【九】 三色の龍
「――おい、劉閃」
両腕の中に積みあげられていく書物の重みに、阿榑の片眉が苛立ちを表すように大きく跳ね上がった。
「なんだ?」
天井まで届く書架に立てかけた梯子の中段から、淡白な声音とともに劉王が振り向く。その涼やかな双眸には、一点の悪びれもない。
「……まさか、調べ物を手伝わせるためにオレを呼んだのか?」
奥底で煮え始めた憤りをとりあえず抑え込んで、阿榑は自分を見下ろす男を睨み上げる。
「――そうだが、何か?」
至極当然というような即答をよこして、劉王は書架から厚みのある書物を抜き出しては阿榑の腕の中に落としていく。煙がたつように本の間から埃が舞いあがり顔面に吹き付ける。計十二冊分の重みがずしりと圧し掛かり、阿榑の細腕が軋んだ。
「ぶっ……ふ、ざけんなーっ!! オレは小間使いじゃねえっっ!!しかもこんな薄汚いところに連れ込みやがって!」
阿榑の怒号が石造りの書庫にこだまする。
内朝の奥に位置する煬心殿・府庫。王族教育や文官職所として使用されるこの殿下が抱える書庫には、歴代の皇帝によって収集された数十万冊もの蔵書が納められている。
壁という壁を書架で塞ぎ詰めた室内は、仄暗く、普段締め切ってあるために乾いた埃のにおいが充満している。唯一の明り取りである天窓から差し込む黄土色の光の帯には、細かな埃の粒子が無数に泳ぐ。書架から追い出された書物が散乱する床には、埃が堆積し、人の出入りが滅多にないことを物語っていた。
「そうわめくな。余計に埃が立つ」
だが降りてくるのはあくまで冷静な声音。それが余計に阿榑の不機嫌を煽る。思わず手の中の書物をばら撒いてやりたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて阿榑は沈みかけた腕をなんとか持ちこたえた。常日頃から抱いている劉王への対抗心が、つまらぬ意地を張らせてしまう。
「これが“至急”なのかよっ!! どこが!? あほっ! 帰るぞ、オレはっ!今日中に片付けなきゃならねえ仕事があるんだ! てめえの気まぐれに付き合ってるヒマはねーんだよっ!」
「――ああ、そうだった。西崘の第二皇子は、その顔に似合わぬ“ うつけ ”であったな」
そう嫌味交じりに口の端を引き上げ、劉王は梯子から降りた。そして牙を剥いている阿榑の腕中から、積み上がる書物を軽々と引き受けた。
「先日も独断で単身敵地に乗り込み、賊を討ち取ったとか。破天荒で強運な弟君を持って幸せだな、吉京陛下は」
口元に笑みを含んだまま、劉王は踵を返す。銀糸の縫い取りが見事な藍色の袍の裾が翻る。
唐突な振りに、阿榑は思わず言葉に詰まる。忘れかけていた脇腹の傷が不用意に痛んだ。
「……それは嫌味だよな?」
「どうとでも。それよりも少し付き合え、せっかく来たのだからな。“ 瓊仙 ”という花の資料を探している」
心許ない木製の簡素な卓子の上にどさりと書籍を降ろすと、耳に馴染んだ傲慢な調子で劉王が阿榑を促してくる。
――黎青のヤツ!
もう一人の悪友、柔和な仮面を被った麒麟の皇太子を思い浮かべて、阿榑は空になった拳を握り締めた。
城下を荒らしていた賊討伐の話は、兄であり西崘皇帝の吉京と近臣たち、そして黎青しか知らない極秘事項だ。なぜなら「それは武勇伝ではなく、ただの無鉄砲だ」と散々反感を食らい、民や他国の批判を怖れた重臣等に隠匿されてしまったからである。
だから、劉王には言うつもりはなかった。ああやって、嫌味で非難されるのがわかっていたからだ。それを承知で密告する可能性がある人物といえば……黎青しかいないだろう。
「――なんだよ、その花」
不機嫌を絵に描いたようなしかめっ面で、阿榑は卓のほうへ近付いた。足跡が残るくらい灰塵が積もった床は、歩くたびに鳴き声のような音を上げる。
「昔父が何かの文献で知って、苗を探させたことがあった花だ。西遥の花だったと思うが……どの書だったかすっかり忘れてしまってな」
傍にあった椅子を引き寄せると埃を叩いてそれに座り、劉王は書物を広げ始めた。
「花ぁ?」意外な探し物に、阿榑は呆れた声を上げる。
「それなら黎青に聞けばいいだろう。あいつの母上は、西遥人だし。……ていうか、そんなもの見つけてどうするんだ? 急に花なんて気色悪いぞ」
甘さなど微塵も無い精悍な美貌からは、花という優美な響きは想像しがたい。ついに公務に疲れて童心に帰りたくなったか、と阿榑の目に憐憫の情が浮かび上がろうとしていた時、
「瑚蝶のいる、翠遥宮の庭にどうかと思ってな」
「――瑚蝶?」
その名を聞いた途端、阿榑の声音から一気に険が抜け落ちた。それに気付いたか、劉王の口元に密かに喜色が滲んむ。
「こ、瑚蝶が欲しがっているのか? そ、それなら仕方ないな、手伝ってやる。それでどんな花だっ」
急に態度を変え引き摺ってきた椅子に座ると、阿榑は卓子の上の本を無造作にめくり始めた。その表情はやけに真剣だ。だが横柄さはそのままでも、どこか浮き足立っているのがわかる。
“ 西崘の暴れ馬 ”をそそのかすには、並大抵の人材では適わない。幼少の頃からの入魂の仲とはいえ、劉王や黎青でもいまだに難しいくらいだ。だがそんな阿榑の心を簡単に揺るがす存在が、この城に一人だけいた。
「……なんだよ、何が可笑しいんだよ」
腹を折ってククク、と笑い出した劉王に阿榑は口をへの字に曲げる。
「赤い……花だ。紫蘭のような形をしている。どこかに絵があるはずだ」
「そうか、紫蘭だな、わかった……って、だからなんで人の顔見て笑うんだよっ!」
「いや……ククク、愚直もある意味財産かと思ってな」
「はあ??」
いい余興だ、と肩を震わせる劉王に、阿榑は解せぬ顔。
恋とは人の人格まで変えてしまうものなのか。――気付かぬのは本人ばかりだが。
「それ以上笑うなっ! 不愉快だっ! 意味わかんねーんだよっ」
ついには顔を紅潮させて阿榑が怒声を轟かせた時、割って入るように書庫の鉄製の扉が開く錆びた音が響いた。
「……まったく、騒がしい城ですね。せっかく人が熟睡していたというのに。奇襲を掛けられて飛び起きたような心地ですよ」
扉の間から怜悧な美貌を覗かせて、銀髪の青年が深い溜め息をついた。そして次の瞬間、あからさまに表情を歪めた。
「……いやはや、ひどい空気ですねえ。せっかくの貴重な書が台無しだ。たまには虫干しでもしないと、これでは宝の持ち腐れですよ。劉閃」
麒麟の象徴色である白の袍の袖で鼻を覆いながら、黎青はすっかり物置と化した書庫を見回した。
「黎青! お前も来てたのか」
阿榑が瞠目して椅子から立ち上がった。それを見て、黎青が清冽な泉のような薄青色の瞳を冷やかに細める。
「昨晩、遅くまで囲碁をしてましてね。そのまま隣の房に泊まったんですよ。今朝までぐーっすり眠っていたんですが、先程貴方の大声が聞こえてきたのでこうして起きる羽目になったというわけです」
「だ、だってそれはコイツが――! オレは悪くないぞ! たいした用もないのに呼び出したコイツが悪いっ」
冷色を帯びた黎青の声色に、阿榑の声が上ずる。
象牙のようななめらかな肌には一点の赤みも差してはいず、いささか病的に見える。温雅なうわべを滅多に崩さぬ黎青だが、寝起きの機嫌だけはすこぶる悪い。何度か地雷を踏んだことのある阿榑にとっては、“ 遭遇したくないもの、第一位 ”に相当するほどのものであった。
「どっちでもいいですよ、とにかく僕が不愉快な目覚めをしたことには変わりはないんですから。それに昨夜の勝負の結果にも得心がいきませんし」
その視線を、黎青はそのまま劉王に流す。「結局2勝3敗で、勝ちを持っていかれてしまいましたから」
「それはお前が寝てしまったからだろう」
組んだ脚の上で書物をめくりながら、間髪いれずに劉王が返す。
「なに? 二人でずっと囲碁をやってたわけ? なんでオレも昨夜呼ばなかったんだよ。そのほうが来るのはラクだったのに」
わざわざ早起きする必要はなかったと難癖をつけ出した阿榑に、劉王が書をなぞっていた視線を上げた。
「お前と囲碁を? ――フ、五分と座ってられるのか?」
「ぬぁっ、なんだとっ!! ばかにすんなっ」
「お前には心理戦は向いてない。なんせ三国一落ち着きがないからな」
劉王の不敵な笑いが、再び阿榑の利かん気を扇動する。それを承知で言葉を選ぶのだから、性質が悪いこと極まりない。そこに目覚めの悪さを引きずる黎青の、棘のある賛同が突き刺さる。
「僕もそう思いますよ、阿榑。貴方、昔から同じ場所にじっとしてられる性質ではないでしょう。よく城を抜け出しては、教育顧問の愁走海殿が業を煮やしていたではありませんか。学問のがの字も教える隙がないと。そんな貴方に、碁を打つ集中力があるとは思えませんけどね」
「う……」
――黎青にまで言われては、さすがに立つ瀬がない。反論は諦め、払拭できない怒りの皺を鼻頭に寄せたまま、阿榑は再びすとんと椅子に腰を下ろした。
「――だが」視線を手元に戻していた劉王が、見計らったように口を開く。
「帝王学で時間を潰すんだったら、囲碁をやれ。その方がお前には役にたつ」
含蓄のある凛とした響きに、阿榑の注意が引き付けられる。
「なんだよ、それ」
「敵の心中を読みながら石を打つ――終局までは囲う地の支配権は確定せぬ、侵略も奪取も免れることは出来ない。ただ相手の石を生かさず、そして境界を破られぬような守りを張るべく苦心しなければならない。石の死活は勝敗の行方を握り、そして打ち手は石の命運を握る。戦局における兵の統御と同じよ。統率者は戦いの鍵を握る、そして数多の人間の命もな。水火も辞さぬ姿勢も立派だが、やみくもに剣を振るうだけではやがて足元を掬われる。――わかるか、阿榑。速断を避ける為にも、指揮官には戦略に長けた冷静かつ卓越した判断力が必要だ」
常時よりも大分饒舌なその様子は、いささか妙なものであった。劉王のどこか忠言めいた口調に、阿榑は思わず間に立っている黎青を仰いだ。だが黎青は、両腕を組んで黙ったまま劉王を見つめている。
「……なんで急にそんなこと言い出すんだ? それにオレは指揮官じゃない。軍を動かすのは王である兄上だ」
「だが病弱な吉京殿が完全に采配を振るうのは困難。そうなれば、いずれ次席に座するお前に全権が委ねられることもあろう」
「ば、ばかを言うな! 兄上は大丈夫だ! オレが支える! 今までもそうしてきたんだ、それが親父の遺言でもある。兄上の背中はオレが守る!」
興奮気味に立ち上がり、阿榑が卓子をばんと両手で叩いた。天窓から差し込む光の量が徐々に強くなってきた石室に、その音が反響する。
――阿榑には両親がない。母親は阿榑が物心ついた頃に病で儚く逝った。そして父王も六年前、阿榑が十四の時に崩御した。次代皇帝として即位した6才上の兄・吉京は廉直で賢明、王としての素質は十分持ち合わせてはいた。だが幼少から病弱でその資性を十分に発揮することが出来ず、実質執政は父王の代の重臣達に助けられ補われているといっても過言ではなかった。そのため阿榑は阿榑なりに、西崘の深刻な問題でもある山賊狩りに精力的に乗り出しているのだ。
――それは他でもない、たった一人の肉親のためであった。
「万が一の話だ、そう噛み付くな。だがもしそうなった時、今のままのお前では戦局に混乱を招く。確かに西崘の国府軍は強靭で有能と名高い。だがどんな奇策も良兵も、昏君の前では使い物にならぬ。導く者によってその価値は決まるものだ、覚えておけ」
まるで何かを示唆するような劉王の言葉の羅列に、立腹気味であった阿榑は困惑の色を浮かべる。
「なんなんだよ……いきなり、マジな話して」
「別に。もう少し大人になれということだ。――いつ強大な敵が現れるかわからんからな」
そこで劉王は会話を切ってしまった。溜飲の下がらぬ阿榑の鼻に、再び皺が集結し始める。
そこへ、今まで二人のやりとりを黙視していた黎青が動いた。劉王の前までつかと歩み寄ると、右手を腰、左手を卓子の上の書物を押さえるように置き、顔を覗き込んだ。
「やれやれ。僕はいつまで貴方の言葉遊びにつきあえばいいのですかね?」
劉王よりは高い、甘さを含んだ声が囁くように言う。銀糸の髪が、肩からこぼれ落ちてしなやかに揺れた。
「貴方は父君同様に穏健派ですからね。確たる証拠が無い限り、憶測で物を言うのは避けたいのでしょうが……僕はごまかせませんよ?――北の風が強まっていることくらい、気付いています」
寛厳あるその響きとひたと見据える蒼穹の双眸には、静かな激昂をちらつかせていた。劉王の昏黒の瞳が、悠然とそれを見返す。
「……万が一の話だ、と言っただろう。早合点するな」
「……だから僕らを呼んだんでしょう。それとなく示唆するために。劉閃、一人で背負い込むのはやめてください。幾ら貴方とて、両手で抱えきれる荷物じゃない。それとも僕らを見くびっているのですか?」
“ 北の風 ”――それは先の大戦で封じ込めたはずだった。今一度吹けば、再び大陸に混沌が訪れるであろう。
「なんだよ? 何の話だ?」
阿榑の声に、黎青ははっとしたように両目をわずかに見開いた。劉王と視線が絡まる。その目が何を言いたいのか、黎青にはわかった。
「――それにもうひとつ。僕が気に掛かるのは瑚蝶殿のことです」
体勢を立て直し、溜め息一つをそっと落として黎青は話題を変えた。せっかく出した追求の手を、そう簡単に引っ込める気はなかった。
「いつまで彼女をこの城に留めておくつもりですか?」
「……やれやれ、またその話か」
「はぐらかさないでください。廟王朝攻伐に対する情だというのなら、何もここに留め置かずとも良いでしょう。その攻伐の理由も未だに聞いてはいない気がしますが。彼女は――いつ仮面を脱ぐとも限らない」
「――あやつが俺を謀殺するとでも言うのか?」
物騒な劉王の物言いに、黎青が目を据える。
「おい、黎青! 瑚蝶がそんなことするはずがないだろーが。お前もよく知ってるだろう」
阿榑が横から口を挟むが、黎青の神経は劉王に向いたままだ。
「万が一……ですよ。恭順を示すのは女性特有の処世術とも言えます。彼女は頭のいい女性だ。それくらい簡単なことでしょう」
「では俺は、それに現を抜かしている莫迦殿ということか」
「劉閃、僕は真面目に話してるんですよ」
自嘲の笑いをこぼした劉王に、黎青がぴしゃりと言い放つ。
「僕は疑問なのですよ。夜伽の相手をさせるわけでもない、下女として従わせるわけでもない。ただ貴方の大切な離宮に囲っている理由はなんですか? その答えを聞くまで、今日はここを動きませんよ」
恫喝を含んだ黎青の声音が、ゆっくりと三人を取り巻く空気の温度を下げていこうとしていた。
外の時間とは裏腹に黄昏色に沈む石室に、静寂が降りる。
やれやれ、と劉王は肩から息を吐き出した。
――その時誰も、扉の外に佇む人物がいることには気付いていなかった。
開いた鉄の扉の隙間から漏れ聞こえた会話に、瑚蝶は表情を凍らせていた。
そして足は自然と、書庫から遠のいていった。
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