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春夢槿花
作:貴水 玲



【六】 矛 盾


――今のは? 私は何を? 

「瑚蝶さまああぁぁっ」

混乱に陥りそうになった瑚蝶の耳に、桔久の呼ぶ声が響いた。女官服の裾を持ち上げて、回廊を走って来る。

「兼聞様がお待ちかねですよーっ! 早く早く……ああっ、邦昌様っ! また瑚蝶様に言い寄っておられるのですかっ」

瑚蝶の隣りに邦昌の姿を見とめて、桔久が立ち止まるやいなや両手を腰に眉を吊り上げた。
「はいはい、退散しますよ」

 両手を上げ肩をすくめてみせると、邦昌はひらりと桟を飛び越え内苑に降りた。鮮やかな朱紐で結ばれた長い黒髪が、馬の尾のようにしなやかに波打ち、そして剽悍そうな眼差しが瑚蝶を振り仰いだ。

「――たまにはそうやって、取り乱した方が体にはいいぜ。ああ、オレがどうして武官にならなかったのかって話は、後で聞かせてやるよ」

と白い歯をのぞかせると、俊敏な身のこなしで小川を飛び越え、緑匂い立つ春景の向うに消えていった。

「邦昌様と何をお話になっていたのですか? ……瑚蝶様?」

探るような目付きで桔久が瑚蝶の顔を覗き込む。その場に立ち尽くしていた瑚蝶は、瞬時に平静を呼び起こした。

「え? ああ、いいえ……ただ庭を眺めていたのよ、花が――咲き始めたから。さあ、行きましょうか。兼聞様をお待たせしてしまったわね」

 先に歩き出し桔久を促す。腑に落ちないと言いたげに桔久は口元を曲げたが、「はい」と頷いて瑚蝶の後についた。


――いったい自分はどんな顔をしていたのだろう。ひどく醜かったに違いない。


回廊を広間に向かって進みながら、瑚蝶は先程の醜態を恥じていた。
己の身の為だけの訴えであった。抑えきれなかった。一瞬――頭の中が真っ白に染まった。
今だ飽和せぬ憎しみと怒りに、胸を食い破られるのではないかと思った。

広間に着くと、数人の女官を相手にしていた漢人(あやひと)兼聞が、瑚蝶の姿に深々と頭を下げた。

「瑚蝶様、お久しゅうございます」

 安堵感を覚えずにはいられないその柔和な物腰に、瑚蝶の相好も自然と崩れた。

「兼聞様、お元気そうで何よりです。最後にお目にかかったのは……一昨年前の沫麦(リェンチー)の収穫の時期でしたわね」

差し出された瑚蝶の手を恭しく取って、豊かな銀髭をたずさえた老紳士はそうでしたな、と小刻みに頷いた。

「いやはや、不義理をして申し訳ありませぬ。昨年は新たな染料を求め、方々足を伸ばしてお
りましてな。老足なりとも急いだつもりなのですが、見城が遅くなってしまいました。御不承願います」

「こうして私のことを忘れずにおいでくださっただけでもうれしいですわ。さっそく見せてくださいな」

「ええ、もちろんでございます」

 手を取ったまま、兼聞が瑚蝶を石膏石の卓へと導く。群がっていた女官たちが、左右に分かれて瑚蝶を招き入れた。
円卓の上には、鮮やかな朱色の綾の薄布が何枚か広げられていた。思わず瑚蝶は感嘆の溜め息を漏らした。

「まあ……なんて素敵な色なんでしょう」

眩しさに目を細める。同じ色に見えるが、少しずつ色が異なっているようだ。

「鮮やかさが薄れては失礼かと、取るものも取らず参上いたしたまででございます」

瑚蝶の反応に満足したように、兼聞が微笑む。
漢人・兼聞の織る綾は、統の王侯貴族はもちろんのこと国外でも定評がある。それに加え温厚で誠実な人柄である兼聞には先帝も目をかけていたらしく、妃の身に付ける衣装はすべて兼聞に任されていたともいう。その由縁あってか劉王も兼聞の城への出入りを容認していて、定期的に女達の無聊慰めにと色とりどりの薄布(ショール)を携えて城を訪れるのであった。

「わあ、素敵なお色ですね! さすが兼聞様の綾ですわ。ねえ、瑚蝶様っ」

桔久が目を輝かせながら、はしゃぐ。瑚蝶はそっと、なめらかな綾布を手に取った。

「身につけるにはもったいなく思えますわね」

 すると兼聞が首を横に振りながら微笑んだ。

「何をおっしゃいます。貴女様の為にと仰せを受け参ったのです。お気に召して頂けないとあれば、私目の首が飛びかねません」

「え?」

 物騒な物言いに瑚蝶が小首を傾げた時、女官たちが小さな悲鳴を上げた。

「――余計な口を叩くな、兼聞。これ以上風当たりが強くなっては困る」

 凛、と磨ぎ澄んだ声が広間に響いた。開け放たれた広間の戸口から、従容とした足取りで劉王が歩んで来る。

「これはこれは、皇帝陛下」

 兼聞が慇懃に頭を垂れた。その場にいた他の者たちも、皇帝の来室に畏まって辞儀をする。瑚蝶も腰を落とし、礼を表した。

「待ちくたびれたぞ、兼聞。貴殿に使いをやったのは、いつぞやのことであったかな。西遥(シーリョン)の美女たちに心酔して任を忘れ、腑抜けにでもなってしまったのかと思ったぞ」

 自分の胸ほどの背丈の老輩の前で立ち止まり、優然と見下ろしながら劉王が含み笑う。

「ほほほほ、相変わらずの口振りですな、劉王。そのご麗顔は母君に生き写しでございますのに、なんとも惜しいことです。殿下のお望みに叶うようにと、老体に鞭打って奔走しておりました」

 兼聞の言い方は畏まってはいるが、厳然とした重みはない。むしろ劉王とのやりとりを楽しんでいるようなおどけた雰囲気がある。劉王がフン、と鼻を鳴らす。

「お前の口も達者なことだ。まあ、よい。それより首尾を聞かせてもらおう」

「はい、御覧の通り」

 鷹揚と頷いて、兼聞が右手を広げるようにして卓子を示した。卓の上を覆う朱色を一瞥して、劉王は瑚蝶の手の綾布に目を留めた。

「ほう、見事だな」

 素直な劉王の賞賛の言葉に、「有難うございます」と兼聞が頭を垂れる。

「これは……何か特別な染料を用いているのですか?兼聞様」

 なにやら含蓄のある二人の様子に、瑚蝶は問い掛けた。兼聞が振り向く。

「はい。西遥にはこの大陸では見られぬ珍しい草花がございましてな。特に北部の寒冷地帯レンカにしか咲かない氷塊花エウカリウスという花は、それは見事な朱を映し出す染料になると聞きまして。しかしこの花、雪下を苗床にしておりましてのう。稀少な上に深い積雪を掘り起こして採取しなければならず、困難を極めました。ですがその甲斐もありましたな。不思議なことに空気に触れても色合いが変わらず、花の持つ本来の彩度を引き出すことが出来ました」

「これがその、氷塊花の色なのですね。なんて深みのある色でしょう」

 一口に「朱色」というには言葉の足りない、不思議な色合いである。光の加減でその色相に変化が出るのだ。宵闇に沈む初夏の入日のような(くれない)とも、ゆらゆらと淀む大気の中、徐々に色づき始める晩秋の朝焼けの淡い赤とも。

「統の色だ。朱が好きか、瑚蝶」

 瑚蝶の隣りに立って、劉王が問うた。瑚蝶は少し不審に思いながら、浅く頷きを返した。

「……はい。陛下の見立ててくださるものも、だいたい朱色が多いですわ。お気付きになっていませんでした?」

「さあ、そうだったか?」

 劉王がとぼけた返答をする。兼聞が呆れた風を装って口を挟んだ。

「おやおや、素直ではありませんなあ。瑚蝶様には朱が似合うからと、わざわざ西遥王に親書を送り、レンカへの案内人まで手配されたのは、いったいどなたでしたか」

 瑚蝶は耳を疑った。

――劉王が? ……私のために?

「本当に首を落とされたいか、兼聞。それとも先に舌を抜こうか」

 兼聞を見据えながら、劉王が美声を低く響かせる。その表情が少し困窮して見えたのは、気のせいだろうか。

 劉王はやにわに卓上から朱の薄布をすくいあげると、それをふわりと瑚蝶の肩にかけた。

「――やはり似合うな、この色が」

 かけ終わった手を除けて、劉王は囁くように言った。
 いつもは峻厳な目元の表情が驚くほど穏やかな印象に変わったのに、瑚蝶の鼓動がふいに乱れる。
 それを否定したい思いで、滑るような薄布の感触を抱き込むように両腕に通せば、女官たちから口々に溜め息が漏れた。

「ほほう、さすがお見立て通りでございますな」

 兼聞はどこか得心顔だ。桔久も両手を胸の前で握りしめて、頬を紅潮させている。
 急に気恥ずかしさを覚えて瑚蝶は俯いた。そこへ黎青が現れなければ、皆にその変化を気付かれてしまっていただろう。


「――劉閃。貴方には縄が必要なようですね。邦昌を呼ぶと出て行ったきり、なかなか戻ってこないと思ったら……。おかしいと思ったんです、こういうことには無精の貴方が自ら行くなんて。信じた僕が馬鹿でした。金輪際信用しませんよ。僕は待たされるのが大、嫌いなんです」


 開け放たれた戸口に片手をついて、銀雪の髪の貴公子は不愉快さ露わに一気に言い果たした。待たされた上に一緒にいる相手が瑚蝶というのが、さらに黎青の不機嫌を煽った。

「では縄抜けの練習をしなければな。失礼した、客人。舞い込んだ蝶を追いかけてつい、な」

 戯言交じりに劉王が動いた。陽射しを集める戸口の方に歩いていく。視線を上げ、遠ざかる背中に瑚蝶は声を投げかけた。

「劉王」

 決して溺れてはいけない、背中。
 だが時々、向けられる言葉が真摯なものであると信じたくなってしまうのは、まだこの世に希望をもっているからであろうか。

「……ありがとうございます」

わずかに振り返っただけで、劉王は黎青とともに戸口の向うへ消えた。
 

 失うものはもう、ない。
 すべては過去に埋もれてしまった。
 空虚さは冷たく重い気持ちだが、すべてを失った瑚蝶を満たしてくれる。
 優しさはそれを揺るがせ、瓦解させる。それが怖い。
 ここへ来た頃は絶望と憎しみしか知らなかった。でも今では薄らぐ瞬間さえある、本心から 微笑んでいる自分がいる。
 何も得たくはないのだ……

 だが求める気持ちが芽生え始めている。

――なぜ?


 小さく震え上がっているのになぜか疼く胸の内を隠すように、瑚蝶は薄布を抱き合わせた。












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