【拾六】 理 由
「――――なぜ?」
火の気が失せ、暗澹とした冷気が再び蔓延した石室の隅に向かって瑚蝶は問い掛けた。
そう訊くより他はなかった。その答えこそが瑚蝶のあらゆる惑いを解く鍵だった。
「なぜなの? なぜ貴方が賊徒などに。劉王の腹心の貴方が、私を拉致するなど――」
言いたいことは波の応酬のように次々に押し寄せてくる。だが石室の隅で先程のように座り込んだ青年は顔すら上げない。再び纏った部屋中の陰影を集めたような黒衣に抱かれるようにして、じっと蹲っている。
「なぜなの? 邦昌――」
その名を口にしたくはなかった。麻の敷物の繊維を毟り取るように、瑚蝶は両手を握り締めた。
“ この子はね、お前を監視させる為に梓宮に送ったのさ―― ”
朱麗の歪んだ笑い声が脳裏にこびりついている。
朱麗に何を言われようと最後の最後まで持ち続けていた瑚蝶の淡い期待は、仮面を取り払った瞬間に裏切られた。その下から現れたのは、紛れもなく毎日のように梓宮の庭で言葉を交わし親しみすら覚えていた男――邦昌だった。
――騙していたというの?
今まで見せた笑顔も交わした言葉も、不義の臣であることを隠すための虚偽だったというのか。同じ場所で過ごした日々の中、その心は常に劉王に、いや梓宮に背いていたというのか。この三年間ずっと、この日のためだけに。
瑚蝶の中で戸惑いと疑問の波が失意の渦へと変わっていく。
――いったい何度味わえばいいの?
絶望は心に宿る優しい思い出をすべて闇へ沈めようとする。身体の内側を削り落とされていくような苦しさに、瑚蝶の内にある激しい怒りが急き立たされた時、
「・・・・・・すまない」
それを察知したかのように消え入りそうな呟きが聞こえた。
「すまない、瑚蝶」
黒衣から顔が起き上がった。その顔にはもう仮面はない。真実の姿だけが映し出されていた。口元からはいつもの軽薄な笑みは一掃され、気概に満ちていた黒い双眸は生気を失ったようにくすんで見えた。
「なにが・・・・・・なにがすまないなの! ちゃんと答えて! あの人の言ったことは本当なの? 最初から裏切るつもりで私に近付いたの?」
瑚蝶は声を張り上げた。肯定するように邦昌はわずかに面を伏せた。そして沈んだ弱々しい声で答えた。
「――本当だよ。オレは祖王の許から遣わされたんだ。・・・・・・偵諜として」
水滴の音は相変わらず続いていた。超然とした傍観者のように乱れることなく、一定に。
身体中の力が足元に向かって少しずつ抜けていくのを瑚蝶は感じた。
「じゃああの女は――」
「・・・・・・ああ、あんたの父上の妹というのは本当さ。麗深公主、廟ではそう呼ばれていたらしい。そして、オレの母親だ」
最後に抑揚のない笑みを落として、邦昌は片手で顔を覆った。「つまりあんたとは血縁者ってわけだ、はは、は・・・・・・」
感情の抜けた邦昌の笑声に瑚蝶ははっとする。
従兄弟同士。
故意に断ち切られていたといってもいい繋がりが二人の間には流れているということになるのだ。邦昌自身をではなく、その内の見えない血流を意識するように瑚蝶は邦昌を見た。
「あの女には「血の繋がり」なんてどうでもいいことだけどな。あいつにとっての要所は、息子だろうが兄だろうが利用出来るかどうかってことだけだ」
憎しみの混じる低声で邦昌は吐き捨てた。その響きはまるで他人に対するように冷然としていた。
「どうして祖に加担など? 私や劉王、皆を欺いてまで。それが何を意図するかわかっているの?」
「――――」
「貴方も権力が欲しいの? 血を流してまで、何かを犠牲にしてまでそんなに汚れた名誉が欲しいというの?先帝の恩に報いる為に梓宮に来たと私に言ったのも嘘」
「・・・・・・違う!!」
身を乗り出して鋭く遮った邦昌に、瑚蝶はびくりと震えた。
「仕方が・・・ないんだっ! あの子の・・・・・・淋茗のためだ・・・・・・! そうでなかったら、誰があんな鬼畜のような女に従うか・・・・・・!」
悲調な叫びが、逃げ道を見つけられず壁で弾け石室内に降り注ぐ。こんなに取り乱した邦昌を見るのは瑚蝶は初めてだった。
「・・・・・・淋茗とは誰なの?」
「淋茗は」視線を背け溢れる感情をせき止めようとするように、邦昌は口元を押さえた。
いつも飄々として何事も俊敏にこなし、何食わぬ顔で食客を気取っていたとは思えないほど邦昌は動揺していた。今まで外すことを許されなかった仮面が、どれほど完固に不完全な内面を覆い隠していてくれていたのか思い知るほどに。
「淋茗は――オレの妹だ。祖王の後宮に取り込まれている。あの女が、自分の名利と引き換えに無理矢理放り込んだんだ・・・・・・! あの女にとって、子供はただの道具。必要な時に利用する為・・・・・・その為に生んだんだ」
口元を覆っていた邦昌の手が拳に変わる。塞き止めた激情を握りつぶすかの如くその手に力が込められていく。
「オレは・・・・・・祖で生まれた。生まれてすぐに農民の夫婦に預けられ、小さな農村で育った。朱麗はオレを捨てたんだ。初めから自分で育てる気なんてなかったのさ。そしてオレが五才の時、妹が生まれた。あいつは妹まで・・・・・・捨てた。でも養父たちは妹も引き取ってくれたんだ。本当の家族として・・・・・・オレ達を迎えてくれた。でも次第に内乱が激化して新たに課された重税で生活は苦しくなって、オレ達は国を捨てて統に逃げた。前にお前に言ったことは嘘じゃない――先帝から受けた恩義に報いようとオレは士官になるつもりだった。あの日・・・・・・あの女が妹を連れ去れに来たりしなければ――」
それは目の前が暗闇で覆われた瞬間だった。助けを乞い泣き叫ぶ妹の声は今も邦昌の耳に残っている。
“ 妹を助けたかったら、母さんの言うことを聞くんだよ ”
実の娘をまるで家畜のように祖王に売り、母と名乗る魔物は実の息子に取引を持ちかけてきた。
邦昌に選択権などあるはずもなかった。だから取ったのだ。そのどす黒い貪欲な手を。
祖王の息のかかった張蛾一族に身を投じ、命じられるままに凶行を繰り返してきた。文身を施さなかったのはせめてもの抵抗だ。罪責の念から仮面を下ろし街や村を襲い、人を殺し、財貨を奪った。数え切れないほど、手を汚してきた。
挺身と引き換えに妹を救えるのなら――その為だけに。
「・・・・・・今年で妹は十五になる」
今までは「幼さ」が妹を守る盾だった。だがもうそれも通用しないだろう。
祖では女は十五で成人となる。比類なき好色家である祖王がそれを見逃すはずはない。
「汚させるわけにはいかないんだ」
なんとしてでも守らねば。そのためには、身代わりが要るのだ――
「すまない、瑚蝶。すまない――」
拳を胸元に押し付けて、邦昌は何度もそう繰り返した。夜に怯える子供のように震える声で。
紡ぐ言葉を見つけられず、瑚蝶はただ邦昌を見つめていた。胸が詰まる思いがしていた。
「おい、交代だ」
その時突然扉が開き、若い男の声が割り入った。中に入ってきた覆面の男が顎をしゃくって邦昌を促す。
面を伏せたまま静かに立ち上がり、邦昌は壁際を離れた。染み付いた穢れのようにその身に巻きつく黒衣が、瑚蝶の目の前で翻る。
「邦昌!」
だが瑚蝶の呼び声は、邦昌の背中を引き止めることは出来なかった。
二人の心を切り離すように、石室の扉が音をたてて閉まった。
浅い眠りを何度か繰り返し、瑚蝶はゆっくりと麻敷きから身を起こした。
停滞した静寂と闇は相変わらず部屋中に充満していた。体温を奪う寒さも和らぐことはない。
ここに連れて来られてから、いったいどのくらいの時間がたったのだろう。
救いの手を期待してなどいないが、このままただ流れていくだけの時間に耐えるだけなどまるで責め苦のように思えた。
見張りの男は入ってきてから一度も口を開かない。邦昌のいた場所に胡座を掻いて陣取り、ただ寡黙に下を向いて座り込んでいる。大ぶりな布で覆面をしているためその容貌は定かではない。暫く動かないことから察するに、眠ってしまっているのかもしれない。
――今なら逃げ出せる。
瑚蝶は石室の扉を見た。だが動く気にはなれなかった。
そのまま飛び出したとして、どこに逃げる? もう行く場所などありはしないのに。
――桔久・・・・・・。
妹のような存在だった少女の笑顔が浮かぶ。
そして浮かぶなりその笑顔はたちまち千々に咲き乱れる花びらへ姿を変え、やがて夢想のように美しい翠遥宮を呼び起こす。その庭園を思い浮かべれば香気さえも鮮明に甦ってくるようであった。「檻」であったはずの場所は、今の瑚蝶にとって唯一の居場所でもあったのだ。
三年前、頑なにすべてを拒み隙さえあれば逃げ出そうとしていた自分が知ったら、羞恥に身を震わせ嘆くであろう。怨讐を忘れたか、と。
“ 俺が憎いか? ”
逃亡はいつも未遂に終わった。どこへ隠れようと劉王はいつも瑚蝶を探し当て、そして驕慢に囁いた。含み笑う声が耳朶に触れるたび、雪辱感に身を裂かれる思いがした。
――ばかだわ・・・・・・。
あの城で「守られていた」のだと気付いたなんて。家族を見捨てた肉親よりも憎いはずの敵の懐で。
だがもう遅い。すがりつくには遅すぎるのだ。
明日が来れば自分の運命はまた大きく変わる。そうやって命運とはいつも瑚蝶を翻弄し、凌駕していくのだ。抗えない力を以って。
――いったい何が出来るだろう、この二本の手で。
諦めて流されていくだけ? それとも、
瑚蝶は自分の手の平を見つめた。守られることに甘んじていたその頼りない手を。
そこに映し出される答えを求めるように――。
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