【弐拾九】 絆
壁際に蹲るように座り、阿榑はなすすべもなくただ常闇を見つめていた。
どれほどの時が経過したのだろうか。視界はすっかり漆黒の世界に慣れ、暗闇の動く様子まで見て取れるようになっていた。
闇は蠢動するのだ。何百何千の蟲が這いずり回っているように。
途絶えることなくそれらは溢れ返り、大気を蝕んでいく。
虚しい抵抗にも疲れ静寂に深く馴染んだ体や目も、闇の触手に侵食されていくような気がした。いやもう始まっているのかもしれない。このまま二度と光に出会えず、じきに生きている心地さえしなくなるのだ――
膝の間に顔を埋めて阿榑は固く目を閉じた。常時の己ならば浮かぶはずもない脆弱な考えだった。
――兄上は……無事なのか。
確かめられないもどかしさが増していく。
何も、何もわからない。
その後ここを訪れたのは食事とはいえない粗末なものを運んできた兵士だけだ。だが問い掛ける間もなく椀を放り込んで兵士は去っていった。
列氏の立ち去った後、格子を破ろうと足掻いたが空手ではなす術はなかった。この手だけでは、この声だけでは無力でしかないことを阿榑は知った。
誇りも、強さも、権威も、己だけに天与された特別なものだと思っていた。容易く奪われるはずのないものだと。
だが今己の手には何がある?
目の前には何がある?
空は、無だ。
闇は、無だ。
常時傍にいる兄や家臣らは今はいない。燭台の灯りさえ傍にはない。
孤独、というものを阿榑は初めて知った。
何百という賊の首を狩り、返り血を浴びても恐ろしいと思ったことはなかった。使命感に燃え、その熱が絶えることはなかった。
だがうずみ火さえ、今は見つからない。
煤と化し、飛び散ってしまった空の火床のように冷えきっていた。
――どうすればいい。
こうして切歯扼腕している間にも、状況は深刻化していく。
祖は西崘を利用して覇権を取り戻すつもりなのだ。統、愾麟の関門を襲撃し、二国に離反したと見せかけて――
二国は歴史ある大国だ。そう容易く侵攻を許すことはないだろう。だが不測の奇襲に即応出来る兵力がどれほどあるものか。
ましてや西崘の軍が完全に掌握されれば、祖は莫大な兵数を持つことになる。間に合わせの軍備では戦力は伯仲とはいかぬだろう。
だが、一度嚆矢が放たれればもう戦いを止める手立てはない。
戦が始まる。
秩序は瓦解し、三国の王たちが築き上げてきた平穏は瓦礫の下敷きと成り果てる。
それこそ、阿榑のたった二本の腕ではどうにもならなくなるのだ。
絶望に圧されるように、阿榑は体を抱え込んだ。
――劉閃……黎青……。
二人のかけがえのない友の顔が浮かんでは過ぎていく。
きっと救い出してくれる、などと願うのは愚考であろうか。
『――信じろ』
急に生前の父の言葉が耳の奥を掠めた。
『我々三国を繋ぐ絆は血よりも濃く、この命よりも永遠なる堅い契りだ。忘れるな、互いを信じることを――さすればお前が困難に陥った時、この約束が必ずや救いとなってくれるだろう』
こんな風に都合よく思い出したのは、すがりつく希望を求めているからだろうか。
絆は永遠に受け継がれていくものだと父は言った。お前たちの中に息づいていくものだと。
――だから信じて待てと?
強く望んでいるが、あさはかな夢に思えた。
目の前にあるものこそ、真実ではないか。
彼らもそれを信じて措置をとるだろう。
誰がその裏にある陰謀に気付くというのか。
永久に切れぬ糸など、本当にあるのだろうか。
どんなにきつく結んだ紐帯とて、いつかは解けてしまう。
見えぬものを信じるのは、足元の見えぬ闇の中を歩くようなものだ。
――だが、今の阿榑には他にすがれるものはなかった。どんなに細く脆弱な糸だとしても、他に思い浮かべられる顔などなかった。
願いは一つだけ。
たった一つだけ。
引き合う絆が生きているのなら、どうか応えてくれ。
請えというなら、膝をついて祈ったっていい。
「兄上……」
救いたいと切望するのは己の命ではない。失いたくないと願うのは、栄光や権威ではない。
この世にたった一人のかけがえのない家族。
母を亡くし、父を亡くし、二人きりになったあの日。あの日、阿榑の中に固い決意が生まれたのだ。
兄を支え、守ることに身命を捧げると。
淡雪のように繊細で儚く、春の芽吹きのように柔らかで温かい笑顔を守るのだと――
――気を確かに持て。
憔悴しかけている己を戒めるように、阿榑は体を抱え込む両腕に力を込めた。
考えろ。考え尽くせ。
体中に張り巡る神経やあらゆる機能を酷使してでも、ここから抜け出す方法を――
目を閉じて意識を集中させようとしたその時だった。
「……!」
針で突かれたように阿榑ははっと両目を開けた。
何か、物音がした。
伏せていた面をふっと浮かせる。
カタン……カサ……
顔を跳ね上げ、阿榑は周囲に首を巡らせた。
「誰か……いるのか?」
深々と降るような静寂に向かって、阿榑は問い掛けた。
「瑚蝶様、兼聞様がお見えになりました」
桔久が梓宮お抱えの漢人、兼聞の来訪を知らせにきたのは、劉王が部隊を率いて出立してから漸く半日たとうかという頃だった。
居房の窓辺に寄り添い春の盛りを見せる風光明媚な内苑を眺めていた瑚蝶は、侍女の声に房の入り口へと首を巡らせた。
「まあ、兼聞様。いらせられませ」
お茶を淹れて来ます、と立ち去った桔久と入れ替わりに戸口に姿を見せた老翁の姿に、瑚蝶は卓子から立ち上がった。
「ご機嫌麗しゅうございます、瑚蝶様。上質の綾が入りました故、ご献上させて頂きたく、ご尊顔拝しに参りました」
ゆったりとした所作で跪座し、兼聞は瑚蝶に深々と拝礼した。
「兼聞様、そのように畏らず……どうかいつも通りに接してくださいませ」
あまりに慇懃な挨拶に瑚蝶が戸惑いを見せると、豊かな銀髯を携えた仙人のような風情の男はにこやかに面を上げた。
「そうはいきませぬ、未来の皇后陛下の御前でございます故。――ほほ、これは深朱がなんとお似合いになることか。統の貴色は“永代の旭陽”を意味する尊き紅にございます。皇帝の栄華と光輝を称える英雄色も、瑚蝶様が纏うと優しく温かなお色味になりますな」
深い朱色を貴重とした瑚蝶の衣を見て、兼聞が喜色を浮かべて頷く。温柔な人柄がにじみ出たその表情に、瑚蝶の気持ちもやんわりと和んだ。
「はてさて、珠玉よりも美しい正妃様にお気に召して頂ける逸品があるかはわかりませぬが−−まずはお目通りをお許し願えますかな」
兼聞の合図に従って、背後から蓋つきの籐篭を抱えた少年が進み出た。窓辺近くの円卓に運ばせると、兼聞がその蓋を取った。
「いかがでしょうかな」
春花を映したかのような、ふんわりと優しい色彩の波が瑚蝶の視界に溢れた。
「なんて綺麗な色……。兼聞様の綾布はいつも、桃源郷にいるような心地にさせてくれますわね。見ているだけで幸せになるような」
「ありがとうございます。最上の褒め言葉にございます」
感嘆の溜め息を零した瑚蝶に、兼聞が頭を垂れた。
「瑚蝶様の為に誂えたものにございます。どうぞお手にとって出来の程をお確かめくださいませ」
明けの明星が残る頃の、幽明の入り混じる空に似た青紫の薄布を、瑚蝶はそっと掬い上げた。ふわりと肩に回しかけ、その感触を確かめる。幼子の肌のような滑らかな触り心地がしっくりと手に馴染んでいく。
「柔らかくて、風に抱かれているみたい。とっても気に入りましたわ。ありがとうございます、兼聞様。−−それとも陛下に言うべきかしら」
兼聞が白眉に隠れそうな小さな目をわずかに瞠る。だがすぐに細めて、ほほほと銀髯を揺らした。
「ばれておりましたか。陛下からのご拝命だと。いやはや、さりげない訪問を心がけたつもりでしたが、見破られてしまいましたな」
「劉王が留守の間に兼聞様がいらっしゃることは今まで一度もありませんでしたもの。それに、あの方のお考えが近頃よくわかるんです」
まるで内証の悪戯を見つけたように楽しくなって、瑚蝶はくすりと笑った。兼聞に椅子を勧め、自らも再び腰を下ろした。
「少しでもお気が紛れるようにとのご配慮でございましょう」
「でも出立からやっと半日というところですのよ。もう私が寂しさを持て余しているとでも思ったのかしら」
自惚れてるわ、と続けようとして瑚蝶はちりり、と走ったわずかな胸の痛みに気付いた。
「ほほほ、陛下は瑚蝶様のことが気がかりで仕方がないのでございますよ。ましてやご自分が留守となれば、杞憂が晴れぬのでしょう。五日に一度お伺いするようにと仰せつかっております」
「まあ、呆れた」
そんな素振りは一向に見せぬくせに。まるで子離れ出来ない親のようだ。
瑚蝶はくすくすと笑った。だが同時に泣きたいような気持ちが募ってきて、慌てて押し伏せた。
「殿方は」
薄布を巻いた肩から腕にかけて、瑚蝶はゆっくりと指を滑らせた。
「美しいものを与えておけば、女は満足だと思ってらっしゃるのかしら」
指の動きに合わせて視線を下げる。籐篭の中の、煌びやかに染めた薄雲のような綾が目に映った。
「側にいたくとも居れない時の手立てでございますな。何時だって愛する者のことは気がかり故……何か慰めを考えずにはいられないのでしょう。せめてご自分の思いを置いていかれたいのですよ」
「……物などでは間に合わないこともあるのに」
おのずと唇から零れ落ちた言葉に、瑚蝶ははっとして顔を上げた。言わずに過ごそうと思ったことを、うっかり口走ってしまったのだ。
「いえ、兼聞様のご来訪はとても嬉しいのです。こうして美しい綾を頂けるのも−−」
「わかっておりますよ。陛下がお傍にいることが何よりでございましょう。私めの綾など足元にも及ばぬ、至高の贈り物ですな」
「け、兼聞様」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた老士に、気恥ずかしくなって瑚蝶は俯いた。
「こうしてお心を割いて頂けるだけで、感謝しなければならないのです……私が今生きていられるのは、あの方のおかげなのですから。でもそれすらまだ満足に伝えられていない。……我儘を言える立場ではありません……でも」
思いのこもった贈り物は心を満たしてくれる。だが、それも一時だ。
増えれば増えるほど、待つ時間の長さを思い知るようになるだろう。
王に愛された者だけに与えられる風雅な宮の佳景も、慰めにならなくなるだろう。
この身をいかに華やかに着飾ろうと、心に衣はかけられぬ。時間がたつほどに募りゆく恋しさは誤魔化せない。
気丈であれと自分に言い聞かせるたびに、身が細っていくような気がした。刻々と過ぎてゆく時間に切り刻まれていくように。
「やはり求めてしまう私は……我儘なのでしょうね」
本当に、いつからこんなに弱くなったのだろう。
愛する気持ちが育っていくほどに、苦しくなる。
あの時思わず言ってしまいそうだった。
簪ではなく、私を連れて行って−−と。
「別離も天の采配とお思いなされ」
穏やかな兼聞の声が瑚蝶を離愁から引き戻す。
「遠く離れて想いあうことも、お二人の絆を深める偉大な時間となるでしょう。お二人の絆は、統の未来を担うもの。そして他の者たちにとって希望の光なのです。まだ若い二つの心が固く結ばれ、揺るがされることがないようにと天が取り計らったことに違いありません。どんな艱難にあっても、乗り越えられるようにと」
にっこりと兼聞は微笑んだ。
「そのような沈んだ顔をなさいますな。三年もかけてやっと引き寄せた瑚蝶様のお心を、陛下がお離しになるはずがありませぬ。お父君に似て、陛下も一途なお方でございますから」
瑚蝶は驚いて目の前の見目柔らかな老夫を見た。求めていた物が目の前に差し出されたような気分だった。
城に上がるのは数えても年に数回あるかないかだというのに、兼聞はいったいどこまで知っているというのだろう。先帝の代より知遇されているという理由は、もしかしたら綾織りの腕だけではないのかもしれない。
だが人選は間違ってはいない。
今はこうして 励ましてくれる者が、瑚蝶には必要だった。
「ありがとうございます、兼聞様」
どこにいても繋がっている。それを信じよう。
それがまず出来なければ、何も始まらない。
「お茶をお持ちしましたよ〜。わあ、また今日は一段と素敵な綾ですねっ! 窓から見える景色を染めたみたい!」
茶器を持った桔久が弾んだ足取りで入ってきた。ぱっと大きく輝いた目に、瑚蝶と兼聞は顔を見合わせて目笑した。
窓から忍び込んだ飛花が、篭の綾の上にふわりと舞い降りた。
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