【弐拾七】 叛 心
『貴方を守る。例え冷酷な殺戮者となろうとも、この命の限り』
闇が切り開かれた時、阿榑の目にまず映ったのは冷たい石床であった。
渇いた咳が押し出されたと同時に、呼吸を思い出す。意識は妙にはっきりしていた。
――そうだ、後ろから殴られて……。
うつ伏せになっていた上半身を両腕を支えに持ち上げれば、ずきりと鋭い痛みが後頭部に走った。
おそらく剣の柄での一撃だったのだろう。激烈な衝撃だったのを覚えている。
背後から起き上がった兵の存在を察知出来ぬほど、放心していたのだ。
形振り構わず剣を振るい、次々に襲い掛かってくる兵士たちを叩き潰したが、すべてを斬り捨てることは出来なかった。慣れ親しんだあの、青銅色の甲冑が何故自分に襲い掛かってくるのか――激しい動揺が阿榑を怯ませた。
――ここは、どこだ……。
無数の手に掴まれたように四肢のあちこちが痛み出したのを堪え、阿榑は起き上がった。
静寂に満ちた周囲に目を走らせれば答えはすぐに見つかった。
正面に影を並べて揃い立つ鉄格子を睨みつけ、阿榑は奥歯を噛み締めた。
「く……そ……っ」
意識を失ったと同時に手放したはずの怒気が舞い戻り、唐突に膨れ上がった。
「くそうッ……!! ふざけやがって!!」
突き破る勢いで鉄棒に掴みかかり、両拳で殴りつける。鈍い金属音が石室に反響し、檻の向うに広がる暗黒に吸い込まれるように消えた。
辺りに人気がないならば、どこにも届くはずはない。
地下牢獄は罪人の嘆きや苦悶が漏れぬよう、石壁は厚く回廊は暗闇に塗り潰されるほど長い。無明の深淵のようなものだと阿榑は知っていた。
「こんなところで立ち往生してる場合かよ……!」
頑強な鉄柵は阿榑の殴打にもびくともしない。腰に手を伸ばしたが、剣はおろか剣帯すら着けていなかった。
「この間にも兄上はっ……」
心が焦燥に囚われる。
赤黒い染みが無数に飛び散る己の夜着を見下ろし、阿榑は唇を噛み締めた。
――あれからどのくらいたったのかはわからない。
だが城に異変が起こったのは、まだ薄らかな夜の帳が降りていた未明のことだった。
血相を変えた番兵が阿榑の臥床へ飛び込んで来たのだ。
内紛だ、と――
枕元の太刀を取り、阿榑は夜着のまま部屋を飛び出した。
そしてそこで見たものは――自城の兵士達が殺し合う姿だった。
暁闇の中に、血飛沫が迸る。
何かに憑かれたように男達は喚声を上げ、同胞達を斬り捨て血溜りに沈めていく。
おぞましい光景だった。
まるで夜の秘めたる狂気が牙を剥き、悪夢を具現化させているように――。青藍の毛氈の敷かれた回廊には、死屍が累々と続いていた。
なぜ城を守るはずの者達が蜂起したのか。
なぜ主であるはずの自分に刃を向けるのか、わからなかった。
だが考えている暇はなかった。襲い掛かる逆徒の攻撃を振り切り、阿榑は玉座の間に急いだ。
王の寝間は玉座の間の裏にある。急務に備え、先代王が後宮のある奥宮から移したのだ。
だが、阿榑が辿り着いた時にはすでに扉は破られた後だった。
そして広間に押し寄せていたのは――見慣れぬ黒い甲冑の軍勢だった。
その中から進み出てきた一人の男が阿榑を見て何かを叫んだ。
目を、疑った。
にやり、と笑った男の左右から青銅と黒の鎧の群れが濁流のように阿榑へと雪崩れ込む。
血濡れた剣の柄を握りしめた。
身体中が熱くなり、目の前が赤く染まり、闇雲に剣を振るうことしか思いつかなかった。
そして、
目の前で、扉は固く閉ざされたのだ――――
「兄上……っ」
おそらく兄の吉京はあの中に囚われているのだろう。
教育顧問の愁走海や他の侍臣らの安否もわからない。
――どうすればいいのだ!!
逼塞したこの状況では、わずかばかりの冷静さも流水の如く流れ出ていく。
「くそうッ!!」
立ち塞がる格子をもう一度殴りつけ、阿榑は石室の壁を力任せに蹴り飛ばした。
「――これはこれは、威勢のいいことですな」
不意に聞こえた声に、阿榑ははっとして鉄格子を振り返った。
少し先の闇の中、右手の方から松明の明りと幾つかの足音がやってくる。やがて四方の壁を 伝って忍び寄る足音は檻の前で止み、松明の炎が掲げられた。
「まだ半刻もたっていないというのに、お早いお目覚めですな。さすが剛強なお方だ」
揺らめく一対の明りの間から進み出てきた一人の男を、阿榑は苛烈なまでの目顔で睨みつけた。
「列氏……!!」
酷薄な薄笑みを浮かべて鉄格子の前に立っているのは、兄の片腕であり、臣下の中で最も信頼を得ているはずの男だった。
「貴様……! 仮にも宰相の身で一体これは何の真似だッ!!」
鉄棒の隙間から腕を突き入れ、阿榑は最高位を示す官服の胸倉を掴んだ。
男の両脇を固める黒い甲冑の男達が、阿榑を引き離し戟の先を向けてくる。男がそれを制止した。
「やれ、一番上等な石牢を選んだのですが、寝心地が今ひとつでしたかな?」
「ふ……ざけるなッ! 答えろ列氏!! 父代からの忠臣であるはずのお前が、なぜ不義を働くッ!!」
体勢を立て直し、格子を乱暴に掴む。その向うに立つ豊かな黒い口髭を携えた初老の偉丈夫は、嘲笑めいた笑いをふっと漏らした。
「……確かに私は先帝に忠義を誓い、西崘に尽くして参りました。この国と身命尽きるまで共にあらんと」
「じゃあこれが貴様の忠誠の証だとでも? ――ふざけるな!! ここから出せ!! 」
獰猛な獣の如き勢いで鉄柵を揺り動かし阿榑は叫んだ。再び戟の先が、鉄格子の合間から阿榑に狙いを定める。
「それは出来かねます。殿下には暫しここでお待ち頂かなくては。――最後の時が来るまで」
「な……に!?」
「数日の内に我が国の精鋭軍と祖軍が愾麟、統の関の門を開くでしょう。病から国王は乱心、二国への不信感から同盟を破棄し祖軍と手を組み宣戦布告。しかしその罪責に耐えかねて皇太子殿下は国王を殺め、ご自分も命を絶たれた」
「な……にを言っている」
驚愕が憤りに勝る。格子に手をかけたまま、阿榑は駭然と列氏を見た。左右に立つ兵士の黒い甲冑が視界の端に映り込む。三国どの国の軍の物ではない異色――広間を埋め尽くしていたあの軍勢はまさか――
「祖、だと……祖と通じていたのか……! 貴様、国を乗っ取るつもりか!!」
「“再生”と言って頂きたい。新しい王を迎え、本来の西崘を取り戻すのですよ。嘗ての軍事大国としての姿を」
「血迷ったか列氏……!! 何を言っているのかわかっているのか!!」
「気は確かにございます」
色をなした阿榑の怒号を浴びながら、列氏は少しも居を乱さずに冷静に答えを繰り出す。口調は以前と変わらず丁寧極まりないが、どこか傲慢な響きがあった。
「すべては国の御為なのですよ、皇太子殿下。嘗て我が国は大陸一の軍事国家でありました。長きに渡り夷国と恐れられてきた祖の鎮圧を成し遂げたのも、鋼の兵団と異名をとった我が軍とそれを率いる勇君があってこその功績。お父上は実に優れた統率者でございました。このお方ならば天下も掴めると――しかしその大志は仕舞い込まれ、今となっては見る影もない。同盟という囲いの中で安逸とし、軍も縮小、山賊討伐にも手こずるようになるとはまさに強国の恥。これは単に指導者の劣故。――繊弱な王の細腕では舵取りは無理なのです」
「兄上を愚弄する気かッ!! 兄上の尽力で西崘は泰平無事に治まっているんだ! それが不満だとでも言うのか!!」
爪が手の平に食い込むほど強く阿榑は格子を握りしめた。今すぐ目の前の弐臣の首を圧し折りたい衝動が激しく身躯を駆け巡った。
「安寧がいかに危険なものなのか、貴方様はご存知ないのです。力ある者こそが生き残り、弱者は滅びる。これが世の常。脆弱な王に行く末を託し滅びる日を待つなど誰が望みましょうか。我が国の強靭さを存分に他国に知らしめ、真の泰平をもたらす新たな君子が必要なのです」
「だから蛮族に自国を売るだとッ!! ……先の戦でなぜ祖が滅びたと思う! 侵略と破壊しか知らぬ愚者だったからだ! それが過ちだと気付けなかったからだ! なのに貴様は西崘にその愚か者になれと言うのか! 侵略で得た平穏など誰も望みはしない!」
「お言葉ですが皇太子殿下、何も私だけの意思ではないのですよ」
「何……!?」
「多くの者が意を同じくしているのです。貴方様も御覧になったでしょう、その結果を」
脳裏に鮮血に染まった城内が甦る。
――あれは悪夢だ。夜の残した幻だ。振り切るように、阿榑は頭を横に振った。
「皆が……兄上を廃することに賛同したと……? ほざくな! 高潔な西崘の臣が自らの意志で売国奴になるわけがない! 慙死に値する行為だッ! どうやって篭絡した!」
「ほほほ……実に容易きことでしたよ。なに、それなりの代償を示せばいいだけのこと。国防を賄う兵の大半は俸禄目当ての傭兵、喜び勇んで手の裏を返しましたぞ。軍兵も同じこと、欲の前では人心など一溜まりも無い」
列氏が口角を引き上げた。徳と叡智を映していたはずの男の顔には、醜い欲心の影が浮かび上がっていた。
『買身です』
その時思い出したのは、いつかの愁走海の言葉。自らを金銭と引き換えに売り、国賊となる者達がいると――
阿榑の中の途切れた疑念の糸が、一本に繋がった。身体中の血が沸き立つように全身がかっと熱くなった。
「貴様が買身の糸を引いていたのか……そんな金財をどこで……! 国庫は兄上が自ら所管しているはずだ!」
「……国帑には手をつけておりませぬ。先々必要となるものですからな。祖の徒党共が張蛾一族と名乗り山賊に身をやつしたか、真の理由がおわかりですかな? 安嶺山、行路山、魯神山、それらには昔豊かな金の鉱脈筋がありました。もう枯れ果てたと判断され閉鎖されましたが――新たに発見された筋がありましてな。少しずつ祖王のおわす慶頂へ運ばれていたのです」
闇の画紙の上で松明の炎が慄くように大きな波を描いた。阿榑は目を見開いた。
「張蛾は囮か……? 私利を肥す間の……」
それでは自分は何をしてきたのだ――阿榑は愕然とした。
ただの兵糧目当ての賊軍、駆逐すればすべて済む――そう思っていた。だがそれでは思う壺だったということか。
「諸侯や他の重臣達も……買収したというのか!?」
「残念ながら、退嬰の風に吹かれた老輩共には最早何の価値もありません。討ち捨てるが良策。特に愁走海のような一刻者には賛同を求めても無駄というもの。国王とともに処刑せよとの新君の仰せです。反する者達も皆同様だと」
総意での革新を祖王は求めている、と愉悦を貼り付けたまま列氏は言う。おそらくそれは“侵略者”の汚名を拭いたいが為。背信を是としなかった者達を掃討し征服を正当化する。
「欲念の走狗に成り下がったか、列氏!! これ以上の暴虐は許さん! 兄上に手をかけたら……まともな死に方は出来ないと思え!!」
「ご自分の立場をご覧になって言葉を選んだ方がよろしいですぞ、皇太子殿下。もうそう呼ぶこともなくなりますがな――。実に惜しい強腕をお持ちだが、その首は邪魔でしてね。貴方様は二国への離反を苦に王に殉ずるのでございます。そして新生軍が新たな歴史を切り開く」
――ほざくな!!
声にならなかった。両手ががたがたと震える。恐れからではない――心髄から一部も残らず溶かし尽くされそうなほど熱くどろどろとした、かつで感じたことのない感情だった。
いくら面罵しようが反駁しようが無駄なことに思えた。どれほど罵詈雑言を叩きつけようと、対峙する現実を打ち砕けるわけではない。
硬質な鉄格子の感触が急に手の平に貼りついてくる。臍を噛む思いに、阿榑は唇をきつく噛み締めた。
「私を恨んでおいででしょうな。なぜ裏切ったのかと――。人の心とは所詮、囚われるのを嫌うものなのです。欲するものなしではね。貧弱な王と粗暴な皇子、今の西崘には、何もない」
左右を囲む兵士に戟を引かせ、阿榑に向かって列氏は端然とした一礼を見せた。
「では皇太子殿下、次に会う時が今生の別れとなりましょうが、それまでごゆるりと最後の時をお過ごしくださいませ」
渇いた口内に血の味が滲んだ。
「列氏……ッ」
松明の明りが遠ざかっていく。阿榑はすがるような思いでその名を呼んだ。
かつて常に父の傍らにあり、先帝の葬儀で最後まで棺の前を離れなかった男。同じように兄を支えてくれると疑いもしなかったその男の名を――
だが引き止められるほどの力は、阿榑の声にはもうなかった。
やがて足音は、完全に遠く消えた。
「――暫らく、城を留守にする」
しばしの沈黙の後に夜の静寂を破った声に、瑚蝶は髪を梳いていた手を止めた。
「暫らく……とは?」
櫛を置き、鏡台から窓辺を振り返る。長椅子に凭れて、劉王は月光の映る水苑の水面を眺めていた。燭台のない窓辺は、密かな月の灯で仄かに明るかった。
「数日かひと月か……定かではないが、愾麟を経由して西崘へ行く」
「ひと月?」瑚蝶は籐の腰掛けから立ち上がった。
「黎青様と阿榑様をご訪問なさるだけならば、ひと月もかからないのでは?」
黎青も阿榑も、劉王を訪問する際にはせいぜい数日を費やすだけだ。彼らには慣れた道程だということもあるが、突飛な日数に瑚蝶は動揺した。
「少し気になることがあってな。処理に時間がかかるやもしれん」
「気になることとは?」
言下に問い、瑚蝶は劉王のいる長椅子に近付いた。ゆっくりと瑚蝶に視線を移し、夜着姿の劉王は椅子から身を起こした。
「――心配するな、事が済めばすぐに戻る」
唇の端を緩く引き上げ、弱く笑う。月明かりのせいか、劉王のその様子は淡い幽光に似てどこか悄然として見えた。
「……はぐらかすのですね」
大切なことはいつも。
誰よりも近くにいることを許されても、踏み入れさせない領域を劉王は作る。
「瑚蝶」
両手を握り締めて俯きかけた瑚蝶に、劉王が手を差し延べる。黙ったまま、瑚蝶は躊躇いがちにその手の内へ歩を進めた。
「そんな顔をするな」
表情を曇らせた瑚蝶に、劉王はくすりと笑う。そして左手を取り手の甲に口付けると、もう片方の手で瑚蝶の腰を引き寄せた。
「確かではないことを、当て推量で口に出したくなくてな。ひと月と言ったのは万が一、の場合だ。そんなことは恐らくはない、安心しろ」
劉王の胸に顔を埋めるように抱き締められたまま、瑚蝶は首を左右に揺すった。
「隠し事をされて、安心など出来ません」
心配をかけないため、そう思っているのだろう。けれどその気持ちが結局は不安を招くのだと、わかって欲しい。
「置き去りにしないと、約束したではありませんか」
拗ねた子供のように小さく呟けば、劉王の手がそっと瑚蝶の髪を撫でた。
「……するわけがないだろう。やっと手に入れたんだ。――黎青から便りが来た。阿榑の元へ供をしてくれないかと」
瑚蝶ははっと顔を上げた。先日、鳳仙が劉王に渡した書状の印璽――あれは愾麟の王家の物だと思い出したのだ。
「……阿榑様に何か?」
「詳しいことは書かれていなかった。だから早急に向かうことにした」
端的に劉王が述べる。何か他に含意があるような気配がして、瑚蝶はじっと切れ長の双眸を見つめた。
「何か悪いことでは……ないのですか」
「そうではないさ。世話焼きは黎青の性分でな、過剰な心配をしているだけだ。黎青は阿榑の母親のような気でいるからな」
だから心配するな、と言われ、瑚蝶は言及を止めた。納得したわけではなかったが、疑いを深めたくもなかった。
「我が儘皇子の説教が済んだら、すぐに戻るさ。俺とて長期間の拘束は本意じゃない」
瑚蝶の額に口付けを落とすと、劉王は抱き締める腕にわずかに力を込めた。徐々に一つに重なる温もりは、不思議と瑚蝶の憂いを散らしていく。
「……では一つだけお許しを」
「うん?」
「乗馬の手ほどきを受けたいのです」
劉王がふ、と息を漏らしたのに、瑚蝶は顔を顰めて持ち上げた。
「私、笑われるようなことは言っておりませんわ」
「いつも必死にしがみついているくせに、と思ってな。ククク……まあよい、好きにしろ。若い白馬をやろう」
笑いを噛み殺す劉王を、きっと瑚蝶は睨む。
「見くびらないでくださいまし! すぐに乗りこなしてみせますわ」
そしてつん、と反らそうとした瑚蝶の顎を劉王の指が引き止めた。
「熟達されても困るな。簡単に逃げ出せるようになったら、今度は俺が置いてけぼりを食らう」
ふわりと穏やかに劉王が微笑む。月光だけが頼りの視界の中でも、その表情は鮮明に浮かび上がる。
「……それなら、早く戻ってくださいまし。そうでないと、追いかけていきますわよ」
合図をするように、瑚蝶は劉王の頬に手を伸ばした。
「それもまた厄介だな――」
劉王の顔が近付き、その唇が瑚蝶のものに触れた。最初は優しく、次第に深く――
――このまま。
夜が明けなければいいのに。
折り重なって長椅子に横たわりながら、瑚蝶は劉王の首にしがみついた。
こうしていなければ、失くしてしまいそうに思えて……
応えるように、劉王の抱擁に激しさがこもっていく。
恍惚とする意識の中で、一度だけリン、とかすかな夜光虫の羽音を瑚蝶は聞いた気がした。
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