【弐拾四】 想 愛
『 愛している 』
眩暈がした。
幾度となく耳元で囁き繰り返される言葉は、まるで至高の美酒のような甘い痺れを瑚蝶に与え、身体の奥底の熱を呼び起こした。
愛撫する劉王の手の感触や、ついばむように降りる優しい口づけが、鼓動の速度を上げていく。
迷いや不安は甘美の波が攫っていった。残ったのは、飾り気のない小さな感情。ずっと怖れて目を逸らしていた、けれどいつしか育まれていた――
愛しさ。
重なる温もりを放したくないと思った。劉王の背に瑚蝶はそっと両腕を伸ばした。
頬を伝う涙の意味は、以前とは異なっていた。
瑚蝶が目を覚ました時、隣に劉王の姿はなかった。
すでに冷たくなった床は、無人になって随分と時を刻んだことを表していた。
昨夜のことはすべて夢であったのであろうか。
優しく包み込むように広がっていた夜闇がもたらした――
そんな思いが過ぎる。温もりを探すように、瑚蝶はそっと敷布を指でなぞった。
だが覚えている。触れた指先の感覚も、意識が落ちる間際まで内耳を震わせていた低い美声も。
「……っ……」
そしてなにより、体の奥でかすかに燻る痛みが幻と片付けるなと教えていた。
ゆっくりと息を吐き出し身を起こせば、寝台を覆うように下がる天蓋布の向こうの明るみに目が眩んだ。
開け放たれた丸窓の向うには、陽を浴びて煌めきを放つ湖水が広がっている。
白く細い足を寝台から降ろし、瑚蝶は唯一身を覆う薄絹の衣の裾を引きずりながら窓辺へ寄った。
夜光虫の淡い光珠はもうどこにも見当たらなかった。湖面には、眩しいほど青い睡蓮の葉が揺揺と浮かんでいる。
「――瑚蝶様」
遠慮気味な声音に呼ばれ、瑚蝶ははっとして後ろを振り返った。
水上に浮かぶ離宮の入り口に、小柄な少女が立っていた。両手を拱いて、身体を縮めるようにして俯いている。
「桔久……」
具合はいいのかと駆け寄ろうとして、瑚蝶は彼女の纏う女官服に気付いた。
いつもの退紅色ではなく、桔久が纏うのは“深朱”と呼ばれる赤を基調とした特殊な装いだった。
――それは、数多の妾妃ではなく正統な王妃に仕える侍女のみに与えられる、皇帝から直々に下賜されるという装束――
「瑚蝶様」
両手を握り締めたまま、桔久がすっと顔を上げた。大きな瞳が真っ直ぐに瑚蝶をとらえ、そしてたちまち満面の笑みを零した。
「わたし、夢みたいなんです。でも夢じゃないですよね」
子供のように走り寄ってきた桔久を瑚蝶は抱きとめた。
「陛下がお選びになったのは、誰よりも気高く心優しく、美しいこの一羽の蝶だと――」
桔久は泣いてるようであった。抱きとめた腕越しに小さな震えが伝わってくる。
「……劉王が、それを?」
腕の中でこくりと桔久が頷いた。
「抄宮正が……陛下から預かったと。これを召してこちらへ行きなさいと言われました」
『愛している』
とくん、と心音が跳ねた。
あの言葉は偽りではないのかと、酔い痴れる気持ちの中で思っていた。睦言に身体中が満たされても、どこか哀しくて――
「私は……ここにいてもいいのかしら」
どうか幻ではないようにと、気付けば願っていた。
「あの方の側に――いてもいいのかしら」
頑なに行き惑う感情を閉じ込めてきた鎧は、壊れてしまった。粉々に、劉王が壊してしまった。
身を守る術を失って、初めて気付いた。
「瑚蝶様」
顔を起こした桔久は、落ちてきた己の物ではない小さな雫を頬で受け止め、主人に手を伸ばした。
「大丈夫ですわ……瑚蝶様」
そしてそっと、長い睫が送り出した涙の粒を指で拭う。
本当は最初から、愛していたのかもしれない。
尊大で豪胆無比な、けれども高潔で大様なるあの男を――
「……夢を見たわ」
涙が温かかった。懸命に涙を拭おうとする桔久に、瑚蝶は微笑んだ。
「家族の夢よ……金稜花の咲く丘に父様や母様たちがいたわ。みんな、笑っていたの。幸せそうに。……生きていた頃のように」
もういいんだよ、そう言っている気がした。
二度と戻らない時間。愛する者たちへの思慕は今だ消えない。
悲しいほど、切なくて苦しい。
けれど、今が悲しいほど幸せだと思えた。
こんなに幸福な朝を迎えたのは久しぶりだった。
「得心出来ませぬ」
思わず誅易は卓子から立ち上がった。
「穏便にとはどういうことでございますか! 災厄となるやもしれぬ芽を、放置するおつもりなのですかっ」
上層部の官吏達が立ち去り、紫芳の間にいるのは劉王と誅易、そして西蓉洵の三人だけだった。
常例の朝議を終えた後、劉王は二人を残し人払いをした。誅易が献言すべきことがあると申し出た故である。
そのこととは勿論、昨夜の事件のことであった。
「そうではない。今すぐ取り立てて騒ぐことはないという意味だ。幸い大事には至らなかったのだからな」
見下ろすように立ち上がった巨体を、劉王は卓についたまま冷静な眼差しで睨み据えた。
「何を呑気に! 城に祖の間者が潜んでいたのですぞ……それも皇帝の側近として! おのれ食客め……! 草の根を分けてでも探し出し、斬刑にすべきです!」
湯気が立つような激昂を露に誅易が拳を震わせる。だが劉王の冷やかな目元は変わらない。
「――取り逃しはしたが、あの傷では到底助からんだろう。だが万一逃げ果せたというのなら、幾ら網を張ったところで掛かるまい。邦昌はそういう奴よ」
捜索は一晩続いたが、結局邦昌は見つからなかった。嵐の助けもあり、地表の血痕は洗われてしまった為に手掛かりはない。
腹を割かれ遁走するのは困難に違いない。だが邦昌は一介の武官では太刀打ち出来ぬほど武術に長けた青年だった。禁軍に欲しいとさえ誅易は思っていたのである。万一は十二分に考えられた。
「陛下、私事と片付けるには不安要素が多すぎます。背後に祖の影があるとすれば、これは謀反にも等しい事態でございますぞ! 先の戦で破れ領土と覇権を剥奪したとはいえ、かつて彼の国は三帝国と並ぶ大国。残党討伐を繰り返せども脅威を拭いきれぬ現状はご存知のはず! 妙な動きを見せる前に掣肘を加える必要がありまする」
皇帝を見下ろす位置に立っていることなど度外視したまま力説する誅易から、劉王はついと視線を外し、
「――どう思う? 西侍郎」
誅易の傍らに、げんなりした面相で佇む蓉洵へと流した。
気まずい間合いで介入を許されて、蓉洵の片眉がぴくりと跳ね上がった。それを誤魔化すように、こほんと一つ咳払いをする。
「ええと……はい。将軍のおっしゃることはもっともですが、確かにまだ動く時機ではないやもしれません。下手に制裁を加えれば反動が起きます。遠征軍も帰還しておりません。迂闊に戦端を開くような真似は避けるべきかと。それに此度の一件は、あくまで瑚蝶殿の誘拐が目的であったようですし、一概に祖王の差し金とも」
そう進言しつつ蓉洵が横を見遣れば、禁軍総大将の強面がわなわなと震えていた。
「それも妙な話ではないかっ! なぜ瑚蝶殿を狙うのだ! もしや瑚蝶殿も何か関係が――そういえばあの後姿が見えませぬが」
「誅易、これで終いだ」
研ぎ澄まされた刃の切っ先のごとく、鋭い一声が誅易の言葉を塞き止めた。
「現段階ではもう談義の余地はない。瑚蝶も無事なのだ、此度はこれで良い」
「し……しかし!」
なぜ瑚蝶が無事だから良いのか?
誅易にはその意図が掴めなかった。
当惑気味の上司を見兼ねて、蓉洵がそれとなく口を入れた。
「――瑚蝶殿の安全が確保出来たならば、陛下にとって損失はないということですな」
「は?」
意を汲み取れず、動きを止める誅易。クク、と劉王が笑った。
「そうだ忘れていたぞ、誅易。一つ朗報があった」
「ろ、朗報にございますか」
「そうだ。俺も漸く、妻を娶ろうと決めたぞ」
「……は?」
予想だにしない「朗報」に誅易は唖然とした。
「西内朝もあのままでは宝の持ち腐れだ」
卓の上で頬杖をつき、劉王が緩く口角を上げる。「お前には苦労の掛け通しだった。そろそろ孝行せねばと思ってな」
「陛下……ど、どういうことでございますか」
先日空になったばかりの後宮を誅易は思い起こした。口腔の中に今にも、あの時飲んだ苦い汁が甦ってきそうになる。
希望は完全に絶たれたと思っていた。なのに、『妻を娶る』とはどうしたことか。物の怪にばかされたように呆けた顔でぽかんとしている誅易を、面白そうに劉王は眺めた。
「皇帝である俺が身を固めねば民に示しがつかぬだろう。お前にも再四言われていい加減、耳が痛くなった」
「は、はあ……大変喜ばしいことではございますが、なぜ唐突に……。お、お相手は一体――」
あいて、と口の中で呟いて、劉王は卓から立ち上がった。そして幾分か己よりも身丈のある大男を見遣る。
「水苑の離宮にもう居るぞ。昨夜連れて行った。そろそろ目を覚ました頃かな?」
「ま、まさか」
思い当たるような人物は一人しかいなかった。最も恐れていた名が思い浮かんだ時、先に劉王が言った。
「瑚蝶を正妃に迎える。その他の賓妃は不要だ、妻は一人でいい」
「し、しかし陛下!」
「なんだ?」
事もなげにそう告知した劉王に怒鳴りかけそうになって、誅易は声量をおさえた。
「しかし瑚蝶殿は……少なからず陛下を憎んでいるのでは」
「それならそれでいいと、俺は思うのだ」
卓を離れ、劉王は窓辺に立った。
「俺にしてやれることは、このくらいしかないからな」
「なぜ……なぜそこまでして瑚蝶殿を」
背を向けたまま、劉王がわずかに首を後ろへ向けた。
「――愛している、それだけではだめか」
あまりに真っ直ぐな言葉に、誅易は絶句した。
だがすんなりと胸に落ちてくる言葉だった。
危ういほど単純な、真実。皇帝という重厚な鎧の下の、唯の男の姿を誅易は垣間見た気がした。
「――陛下、万人に祝福される保証はございませんぞ」
「恋路に障害はつきもの、だろう」
軽い答えとともに劉王は振り返る。
いつものように飄々と、何食わぬ顔で。
「――参りましたな……」
もはや嘆息するしか、誅易に出来る術はないように思えた。
「――いやはや、見ものでしたな。先程の将軍の様子は」
紫芳の間を出て貴宝殿から西内朝の方角へ回廊を進む劉王に追いつくと、その背に蓉洵は呼びかけた。
「……薄情な参謀だな。慰撫役を蹴って、上官は置き去りか?」
歩を休め、劉王が振り向いた。口元にはやはり、皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
「生憎、私の慰めでは役に立たぬでしょう。しかし――こちらも呆気にとられましたよ」
嫌味を含めながら、夜着の上に紫紺の寛衣という軽装の劉王を蓉洵は眺め下ろした。髪は朱紐で後ろで軽く結わえただけ、まさに起き抜けという出で立ちである。
「『愛している』なんて、開き直るとは思ってませんでした。これが広まれば大変なことになりますな。城の者は皆、瑚蝶殿を側に置くのは恵顧と思っております故」
「ふ……見直したか?」
「まあ……そうですね」
花の香りを乗せた柔らかい風が吹き抜けた。
蓉洵が近付いたのを見計らって、劉王は再び回廊を辿り始める。数歩下がった位置から蓉洵も続いた。
「以前、お主が言っていただろう――囲うだけではだめだと。飛び立たれぬ内に引き止めてみた」
そういえば、と蓉洵は思い当たる。
間に受けていたのか、と思わず口元が緩んだ。
「言った甲斐がありましたな。――しかし、よろしかったのですか。将軍に真の事を伝えずに」
「……瑚蝶のことか」
後一角曲がればこの回廊は真っ直ぐに西内朝へ続いていく。どこまで供をすべきかと思案しながら、蓉洵はええ、と返した。
「――お主、どこまで知っている?」
歩調を弛めることなく、劉王が問うた。
咎める響きではなかった。
むしろ存知の上、というような余裕があった。
「三年前、お忍びで陛下が当家を訪問された時です。父達と貴方の会話を聞いておりました」
率直に蓉洵は述べた。隠すつもりはなかった。折を見て明かすつもりでいたのだ。
――妙な嫌疑を掛けられては出世にひびく。ならば暴露してしまえ、というのが実のところなのだが。
「そうか、だから瑚蝶に対して寛容だったのだな」
「いえ……そういうわけでは」
「フフン、お主は中庸な男よ。親父殿に似て」
「……女性に辛く当たるのは私の流儀に反する、それだけですよ」
父親を引き合いに出されて蓉洵の声に不快さが混じったのに気付いたか、劉王がふ、と短く笑った。
「――戦いは避けたい」
「瑚蝶殿の、為に?」
「ああ――自分を狙っているとはいえ、実の叔母の謀が公になれば、あやつは自責の念に駆られて自害しかねん」
「すべては愛しい姫君の為、ですか。凄い惚れ込みようですな、敬服いたしますよ。――そういえば瑚蝶殿が城に来て間もなく、ご自分の近衛隊を突然解散しましたな。あれも事実の漏洩を防ぐ為でしょう。廟国が滅んだあの日、彼らは貴方と供にいた。側近にも友にも真実を告げず、一心に守り続けたその信念……私には真似出来ません」
劉王の返答はない。蓉洵は続けた。
「しかし、なぜ元廟王朝の姫君が、実の兄を殺めるなどという非道な真似を?」
内苑の緑樹で戯れる小鳥のさえずりにふと視線を上げ、劉王は立ち止まった。
「……以前、廟王は朱麗の存在を危惧していたことがあった。祖王の重鎮に転嫁した実の妹のことを。あれは私を怨んでいる。もし家族に危険が迫った時は、手を貸して欲しいと」
「廟王はああなることを予測していたと? そこまで強い私怨とは一体」
「……廟王は多くを語らなかった。だが結果として事は起こってしまった。国を陥落させるつもりではなかったにしろ、惨い有様だった」
「それで国ごと手中に収めて保守しようとお考えになったわけですね。もし祖が絡むのならば、安易に手出しは出来ぬようにと」
羽音と響かせて、二羽の小鳥が枝を離れた。宙を回りながら、蒼空へと飛翔していく。劉王はそれをどこか遠い目で見上げる。
「……しかるべき時が来たら、あの地の行く先は瑚蝶の好きにさせるつもりでいた」
長閑な陽気に合わせるように、劉王はゆっくりと歩みを再開した。
それはつまり、始めから侵略する気などなかったというわけだ。何もかも、瑚蝶の為に――。
最後には誅易が黙り込んだのは今蓉洵と同じように、劉王の少ない言葉の中にその揺るぎない想いを見たからなのだろう。
「――欲のないお方だ」
「欲しい物は領土ではなかったからな」
「……」
やがて二つ目の角を曲がったところで、蓉洵は歩を止めた。
「……はいはい。まったく嫌味の通じない人だ。――では私はここで失礼致しますよ、野暮はいたしません。ですが、このお話はまた改めて。懸念すべき事項ではあります故。それから――ふっきれたとはいえ今後も振る舞いには重々注意していただきたいと、付け加えておきます」
これ以上側にいては当てられかねんと判断し、蓉洵は早々と一礼する。容赦なく針を含んだ助言を添えて。
「主の前だというのに遠慮がない男だ。そういうところも親父殿譲りだな」
「えーおほん。では未来の正妃殿に宜しくお伝えを」
「心得た。――式には招待する」
戯言なのか、本気なのか。
切れ長の精悍な目元で一瞥を投げ、劉王はその場を行き過ぎていった。
――はてさて、近頃どうも歩み寄りすぎだな。
遠のいていく劉王の後ろ姿を見送りながら、蓉洵は己の行状を振り返る。
犬馬の労をも厭わぬ姿勢など見せたつもりはないのだが、いつの間にかいいように使われている気がしてならない。
まだまだ忠義を尽くすべきかは見極められていないはずなのであるが。
それは己の失態か、相手の手腕か。
――しかし、これから騒がしくなりそうだな……。
なるべく関わらないようにしよう、そう強く自身に言い聞かせ蓉洵は兵舎へ向かうべく踵を返した。
「西侍郎!!」
その時、正面から転がるように駆けて来る青年に蓉洵は気が付いた。
「たっ、大変です! 西侍郎……!!」
息も絶え絶えに、青年はよろめきながら蓉洵の前で止まった。膝に手をついて荒い呼吸を繰り返すその姿を、蓉洵は呆れて見下ろした。
「騒々しいぞ、瑛朋。回廊をばたばた走るなと何度言ったらわかる。お前も官吏のはしくれなら一度で学習しろ」
「申し訳ありません、しかし……! それどころではないのです!」
上司らしく小言を吐いた蓉洵に、兵部官吏である瑛朋は紅潮した顔を向けた。
「さ、先ほど成庚からの伝馬があったと……!」
「……成庚? 遠征軍の駐屯地の一つか。何の報せだ」
「それが――」
大きく唾を飲み込み、切迫した表情で瑛朋は切り出した。
「西崘の軍勢に奇襲を掛けられ、成庚の関が陥落したと――」
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