【壱】 春 来
春風礼賛。
山からのおろしに、国中に咲き乱れた金陵花の花が、まるで天に導かれるように舞い上がる。
「瑚蝶!」
今日も自分を呼ぶ、高慢な声。
悠然と歩む足音が近づいて来るのを見計らって、瑚蝶は居室を出た。
「どういたしました? 劉王」
背までの垂髪に金色のかんざし。朱を基調とした唐衣をまとった美女は優美に微笑んだ。
「朝からどこに隠れていた? 俺に探させるとはいい度胸だな、瑚蝶」
そこに立っていたのは、漆黒の髪を朱の紐でまとめ上げ、青の長衣を羽織った統の皇帝劉閃王。気の弱い者ならば、目が合っただけで尻込みしてしまうほどの威圧感が漂う。
ひた、と見据える瞳は、奥の奥まで澄んだ輝きをたたえている。
秀麗な筈の顔立ちは、いつもの通りの仏頂面だ。
「申し訳ございません。少しばかり池の方へ…。まさかご心配なさってくれたのですか?劉王」
皮肉を交えながら、瑚蝶は艶麗な微笑みを見せた。
「逃げられては困るからな。いい加減、その仮面を取ったらどうだ」
ふん、と鼻を鳴らし、劉王は桟へ寄りかかった。
相手に冗談など無駄だ。それよりか、さらに皮肉が返ってくる。
少し離れたところで、女官らが二人を見守っている。
――そう三年前、ここへ瑚蝶が連れてこられた時から、二人は異常なまでの噛み合わなさを見せていた。
「お前もおなごなら、もう少し黙ってはいられないのか」
何度そんなことを言われたか……。
遠巻きに息をひそめて見つめる女官らに、劉王が一瞥を送った。それに気付いて、彼女らは慌てて四方に散っていく。
「高みの見物…か」
「物好きが多いのですよ。貴方様のような峻厳な方ともなれば、弱点を見つけるのがいわば余興となっているのではありませんか?」
「相変わらず口の減らぬ女だな」
軽く鼻で嗤って、劉王は桟から離れた。
「琴でもお弾きいたしましょうか」
「いや……」
瑚蝶に背を向けかけ、劉王は再度振り返った。
「野駆けに行く、つきあえ」
「は?」
問い返すと、もう一度言うのが疎ましくなったか、突然腕を伸ばしてきたかと思うと、いつ
ぞやのように劉王はひょいと瑚蝶を抱き上げた。
「き、きゃあ! りゅ……劉王! ご冗談にも程があります!」
そう訴えるが、相手は高らかと笑うだけだ。
「お前の慌てふためく姿も何年ぶりか。大人しくそうしておれ」
「劉王っ」
すたすたと、人一人抱き上げているとも思えぬ速さで、劉王は中門へと向かっていく。
粗暴さとたくましさを合わせ持つ王だ、女の瑚蝶一人抱えることなど朝飯前であろうが、瑚蝶にとっては何とも耐え難い。
――あの時もそうだ。
三年前の、国を失くした晩秋の節。
目を覚ませば、そこに自分をさらった劉王がいた。状況を把握出来ずうろたえる十六の娘に、王はこう言った。
『今日から俺が主人だ。心して仕えよ』
あの傲然とたたずんでいた姿。一年後には皇帝の座に就き、統は先代に劣らぬ発展を見せている。
時には峻厳にして沈着冷静。荒削りな部分を除けば、恥じることのない質実剛健な王。その王によって、突然の襲来の果て、家族を殺された。そして仇が主として君臨するこの梓宮が瑚蝶の檻になった。
“隙を作った方が悪い”
もしなぜ、と問うならば、そう答えが返ってくるに違いない。今も昔も瑚蝶にとって決して心を許す相手ではないのだ。
「王! どこへ行こうというのですかっ」
ぽかんとしてこちらを見ている女官や文官らの視線を気にしているのは瑚蝶だけであろう。
いつの間にか中門に到着し、そしてその側に、劉王の馬が繋がれて主人を待っていた。
「劉王! お戯れもほどほどに……」
そう最後の試みで叫んだ瑚蝶を、劉王はひょいと馬の背に乗せた。そして自分も愛馬にまたがる。
「ただの野駆けだ。白高の南まで走るか」
劉王が馬の腹を蹴った。一声いなないて、馬は門を勢いよく抜けていく。
風を切るように黒馬は緑の敷かれた大地を疾駆する。
――い、息が……。
劉王の性格そのままの走りに、瑚蝶は思わず劉王の胸にしがみついた。
吹きつける風は、地に立っている時より倍に冷たく瑚蝶に当たる。
瑚蝶の長い髪も、風に従って後ろに流れていく。
「りゅ……劉王……!」
言葉もうまく繋がらない。今は顔を埋めているからわからないが、劉王はどうだろう。きっと涼しい顔をしているに違いないが……。
「どうだ! 気持ちよかろう」
案の定、からかうような声で劉王は尋ねてくる。何も言えないのも口惜しいと、瑚蝶はありったけの声で返した。
「こちらは……息もままならないですわ……!」
「はははは! お前の口も多少大人しくなるな!」
どこか嘲るような口振り、いたわりもない。さらに早くと、劉王は鞭を振るう。
――気が遠くなりそうだ。
悔しいが、今は劉王の胸しか頼れるものはない。しかし皇帝が政務を放り野駆けに行くなど聞いたことがない。後で劉王お付きの誅易将軍あたりに小言を言われるだろうと、瑚蝶は思った。
統の都白高を遠目に南へ。延々と続く草原を駆けていく。
やがて都も草原の彼方へ消えた。
どのくらい走ったであろうか。
いつの間にか、冷え切った瑚蝶の肩を劉王が抱いていた。
「――――顔を上げろ、瑚蝶」
劉王の声がやけに耳に届くと思って顔を上げた途端、思わず声が漏れた。
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