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後半前のちょっとした幕間の小話です。
春夢槿花
作:貴水 玲



【幕間】 心に吹く風


「ねえ桔久。宮官達と揉め事があったというのは本当?」
 やにわに瑚蝶に尋ねられて、桔久は茶器に注いでいた湯を足元に零しそうになった。
「えっ。そんな噂が流れているんですか?」
 存じませんでした、と驚いた顔を取り繕って桔久は振り返ったが、初めの声がひっくり返ったのを瑚蝶が聞き逃すはずはなかった。
「桔久・・・・・・」
「は・・・・・・はいっ!」
 低まった瑚蝶の声音に、桔久はとっさに目を瞑り姿勢を正した。瑚蝶が柔らかい溜め息を漏らした。
「・・・・・・貴女、私のことで何か言われたのではないの? 私がここに戻ってきたことで」
 咎められると思った桔久は、そっと目を開いた。叱るどころか申し訳なさそうな暗い表情の主人を見て、慌てて首を横に振る。
「いいえ、いいえ! そうではありません! 確かにちょっと口論はしましたが・・・・・・よくあることです。些細なことでっ。だからご心配なさらないでください!」
 つとめて明るく振舞うと、桔久は茶の準備へ戻った。
――危ない、危ない。
 瑚蝶のいる卓に背を向けて作業をしながら、桔久はそっと溜め息をつく。
 風聞とは怖いものだ。隠しておきたいことも瞬く間に知れ渡ってしまう。女官頭の抄宮正にお叱りを受け、内密に事を終えたはずだったのに、まさか瑚蝶の耳に入ってしまったなんて。
「そう・・・・・・ならいいのだけれど」
 貴女がそう言うなら、と瑚蝶はそれ以上追求はせず刺繍の続きを始めた。横目でその様子を盗み見て、桔久は安堵する。
 瑚蝶が梓宮に戻ってから三日が過ぎた。
 なぜ城を出たのか――そのことについては桔久は一切瑚蝶を責めなかった。本当は言いたいことも訊きたいことも山のようにあった。
 だが瑚蝶の腕がしっかりと自分を抱きとめた時、瑚蝶も自分と同じ気持ちでいたのだとわかったのだ。それで十分だった。
 白花茶の香りがふわりと立ちのぼった。頃合だ、と桔久が茶器を椀へ傾けた時、
「――いい香りだな」
 整った美声に桔久ははっと顔を上げた。
「劉王」
 刺繍の手を止めて、瑚蝶が卓子から立ち上がる。
 戸口から、そのままでいいと瑚蝶に穏やかに目を細め、そして劉王は桔久に言った。
「俺にも淹れてくれぬか」
「はっ、はい! 喜んで!」
 桔久の背中に甘い痺れが走った。扉を離れ、劉王は瑚蝶の向かいの卓子に座った。
――やっぱり、今日も!
 胸の中に次々に大輪の薔薇が咲き乱れるような舞い上がった気分になる。だが自然な挙止を心がけながら桔久は素早く二人分の茶を淹れ、蓮の形をした砂糖菓子をいくつか菓器に載せた。そして卓に運ぶと扉まで下がり、跪拝の礼をとった。
「では、わたくしはこれで」
 扉を閉め退散しようとした桔久に、劉王が声を投げた。
「桔久」
「は、はい!」
 急に呼ばれ、耳の中に心臓があるのかと思うほど鼓動が飛び跳ねた。
「扉は開けておいてくれ。閉めておくには――もったいない景色だ」
 光の降る翠苑を見遣り、劉王の端正な顔がふ、と和らいだ。
「わ、わかりました」
 どれほど今の自分の顔が赤いか意識せぬようにして両開きの扉を開放すると、桔久はそそくさと部屋を後にした。
――ああ、びっくりした!
 早足で回廊を進みながら、桔久は胸を撫で下ろす。
――でも今日もいらしたわ!
 瑚蝶が梓宮に戻ってから、劉王は毎日瑚蝶の部屋にやって来るようになった。今日で三日目。以前はこんな頻繁に訪れたことはなかった。
変わったのはそれだけではない。あれほど尖った態度ばかり見せていた瑚蝶が、劉王の来室をすんなり受け入れたのだ。戸惑う様子はあるものの、劉王を見る眼差しはずいぶんと優しくなったように思えた。
 それは桔久にとって天にも昇るほど嬉しいことであった。
――もうあんなこと言わせないんだから。
 三日前、瑚蝶が戻った晩のことが甦る。本当は口論程度の喧嘩ではなかった。そのせいで翌日から同輩達の態度がよそよそしくなっていた。騒ぎを起こしたことは反省してはいるが、相手に謝るつもりは今もなかった。
――瑚蝶様のことをあんな風に言うなんて、許せない。
 翠遥宮を出て、居舎のある西内朝への回廊に出た。一度自室へ戻るつもりだった。
その時、「きゃあ」と騒ぎたてる声が回廊の先から聞こえた。同じ薄紅の衣を着た尚位の女官らがかたまって、黄色い声を上げている。桔久はとっさに近くの朱柱の陰に隠れた。
――また官吏を見て騒いでるんだわ。おめでたい人たち。
 この回廊からは外朝の殿下がよく見える。官吏達が出仕する時間になるとああして隠れて見物に来るのだ。
 一度出仕になれば離職が受理されない限り、宮官達は城の外に出ることはない。桔久達下位の宮官は、上位の者達のように内朝や外朝に出て官吏と接する機会もない。だからこうしてお気に入りの官吏を決め、遠巻きに眺めてはしゃぐことが余興の一つなのであった。
 高揚していた気持ちが急に下がっていくのを桔久は感じた。だが自分には関係ない、そう言い聞かせて、遠回りになるが別の回廊へと進んだ。
――わたしは、忙しいんだもの。
 しばらく進んでいくと、後宮である四の宮と紅紫宮の近くに差し掛かった。騒がしさに桔久は色彩豊かな連なる殿下を見遣った。
 色とりどりの衣の階級の異なる宮官達が、忙しなく往来を繰り返している。いつもは無人の宮殿が今日は見違えるように華やかだった。
「始まったんだわ・・・・・・」
 ぽつりと桔久は呟いた。先日宮女募集の触れが城下におりたことは、宮官達の間でも騒がれていた。そのための、後宮に主人達を迎える準備がとうとう始まったのだ。
――嫌だな・・・・・・。
 複雑な思いで、桔久は四の宮の奥に位置する紅紫宮を見上げた。
 花の香りを含んだ春風が、回廊を吹き抜けた。
毅然と立ち並ぶ朱塗りの柱と優美な曲線を描く濃緑色のいらか、劉王の正妃となる婦人が住まう気高き宮殿――他の女官達が官吏を追うのに夢中になっているように、桔久はここから麗しいこの宮殿を見上げるのが何よりも好きだった。
――もしも、劉王が瑚蝶様をお選び下さったら――
 そんなことを考えては、溜め息に掻き消され。

『妃の座でも狙って戻ってきたのでしょうよ。卑しいこと』

 先達の尚位が漏らしたあの一言を思い出し、桔久は唇を固く引き結んだ。
「あら、あなた何なさってるの?」
 回廊に立ち尽くしていた桔久の横で、控えめな足音が立ち止まった。はっと我に返って振り向けば、山吹色の衣を着た同年頃の少女が呆れた様子で立っていた。それは、桔久より一つ上の階位である上尚位の美芳びほうであった。
「まさか、羨ましくて見学にいらしたのかしら?」
 時には見事な琵琶も爪弾く白く細い手を口元に当て、美芳が棘のある一言をよこす。宮官試験を上位で通過し上尚位に上がった美芳は、家柄もそこそこ良いせいか少し気位が高く常に人を小馬鹿にした態度をとる。
「こちらは大忙しよ。私たちみな、新しい主人を迎える準備で・・・・・・ああ、あなたには関係なかったわね。あなたにはもう主人がいらっしゃるんですもの。こんなところで呑気に見物していていいのかしら? また逃げられないように見張っていた方がいいんじゃないの?」
 鈴の音のような優しい声音が、高慢な笑いに変わる。桔久は美芳を睨み上げた。
「瑚蝶様を侮辱しないで。許さないわよ!」
 桔久の威勢に、衣の袖で顔を隠すようにして、美芳が恐ろしげに首を小刻みに横に振った。
「おお、怖い。鈴珪りんけい姐さんのように髪を引っこ抜かれたらたまらないわ。すごい騒ぎだったわねえ、この間は。あなた、気狂ったのかと思ったわよ。どうしてあんなに怒ったのかしら」
「――それはジエが瑚蝶様を侮辱するようなことを言ったからよ! 自分の主人を蔑ろにされて怒らない方がおかしいわ!」
「ふふふ、誇れる主人ならね。あなたと私たちは違うのよ、桔久。私たちはこれから陛下の嬪妃にお仕えするの。――でもあなたは、この先も後宮の外」
 踏み出しかけた足を、桔久は引き戻した。
 何百という劉王の妃が決まれば、尚位や上尚位の宮官らはその婦人たちに仕えることになる。先程の少女たちもそうだ。だが瑚蝶の侍女である桔久は、華麗を競う姫君の集うこの宮には上がることは出来ない。何よりも夢見ていたこの場所に――
 それが桔久と彼女たちの大きな違いであった。
「さっさとお行きなさいな。ここはあなたのいる場所ではなくてよ」
 美芳の辛辣な言葉に突き飛ばされるように、桔久は踵を返して走り出した。
 回廊を抜け、向かう当ても定めずひた走る。西内朝を出てしまっていることにも気付かずに。
 悔しさが身体中を駆け巡った。震える唇をきつく噛み締める。鼻の先をつん、とした痛みが突き抜けた。そうして足ももつれ、やがて息も途絶えがちになった桔久が辿り着いたのは、白色と淡紅色の花が満開に咲き誇る内苑だった。
 一陣の温風が吹き抜けた。木々が騒ぎ、二色の花弁が次々に舞い散る。絶え間なく季節はずれの雪のように宙を舞い、やがて地面をその色で埋め尽くしていく。
 その光景があまりに美しくて、桔久は自然と泣き声を上げていた。
 ここが何処であるかなどどうでもよかった。
 とにかく悲しくて、苦しくて。立ち尽くしたまま桔久は声を張り上げて泣いた。
 風が弄ぶ花びらの中、誰にも届かぬ嘆きは虚しく空に吸い込まれていく。梓宮に来て、初めて孤独を感じていた。
 そうして空を仰ぐのが辛くなると、やがて小さく膝を抱えて蹲って溢れる涙を飲みこんだ。
風がやみ、一しきり踊った花びらが静かに桔久の周囲に舞い降りていく。少女の嗚咽だけが、静寂の降りた庭院に残る。いつ尽きるか知れぬその悲しみを、小さく可憐な花をつけた枝々が穏やかに見守っていた。
 そうして暫らく時が過ぎ泣き声がおさまった頃、蹲る桔久の背に問い掛ける者があった。
「どうされましたか?」
 伏せていた涙に濡れた面を桔久は浮かせた。
「あの、ご気分でも・・・・・・お悪いのですか?」
 控えめに案ずるその声を、疎ましげに思いながら桔久は振り返った。
「あ・・・・・・」
 振り向いた泣き顔の桔久を見て、背後にいた少年は少しばかり目を見張った。それは桔久も同じだった。
 佇んでいたのは、十六、七と見える少年だった。薄青色の袍の上にゆったりとした翡翠色の外套を羽織っている。肩にかかるくせのない黒髪が縁取るその顔は、少女のように整っていた。
――誰・・・・・・?
 官吏だろうか。それにしては随分と若いような気がする。官女服の袖でぐいと顔を拭って桔久は立ち上がった。
「ご心配なく。塵が・・・・・・目に入っただけです」
「でも」礼をして立ち去ろうとすれば、少年にすかさず呼び止められた。
「でも、声が聞こえました」
 その無神経な引き止めに、桔久は呆気にとられた。
「・・・・・・急に背後から女性に声をかけるなんて失礼ですわよ。それにもしもわたしが泣いていたとしたら、何も訊かず立ち去るのが礼儀ではありませんか?」
 赤い目を吊り上げ少し憤慨している顔色を見せれば、少年は真顔で言った。
「いいえ、そ知らぬ振りなど出来ません。泣いている女性を放っておくのは、禁苑の桃を盗むのより罪深いと、父が言っていました」
「は・・・・・・桃・・・・・・?」
 少年が真面目な面持ちでこくりと頷く。彼の父親がどうしてそんな話をしたのかはわからないが、それは今の桔久にとって大層お節介な助言であった。それを一字一句違えず詩の暗誦をするかの如く鵜呑みにしている少年もどうかと思うのだが。
「はい。ここは李花の庭院ですよ」
 少年の品格漂う横顔を追いながら、桔久は上を仰いだ。純白と淡く緋色に色づくこの天蓋は、李の花であった。
「梓宮の李は花の散るのが遅いんです。あと半月ほど、ご覧になれますよ。美しいでしょう」
 風がなくとも舞い散る花びらは、胸に染み入る優しい色をしている。掴んだ途端に消えてなくなってしまいそうだ。桔久の目頭がまたじんわりと熱くなった。
「余計なことかもしれませんが・・・・・・よかったら私に打ち明けてみませんか? 話して楽になるということも、時にはありますよ」
 少年の眼差しがあまりにも優しく綺麗で、桔久は思わず目を逸らした。子供のように大声で泣き喚いたことが急に恥ずかしくなった。
「・・・・・・悔しかったの、酷いことを言われて」
「どんな?」
 そよ風のように心地のいい少年の声が先を促す。誘われるまま、桔久は胸の内を言葉に換えていく。
「わたしのお仕えする方を、悪く言ったわ。あんなにお姿もお心も清らかで美しい方は他に在りはしないのに・・・・・・卑しい身分だと。あの方を知っている人はそんなことは言わない。でもわかってくれない人もいるわ。だからわたし、その人と」
「・・・・・・言い争いになった?」
「ええ・・・・・・でもそれだけじゃないわ。顔を引っ掻いたし、髪の毛も何本か抜いちゃったの。だって許せなくて、何も知らないのに――。でもみんな怖がって、急によそよそしくなったわ」
 陰でひそひそと囁かれ、視線を逸らされる。なるべく意に介さぬようにと心がけてはいても、寂しさは拭いきれない。
「それで」少年の差し出した手の平を、白い花びらがふわりと掠めた。
「それであなたは、後悔をしているんですか?」
「え?」
「その方と仲違いをしてしまったことを、後悔しているんですか?」
「・・・・・・いいえ、してないわ」
 少年の問いに、桔久はきっぱりと頭を振った。
「なら、いいじゃありませんか。あなたは正しいと思うことを貫いたんだ」
 屈託無く破顔してみせた少年に、 え、と桔久は問い返す。
「正しいと思うことを成し遂げるのは、案外勇気のいることだと私は思います。そのせいで、人を傷つけたり大事なものをなくしたりすることも・・・・・・ありますから。でも素敵だと思います。大事な人のために勇気を出したあなたは。本当に大切なんですね、その方が」
 波打っていた心の水面に、急に凪が訪れた。先までささくれ立っていた場所に、少年の言葉が染み渡っていく。同時にくすぐったい気持ちも徐々に込み上げた。
 昇ってくるその疼きに、桔久は笑みを零した。
「・・・・・・おかしな人。まるで老師みたい。あなた、まさか偉い官吏なの?」
 腰に帯びた翠の佩玉を外套で隠し、少年はとんでもないと否定する。
「只の一府庫番です。書が好きなので、楽しいですが」
 そう、と答えつつ、桔久は内心安堵する。もしも高位の官吏だったらこんな風に気安く言葉を交わすなど言語道断、あってはならないことだからだ。それにそんなお偉方が自分のような下位の者を案ずるわけがないと桔久は納得した。
「・・・・・・ありがとう。ちょっと元気が出たみたい。不思議ね、初めて会った人に励まされるなんて」
 正しいことは自分で決める、例え周りと違ったとしても。確かに後宮は夢だった。けれど、今瑚蝶に付いていきたいという気持ちも事実なのだ。
 少年の励ましが爽やかな風を起こし、心の錆を掬い取ってくれたような気がした。
「じゃあわたし、戻るわ。あ・・・・・・ねえ、あなたの名前を聞いてもいい?」
「・・・・・・名前? 鳳・・・・・・小鳳シャオフォンとお呼びください。お役に立ったなら幸いです。ではお気をつけて」
「わたしは桔久よ、ありがとう小鳳。じゃあ、また」
 笑顔で頷き衣の裾を翻すと、桔久は走り出そうとした。だがすぐに立ち止まって、もう一度おずおずと少年を振り返る。
「・・・・・・あの、ここはどこなのかしら。翠遥宮に行くには、どうしたらいい?」
 
 薄紅の李花のように両頬を染めた桔久を見て、少年は笑った。












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