序話
鳶が虚空を越える。
草の色もあせはじめた廟の国、晩秋の草海原。
空は黒煙が立ちこめるかのごとくいっこうに晴れる様子を見せず、草原に濃い影を落とす。
瑚蝶は、翡翠色の草原を踏みしめながら、肌色の城壁のそびえる宮殿へ向かっていた。
そこには彼女の家族がいる。
優しい父、母、兄弟たち。そして親族たち。廟王族の住む城だ。
三か月振りの再会に、瑚蝶の胸は躍っていた。馴染み親しむこの草の匂いを吸い込みたくて、侍女が止めるのも聞かず、わざわざ途中で先に馬車を降ろしてもらったのだ。はやる気持ちを抑え、瑚蝶は天の楼閣のごとき門をくぐり抜けた。
「門人さん?」
いつもそこに立っているはずの門番を大声で呼ぶ。
しかし、城門を過ぎても門番どころか女官たちも姿を見せない。
いぶかしみながら瑚蝶は城内へ入った。
内装も雰囲気もいつものまま。石膏石の柱、大理石の床。足音だけが不審に響く。
ふとかすかに足音らしきものが聞こえ、瑚蝶が安心しかけたその時、
信じられない光景が瑚蝶の目に飛び込んだ。
扉の隙間から回廊に倒れ込んできたのは、血塗れの門番だった。
「ひっ……!!」
叫ぼうとしたその時、幾多もの足音が聞こえてきた。重い足音。恐怖で揺らぐ視界の中に、甲冑姿の男達が映った。そして間もなく、数十の鈍い青銅の甲鎧が瑚蝶を取り囲み、矛先が向けられた。
――ああ……。
足がすくんで声すら出ない。目ににじむ涙の意味を噛みしめながら、覚悟を決め、きつく瞼を閉じた時だった。
「やめろ」
若い、凛とした声が響いた。
「廟王家の姫君か」
兵を分けて現れた青年が、毅然とした声音で瑚蝶を凝視する。
黒い戦装束に、漆黒の髪を結う朱色の綾紐がまぶしい。
瑚蝶はゆっくりと、その青年を見上げた。そして、
「……てください」
震えながら、瑚蝶はか細いながらも声を絞り出した。
「ころ……して……ください」
この状況が何を意味するのか、瑚蝶は悟った。自分の国、わずかな間自分を包み込んでくれた国はもうないのだ。
家族は……いなくなったのだ。
だが、青年は兵を制したまま、そっと瑚蝶の方へ手を伸ばすと、その髪をやにわに一房取った。
「……おとなしく言うことを聞けば、命は助けてやるが?」
耳元でそう囁かれて、瑚蝶の体中が熱くなった。そして、青年の手を容赦なく弾き返した。
再び瑚蝶に鋭利な矛先が向く。
「――フフン」
手持ち無沙汰になったその手を見て、青年は鼻で嗤った。そして、瑚蝶に向けられた刃を制したまま、青年は瑚蝶を見下ろし口角を上げた。
「……気に入った」
そんな呟きを聞いたかと思うと、瑚蝶の体は軽々と青年に抱きかかえられた。
「城に戻る!報を知らせに行く者は先に走って伝えろ。みやげを持って帰るとな!」
瑚蝶を抱えたまま、兵の間を従容とした足取りで進みながら、高らかに言い放った。
「お……おろして! いやあ―――――っ!」
必死で抵抗するが、とても相手の腕力にはかなわない。
「威勢がいいな。少しの辛抱だ、眠っておれ」
「あっ…」
穏やかな言葉とともにみぞおちに激痛が走り、やがて体の自由がきかなくなった。
晩秋の頃二十日、廟、統によって攻め滅ぼされる。
国の柱を失い国の民は南下、統の支配下となった。
そのうち末姫は、統の皇太子(後の皇帝)劉閃長恭の傍らで、生涯仕えることになる。
|