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  春夢槿花 作者:貴水 玲
【幕間】風の褥[後篇]
邦昌(ほうしょう)、いるか」

 呼び声に、邦昌は休を取っていた木の上で目を開いた。
 枝葉のしなりをばねに、くるりと宙で一回転し地表へ降りる。待ち構えていた主の足元で膝を折り、彼の沓先に留めた視線をくっと持ち上げた。
「居眠りしていたわけでもなさそうだな」
 見上げた先で、精悍な美貌を持つ男が切れ長の黒い双眸を細めた。
 劉閃長恭りゅうせんちょうきょう、統の若き皇帝――親しい者は彼を劉王と呼ぶ。
「北の都からの風に呼ばれまして。……陛下にとって損にはならぬかと」
に、と邦昌は口の端を引き上げてみせた。

”北の都”――それはかつて大陸の北部一帯の覇権を握っていた夷国を指す言葉。先の戦で敗北し、統を含む三国の監視下にある祖の動きを探るのが、劉王の影としての邦昌の役目――己の背任を隠匿するのには何よりも相応しい任務だった。

「盛大な歓迎だったか?」
「それほどでも」と首を揺すって袍の袖をまくり、邦昌は未だ血の滲む生々しい傷跡を劉王に示した。

「血……?」

 劉王の背後から遠巻きに様子を眺めていた少女が、ぽつりと呟いた。年の頃は邦昌と同じ、二十ほど。澄んだ大きな瞳に紅の薔薇の蕾のような唇、輝くつややかな長い黒髪を持つ美しい少女だ。はっとその目を見開き邦昌の元へと駆け寄ると、少女は傷ついた腕を取り上げた。
「どうしたというのですか、これは!」
「――ああ、大丈夫さ、こんなの舐めときゃ」
「治りません!」
 隠すように袖を下ろしかけた邦昌の腕を、少女は素早く掴んで声を張り上げた。可憐な顔立ちとは裏腹のその剣幕に邦昌は面食らう。
「劉王! 邦昌に今度は何をさせてきたのです!」
「あのな、瑚蝶……」
「あなたは黙ってて!」
 至極の宝玉のようだと城で褒めそやされている美姫にきっと睨まれ、邦昌は閉口した。

”こちょう”

 その名を口にするたび、小さな棘がちくりと胸に突き刺さる。己の目的のための犠牲者となるその名前を――
「……誰ぞやの余計事が出たな」
 劉王にひとしきり文句を浴びせて、瑚蝶は邦昌の腕をぐいと引いた。
「私の部屋で手当てをします。逃がしませんわよ」
 振り払う間もなく、ずるずると引っ張られていく。
「え、ちょ……」
 劉王を振り返るが、声を押し殺しながら笑っている。助ける気はないらしいと諦め、邦昌は黙って瑚蝶の居室へと連行されていった。

* * *

「いってぇっっ!」

 寝台の上で邦昌は飛び上がった。引っ込めようとしたその腕をぐいと引き寄せて、瑚蝶が呆れ顔で白い包帯を巻いていく。
「そのくらいで何を。皇帝の隠密を務める男が」
 眉を寄せ、邦昌はぐっと息を呑んだ。
 気を抜いた途端、痛みが一気に押し寄せた。思ったよりも深く傷つけていたのだろう。間抜けさに自嘲して、手当に専心している瑚蝶を見た。
「……あのな、念のため言っておくけど、これのことはオレがただしくじっただけで」
「わかっています」
「へ?」
 きっぱりと頷いた瑚蝶に、邦昌は眉をひそめた。
「いいのですよ、あの方に何を言っても同じことなのだから。どんな空言を言っても、咎めの言葉は返ってこない……」
 瑚蝶の表情が翳る。
 胸にしまっている多くの深い哀しみが儚げな美貌に浮かび上がる。

 自国を失い、瑚蝶はこの城にいる。
 あの女によって仕組まれたことだとも知らず。
 劉王が家族を殺し国を滅ぼしたのだと憎み、心を閉ざしている。
 朱麗が実の叔母であり自分を狙っていることも、
 その懐から放たれた毒蛇が目の前にいることも、何も知らないで。

「……お前さんも酔狂なこった」
 瑚蝶は劉王に惹かれている。強く、強く。
 でもそれは禁忌だと、必死に押し殺している。今にも壊れそうな硝子の篭の中で、傷つかぬように自分を守っている。

―――だがこの少女の運命もまた、あの女に翻弄され汚されていくのだ。


 そしてこの手が、彼女の無垢な思いを引き裂くのだ――



ザアッ


 歯を食いしばって邦昌は走り出した。
 枯れ野を蹴散らし、沈みゆく陽に向かって疾駆する。黄昏がゆっくりと空を金朱色へ塗り変えていく。
 背後に聳える梓宮の影が、足元から消える場所を目指して。
 遠く、遠く、遠く――速く。

『今までと同じ平穏な暮らしが手に入れば、人びとは満足なのでしょう』

 花の香りを載せた風の中で瑚蝶が言った言葉が、脳裏に流れてくる。

『でも私はどうなのです。何を与えられても望むものはもう戻ってこない! いつまで苦しめばいいの? なぜ私だけ? なぜこんなに空虚な気持ちでいっぱいなのです!』

 はっとした瑚蝶の顔に、自分が重なった。
 同じ、同じなのだ。
 空虚さにとりつかれているのは。
 自分が叫んだのかとうろたえた。激しく揺さぶられた。
 知っている、この苦しみを。なのに――

 これ以上奪おうとしている。


 遠くの雲の隙間から伸びる赤光の階が、槍のように大地に突き刺さり地平線を燃え上がらせる。目を焼かれそうなほど激しく紅く、まるで戦火のように。その中を邦昌はひたすら走り続けた。
 逃げてしまいたい。この身体に染みついた裏切りのにおいが消えるまで。
 汗ばんだ額を夕風がさらう。
 短く切れる息を吐き出しながら、錆びたように黒ずんでいく天を仰いだ。

――なぜ……!

 こんな姿で生きなければならない?
 泣きじゃくる妹の姿が見える。自分を呼ぶ声が聞こえる。
 助けたい。救ってやりたい。でも――

 何かを得るためには、なぜ何かを失わねばならぬのか。


「……っ」
 まだ短い草の中に邦昌は崩れるように倒れ込んだ。
 荒い呼吸を繰り返すたびに、冷たい土の匂いが鼻腔を満たす。

『強くなれ。大切なものを守れるように』

 そうありたかった。
 清く真っ直ぐな心で先王あのかたの坐す場所を見上げたかった。
 もう今は、その言葉を懐かしむ資格さえ自分にはない。
 裏切るために側にいるのだから。
 何かを守れても、かわりに多くのものを傷つけてしまう。
 本当はもう、あの人の眠る場所に行くことさえ――浅ましいことなのだ。


 風になりたい。
 自由な風に――

 なにもかもなくなればいい。
 この身体も。絡み合う思いも。
 目を閉じて、胎児のように邦昌は身体を丸めて抱え込んだ。



 夜が明け、朝がくる。
 闇から光へと世界が導かれていく。
 昨日の傷跡は乾いて黒ずみ、
 再び赤い傷跡が増えていく――







 霧のように柔らかな朝陽が静寂の庭院に降り注ぐ。膝を折り邦昌は白い墓碑を見上げた。
 数え切れないくらいこうして眺め、語りかけてきた。
 だが本当は間違っていることもわかっていた。葛藤を抱えて毎朝この場所へ来ていた。
「……陛下」
 声は、聞こえない。何も響いては来ない。
 もうこれで、ここに来るのは最後にすべきかもしれない。だが大きな迷いが邦昌にのしかかる。
 この場所は小さな安らぎであり、本当の自分でいられる唯一の場所だった。本当は失いたくはない。でも――
 包帯布の巻かれた己の腕を邦昌は見下ろした。
「――ほう、先客がいたか」
 涼やかな声音に、邦昌は背後を振り返った。
 霊廟への小道の始まりから若い男が歩いてくる。紫の地に銀糸の龍が走る美しい袍を纏った高貴な姿に、邦昌は目を細めた。
「……劉王」
 しまった、と邦昌は後悔した。
「まさかお前がいるとは思わなかった」
 切れ長の双眸がふっと笑みを含む。香の匂いがふわりと漂った。
「……申し訳ありません、王族しか許されぬ場所に不法に侵入を。言い訳はしません」
 小さく息をつき、邦昌は両手を上げた。
 劉王が時折朝議の後にここへ訪れることを邦昌は知っていた。だからいつもその前に立ち去るようにしていたのだが。
「いいさ。どうせ普段は俺しか来ない場所だ。父も目新しい顔があったほうが喜ぶだろう」
 咎める気配もなくすたすたと墓前に向かい、劉王は丁寧な一礼をした。
「……極刑では?」
 探るように邦昌は劉王の整った横顔を見た。
「墓荒らしに来たわけではないだろう? ただ死者を悼みに来ただけなら、何の問題もない」
 好きなだけいればいい、と言われて邦昌は呆気にとられる。

――変わった人だ。

 だが、似ている。顔形ではなく、物腰や声や取り巻く空気――そういった要素が劉王は昇公によく似ている。
「――父が好きだったか?」
「え?」
 劉王が邦昌を見た。
「お前は父に、思い入れがあるように見えたんだが。地方視察の際に会ったことがあると言っていたな」
 唐突な質問に浮き上がりそうになった動揺を、邦昌は押し戻した。
「……ええ、一度だけ。オレの村に救援物資を送ってくださった時に」
 見透かすような劉王の目に囚われるのを避けて、邦昌は白い墓碑に視線を向けた。
「黙って玉座にいるような人ではなかったからな。常に己のまなこでこの国や民を見ようとしていた」
 廟の前で劉王が膝を折った。

――なぜそんな話をするのだろう。

 昇公とのことはほとんど人に話したことはない。どこで耳にしたのか。
 時々劉王にはすべてを覚られているのではないか、と思うことがある。本当は何もかもお見通しで、わざとそ知らぬふりをしているのではないかと。
 感情の機微を決して見せてはならぬ。自らに暗示をかけ、傍らに身を置いても心は切り離してきた。
 
 だが時折戸惑うことがある。
 この若き王の中に宿る懐かしい面影が、ふいに甦る瞬間に。

「今朝は土産を持ってきましたよ、父上」
 袖の下から劉王は一本の枝を取り出した。
「……それは?」
 紫衣の背中越しに、劉王の手元が見えた。花の枝のようだった。だが小さな蕾がいくつかついているだけで、供え物には貧相な一品だ。
「李花だ。父はどうしてか、蕾が一番好きでな。咲いた花の落ちるさまを見ると心が痛むなどと感傷的なことを」
 くすりと笑って劉王はその枝を、そっと墓前に手向けた。
 李花。
 甘く軽やかな芳香が鼻先を過ぎた。あの日の記憶が戻ってくる。

「……桃をくださいました」

 ぽつりと言葉がもれた。
 朝風が、始まりの陽を呼び起こす。庭院を囲む木々の輪郭が、その光を受けてゆっくりと輝き出した。
「好きでした、とても……あの方が」

 とても。
 あの温かく大きな手が。

……変えようのない真実。これだけは、偽りの言葉で飾りたくはない。
 例えこの身に流れる血が黒く濁ってしまったとしても、無様な最期をとげたとしても、きれいな結晶のまま残したい。本当の“自分”が生きた証として。
「……それでここに。また声が聞こえるのではないかと思って。でもまさか、オレのような下賤の者に陛下のお声が聞こえるわけはないです」
 何を話しているのだろう。馬鹿だ。だが溢れそうになる。
「そうか?」
 立ち上がり、劉王が天を仰いだ。
「では、この風に聞いてみるといい」
「……風?」
 劉王追って邦昌も目線を上げた。頭上から降りる微風が前髪を揺らす。やさしくついばむように。
「実を言うと、父の亡骸はあの墓の下にはない」
 劉王が霊堂を顧みる。邦昌はわずかに目を見張った。
「あるのは遺品だけだ。焼却して遺骨は白高の丘から捲いた。都を一望できる場所に――というのが父の最期の願いだったのでな。異例のことだったが」
 鳥のさえずりが明け空を渡っていく。両翼を大きく広げて自由に飛び回る。
「風になりたいと、父は言っていた。この大地に吹く風となって見守り続けたいと」
 人々が安らかに眠れるように、健やかに生きられるように。
「そうして望みは叶った。どこを回遊しているのかはわからないが、時々ここにも来る」
 そんな気がするだけだが、と劉王は口元に薄く笑みを浮かべ、「先に戻る」と言って来た道を歩き始めた。

 風に、なりたい。
 自由な風に―ー

 遠ざかる沓音を聞きながら、邦昌は空から目を離せずにいた。

――陛下……。

 本当にここにいるなら。目を閉じて、息を吸い込んだ。

――オレの声が……聞こえますか?



 吹き付けた一陣の風に、邦昌ははっと目を開いた。

 四肢を通り抜け再び空へと昇って行く。
 真っ直ぐに両腕を伸ばし旋廻していた鳥が、煽られて舞い上がる。
 天上を目指して、高く高く。
 この大きな殻を突き破り、新しい世界へ向かうために。


 邦昌の胸が熱くなる。
 慣れない苦い味が喉の奥からこみ上げた。



――今はまだ、汚れたまま生きていく。

 でももし、赦される日がくるなら。

 震える唇を、邦昌は噛み締めた。



 その慈しみ深き風に包まれて、眠ることが出来るでしょうか。
 あなたの声をもう一度――



 聞くことが出来るでしょうか。





 やがて果てしなく澄んだ蒼穹の彼方へ、小さな鳥の影は吸い込まれていった。








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