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春夢槿花
作:貴水 玲



【拾九】 腹 案


「おのれ・・・・・・! あの若僧め!」
 わななく声で喚き散らし、朱麗は卓の上の茶器一式を薙ぎ払った。
 幾つもの乾いた音が石床で弾けた。辺りには青磁の茶器だけでなく、様々な破片が無残に散らばっている。飾り棚や卓に陳列していた調度品の類は手当たり次第に破壊され、品のいい家財の並ぶその部屋はすっかり風流さを殺がれてしまっていた。
「何もかもすっかり台無しじゃないかっ! 本当なら今頃とうに慶頂入りしていたっていうのに・・・・・・! よくも、よくもこのあたしを馬鹿にしてくれたねっ!」
 乱れて頬や額に貼りついた髪もそのままに、朱麗は目覚めた時の惨状を思い出し肥えた身体を怒りで震わせた。
 朱麗が目を覚まし表に飛び出した時にはもう、事態は収拾していた。残忍凶悪で名を馳せた徒党らの失態を知り、朱麗は怒り狂った。だがここで地団駄を踏んでいても埒が明かない。そこで一旦山を降り、慶頂への道途にある小さな街へ身を寄せた。ここには祖王と交誼のある商人がおり、街のはずれにある屋敷の一室を隠処として提供してくれていた。
「よりによって統王の犬なんて・・・・・・! 邦昌、お前どこでしくじったんだい!」
 気を乱した金切り声に、邦昌はかけ離れた温度差の窓辺から振り向いた。そして残骸の中で落ち着き無く右往左往する母親を睨み付けるように目を細めた。
「そんなへまはしていない。だがあの方なら・・・・・・僅かな手掛かりでも見落としはしないだろう」
 そう深読みすべきだった。馬車を襲撃し瑚蝶を連れ去った後、邦昌は一度馬車まで戻った。時間稼ぎに差し向けた張蛾の男達が一人残らず斬り殺されていたのを見た時、憂慮はした。賢明な黎青ならば、残された些細な情報から勘案して劉王に暗示することも容易いであろうと。そう察していたならもっと迅速に行動すべきであった。
「この一件が祖王に露見したら、あたしの立場はどうなるんだい! ・・・・・・いや、そんな枝葉はどうでもいいことだよ。西崘の皇太子が絡んでくるとなると、ぐずぐずはしていられない――あいつは張蛾を目の敵にしているからね」
 西崘の討伐軍が動き出せばそれは明らかな脅威になる。この一件に阿榑が介入しているとなれば、間もなく一掃の為の包囲網が張られる可能性もある。
「そろそろ頃合かもしれないねえ・・・・・・火種を放り込むには」
 爪を噛みながら、朱麗は低く呟いた。
逆らうようにして流れ始めている大きな気流があることを朱麗は知っていた。それがとぐろを巻いて確実に大きくなっていることも。
「息子や」
 急に声を丸くして朱麗は邦昌に呼び掛けた。
「祖王の元へ早馬の手配をおし。それから――」
 朱麗の紅い口元が醜く歪んだ。蛇のように細めた目に貪欲そうな愉悦が浮かびあがる。
「何としてでも瑚蝶を連れて来るんだ。あの子には多大な利用価値があるからね・・・・・・今度は逃がすんじゃないよ」





――参りましたね。
 風に立ち向かいながら、夕闇の迫る青海原を駆ける馬の背で黎青は独り言ちた。
金稜花の原をとうに過ぎ、延々なる緑萌える大地を馬足は蹴り急ぐ。背後の景色の中から遠のいた梓宮での出来事を思い起こして、黎青の口元に苦笑が滲んだ。

 瑚蝶が戻ったとの報せを受け、黎青は二の腕に疼く傷を連れたまま梓宮を訪れた。瑚蝶へ謝罪するためであった。
 勿論そうすることに葛藤がなかったわけではない。だが、少なからず自分に非があることを黎青自身認めていた。それ故じっとはしていられなかったのである。時には冷酷な決断も是とする一方で、時には潔く矜持を捨てる律儀さを併せ持つ男――それが黎青であった。
『申し訳ありません。貴女を危険に晒したのは僕の責任です』
 劉王の同席のもと、黎青は瑚蝶の前で深々と頭を下げた。次期国王として生を受けかしずかれることを常とする身にとって、自ら過ちを認めることがどんなに屈辱的な行為かを黎青は理解していた。軽率に判断するべきではないということも。
『面をあげてくださいまし、黎青様』
 だが柔らかい響きに揺すられて青眼を開いた黎青が見たのは、自分の前に跪座する瑚蝶の姿だった。
『急にどうなさったんですの? わたくし、こうして無事ですのよ』

 その微笑みの清らかさに眩暈がしそうになった。
 同時に適わない、と思ったのだ。
 黎青の立場を慮って跪いた瑚蝶の花のような笑顔にも、それを見守る劉王の春の陽射しを模したような穏やかな眼差しにも。
――結局、僕のしたことは無駄だったということか。
 もしくは二人の関係の助長に繋がるただのお節介だったのか。二人の間に流れる空気が以前と少し違っていることに黎青は気付いていた。
――何にしろ、もう僕の出る幕ではありませんね。
 諦めの境地に落ち着いている自分に、黎青は失笑した。あれほど剣呑していたのが嘘のように、妙に開放的な気分だった。
 苛烈なまでに鮮やかな夕暉が焦がし始めた青草の先に、やがて目指す茶壁の壮大な城が姿をみせた。西崘の皇城、牙凰城がおうじょう。それを見止めて黎青は気を入れ替えた。
――それよりも問題はこちらですね。
『阿榑の様子を見て来てくれぬか』
 帰り際、劉王が黎青に言った。理由は述べなかったが、黎青は二つ返事で承諾した。ちょうど現皇帝で阿榑の兄である吉京より碁の誘いを受けていたため、訪問の口実はあった。
 黎青の乗る馬が城に近付いていくと、聳え立つ緋色の門がゆっくりと開き始めた。
そのまま門を走り抜け、正殿前の横街へと黎青は馬を乗り入れた。












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