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春夢槿花
作:貴水 玲



【伍】 惑 い


「――――いってぇーーっっ!」

 寝台に座る邦昌が、涙目で情けない声を出す。引っ込めかけたその腕をぐいと引き寄せて、瑚蝶は呆れ顔で白い包帯を巻いていく。

「そんな大きな声を出して、宮城に聞こえてしまいますわよ。そのくらいで何を。皇帝の隠密を務める男が」
「……」
 邦昌が眉値を寄せながら、ぐっと息を呑んだのがわかった。
 王宮の南の端にある離れを瑚蝶は自室として与えられていた。どんなに大声で叫ぼうとそう簡単に聞こえないことは、承知の上なのだが。
「……あのな、念のため言っておくけど、これのことはオレがただしくじっただけで」
「わかっています」
「へ?」
 漫然とした表情で、邦昌は瑚蝶を見た。
「いいのですよ、あの方に何を言っても同じことなのだから。どんな空言を言っても、咎めの言葉は返ってこない……」

――それが時にどんなに苦しみとして残るか。憤りを持ったか……。
 
 何度、
 何度あの喉笛を突いてやろうかと思ったことか。
 
 幾度も幾度も、返ってくるのは涼しい眼差し。けれど、その瞳にいつからか安心を覚えるようになったのも事実だ。でも――

「……お前さんも酔狂なこった」
 無遠慮に瑚蝶の寝台に仰向けに寝転がって、邦昌は頭の後ろで両手を組んだ。そして天井を見つめながら、ふっと笑った。
「まあ、劉王に捨てられたらオレのとこに来ればいいさ。オレにとっては酔狂もいい機会だ」
「まあ、ふふ……」
 薬草を濾紙に包みながら、邦昌の台詞に瑚蝶の口から思わず笑いがこぼれる。
「冗談だと思ってるだろ」
「あら、違うのですか? まあ最近は、あなたの艶聞も聞かなくなりましたが。女官たちとずいぶん親しくなさっていた様子でしたのに」
 邦昌が慌てたように身を起こした。苦い薬でも飲まされたようなその面持ちに、瑚蝶はわざとにっこりと微笑んで見せた。それを見て、
「……ったく厄介な姫さんだよ」
と食傷気味に、邦昌は重く息を吐き出した。城でも外でも、たいていの女は少し優しくすればすぐに靡くというのに、瑚蝶だけにはいつも取り合われず上から見下ろされている気がする。決して付け込む隙を与えない。十九、二十でこれほど自分を頑なに庇護する女も珍しい、と邦昌は半ば呆れていた。

「瑚蝶さまあー」

 無駄か、と邦昌が寝台から降りようとした時、パタパタと忙しなく回廊を走る音とともに、一人の小柄な女官が瑚蝶の部屋に転がり込むようにして入ってきた。
 そして一息ついた次の瞬間、寝台の邦昌を見て、こぼれ落ちそうな程大きく目を見開いた。
「ほ、邦昌様っ! ななな何をなさっているのですっっ瑚蝶様の御部屋でっっ! いやあっ! 最低ですっっ!」
 そう突然顔を赤らめて、甲高い声で叫ぶ。騒がしさは折り紙つきの、瑚蝶の侍女である。十五になったばかりの童女ではあるが、邦昌にはいつも何かと一人前に牙を剥く。
「おまえなあ〜っ。なんでもかんでも勝手に悪い方へ結びつけるんじゃねえ!」
「まさか邦昌様……っ、いけません、いけませんっ!」
「だからな……」
「だめですっ! 瑚蝶様はいけませぇーーん!!」
 桔久がぶんぶんと激しく首を横に振る。どうやら完全に誤解をしたらしい。
――ちょうど寝台から降りようとしていた、その状況が悪かった。口を挟めば挟むほど暗転しそうな予感がして、邦昌は救いを求めるように天井を仰いだ。
「……桔久(きく)、邦昌の腕を見なさい」
 そんな邦昌を見かねて、瑚蝶は助け舟を出した。
「え……腕? まあ! どうなさったのですか、この怪我!」
 態度が一変、桔久が邦昌の左腕に勢いよく掴みかかる。
「い……っ、てえよっ! 馬鹿力っ!」
「あ……申し訳ありませんっ!」
 こめかみに皺を寄せた邦晶を見てぱっと手を放すと、桔久は瑚蝶の後ろへ隠れた。
「あら、女性に声を荒らげるなんて珍しいこと。普段は甘い顔をしているでしょうに」
「あんたになかなかオレの良さが伝わらないから、他で紛らわしてんのさ。――さてと、そろそろ行くわ。食客の身で油を売ってちゃマズいからな。手当て、どうも」
 寝台から降りて袖をおろすと瑚蝶に軽く目配せをして、邦昌は部屋を出て行った。
「まったく、あんなことばかり……。一体いつまで言い続ける気かしら」
「でもお、瑚蝶様。邦昌様は真っ直ぐな方ですから、ご冗談とも……」
 危惧しているような色を浮かべながら、おずおずと桔久が口を挟む。
「どうかしら……邦昌は何でも冗談事に含めてしまう性質ですから。それより桔久、ずいぶん慌てているようだったけれど、何か用ではないの?」
「あ! そうでした! 兼聞(けんぶん)様がいらっしゃってるんです。良質の綾が入ったので、薄布を織ってらしたそうです。ぜひ瑚蝶様にお会いしたいと」
「まあ、兼聞様が?」
「はい! とっても素敵なお色で……きっとお気に召しますわ。そうだ、ぜひ劉王様にも見ていただいて」
 そこまで言って、はっとした表情で桔久が両手で口を押さえた。“ 劉王 ”の名が出る度に、瑚蝶の心内は薄雲がかかるように曇る。それを知っているからだ。
「桔久、どうしてそう私と劉王を結びつけたがるのです?」
「す、すみません。で、でも劉王様はすばらしい方です!」
 そう声を高くした途端、桔久の顔がぱっと赤く染まった。
「桔久?」
「でっ、ですからその、国王として申し分のない方だと思いますし、とても魅力的な方だとわたしはずっと……あっ、いえ! その……」
 思わず本音が出たとばかりに桔久の顔色が青と赤とに交互に変わる。まるで百面相だ。
 くるくるよく変わるこの表情が瑚蝶は好きでもあった。そして最後は蒼白顔になって慌て始めた。
「やだ! わたし、何を口走って……! い、今何言いました!?」
「劉王を愛していると」
「あああああああ愛しているとは言ってません!」
「何を照れることがあります。劉王を好きならそれで構わないでしょう」

――そう、一般論ではそれも不思議ではないのだろう。

 劉王を慕う者は多い。宮中の女官達の口にのぼるのは、いつも劉王の話題だ。
 その言葉や仕草一つ一つを取り上げて、皆一様に淡い思いを馳せ、ためいきなどついているのだ。
 本来ならば憧憬の的で、憎しみを向ける相手ではないということは瑚蝶もわかっていた。
「そうではないんです」
 桔久がうつむいた。そしておずおずと遠慮がちに瑚蝶に視線を上げた。
「……わたしはただ劉王様がお幸せならそれでいいと……それで、その……思うのです」
「思うって何を?」
「その……劉王様がお妃様を娶られるなら、瑚蝶様がいいな、と」
 上目遣いに、口篭もりながら桔久が言った。瑚蝶はわずかに目を見張った。
「桔久――」
「すっすすすすすみません! 出すぎたことを! 失礼しました! わ、わたし先に広間へ行ってまあす!」
 勢いよく頭を下げると、瑚蝶の次の言葉も待たずに桔久は脱兎のごとく部屋から飛び出して行った。回廊を走っていくもつれたような足音は、あっという間に遠ざかっていった。

――何を言い出すかと思ったら。

 桔久の言動はともかく、あの慌て様を微笑ましく思い返しながら、瑚蝶は卓の上の薬箱の蓋を閉めた。
――誅易将軍が聞いたら、卒倒するでしょうね。
 奴隷に等しい身分の者と、一国の皇帝――など。なんと惨めな結末だろう。そう思うのは、片隅に僅かに残る王族としての自尊心からだろうか。羽根を折られ、もう飛び立つことが出来ない篭の鳥に何の価値もありはしないのに。
 籐で編まれた薬箱を棚に戻して、瑚蝶は自室を出た。

「あら……」

 扉を開けた先、回廊とその向うに広がる庭園を隔てる桟に、邦昌が座っていた。思わず漏れた瑚蝶の声に、邦昌は庭園のほうからこちらに顔を向けた。
「邦昌。劉王のところに行ったのではなかったのですか?」
「二人で居室の方へ向かわれたようだが、今行くと“ 銀漢の貴公子 ”殿の詰問に合うと思ってね。しばし休息。ところで桔久がすっとんで行ったけど、何かあったのか?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
 ゆるりと首を横に振って、瑚蝶は桟へ寄った。

 柔らかい陽射しが降り注ぐ庭園には、春の風景が溢れていた。
 一面に敷かれた眩しい新緑の絨毯には、傍食(カタバミ)の黄色い色が散っている。艶やかな緑葉の中の薄紅色の石楠花(シャクナゲ)の蕾は、徐々に開花を始めたようだ。蒼空に向かって大きく枝を広げ葉を揺らす針塊(ハリエンジュ)も、じきに白く甘い芳香をふりまく準備を始めるだろう。

「その傷は……どこで負ったのです?」
 劉王の計らいで季節ごとに姿を変える内苑を眺めながら、瑚蝶は問い掛けた。

 気泡のような光の玉が揺蕩うゆるやかな流れをつくる小川の上を、二羽の白い蝶が舞い踊っている。じゃれ合うように螺旋状に弧を描きながら、空へ――。

 答えのかわりか、邦昌が短く息をついた。瑚蝶は続ける。
「北の都と……そうおっしゃいましたわね? ここから北を目指せば、やがて辿り着くは吉京(きっきょう)陛下の治める西崘せいろんの国。しかしその弟君で在らせられる阿榑(あくれ)様は、劉王の無二のご心友。その配下を斬りつけるなどという物騒なことはなさらないでしょう。……そういえば、西崘の北部は今だ()の国との燻りがあり無法地帯だとか。先の戦で勢力を失ったといえど、四大帝国と謳われていた時代には、祖こそが“ 北の都 ”に相応しい強国だったことでしょうね」
 色香の漂う涼やかな目元を細めて視線を送れば、邦昌が憮然とした顔つきになって瑚蝶を見た。そして観念した様子で大きく溜め息をついた。
「わーったよ、わかりました。まったく勘のいい女だよ……さすが劉王の寵姫」
「誤解を招く呼び名はやめてください。それよりも……五日ほど姿を見かけないと思っていましたが、やはり祖へ密偵に? 何か不穏な動きでもあるのですか?」
「……ただの偵察さ。お前さんが気にすることじゃねえよ」
 桟から下りて、邦昌が瑚蝶の隣りに立つ。まだ少年の余韻を残す細面の横顔を瑚蝶は見上げた。内苑に目線を注ぐその面持ちは、言葉とは裏腹にどこか憂慮の色が漂っているように見える。
「……戦になるのですか」
 一抹の不安が瑚蝶の胸を過ぎった。
「……そういう世だろ。心配すんなって、そんな簡単に戦は起きんよ。三国の結束の強固さに、諸国は恐懼してる。負け戦と知って地雷を踏む馬鹿はいない。それに、いざそうなったところで劉王が黙って屈するわけがないって」
 視線を伏せた瑚蝶を励ますように、笑みを含ませた声で邦昌は言った。しかし吐息をもらしながら、瑚蝶は静かに首を横に振った。
「そうでしょうか……近頃の陛下は目に余ります。供も連れず都へ下りたり、突然野駆けに行くなどと。あの回遊癖も困ったものです、誅易将軍に同情いたしますわ」
「……ただの戯れだと?」
「ほかにどう解釈するのです。あの方の酔狂ぶりは今に始まったことではございませんわ」
「あのお方は人一倍、自分に忠実なのさ」
「……どういうことですか?」

 花の香りを乗せた微風が、二人のいる回廊を包み込む。穏やかな風の手が瑚蝶の長い黒髪に差し込んで、ふわりと後ろへなびかせていく。

「確固たる自らの意志で采配を揮うおつもりなのさ、位や権力で誤魔化すことなく。利己的な振る舞いはその一環だよ。それが先帝の訓示でもある」
「劉王のお父君の?」
 邦昌が浅く頷く。少年の影を残した横顔に、ふっと大人びた微笑が広がる。
「『民の声から、見聞を広めよ』それが先帝が政の定石としていた言葉だ。覇道を良しとせず、権威に傲ることなく、常に民衆の為にと心を砕いておられた。時には憎まれ役も買って――。例え非難され不肖者と罵られようと、結果でそれを覆すお方だった。先帝が即位した頃は、諸国間での諍いが絶えなかったらしい。その中でも大国である麒麟と西崘とは国境問題での揉め事が多発していた。あのお方がもつれた三国間の関係を結び直したおかげで、今の安泰した統がある。何度も自らの足で回国し、武力に頼ることなく和を繋いだんだ。『皇帝は臆病風に吹かれている。だからへつらうことしか出来ない』なんて言う奴らもいたけど、そうじゃない。度重なる戦で物資や兵をとられ困窮していた民の惨状を知っていたからだ。オレは小さな農村の生まれだけど、その武勇伝は聞こえてたよ。婆ちゃんからもよく聞かされた。オレの村が飢饉に喘いでいた時も、見捨てることなく手を差し伸べてくれた。一矢報いたくてオレは武官試験に応募出来る十四になったと同時に上京したんだ。そして初めて皇帝の顔を知った。――驚いたよ。だって、村に物資の支給があった時、幼いオレに桃を差し出してくれた官吏と同じ顔をしてたんだから。先帝の回遊癖も相当だったみたいだぜ」
 まるで知己の友の話をするように、邦昌の声も顔も綻んでいる。だが瑚蝶はそんな邦昌を静かな目で見上げていた。誰もが感心するような偉業を聞いていても、浮かんでくるのは疑惑であった。
「だから劉王はそれに追従していると? 度々城を抜け出すのも、人々の声に耳を傾けるためだというのですか?」
「そうなんだろうよ。お父君もそうしてよく家臣を困らせていた」
「……素晴らしいお話ですけれども、それでは矛盾していますわ」
「うん?」
「民のことを第一に考える良識のあるお方だったら、なぜ……奇襲をかけるなどという蛮行を?」
「瑚蝶――」
 はっとしたように表情を変え、邦昌の声の調子が低まる。それを避けるように、瑚蝶は邦昌から視線を外した。
「武力の行使を潔しとしないのならば、なぜ私の国を?」
 声がわななく。消えない絶望感が、瑚蝶の四肢を走り抜けていく。
「……そういう世だろ。お前さんだってわかってるはずだ」
 冷徹な邦昌の言葉が、突き刺さるように響く。
「だからといって気まぐれに人の命を奪うのですか? 私の国は決して裕福ではありませんでした。父も華美を好む人ではありませんでしたし、贅沢三昧の暮らしでもありませんでした。慎ましく穏やかに暮らしていければよかったのです。けれどそんな小さな願いすら踏みにじられた。私たちがいったい何をしたというのです? そりゃあ大国に立てをつくよりも、小国から取り込んで私腹を肥やす方が簡単でしょう。けれどその一方で、すべてを失い絶望する者がいることをお考えにならなかったのですか。それほど慈悲深い寛容なお方なのでしたら。配下が安泰ならば、それでいいとでもいうのですか……!私にはただの欺瞞としか思えません」
「だが廟国民は路頭に迷うことはなく、統へ迎え入れられた。奴隷ではなく、同じ臣下として。それはあんたも知っているだろう」
「今までと同じ平穏な暮らしが手に入れば、人々は満足なのでしょう。でも私はどうなのです! 何を与えられても望むものはもう戻ってこない! いつまで苦しめばいいの? なぜ私だけ? なぜこんなに空虚な気持ちで一杯なのです!」

―― 一陣の疾風が内苑を吹きぬけた。大きく枝を広げた針塊の枝をさらい、激しく揺さぶって逃げていく。

 はっとして瑚蝶は息を呑んだ。回廊に響いたのが自分の声だと気付いて、血の気がひくほど愕然とした。












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