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春夢槿花
作:貴水 玲



【拾八】 旭陽の丘


 長い長い時間に思えた。
 阿榑の背にしがみついたまま眠っていた瑚蝶は、瞼を下ろした視界が白んでいくのを感じて目を醒ました。
 微睡む意識を、激しく地面を蹴って走る馬蹄の音が割いた。耳元で吹きすさぶ風の鳴く声が、その駿足を物語る。
 青草の茂る海原を二頭の馬は駆け抜けていた。
 東に見える山の裾の方からは、夜陰を押し上げて白日が覗き始めていた。まだ微弱な暁の光芒が、指標のように一筋一筋と伸び始めている。
 後ろから追って来るもう一つの馬蹄の音を聞きながら、手綱を握る阿榑の後姿を瑚蝶は見上げた。
 山を降りた頃は気遣って「大丈夫か」「寒くないか」としきりに話し掛けてきた阿榑だったが、やがて瑚蝶の言葉が途絶えがちになったのに気付いたらしく言葉を切った。その後一気に気が抜けたのか、そのまま瑚蝶は深い眠りに落ちてしまったのだった。
 短時間でも馬上で過ごすのは乗馬になれない体には辛いものがある。体に貼り付く蒼碧色の薄手の唐衣は、冷たい風に馴染んで纏う意味をなくしてしまったかのようだ。だが阿榑の背中の温もりがそれを忘れさせてくれた。
「瑚蝶、起きているのか?」
 前を向いたまま阿榑が尋ねる。抱きつくようにして寄り掛かっていた体を、瑚蝶は僅かに起こした。
「はい。・・・・・・申し訳ありません、私」
「いいんだ、構わん。――これからお前を梓宮に送り届けるが、ちょっと寄り道してもいいか?」
「はい・・・・・・」
 ――梓宮。
 阿榑と蓉洵が助けに来た時点で、劉王の斟酌だとすぐにわかった。もちろん城に戻されることも想定内にあった。
 ――どんな顔で会えばいいの?
 瑚蝶は自問する。どんな罰も覚悟しなければいけない。それを与えるあの涼しい双眸を、真っ直ぐに見上げることが出来るだろうか。
 後どのくらいで着いてしまうのだろう。捨て去ったはずの、あの壮麗な牢獄へ――
 訊けずに阿榑の背に額を凭れていると、阿榑が強く手綱を引いた。一声嘶いて、馬は失速しやがて止まった。
「――降りられるか? 瑚蝶」
 少し首を後ろに反らし、阿榑が伺ってくる。瑚蝶は浅く頷いた。
 隣りに並んで止まった馬から蓉洵が降り立った。さあ、と促され瑚蝶は蓉洵の手を借り、黒馬の背から降りた。
 地面を踏んだ布沓の裏に柔らかい感触が当たった。
――金稜花。
 開花して二、三日で儚く散る春花の敷き詰められた原野に瑚蝶は立っていた。見渡す限り一面。都に近付くにつれこの花が地を覆う密度は濃くなっていく。もう白高の近くに来ているのだと瑚蝶は悟った。
「あちらへ」
 蓉洵が少し高台になっている方角を差した。
 頂上に一頭の白い馬が止まっている。馬具が取り付けられているが、その背には誰もいない。
――あの馬は。
 瑚蝶は蓉洵を振り仰ぐ。小さく頷いて、微笑を浮かべた蓉洵の口元が「さあ」と動く。
 朝風にさらさらと金稜花が靡く。足元に広がる金色の波の中を、瑚蝶はゆっくりと丘の方へ近付いていった。
 勾配を昇ってくる瑚蝶を見て、白馬が耳をぴくりと動かした。そして喚起を促すように短く鳴いた。
 瑚蝶は両足を止めた。
 高台の向こう側、下りの勾配の方から人影が現れた。丘の上まで来て馬の傍で立ち止まり、顔を寄せてきた白馬の鼻先を優しく撫でる。背に垂れる、朱色の髪紐で束ねただけの黒髪が朝風に揺れた。
「遅かったな」
 朝陽を集める丘の上から、男が顔を上げた。
黄玉の如く眩耀なる花と清澄な神気に満ちた天との間に立つその姿を、一瞬幻かと瑚蝶は見紛う。
「・・・・・・劉王、いつから・・・・・・ここに?」
 切れ長の双黒が、ふ、と和らいだ。
「さあ、いつからであろうな。随分待ったのは確かだ」
 静謐な美声が瑚蝶の耳元を流れていく。それが揶揄であるのか本音なのか読み取ることは出来なかったが、責めているように聞こえた。
「お礼を・・・・・・言うべきなのでしょうか」
 助けられた、のだ。
 諦めかけていたあの時、確かに光が溢れるのを感じたのだ。
 見捨てられると思っていた。仕方ないとも。
 しかも隣国の皇太子である阿榑と統国禁軍の名武官と名高い蓉洵を使役し、自分一人のためにあんな演出までさせて――
 それを思うと、詰りたい気持ちも大いにあった。
「お前次第なのではないか? それは」
 明けていく空をに劉王は目を向けた。
「お前が何を考えているのか、俺にはわからぬ。何をすれば喜ぶのかも、何をしたら傷つくのかも――誠のところはわからぬ。だから問うことにした」
 そして再び瑚蝶へ向き直り、左手を差し出した。
「もう一度、この手を取るか否かを」
 自分の方へと向けられた手の平を呆然と瑚蝶は見つめ、そして劉王を見つめた。劉王は続ける。
「いつまで籠の鳥かと、そう言ったな。籠の中に戻るかそれとも自由を得るか、それはお前が決めろ。俺はその決断に口出しはすまい」
「どうして・・・・・・?」
 矛盾している、と瑚蝶は思わずにはいられなかった。
「貴方は言ったわ。“ 永遠に ”だと。私に自由はないと。なのになぜ訊くの?」
 銀睡蓮の庭で、そう言った。瑚蝶の心を打ち砕く刃のような言葉を。
 常に自意を固持する男が、こんな殊勝な態度をとるということが信じ難かった。
 今も傍にあったはずの名誉も幸福も憚らず蹂躙してきた敵へ、瑚蝶は潤んだ瞳を向けた。だが劉王は目を奪われるほど穏やかに微笑んだ。
「金稜花の花言葉を知っているか?」
 瑚蝶は首を横に振る。
「“ 心意 ”という。そこには二つ、意味がある」
 鮮烈な光輝を連れて朝陽が上昇していく。晨暉を戴く夢のように儚い黄金の大地が覚醒を遂げていく。
「この花が咲く場所は、嘗て戦場だった。戦火で荒れ果てた地に平和の芽吹きを願って花を植えたのは、我が国の始祖である王と民達だ。金稜花は安寧の象徴でもある。そして人々の心と天子の心を繋ぐという大意を持っている。民の“ 真意 ”と天子の“ 宸意 ”、どちらが欠けても真の泰平は来ぬ。――それを繋ぐ役割を担うのが、皇帝だ」
 足元に咲く花を、屈みこんで劉王は一輪摘み取った。
「――戴冠の儀の後、「授花」という儀式がある。臣下より金稜花を賜るという儀だ。王にとって金稜花は冠と等しい価値がある。花は民の心の代物――ならばこの花の下では、俺とお前は対等でなければならぬ。さあ、選べ」
 花と共に突き出された劉王の手に瑚蝶は戸惑う。
 選べという割に、その口調は依然として傲慢で強圧的なままだ。だが笑みを取り払った劉王の表情はやけに真摯だった。
――自由になれる・・・・・・?
 その手を取らなければ。瑚蝶の視界に映る一輪の花が笑うように揺れた。
「どうした。お前の――望む答えを言えばいい」
 劉王が高台を降り、瑚蝶の前に立った。動揺が伝わりそうなその距離が瑚蝶を焦らせる。
――どうして迷っているの?
 簡単なこと。差し出されたその手を拒めばいい。たとえ離れたとしても憎しみが消えるわけではない。あの手の中にいたお陰で、今日がある。けれど、傍に居続ければ永久に苦しい思いに苛まれるだろう。それよりは寧日を送ることが出来るはずだ――
「心配するな」
 宥めるような声音が瑚蝶の耳朶に降りる。
「どこへ行こうと不自由ない生活が出来るよう保障はする。放り出したりはせん」
 まるで結果を知っているかのような言い方。苦しいほど熱い気持ちが瑚蝶の喉元に込み上げた。
 憎まれ口以外に、劉王から優しさを感じる言葉など数えるほども掛けられたことなどない。なのにこれほど突き放されたような気持ちになったことなどなかった。
簡単に手を離されることを知ると、優しい言葉さえ刃のように胸を抉る。なんて――心とは支離滅裂なものであろうか。
「それが――」 せり上がる熱で言葉を見失う前にと、瑚蝶は問い掛ける。
「貴方のお気持ちですか? ・・・・・・用済みになったから、放逐するということですか?」
「・・・・・・そうではない」
 劉王は溜め息混じりに首を振る。ちくちくと内側から刺すように疼く左胸を瑚蝶は己の手で押さえつけた。
「だったら・・・・・・! 貴方の本当のお心も示してください。私たちが対等であるべきなら。この花の前で」
 民の心と王の心、金稜花の花園はその二つが向き合う場所。それならば、ただ答えを求められるのは不公平だ。瑚蝶の主張に、劉王は冷涼な目元をわずかに伏せた。
「俺の気持ちを押し付けることは出来ぬ。強いてまで留め置くべきではないのだろうと、思ったからこそ問うている。民の行く末を俺は預かる身だ。だが――心まで独占は出来ぬ。厚顔無恥に踏み込む領域ではない。父も、俺にそう教えた」
 指に挟んだ一輪の金稜花に、劉王は小さく笑いかける。愛しいものにするように。そしてふと真顔になって視線を上げた。
「だが、もしもお前の中に少しでも迷う気持ちがあるのなら――もう一度、この手を取れ。傲慢かもしれぬが、俺はそう望む」
 
 大気が大きく震えたのを感じ取った気がした。

 今の言葉は本当に劉王の言葉だろうか。その唇が紡いだものだろうか。
 劉王の声の表情は変わることはない。愛のさざめきのように甘くもなく、いつもの戯弄のようにも取れる。
 だがそれがこの男なのだ――これが統率者として完全無欠を誇る男の精一杯の“ 素直さ ”なのかもしれない。そんな風に庇護してしまうのは、傍にいたがために生まれた情からであろうか。
「お前が戻らねば、翠遥宮は廃宮にしなくてはならぬ。あれはお前にやったものだ」
 気まずさを感じたのかまるで言い草のように、劉王が離宮の話を持ち出す。美しい庭、紅紫咲き乱れる泡沫の夢・・・・・・確かにあの場所には、安らぎがあった。
「・・・・・・貴方は、ずるいですわ」
 左胸に置いていた手を瑚蝶は離した。増していく疼きはもう、片手で押さえつけられるほど微弱ではなくなっている。
「私の気持ちを知っていて、いつも掻き乱すんだわ」
 そして疾風のように通り過ぎては、心を見失わせていく。気付けば瑚蝶の手の中に、可憐な一輪の花が咲いていた。
「――やはり、似合わんな」
 劉王が唐突に言った。いつの間にか不敵な笑みを携えて見下ろしている男を瑚蝶は仰ぐ。
「そんな暗い色の衣は。言っただろう、お前には朱が一番似合う」

――この気持ちを何と言おう。

 朝陽の宿るような温もりに満ちて、孤独な夜闇の中に在るように哀しい――相反する二つの気持ち。
 答えは今、出さなくてもいいのではないかと思った。
 もう少しだけ探したままで、いたいと。
 髪を結い上げていた宝珠の簪を瑚蝶は引き抜いた。足元の花の中にそのくすんだ黄金がぱたりと落ちる。
 支えをなくした美しい黒髪が瑚蝶の両肩に舞い降りた。
 瞬いた双眸から、一筋の熱いものが頬を伝っていく。それを隠すように、恵風が瑚蝶の黒髪を優しく掬い取っていった。




「ちっ、馬鹿馬鹿しい」
 高台で向かい合う二人の姿から目を背け、阿榑が不満げに舌を鳴らした。
「最後はいつもあの野郎に掻っ攫われる。なんでオレがこんな――」
 “ 損な役回り ”と続けようとして、阿榑は口ごもる。何が損なのか、よくわからなかったからだ。
「陛下は殿下の力量を信頼されて任されたのですよ。賊討伐に対する熱意を誰よりもご存じだから」
 再び馬の背に跨った蓉洵がそう執り成そうとするが、阿榑の溜飲は解消されない。
「あいつの、そういうところがむかつくんだっ」
 寝入り端だろうが起き抜けだろうが是非を問わず呼び出し、厄介事を押し付けてくる。火中の栗を拾うのはいつも阿榑の役割で、当人は玉座から一しきり説明をよこすだけだ。確かに統の皇帝の座は大陸随一の権威がある。その一声が活殺自在の権を握るとまで言われるほどだ。だが、友人でなかったら今頃とっくに絞め殺していると阿榑は思う。
 だがその厄介事は大抵が、血気盛んな阿榑にとっては格好の憂さ晴らしの手段であった。まるで阿榑の張り詰めた精神状態を見切っているかのように、時宜に適った要請なのだ。だから尚更いけ好かないのかもしれない。結局言いなりになっている己にも腹は立つのだが。
――胸がやける。
 瑚蝶と劉王が肩を並べているのを見ると、間を割いてやりたい衝動に駆られる。生来気の長い方ではないが、たちまち苛立ちが湧き上がってくるのだ。その感情の正体に阿榑は気付いていない。
「オレは帰るぞ。役目は果たしたからなっ。やらねばならんことは山のようにあるんだ」
 聞こえよがしに大声で言い、阿榑は愛馬の馬首を返した。これ以上、正体不明の渦巻きに掻き乱されるのはご免だった。
「はあっっ!」荒く息を吐き出すと、阿榑は馬の脇腹を蹴った。たちまち駿馬は黄金の花園の向うへと遠ざかって行った。
 「・・・・・・俺も戻るとするか」
 剥き出しの感情が浮き彫りになったその背中を、やれやれと蓉洵は見送った。
 高台の方を一瞥し、ぼろきれ同然の己の姿に視線を落とす。
 こんな姿を部下達が見たら何と言うだろうか。品格も威信も台無しである。
「二割増請求だな・・・・・・」
 青雲の伸びていく空に嘆きを預け、蓉洵も城の方角へと向かった。





「瑚蝶さま・・・・・・っ!!」
 馨しい花々の香りに包まれた翠遥宮の回廊を一人の少女が駆けて来る。
 女官服の裾を持ち上げるのも忘れて何度も転びそうになりながら腕を伸ばしてくるその姿に、瑚蝶は両手を広げた。
「瑚蝶さまあっ!!」
 胸に飛び込んで来るなり、少女は声をあげて泣き出した。しゃくりあげる肩を、震える背中を瑚蝶は愛しむように優しく撫でていく。
「桔久・・・・・・」
 触れ合う体から、確かな体温が伝わってくる。
 そのぬくもりの心地よさに、瑚蝶は目を閉じた。


この回で前半部は終了となります。
ここまでお付き合いくださった読者様方、本当にありがとうございます。
後半部もよろしくお願い致します!











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