潜んでいることを瑚蝶は気付いていた。
 まったく衝撃を覚えなかったわけではない。だが誅易の胸裏は理解できた。

「……もとは拾われた命でございます、依存はありません。すぐにでも城を出て行きましょう」

「……勝手をお許し頂きたい。ご安心を、南聖地方の懐湖に住まいをご用意いたします。懐湖は景観の良い温泉郷でございます。きっとお気に召して頂けるかと」

 誅易は深々と頭を垂れた。その声は少し安堵感を含んだように思われる。見目は豪傑だが、誅易は人一倍篤実な人柄であることを瑚蝶は知っている。瑚蝶の是非を問わずとも押し進めてしまえば良いものを、それが出来ない生真面目な男なのだ。そして誰よりも劉王を敬っている。私利の為ではない。誅易の執る行動はすべて劉王の、統の為を思ってのことなのだ――

「陛下には私が独断で出て行ったと、お伝えください。その方が、将軍に火の粉が飛ばずに済みましょう」

「――かたじけない」

 そう誅易がもう一度頭を下げた時だった。


 ――がしゃん。


 弾かれたように二人は顔を上げた。扉の向うで何かが割れたような大きな音がした。即座に誅易が立ち上がり、扉を開ける。

「――桔久……」
 
 瑚蝶は息を呑んだ。
 開いた扉の先には、顔色を失った桔久が呆然と立ち尽くしていた。




「嫌っ! 嫌です、納得できませんっ」

 誅易が退室するやいなや、それまで拗ねた子供のように俯きながら必死に拳を握り締めていた桔久が、勢いよく顔を上げた。
 両頬は紅く上気し、両目からは大粒の涙が一粒ずつ零れ落ちていく。

「どうして瑚蝶様が出て行かなければならないのですかっ! ひどいです! 理不尽です! 誅易将軍なんかの命令なんて聞く必要ありません!」

 嗚咽と憤りで声が震えている。どうやら一部始終扉の外で話を聞いていたらしい。いつもならこんな夜遅く起きている子ではないのに、なぜ部屋を訪れてきたのだろうか。

「桔久、泣かないでちょうだい。何も私は死ぬわけではないのよ」

 桔久が両手で顔を覆ってわっと泣き出した。しゃくりあげるその肩を、瑚蝶は抱くようにして優しく撫ぜて宥める。

「理不尽なことではないのよ。むしろ将軍は気遣ってくださったのだから……」

「いいえ、いいえ! 将軍は瑚蝶様が皇帝陛下を暗殺するのではないかと思ってるのですよ!? 瑚蝶様がそんなことするはずがありませんのに!」

 だが桔久の溢れた感情はおさまりそうもない。とりあえず瑚蝶は寝台に座らせて落ち着かせることにした。
 開けたままの丸窓から、夜風が流れ込んでくる。春になったとはいえ、まだ夜更けの風は残冬の尖りを残したままだ。窓を閉め、瑚蝶は桔久の隣りに座った。

「……将軍がおっしゃることはごもっともだわ。私は喜んで承知するつもりよ」

 自分の羽織っていた外套を、薄い夜着一枚の桔久の肩に掛けてやりながら瑚蝶は決意を伝える。桔久が両手の平から顔を浮かせ、赤い目で瑚蝶を見上げた。

「え?」

「――私には帰る場所はない。身を寄せる場所も。今は与えられて生きているのよ。そうしなければ私には存在する価値がないのだから。それに私は厄介者にはなりたくないの」

「そんな……! それは瑚蝶様が廟の姫君だったからですか? だから選ぶ権利はないと? でも瑚蝶様は瑚蝶様です! 国人であるとかないとか、身分が高いとか低いとか、そんなことの前に貴女様というお人なのですよ! わたしの兄が言っていました。人の奢りがあってはいけない隔たりを生み枠の中に縛り付けるのだと……。人の価値があるないを決める権利なんて誰にもありません! わたしは……わたしは瑚蝶様とお会いできて本当に幸せなのです。そんなこと……おっしゃらないでください!」

 再び桔久の瞳に涙が溢れた。迷惑をかけまいとするように俯いて泣き声を殺す桔久に、瑚蝶は居たたまれない気持ちになる。

「……でもね、桔久。使命をまっとうするために、位を持って生まれてくる方もいるのよ。そしてその方を守る大義を持って生まれる方も。何も失わずに得ることができたらどんなにいいでしょう。でも人の世は一虚一実、そう寛容ではないのです。守る為には何かを犠牲にする必要がある。そうして人間の営為は成り立っているのです。将軍の御裁断は劉王を、国を思ってのこと。王に仕える身ならばわかるでしょう? それにいずれは私の存在は邪魔なものとなるはず。それならば、私は悦服しなければ。私は……劉王の重荷になってまでここにいるつもりはないのです」

 ――そう。胸の内に宿る心火が消えない限り、刃を向けないという自信はない。凛然としたあの姿を見るたび、胸の奥がざわめく。蒼穹に突如霹靂が走った時のように、心をさらわれそうになる。あの双極の紫電に。

「劉王様のため……ですか?」

 すっかり泣き顔になった桔久がすがるように問い掛けてくる。瑚蝶は力なく微笑んだ。

「……そうね」

 頑なに過去を守ろうとする心と対峙する感情。それが何かを暴く覚悟は自分にはない。凌駕される前に封印しなくてはならない。

「でも……劉王様きっと悲しみます! 瑚蝶様がいなくなられたら……」

「どうして? 元々私はあの方がお戯れで拾ってきたもの。意味などないのよ。玩具のひとつがなくなったからといって、采配を揮うには何の支障もないでしょう。悲しむ必要なんて……どこにもないわ」

「そんなこと絶対にありません! 劉王様は、瑚蝶様には心を許していらっしゃいます! 感情を滅多に見せない御方ですが、瑚蝶様といる時はとても穏やかな表情をしてらっしゃるんです。わたしそのお顔がとても好きで……玩具の一つと思っているのならば、このお部屋をお与えになるはずがありません! だってこの離宮は――」

「桔久」

 桔久の泣訴を遮り、瑚蝶は声を差し入れた。

「あなたの気持ちはとてもうれしいわ。でも私はもう決めたのよ、ここを出て行くことを」
 涙で潤んだ桔久の目が、みるみるうちに大きく開かれていく。そして大きく首を横に振ると、瑚蝶の夜着の袖にしがみついてきた。

「いや……――嫌です! だったら……だったらわたしも一緒に行く! 瑚蝶様のいないお城なんてどうしたらいいか! 瑚蝶様が出て行くなら、わたしも行きます!」

 これには瑚蝶も困り果てた。袖にとり付いて泣きじゃくるその様子には、もう宥めなどききそうもない。

 付いて来てくれたらどんなに心安いか――。桔久は瑚蝶がこの城へ来て間もなく官女としてこの梓宮しきゅうに上がった。自分付きの侍女として共に過ごすようになり、すべてを失った瑚蝶には妹のような存在であった。別れるのは心寂しい、だが連れて行くわけにはいかない。桔久は以前、皇帝の後宮に仕えるのが最大の夢だと話していた。そのために官女になる決意をしたのだと。その無垢な願いを摘み取ることなど出来るはずがない――揺れ動く気持ちに、瑚蝶は重い錠を下ろした。

「――いい加減にしなさい、桔久。いつまで泣いているつもり?」

 すがりついていた桔久の手を振りほどき、突き放す。瞠目して桔久は瑚蝶を見た。

「私が出て行くくらいで取り乱していてどうするの。私はあなたの仮初めの主人。時が来れば出て行くのは当たり前のことでしょう」

「わ、私わたしは瑚蝶様に三年もお仕えしてきました! そして本当に心からお仕えしたいと思ったんです!これからもお側にいようと……決めたんです。瑚蝶様がいなければここにいる意味がありません!」 

 厳しい瑚蝶の声音に、桔久は声を引きつらせた。潤んだ双眸が狼狽を映し出している。だが瑚蝶は声色を崩さなかった。

「後宮に仕えることがあなたの使命ではないの? それともそんな安易に砕いてしまえるほど微温な心だったのかしら? そうならば今すぐ郷里へお帰りなさい。ここにあなたは必要ないわ。それに――私にも」

「う、嘘です……わざとそんなことおっしゃっているんでしょう? そんな心無い言葉を貴女様が本気で言うはずがありません」

「……それは私を買いかぶりすぎよ」

「いいえ、いいえ! わたしにはわかっています! でも無駄です、わたしの気持ちは変わりません」

 祈るように両手を握り締め、桔久は頑なに否定を繰り返す。そうすることで何とか瑚蝶を引き止めようとしているのだろう。けなげなその姿から、瑚蝶は目を反らした。

「――私はあなたが思っているほど良女ではないわ。でも自分の身分を知るだけの分別はあるつもりよ。だから偽ってきた」

「……え?」

「従順な振りをしてきたのよ。あの方の隙をつくためにね。でも誅易将軍に見抜かれてしまった。だからこれでお終いなのよ、お芝居は。殺されなかっただけありがたいわ、命は惜しいもの」

 寝台から立ち上がって、瑚蝶は窓辺へ寄った。風が強まってきたのか、窓枠がかたかたと音をたてている。寝台から腰をあげた桔久の姿が、闇色の硝子窓に映った。

「何を……おっしゃっているんですか? まさか劉王様のお命を……狙っていたというのですか?」

 桔久の声から勢いが消えた。背を向けたまま瑚蝶は唇の赴くままに答えを返す。

「そうよ。当然でしょう、私は家族を殺されたのよ。その相手を許すなんてことが出来るはずがない」

「じゃあ……じゃあ偽りだったというのですか!? 今までわたしたちに見せてくれた笑顔もお言葉もすべて――」

「……――もう疲れたわ。だからちょうどよかったのよ。ここは窮屈で仕方のない場所だったんだもの。例え一生自由にはなれないのだとしても、せめて一人になりたいわ。もうここにいる意味はないのだし。だからあなたは邪魔なだけなのよ」

 感情もなくただ言い捨てるようにして、瑚蝶は振り返った。この部屋に来た時のように桔久はすっかり顔色を失い、呆然と瑚蝶を見つめていた。

「……からかって……いらっしゃるんでしょう? そうなんでしょう?」

「まだそんなことを? ……冗談で言うはずがないでしょう。最後だから本当のことを言うまでよ」

「そんな……っ。わたし納得できません! だって――」

「……さよならね、桔久」

「瑚蝶様!」

「さようなら」 

 その言葉は完全に「拒絶」を表すものだった。言葉を失い、桔久はよろめきながら後ずさった。

「……っ」

 いつもは朗らかさを振りまくその顔が悲嘆に歪んだ。嗚咽をせき止めるように口元を両手で覆うと、涙が両頬を伝い落ちる寸前に瑚蝶から顔を背け、桔久は部屋を飛び出して行った。

 扉が開いた衝動で、戸口を照らす燭台の炎が波打つ。遠ざかっていく沓の音が耳に響いた時、悔恨の情が瑚蝶の胸中を埋め尽くした。

――私は、なんてことを。

「桔久……っ」

 扉の外へ出たが、桔久の姿がもうそこにあるはずはなかった。回廊の先には、松明の明かりでさえも呑みこまれそうな夜陰が、ただ口を開けているだけだった。

――これでいいのよ。

 辛い気持ちはあった。だが然るべき結末だと、そう自分に言い聞かせる。自分ひとりの犠牲で済むのならそれでいいのだと――。

 扉を閉めようと瑚蝶は部屋に戻りかけた。その時、布沓の裏に硬い感触が当たったのに不信感を抱き、足元を見た。

 煌く破片がそこら中に散らばっていた。
 冷たい回廊の上で、割れた鏡面の欠片が陽炎のように揺らぐ松明の炎に反射して、鈍い光を放っていた。












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