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春夢槿花
作:貴水 玲



【拾伍】 陰謀と呵責


 薄暗い場所で瑚蝶は目を覚ました。
 雨漏りのような水音がする。かすかに動いた指先に、冷たい何かが落ちた。
――寒い。
 意識とともに塞き止められていた身体中の感覚が溶け出したように戻ってくる。その途端に全身に痺れのような震えが走った。
 身体を起こそうとするが、予測なく気を失ったせいか力の入れ方がわからない。助けを求める声の代わりに、指先を一本一本確かめるように動かしていく。ざらざらとした感触が手の皮膚に触れた。どうやら麻のようなもので出来た敷物の上に横たえられているようだった。
冷え切った唇に己の息の温かさが触れる。震えるその吐息を、唯一聞こえる水滴の間隔に重ねるようにしてゆっくりと整えていく。 
――ここは、どこ・・・・・・?
 横倒れになったまま、瑚蝶は目だけを周囲に走らせた。
 夕闇が降りたような薄暗い空間。雨の降った後のようなじっとりとした冷たい空気が淀み、床の石畳は濡れて暗がりで不気味に黒光っている。家具のようなものは視界の範囲内では何も見当たらない。見えるのは、立ち塞がる床と同じ石の壁だけだった。
 背後の石壁越しに足音が聞こえてきた。
 四方に反響し幾重にも重なりながら、その音は徐々に近付いてくる。やがて足音はすぐ近くで止まった。扉の開く軋んだ音。そして靴音が中に入ってくる。背後からやってきた規則正しい歩行音は、瑚蝶の顔の前に来て止まった。黒い外套に覆い隠された足元から、ゆっくりと瑚蝶は視線を上にあげていった。
 視線が辿り着いた先にあったのは、瑚蝶が気を失う前に見た仮面だった。洞のような二つ並んだ楕円の穴が、瑚蝶を見下ろしている。震える唇を瑚蝶は小さく開いた。
「だ・・・・・・れ」
 水滴が連続して石畳に落ちた。
 仮面の奇人は無言で瑚蝶を見下ろしている。ただ静かに、人ではなく闇そのもののように。
「だ、れなの・・・・・・?」
 佇むだけのその恐怖に耐え切れず、瑚蝶は玄色の奇人にもう一度問い掛けた。だが仮面の下からはなんの返答もない。答えを拒むように背を向けると奇人は部屋の隅へ歩んで行き、壁際に座り込んでしまった。そしてそのまま蹲り、微動だにしなくなった。
 漸く強張りの解けてきた体を、瑚蝶は少しずつ起こし始めた。
 辺りを見回す。そこはまさに牢獄と呼べる場所であった。板を貼り合せた扉以外に窓もなく今が昼なのか夜なのかもわからない。
「ここはどこなの?」
 疑問を口にしても答えはない。
「貴方はいったい誰なの?」
 だが根気強く瑚蝶は続けた。謎に包まれた今の状況を少しでも解明せねばならないと思った。
「どうして・・・・・・私をここへ? 馬車を襲ったのは貴方の一味の仕業なの?」 
 己の声だけが虚しく石壁に消えていく。嘆息し、瑚蝶は目を伏せた。
――黎青様・・・・・・。
 まさか彼もどこかに捕らわれているのだろうか。それを確かめようと瑚蝶が再び口を開こうとした時、壁の向うから複数の足音が鳴り響いてきた。そして再び扉が開いた。
「――おや、起きていたかい」
 瑚蝶に向かって松明の灯が差し出された。眩しさに怪訝に細めた視界の中、灯りを持って入ってきた二人の男の間から一人の女が現れた。
 松明の炎に、金糸の牡丹の織り込まれた派手な繻子地の着物姿が浮かび上がる。ふくよかな体つきの中年頃の女だった。首や腕を飾る華美な宝飾品の音を纏わりつかせながら瑚蝶の前に進み出て、女は膝を折った。
「どれどれ、ちゃんと顔をお見せ」 
 瑚蝶の顎を女の手が無遠慮に掴み、上を向かせる。
「なるほどこれは上等だね。これならば祖王もお喜びになるだろう」
 紅を塗りすぎてはれぼったくなった紅い唇を満足そうに歪めて、女はしゃがれた声で笑った。目元に朱を差し黒紅で大きく縁取られた双眸が瑚蝶を眺め回し、弓月型に細められる。素肌が見えないほど白粉をはたいたその丸い顔は、笑うたびに深い皺の跡が刻まれる。過剰なほどに飾り立てたその姿は、美しいとは言い難い妖気が漂っていた。
「お前は母親によく似ているよ。あの女は身分は卑しかったが器量だけはよかったからねえ。それだけは有難いことだったね」
 血塗れたように女の唇が光る。顎を捉えられたまま、瑚蝶は女を凝然と見上げた。
「なぜ・・・・・・母を」
「ほほほほ、知っているとも。アタシの大嫌いな男の妻だからね。お前のこともよーく知っているよ、瑚蝶」
 まるで以前からの知り合いのような口振り。だが瑚蝶には思い当たる節はまったくなかった。
「貴女は・・・・・・いったい誰?」
 それを聞くと女は急に笑うのをやめ、冷めた顔つきになった。
「・・・・・・兄さんはやはりアタシのことを話さなかったんだね。どこまでも性悪な男だ。アタシはお前の実の叔母だっていうのに、お前が生まれたことすら知らされなかった」
――叔母?
 瑚蝶は駭然と目を瞠るしかなかった。父に兄弟がいることなど聞いたことがなかったからだ。
「アタシの名は朱麗(しゅれい)。お前の父親とは血を分けた兄妹さ。もっとも不仲だったから、そう言うのも虫唾が走るけどねえ」
 温度を排した冷えた声音に瑚蝶は混乱する。脳裏に悲惨な過去の場面が甦る。
「だったら・・・・・・だったらどうして」
「今まで名乗り出なかったかって? アタシはねえ、あの男が大嫌いだったんだよ。だからあの男やその家族がどうなろうとどうでもよかったんだ。死んでくれて逆に清々したくらいさ」
 肉付きのいい肩を小刻みに震わせて朱麗がせせら笑う。信じ難いその言葉に、瑚蝶の四肢に戦慄が走った。しかしそれは惧れではなく憤りだった。引き裂かれる思いがして瑚蝶は叫んだ。
「なぜ・・・・・・! なぜそんな酷いことを!!」
「なぜ? ぬくぬくと育ったお前にはわからないだろう。お前の父親の仕打ちでアタシがどんなに苦労したか・・・・・!」
 かっと目を向くと、朱麗は瑚蝶の顎から手を振り払い乱暴に突き飛ばした。
「自分が王位に就くと、邪魔だとばかりに和睦の為と称しアタシを祖の高官の元へ無理矢理嫁がせたのさ! 内乱や敗戦の余波でアタシ達が困窮した時も手を差し伸べてはくれなかった! 昔からそうさ。要領がよくて狡猾で、賢君の仮面を被り人を欺くのだけは巧妙で。思いやりの欠片もない男だったよ。アタシはいいように捨て駒にされたのさ!」
 朱麗が立ち上がる。麻の敷物に両手をついて体を支えながら、瑚蝶は朱麗を見据えた。
「・・・・・・なんだい、その目は。反抗的だね」
「父は・・・・・・父はそんな無慈悲ではありません! 誰よりも家族や民を愛し、砕心していました! 父を侮辱しないで!」
 感情に任せて声を張り上げるのは劉王の前でもほとんどなかった。少なくとも、劉王は両親のことを瑚蝶の前で愚弄することはなかったからだ。だが今目の前で肉親だと告げた女は、易々と父を侮蔑した。天涯孤独の身の上でなかったなどという喜びなど、微塵も生まれてこなかった。
「ふん! 偉そうな口を訊くんじゃないよ! 自分の置かれた状況がわかっていないようだね」
 鋭く咎め、朱麗は鼻頭にきつく皺を寄せた。
「なぜ私を捕らえる必要が? これが・・・・・・父への意趣返しだとでも言うの?」
「そんなちっぽけなことじゃない。アタシはね、兄がせしめた自分の財産を取り戻したいだけさ」
「財産?」
 両側に赤々と燃える松明が、女の邪悪な笑顔を浮かび上がらせる。
「廟を取り戻すのさ。祖王の力を借りてね。兄が死んだんだから、あの場所も城もアタシのもんになるのが道理だろう?」
「父も母も・・・・・・皆殺されたのよ。血のつながりがあるというなら弔おうという気持ちはないの!?」
「言ったろう、どうだっていいんだよそんなこと。兄が死んだという報せを聞いた時、やっと恵まれないアタシに好機が訪れたと思ったね。それなのに、統王は宣撫工作してあっさり領民ごと総てをかっさらっていっちまった。そしてお前もね。だから取り返すんじゃないか。祖王様がお力をお貸しくださるんだ」
「え・・・・・・?」
「お前だって統王が憎いんだろう? 形見を取り戻したいとは思わないかい? そのために協力しておくれ。祖王様の後宮に入るだけでいいんだよ。そうすれば統王はお前を取り戻す為に取引に応じるだろう」
 後宮――それはつまり祖王の妾妃になれということだ。取引――それは統に対しての宣戦布告にも値する。
祖王は大陸の最北の一領主に封じられ権力を奪われたと聞いている。領土を与えたのは三国の恩情からだ。なのにその恩恵の裏で未だに捲土重来を密かに目論んでいるというのか。そしてその引き金を引けというのか――
「私利私欲のために争いを起こそうというの? 私を――利用する為に故意に放っておいたというの?」
 そんな魂胆で自分をここに連れてきたのかと、瑚蝶は愕然とした。我欲にまみれた女の声も顔もひどくおぞましく感じた。
「そんなことをして取り戻しても、父上は喜ばない! 誰もそんなこと望まないわ!」
 滑稽にも思える朱麗の造り込まれた顔を瑚蝶は睨みつけた。だが朱麗は驕慢な笑い声で瑚蝶の糾弾を一蹴した。
「お前の父の為じゃない。アタシの為さ。是が非でも協力してもらうよ。・・・・・・安心おし、お前ならすぐ気にいられるよ。あのお方は若い娘に目がないからねぇ」
 喉の奥でくつくつと笑い、朱麗は両側に直立したままの男達に手の平を返す合図を送った。男達が扉まで下がっていく。
「いいかい、出発は明日の夜だ。逃げ出そうとしても無駄だよ、ここは山奥だからね。後で見張りを寄越すから、それまで見ておいで――――邦昌」

――邦昌?

 瑚蝶が振り返るのと、部屋の隅に蹲っていた黒い影がゆらりと立ち上がったのは同時だった。
――そんな・・・・・・まさか――
「こっちへおいで、邦昌」
 呼ばれるまま朱麗の方へ歩んでいくその姿を、瑚蝶は瞬きも忘れて追いかけた。仮面の奇人が朱麗の隣に立つ。自分の額の高さにあるその肩に朱麗は馴れ馴れしく手を置いた。
「お前のことはこの子が逐一報告してくれていたよ。随分と統王にかわいがられていたそうじゃないか。機が熟すのを待った甲斐があったってもんだねえ。お前は極上の取引材料になるよ」
 寄り添う二人の姿に、拒絶反応が沸き起こり瑚蝶は必死に首を横に振った。
「うそ・・・うそでしょう? 邦昌がこんなところにいるはず」
「あはははは! 何もかも手はず通りだよ・・・・・・ねえ、かわいいアタシの息子。さあ、仮面をとってご挨拶おし。お姫様には礼儀を示さなきゃいけないからね」
 朱麗の言葉に、黒衣の下から伸びた手がその身に纏う外套を引き剥がした。その下には男物の同色の短衣。肩から外套が滑り落ちた時、その腕に巻かれた白い包帯が露になった。
――まさか、そんな――――
 その包帯には見覚えがあった。
 身体から剥がした玄衣を石畳へと落とした手が顔を覆う仮面を掴み、ゆっくりと上に引き上げていく。
 そして瑚蝶の目に残酷な答えが映し出された。



 
 徐々に激しさを増していく雨音を、黎青はわずかに開いた蔀戸越しにぼんやりと聞いていた。
 正午を迎えた頃から澄み切った碧霄は黒雲で淀み、雷声をともなう驟雨に変わった。日の光を遮られて辺りは瞬く間に翳が落ち、休息のために与えられた梓宮内の客房にはすでに燭台に炎が明々と灯されていた。
身体は鉛の枷を付けられたように重くだるく感じた。空で唸る春雷でさえも手当てを施した右腕に響くほど、ひどい疲労感が身体中に瀰漫していた。劉王が用意させた紺青の寛衣の袖の上から、黎青は疼く傷跡を押さえた。
――何を後悔している?
 これでいいのだ、と己に言い聞かせ続けてどれほど時が経ったであろう。気付けば蔀の先は、堕涙の如く絶え間なしに雨垂れが落ちるほど濡れそぼっていた。
 随分と長い時間をこうしてただ窓辺に座って過ごしていたことに黎青は気付いた。その怠惰さを縛り上げ罵りたい苛立ちを覚える。
 自らの決断を受け止めれないのが不思議だった。
 どんなに酷薄な判断に到っても、今まで一度足りとも後悔の念など持ったことはなかった。人を切り捨てることへの罪責感など、持つだけ無駄だと知っているからだ。ましてや憔悴して無気力になることなど。荷が降りたという安堵からなのだろうか、それとも良心の呵責なのか――
――たった一人の女だ。どうなろうとこちらの預かり知るところじゃない。
 瑚蝶の存在は“ 悪腫 ”のようなものであったはずだ。災禍を引き寄せないうちに早めに取り除くのが常套手段、例え人道的でなかったとしても国命には変えられない。 
 だが実のところ、瑚蝶自身を疎んじていたわけではなかった。
 容姿もさることながら彼女の気立てやその挙止は、王族の出であるだけのことはあって群を抜く優艶さであると黎青は認めていた。
 だが美女に現を抜かし滅びた王朝は数多ある。劉王がそんな暗愚ではないことはわかってはいるが、三国が肩を連ね一致して治世を維持する為にはわずかであろうと危険因子は排除せねばならないと考えていた。
 時には残酷な判断をも下さねばならない。国を背負う者には私利を優先する資格はあってはならないのだ。
――だがどうして頭から離れない!!
 苛立ちを振り切るように黎青は卓子から立ち上がった。
 劉王と瑚蝶、二人が寄り添う姿に平安を覚えることも確かにあった。だから余計なのかもしれない。そして、居場所の見当がついていることもその理由の一つに違いなかった。
 ――斬り殺した男達の腕には、ある印があった。十文字の彫り物、それは張蛾(ちょうが)一族が施すという文身だ。
 先の大戦の後で行き場をなくし、賊徒に身をやつした祖の残党達は近隣諸国で残虐行為を繰り返すようになった。中でも安嶺山にはびこる張蛾一族の残忍さは脅威であった。 西崘筆頭による討伐で被害は著減したが、今だその潜伏数は把握できていない。祖の再建を企てているという巷説もあり、西崘の討伐軍の司令塔である阿榑はやきもきしているようであった。
張蛾と他の賊とを区別する特徴を教示してくれたのは阿榑だ。一族の者達はその証として、どちらかの腕に文身をする慣わしがあるのだという。黥面(げいめん)や獣のように歯を削る者もおり、他者への威嚇を示しているのだと。
安嶺山には邪口洞じゃこうとうという深い洞穴が存在する。根城があるとすればあの付近であろう。今から発てば夜更けまでには辿り着ける。ならば―-――
 ここに閉じこもっていても、不本意な胸の揺れに翻弄されるだけだ。救い出し、懐湖に送り届ければそれで済む。
 先程の迷いなど嘘のように消えていた。卓上に置かれた太刀を執り腰帯に差し込むと、黎青は房を出た。
 だがそれ以上進むことは出来なかった。
「何処へ行く? 黎青」
 回廊を覆う激しい雨声の間からその声は現れた。
 まるで黎青の動向を読んでいたかのように、雨の吹き込む回廊の丹柱にもたれて劉王が待ち構えていた。
「劉・・・・・・閃」
 停滞した時の中で二人は向かい合った。
 雷鳴が轟き、一陣の閃光が空の淀みを切り裂くように走り抜けた。気炎を揚げるように、一層激しく雨音が騒ぎ出した。












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