【弐拾五】 慕 情
「無様ななりだねえ、邦昌」
混濁し朦朧とする意識の中、身躯に蔓延する激痛を突き破るように、鼓動の音が耳元で鳴り響く。
「――能無しぶりは父親に瓜二つだよ。今後愚生と名乗るにしたって足りないくらいだ、まったく見込み外れだよ。しかしまあ――その傷でよく生きて帰れたものだね」
愉悦を載せた声が嘲笑う。
梓宮を脱出し、傷を抱えて兵の常時訓練に利用されている人工林を邦昌は走り抜けた。その先では、朱麗の命で監視役として随行してきた二人の男が馬を繋いで待っていた。男達に助けられ、邦昌は朱麗のいる昆杜という街の外れにある館に運び込まれたのであった。
表口から中に入った時にはもう限界だった。
だが床に倒れ起き上がることすら出来ない邦昌を、朱麗はまるで野良犬でも見るような目つきで見下ろしたのであった。
――く……そう。
身体が動かない。
途中で止血はしたつもりだが、城の兵士を撒いて逃げるまでに大量の血と体力を消耗した。
奥歯を噛み締めただけで、すべての力を失ってしまいそうになる。
石畳の床にうつ伏せになったまま、錆びた鉄の味の混じる唾液を力なく吐き出し、邦昌は女の顔を辛うじて睨み上げた。
「おやおや、死に損ないのくせに態度は一人前だねえ。それが生みの敬うべき母親に対する目かい。あたしはそんな風に育てた覚えはないよ」
――育てた……だと?
この女のしていたことは「飼育」だ。
逆らえぬように大切な物を奪い、己の使役し易いよう躾け、自由を奪い意思さえも蹂躙する――貧しくとも、我が子同然の愛情を持って叱り抱き締めてくれた育ての親とは違う。
そしてその小さな幸せを壊した者を、どうして母親などと呼べようか。
「本当なら、天刑必至の不始末だよ。だが、不肖者でもあんたはあたしの大事な一人息子だ。祖王様がね、あたしに慶頂の城をくれるって言うんだよ、すごいだろう? 間もなく大きな城が手に入るからねえ――だから、こんなところでへたばってる場合じゃないんだよ。お前にはまだ、働いてもらわなきゃならないんだからね」
ねえ、私の子。
陰湿で驕慢な響きが耳鳴りのする耳朶にまとわりつく。
――頭の中で、その笑い声が悲鳴に変わるのを、断末魔の叫びになるのを今まで何度も聞いた。
姿形もわからないただの肉塊になるまで、返り血を浴びながら何度も何度も剣で突き刺して殺した。
辺りが血の海になるまで、世界が赤く染まるまで――
考えるたびに身体中の血汐が、獰猛な獣のように暴れまわる。憎しみや怨嗟を餌にして。
それは今も同じだ。
「う……ぐぅっ……!!」
嘔吐感を催して、邦昌は込み上げたものを吐き出した。
ぬるりとした赤黒い液体が、石畳を濡らした。
「苦しいのかい? 邦昌」
煽り立てるような冷酷な囁きに、邦昌は耐えるしかなかった。
濁った心音が胸を圧迫するように叩く。これが止まれば、すべてが終わってしまう。
だがまだ戦える。
まだ、戦わねばならない。
幸せだった日々を、取り戻すために。
敷き詰められた石畳の隙間を伝って、己の体内に流れていた赤い水が流れていく。部屋中を憎悪で満たしていくように――
「すぐに手当てをしておやり――次の仕事に間に合うようにね……。我が王が覇者の座を取り戻す時が来たんだよ、いずれ側近になるお前が馳せ参じなくてどうする。瑚蝶のことはその後どうにでも出来ることだ。ああ、楽しくなりそうだねえ」
朱麗の声が幻聴のようにゆらめく。
これから何が起きるのか、脳裏を過ぎって消えた。
男達に支えられて、邦昌は引きずられるようにして立ち上がった。
――淋茗……
血濡れた床を虚ろな瞳に映しながら、邦昌はかすかにその名を呟いた。
「――いったい、どうしたんでしょう陛下」
茶を淹れる為に前傾していた姿勢をふっと度々浮かせては、桔久が何度めかの同じ疑問を口にする。
「朝議がこんなに長引くなんて……。でも、珍しいことじゃないですわ。今日は特別大きな審議が持ち上がっているのかもしれないし、あ、明日の分もまとめて談義しているのかも。それとも――」
たった二杯の茶を注ぐのに、いつもの倍の時間は費やしているのではないだろうか。土瓶を持ったまま桔久は首を左右前後に忙しなく傾げ、暫らくの後何か思いついたように頭を跳ね上げた。
「もしかしてお節介な誅易将軍あたりが、また妙な画策をして陛下を引き止めてらっしゃるのかも!」
良い着想を得た時のような会心顔で桔久が振り返る。窓辺の卓で刺繍をしていた瑚蝶は、妙に晴れやかなその様子に微苦笑を送った。
「少し落ち着いたら、桔久。心配しすぎよ。政務がたて込んでいらっしゃるんでしょう。一国の主が何時も自由に動き回れる暇がある方が不思議なくらいよ。――それよりも、早く注いでしまわないと、せっかくの白花茶が渋くなってしまうわよ」
手の中の土瓶を見下ろし「ご、ごめんなさい!」と顔を赤らめて謝ると、桔久は漸く茶を注ぎ終えた。
慌てた様子の背中に目笑し、続きをしようと瑚蝶は手元に視線を落した。だが蝶の模様が浮かび上がるはずの刺繍布は、針が刺さったまま、無地のままであるのに気がついた。
劉王は昨日の昼間ほんの一時顔を見せたが、「また夜に来る」と言い残して立ち去ったきり、そのまま現れなかった。そして翌日、間もなく日も昇りきろうという今の時間になっても何の音沙汰もないままだった。
――たった一日よ。たった一日会わないだけで不安になるなんて。
今まで一日二日顔を合わせないことなど何度もあったはずだ。皇帝が多忙なのは、万人周知の事実ではないか。
催促を呼びかけているような白い布を、瑚蝶は見つめた。
――割り切れていない自分がいる。こうして、他のことが手につかぬほどに。
だが、自分は劉王の妻ではない。
どうこう口出しをする権利など、持ってはいないのだ。
「お待たせしました。ただいま、饅頭をお持ちしますね」
瑚蝶の前と向かいの席に湯気のたつ茶碗を置き、桔久が菓子盆を取りに深紅と白の官女服の裾を翻していく。
もしかしたら、桔久が過剰に朝議のことに気を揉んでいるのは、心に燻るこの憂いを感じ取ったからなのかもしれない。
平静を装っている気でいて、知らぬ間に顔色に映し出されてしまっていたのだろう。
「……でも、なんだか少し城の中が騒がしい気がするんです」
小さな白い饅頭が幾つか載った盆を卓の中央に据え、桔久は向かい側に座って俯いた。
「外朝が忙しないのは常時では?」
茶を一口飲み、瑚蝶は窓の外に広がる清朗なる虚空を映す眩しい湖を眺めた。
紅紫宮には湖上の閨房の他に、五つの房がある。どの房も庭院が見渡せるように設計され、しかも角度が違えば景観も変わるので飽きることがない。今いるのは、水苑の南側に位置する部屋であった。
「それはそうなんですが……今朝、武翔殿の側を通りかかったら、重装姿の武官が沢山……。絳乎軍は常時訓練では軽装のはずです。まるでこれから戦にでも行くような物々しい雰囲気でしたわ。三省六部の官吏達も、昨日の夕刻あたりから外朝内を行ったり来たり落ち着かない様子で」
――外朝が……? まるで気がつかなかった。
深刻そうな桔久の表情に、瑚蝶の中にも不安感が浮上する。
新しい住居となったこの紅紫宮は、西内朝でも最奥に位置し外朝からは遮断された空間だ。他の殿下にも妃もいないこの場所には、桔久以外足を運んでくる女官はほとんどなく、外の騒擾が嘘のように昼夜揺るがぬ静寂が満ちている。
そうであるのは、皇帝が政務を民心をと多事多忙な日常を離れ妃と過ごす私的な空間であるからなのだが、故に公事を持ち込むことは禁じられている。
つまり、妃には政情や国情に問題が生じても情報は滅多におりてこないというわけだ。
翠遥宮にいた時は、城の変化にもう少し敏感だったはずだ。
身を置く状況が変わっただけで、こうも違うものなのか――。
「遠征軍の帰還遅延に関係があるんじゃないかって、他の者が言っていたんですが……でも」
桔久はその先を躊躇って視線を移ろわせ、ぽつりと言った。
「……一昨日の夜のこともありますし……不安で」
「――桔久」
「わたし……っ、心配なんです。また瑚蝶様が狙われるようなことがあったらと――」
声を詰まらせながら、桔久は母親とはぐれた小さな子供のように両目を潤ませた。
首にかすかに残る痕が一瞬疼いたような気がした。
――桔久にはすべてを話した。邦昌のこと、叔母のこと、劉王との会話――いつでも素直に感情を表す大きな瞳は終始見開かれたままだったが、桔久は瑚蝶の話す以上のことを追求したりはしなかった。
だが邦昌の行動に対し、何も感じていないはずはないと瑚蝶はわかっていた。顔を合わせれば口喧嘩ばかりしていたが、桔久は邦昌を兄のように慕っていた。けれど本意を秘匿するのは、ひとえに主人である瑚蝶の心情を思いやってのことだろう。
「私は大丈夫よ」
瑚蝶は優艶に微笑んだ。
「もうあんなことはないわ――心配しなくていいのよ。……邦昌のことも、自らの意志であのような謀逆をするとは思えない。そう信じたいわ。城のことも、劉王の采配に任せましょう。あの方は道楽的で軽躁なところもあるけれど、……信じてもいい方よ。さあ、お茶が冷めてしまうわよ。饅頭もお上がりなさい、あなたの大好物でしょう」
ね、と語りかければ、瞬きを数回繰り返して涙を押し戻し、桔久は「はい」と頷き茶碗を取った。
――怖れがないわけではない。
だが、その小さな身体で精一杯の情愛を向けてくれる目の前の少女を、もう二度と悲しませたくはない。『毅然とあれ』父王の教示が、今出来ることだと瑚蝶は思った。
――だが、劉王が姿を見せないことと外朝の騒々しさとは何か関係があるのだろうか。
卓の端に折りたたんである華麗な牡丹が咲いた手巾に瑚蝶は目線を置いた。
予定通りならば、今夜は黎青の妹姫の誕生祝が愾麟の王城で開かれるはずである。だが、その贈り物は今だ残されたままだ。訪問は中止されたのであろうか。
――だめだわ。考えてもきりがないことばかり。
もどかしさを小さな溜め息に変えて、瑚蝶は気を取り直そうとした。だが、向かいに座る桔久の手が饅頭を持ったまま再び止まっているのが目に入った。
「桔久? まだ何か心配事があるの?」
「あ、えっ?」
呆っと卓の一点を見つめていた桔久は、呼ばれてはっとしたように顔を上げた。
「いつもなら両手で頬張っているじゃないの。あなたらしくないわ」
甘い菓子を目の前にすると、桔久はいつも真っ先に手を出すものだ。まるで幸福な夢でも見ているように綻ぶ顔を見るのが瑚蝶は好きだったが、今日はその笑顔がない。
「あ……えっと、ご、ごめんなさい」
「遠慮しないで全部話してごらんなさい」
ちらり、と上目遣いで瑚蝶を見、桔久は饅頭を持ったまま何か重大な申告をする前のように、大きく深呼吸した。
「……小鳳の姿が見えないんです」
小鳳。それは、最年少で秘書省省令に就いた若き俊英――東鳳仙のことである。桔久は毎日のように内朝の庭院に通い、鳳仙と会うようになっていた。
「昨日、いつもの庭院で待っていたんですけど……現れなくて。今日も待ってたけど、やっぱり来なくて。それまでは毎日、小鳳が先に来て待っていてくれていたのに。『ただの雑用係だから』って言ってたけど、本当は無理をして時間を作っていたんでしょうか。どこの省部でも下役官吏は激務に追われて席をあたためる暇もないと聞きますし……。それともわたし、嫌われるようなことをしたのでしょうか」
――雑用係。
鳳仙は自分のことをそう桔久に伝えたのか。謙遜するにしても随分な過小評価に、瑚蝶は呆気にとられた。
鳳仙は思春期の複雑な心境から、桔久に素性を明かすのを躊躇っているのだ。だから桔久はただの一官吏だと思っている。確かに冴えた物腰ではあるが素顔は純情な少年である鳳仙が、高官の佩玉を下げているとは想像しがたい。
「桔久、本当はそのことが一番気掛かりだったのね」
「えっ!!」
「そういえば最近、彼の話ばかりしているものね」
「そ、そんなこと……あっ! こ、この饅頭おいしいですねっ」
耳まで真っ赤に染めて、桔久は手に持っていた饅頭に慌ててかぶりついた。瑚蝶はくすくすと笑った。
「恥かしがることはないわ。好きなのね、小鳳が」
「ここここ、瑚蝶様何をっ! ごほごほ……っ!」
よほど慌てたのか、饅頭を喉に詰まらせて桔久は今度は目を白黒させる。そして茶碗の中身を一気に飲み干した。
「……自分でもよくわかりません……でも、明日も明後日も待ってみようと思います。それでも来なかったら、探しに行きます。やっぱり……何かあったなら気になるので。待つだけでは解決しませんから――」
一呼吸して落ち着きを取り戻した後、桔久は先ほどの杞憂を一新する破顔を見せた。
待つだけでは。
瑚蝶は己にその言葉を重ねた。
――同じだ、今の気持ちと。
権利はない、術はないと決め付けても不安が消えることはないだろう。だったら、思うままに行動すればいい。
見えないふりをしても、真実は一つなのだから。
――会いたい。
その気持ちを認めることは、愚かなことではないのではないか。
体面を気にしていては、いつまでたっても変わることも変えることも出来ない。
今までとは違う――もう逃げるのはおしまいにしなくては。
「明日は来るわ、きっと」
ほんの少しの勇気さえあればいい。
膝の上の真綿色の刺繍地を瑚蝶はそっと指先で触れた。
そして針をとれば、胸裏をかすめたのは、微風に楚々と揺れ咲く淡い菫の花であった。
|