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春夢槿花
作:貴水 玲



【弐拾六】 幸福の在処


 白鷺が羽を落すように、はらりと木蓮の花が地面に零れ落ちる。
 春の始まりを呼び起こした優柔な芳香も終わりに近付き、庭院に気紛れに流離うばかりとなっていた。
 木蓮の花が終われば、みずみずしい緑の育まれる季節になる。そうして、緑樹が梢を集めて碧潭の如く輝く頃、今度はえんじゅの甘く清涼な香りが夏を運んでくる。
 梓宮の庭の季節は、そうして彩りを変えながら巡りゆく。三度季節を重ねて、瑚蝶は漸くその変化を辿れるようになった。
 
 ――紅紫宮の花たちと心が通うようになるまでにはきっと、また時間が必要となるのだろうが。
 
 移りゆく光風に長い髪をあそばれ穏やかに包まれるのを心地よく受け止めながら、瑚蝶は煬心殿へと上がって行った。

 桔久の言っていた通り、殿下の回廊には官吏達があくせく動いている姿が見受けられた。学者肌の文官達は普段は各々の房に閉じこもっているのが常で、煬心殿は人口密度に反して人気がなく静かな場所、というのが瑚蝶の見解であった。だが今日は様子が違っている。いつもはなだらかな時間が流れている煬心殿の空気は、人々の往来で気ぜわしく変わっていた。
――確かに、少し変ね……。
 長い後衣をわずかに石床に滑らせながら、瑚蝶は回廊を進み出す。そして近くにいた青年官吏に、秘書省の令官執務室は何処かと尋ねた。すると、瑚蝶の存在に気付いた官吏達は立ち話や移動を一端止めて、道を開きつつ頭を垂れた。
――それは瑚蝶の纏う、劉王に贈られた美しい唐衣のせいだろう。
 鮮麗な深朱を基調とし、銀糸の刺繍をふんだんにあしらった美しい衣。この貴色を身につけることを許されるのは、皇帝と――その傍らにと望まれた者のみ。
 少々うろたえた様子で「この奥です」と青年官吏に教えられ、礼を言って瑚蝶は回廊を歩き出した。
 たった一枚の着物に人を傅かせる力があるとは奇異なことだ。単なる身を飾る為の衣装ではないということを、思い知らされる。
 だが、望んで引き受けた重圧だと瑚蝶は己に言い聞かせる。周りなど忘れて己の気持ちに、従えばいい――
 注がれる視線を分けながら、ゆったりとした足取りで瑚蝶は官吏達の間を行き過ぎた。そして朱塗りの二枚戸の前に辿り着くと、呼び鈴を鳴らした。
「どうぞ」
 扉の向うから返ってきた若い声に安堵を覚え、瑚蝶は扉を開いた。

――まあ。

 房の中に足を踏み入れようとして、瑚蝶は呆気にとられた。
 室内は、足の踏み場にも困るほどの散らかりようだった。入り口付近から、書物の塔が幾つも高さを違えて奥へと立ち並んでいる。
 隙間もないほど詰め込まれた書棚が四方の壁を覆うその部屋の奥に、ぽつりと几案があった。卓上も書状や書物の束で埋まっている。その向うに、来訪者に目を向ける暇もないらしく、蛇のように長い書と顔を突き合わせている若い官吏の姿があった。
「――まるで府庫のようですわね」
 瑚蝶の声に、眉間の皺をぴんと伸ばして少年官吏は顔を跳ね上げた。
「こ……瑚蝶様!? ――うわぁっ!!」
 少年が立ち上がった勢いで、卓上の料紙や書簡の束がばらばらと崩れ落ちた。泡を食って慌てて下敷きになった巻き状を引っ張り出そうとする様子に、瑚蝶は思わず吹き出した。
「これではどこに何があるのかわからないでしょう。少し整理が必要ですわね」
 埃の舞う床に落ちた書状を拾い始めた瑚蝶を「わわわ! 手が汚れますからそのままっ!」と止めて、齢十七の秘書省令・東鳳仙は落ちた書類を拾いつつ、几案の上の物を大慌てでかき集めた。
「い、今お茶を……あ! それより椅子ですね! 椅子……」
 よほど焦ったのか耳まで赤く染めて、鳳仙は辺りを見回した。だがどの椅子の上も荷物で埋まっている現実を見て、面目なさそうに後頭部を掻いた。
「お……お見苦しいところをお見せして……。就任して間もないのにこの有様では、手一杯であるのが一目瞭然ですね」
 成人前を示す垂髪を揺らし、「ははは……」と決まり悪そうに鳳仙は笑った。そして傍にあった椅子から書物を床に下ろし、瑚蝶に勧めた。
「熱心な証拠ですわね。秘書省は言わば皇帝代理人、法令詔勅を最後の篩いにかける大事な役所。お忙しいのは当然ですわ」
 籐椅子に腰掛け、瑚蝶も鳳仙に着座を促す。茶器の在りかを探そうとしていた少年は、はにかみながら几案についた。
「いえ……肩書きは聞こえがいいですが、本領は雑務係と大差はないんです。私のところへ回ってくるのは審査を要する詔書よりも、各部省が溜め込んだ文書類の閲覧や整理ばかりですから。秘書省は役所というよりも蔵という印象の方が強いようでして……でも他省の事情を垣間見れるいい機会でもあったりと僕には有益な業務ではあるのですが、御覧の通り片付ける間もなくて」
 肩からずり落ちた外套を引き寄せて気恥ずかしそうに鳳仙は俯いた。その様子に、瑚蝶の中の小さな疑問の糸が解けた。
「それで桔久にあんな風におっしゃったのね」
「え?」
 桔久の名に、顔を上げた鳳仙の両目がわずかに見開かれる。
「ただの雑用係だと、そう桔久に言ったそうですわね。本当のことは、隠しておくつもりですの?」
「あ……」
 定まらない表情で、鳳仙は俯いた。「う、嘘をついたのは申し訳ないと思っていました……でも言えなくて」
「それで気まずくなって、昨日も今日も約束を反故にしたと?」
「ち、違います!」
 瑚蝶がわざと少し責めるような口振りをすれば、鳳仙はうろたえながら首を左右に勢いよく振った。
「誤解しないでください! 昨日と今日は執務が立てこんでいまして仕方なく――。でも……どこで嘘が露呈してしまうか、危惧していたのは事実です。本当のことを知ったら、彼女は僕を恐れて、二度と話をしてくれないのではないかと思って」
「身分の差ということ?」
 畳んだ書状を几案の端に寄せ、鳳仙は肯定を示すように肩で大きく息をした。
「……ここでは、位の高さや家名が大きな意味を持ちます。確かに、満足な仕事をするには大切なことの一つだと僕も思います。けれど、真に心を開きたい相手の前では障害にもなり得る。――迷いも確かにあったのです。彼女を傷つけたくない、でも、周りの目も気になってしまう……僕はまだまだ小さな器ですね」
 自嘲気味に、鳳仙が小さく笑った。

 高々と積みあがる書物を瑚蝶は見た。
 普通ならばまだ一官吏として出仕したてであってもいい年での長官職任命は、鳳仙にとってかなりの重圧になっているのだろう。前途有為と信望厚いとはいえ、有能な古参官吏達が鳳仙に向ける目も厳しいはずである。統率権を預かる以上、子供だからという理由で言い逃れは出来ないからだ。
要塞のように築かれた塔は、鳳仙の焦りを物語っているように見えた。地歩を固めるのに必死なのであろう。 

「その杞憂はわかります。でも、少なくとも桔久は人を肩書きで判断するような子ではありませんわ。それよりも、貴方がこのまま姿を見せない方が彼女を傷つけてしまうのでは?……ひどく心配していましたわよ」
「――桔久殿が?」
「大切なのは、貴方様がどうしたいかですわ。周りがどう見るかではなく。官吏としてではなく、貴方自身として何を望んでいるのか。現実の重みに、ご自分のお心を忘れないでくださいまし」
 大切なものを、見失わないように――
 鳳仙向けながら、しかしまるで自分に言い聞かせているようだと瑚蝶は思った。
 瑚蝶に諭されるとは思っていなかったのだろう。鳳仙は目をぱちくりとして喫驚を示していたが、やがて「はい」と素直に頷いた。
「……心配して、いらしてくださったんですね」
 ふわりと微笑んで、瑚蝶は立ち上がった。
「私はただ、桔久の悲しむ顔を見たくなかっただけですわ。妹のように思っている子です、何かあったらいくら鳳仙様でも承知しません、と釘を刺しに来たのです」
 そしてやんわりと脅し文句を口にすれば、「すす、すみません」と鳳仙は椅子から腰を跳ね上げて直立した。
「反省なさっているのなら、会って安心させてあげてくださいね」
 微笑ましい未来図を思い浮かべながら辞して、房を出るため瑚蝶は書物の林を戻ろうとした。
 だがその時、閉めたはずの扉の一枚が開いているのに気が付いた。

「――で、ここで辛抱強く待っても、俺の心配はしてくれぬのだろうな」

 開いた扉にもたれていた長身の男の顔が、瑚蝶へ向いた。清爽な切れ長の瞳が、かすかに細められる。

――あ……。

 鳳仙と会話をしている最中も、一時足りとも瑚蝶の頭を離れなかったその姿がそこにあった。
「陛下……」
 器用に本柱を分けながら、劉王は瑚蝶の傍へとやってきた。朱襟が利いた白の龍袍姿の、薄らかな笑みを載せた端正な面差しを見上げた途端、瑚蝶はたまらなく懐かしさと安堵を覚えた。
「用足しに来て、探すつもりでいた蝶も見つかるとは運がいいな」
 隣りに立つ温もりがふいに瑚蝶を包み込む。その胸に飛び込みたい衝動をおさえて、瑚蝶は自分を見下ろす双黒に尋ねた。
「……朝議は終わりましたの?」
「中休めだ。昨夕から紫芳の間に繋がれたままで、さすがに息が詰まりそうになってな。隙をみて逃げてきた」
 少し疲労感を漂わせた微笑を見せ、劉王は鳳仙に視線を移した。
「三省六部の長が出揃うと、皆弁舌をふるいたがって白熱し通しでな。――貴殿もどうだ。年や経験の深浅で、立場を決めることはない。物言わぬ知識に埋もれているより、生きた答弁も必要だろう。東夷公おやじどのもいることだしな」
「ご冗談を」鳳仙はきっぱりと首を横に振った。
「まだ僕にはあの中に入る勇気はありません。……身内が高官故の眷顧と思われても癪ですし。与えられた仕事を満足にこなせるようになってから、参入させて頂く所存です。それが私のけじめです」
「フ、見かけによらず豪気だな」
「任に就いた以上、見くびられたくはないので。それよりも陛下――こちらを」
 温柔な見かけに反する強毅な態度で返し、鳳仙は几案の端に寄せた書状の一つをとり劉王に差し出した。
「――ああ、ご苦労だった」
 それを受け取り、劉王は裏に捺された送り主の印璽を確かめる。青い印璽だ。どこかで見覚えがあると瑚蝶が思案していると、劉王は書状を開きもせずに懐へ仕舞い込んだ。
「――お顔色がすぐれないご様子。少し、お休みになられたほうがいいのでは?」
 控えめに眉をひそめ、鳳仙がそう進言する。
「そうだな」
 溜め息まじりに答えた劉王の顔色は、確かに少し青白く見えた。
「ちょうど一眠りしに行こうと思っていたところだ。寝心地のいい、膝枕を借りようかと」
 劉王が横目で瑚蝶をちらりと見下ろした。その一瞥を受けて、瑚蝶は「膝枕」が自分なのだということを悟った。不本意にも、顔がほんのり熱くなったのを感じた。
「さて、呼び戻される前に隠れるとするか。行くぞ、瑚蝶」
「えっ……あ、はい」
 劉王が踵を返す。足早に遠ざかっていく後姿を追うべく、笑いを堪えた様子の鳳仙と気まずい一礼を交わし瑚蝶は房を出た。

「劉王」

 瑚蝶が呼び止めようとした時には、劉王はすでに木蓮の庭に下り、西内朝への回廊へと向かっていた。

「劉王!」

 小走りで追いながら詰るようにもう一度呼べば、回廊へ上がったところで身勝手な男は振り返った。
「どうした。 ――なんだ、怒っているのか?」
 瑚蝶の顔を見るなり、劉王はからかうように言った。
「突然現れて一人ですたすたと――ご自分の都合で振り回さないでください」
「仕方あるまい。わずかな休息だ、少しでも時間が惜しい」
「だからって――」
 瑚蝶はそこで言葉に詰まった。
――違う、こんなことが言いたいのではない。
 だが素直な気持ちは奥へ奥へと隠れたがって、言葉を見失わせる。
「……しばらく忙しくなりそうでな。こうして言葉を交わせる時間も少なくなる」
 俯いた瑚蝶の髪に、そっと劉王の指が触れる。だが顔を上げた時にはもう、回廊を歩き出していた。
「……何かあったんですの? 城の中が騒がしいのは、なぜなのですか?」
 後を追いながら、瑚蝶は劉王の背中を見つめた。
「除目や政策施行の段取りに手落ちがあってな、修正に追われているだけだ。案ずるな。たいしたことではないが――手間がかかる」
「今夜は……珪香姫の祝宴では」
「――ああ。姫には申し訳ないが、愾麟行きは取り止めだ。もうすでにその旨を伝えるべく早馬を放ってある。手を煩わせたのに、済まぬな」
 首だけわずかに後ろに反らせ、劉王が詫びを入れた。手巾の刺繍のことを言っているのであろう。
 妙だ、と瑚蝶は思った。幾ら政務に追われているからとはいえ、わざわざ訪問を中止にするとは。
 拙いが愛らしい珪香姫の敬愛の情に対し、彼女を喜ばせるため、誕生祝いの祝宴には必ず劉王自ら足を運んでいるという。少なくともここ三年はそうであった。今更政務を理由に持ち出すことが、瑚蝶には疑問だった。
――何か隠している……。
 だが単に問うたところで、国一つ背負うその背中は振り向きはしないだろう。

 物悲しさが瑚蝶の胸を占めた。
 何も出来ないのか。
 これでは、今までと同じだ――ただ理想郷のような離殿でぬくぬくと守られているだけでは――


「陛下」

 前に回りこみ、瑚蝶は劉王の動きを止めた。
「……わかっています、私の力では何も出来ないことは。貴方様の背負う荷を引き受けることが出来ぬことは――でも」
 庭のあちこちで芽吹く緑が、微風にさらさらと靡いた。蒼天を過ぎる雲影が、回廊に濃い影を落していく。
「もう……置き去りにしないでください。一人で抱え込むのではなく、私に貴方様の荷をわけてください。少しでも支えに……お側に、いたいのです」
 劉王の表情の変化を見届ける前に、瑚蝶は視線を石床に落した。精一杯を口にしたつもりだった。
 雲の影が去り、再び日輪が顔を出す。劉王の手の平が、瑚蝶の右頬を包んだ。
「――出来ることならあるさ」
 大きな温かい手の平に支えられ、瑚蝶はゆっくりと顔を上げた。真摯な眼差しがそこにあった。
「もう俺を突き放さぬことだ。城を出るなどという酔狂な真似もしてくれるな。それから――一つ重要なことを話す。お前の答えが聞きたい。お前にしか答えられぬことだ」
「は……い。……覚悟は出来ております」
 劉王の手が頬から離れた。粗略さの欠片も見当たらないきり、と張り詰めた声音に、瑚蝶は身構えた。だがそんな瑚蝶の前で、劉王はまるで臣下がするように突然跪いたのだった。
「劉……王?」
 唖然とする瑚蝶の左手を、劉王はおもむろに取った。
西遥シーリョンでは思い人に愛を乞う際、このように振舞う風習があるという。黎青の母君に昔聞いた」
「りゅ、劉王、誰か来たら……!」
 からかうにしては冗談がすぎている、こんな見晴らしのいい長廊で。周囲を気にしながら手を引き込めようとするが、劉王は離さない。
「見られたなら、その者を証人にすればいい。確かな瞬間になる――瑚蝶」
 恐怖や悪寒とは違う震えが、劉王の息の触れる指先から走り抜けた。
「甘言や睦言の類は苦手だ。気の利いた言い回しも出来ん。だがこれだけは言わねばならん――だから率直に言おう」
 掴んだ瑚蝶の左手の指先に、劉王は口付けた。
「我が妻となりて、生涯傍にあらんことを。一段落したら、婚儀を挙げよう――皆の前で。二人きりでもいい、これからを共に生きよう」


――……今、何と?


 掴もうとする前に、言葉とは消えてしまう。 
 幻聴ではないのだろうか。焦がれる気持ちが幻を具現させ、一時の夢を与えてくれているのではないだろうか。
「率直に答えてくれ。あの夜のことが気の迷いだったというならそれでも構わぬ。だが俺は身命を賭してお前の前途を守ろう。それだけは変わらぬ。廟王に誓った通りに」
口付けた指先に、劉王が額を寄せる。祈りを捧げているように。
「――貴方は、ずるいですわ……いつも、いつも」
 落涙が、重なる手を濡らした。
「私の答えが一つだと、知っているはずですのに」
 目の前が霞んでいく。何も見えなくなる前に、伝えなくては。
「断言は出来ぬ。俺とて只の人よ。この耳で聞いた言葉を信じたい」
 手をとったまま、劉王が立ち上がった。
「お傍に……いさせてください。離宮で待つのではなく、もっと貴方の近くに――」

 引き寄せられるように、瑚蝶は劉王の腕の中へ飛び込んだ。
 広い胸に顔を埋める。
 願った通りに、温かな腕が瑚蝶の背を抱きしめた。
 優しく、しかし強く。

 春日に守られた回廊の時間が、静かに止まる。
 この腕の中で幸福の本当の意味を知っていくのだと、瑚蝶は静かに涙に濡れた瞳を閉じた。






 赤く、染まる。
 足元も、目の前も。狂気の声に、塞がれていく。

「兄上……」

 血濡れた手を、青年は必死に伸ばす。
 天を摩るように恐恐と聳える巨大な扉が、翳む視界の中でゆっくりと閉じられていく。

「兄上ぇーー……っ!」
 
 絶望の叫喚を打ち消すように、破壊を知らせる重低音が轟いた。目の前で、扉は固く閉ざされた。

「……たすものか……」

 虚空を掴んだ拳で、青年は血海に横たわる太刀の柄を握り締めた。

「わ……たすものか……っ!」

 光を忘れたその瞳に宿っているのは、もはや修羅だけであった。
 












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