春夢槿花(1/33)縦書き表示RDF


春夢槿花
作:貴水 玲



序話


 鳶が虚空を越える。

 草の色もあせはじめた(びょう)の国、晩秋の草海原。
 空は黒煙が立ちこめるかのごとくいっこうに晴れる様子を見せず、草原に濃い影を落とす。
瑚蝶(こちょう)は、翡翠色の草原を踏みしめながら、肌色の城壁のそびえる宮殿へ向かっていた。
 そこには彼女の家族がいる。
 優しい父、母、兄弟たち。そして親族たち。廟王族の住む城だ。
 三か月振りの再会に、瑚蝶の胸は躍っていた。馴染み親しむこの草の匂いを吸い込みたくて、侍女が止めるのも聞かず、わざわざ途中で先に馬車を降ろしてもらったのだ。はやる気持ちを抑え、瑚蝶は天の楼閣のごとき門をくぐり抜けた。

「門人さん?」

 いつもそこに立っているはずの門番を大声で呼ぶ。
 しかし、城門を過ぎても門番どころか女官たちも姿を見せない。
 いぶかしみながら瑚蝶は城内へ入った。
 内装も雰囲気もいつものまま。石膏石の柱、大理石の床。足音だけが不審に響く。
ふとかすかに足音らしきものが聞こえ、瑚蝶が安心しかけたその時、
信じられない光景が瑚蝶の目に飛び込んだ。
 
 扉の隙間から回廊に倒れ込んできたのは、血塗れの門番だった。

「ひっ……!!」

 叫ぼうとしたその時、幾多もの足音が聞こえてきた。重い足音。恐怖で揺らぐ視界の中に、甲冑姿の男達が映った。そして間もなく、数十の鈍い青銅の甲鎧が瑚蝶を取り囲み、矛先が向けられた。

――ああ……。
 
 足がすくんで声すら出ない。目ににじむ涙の意味を噛みしめながら、覚悟を決め、きつく瞼を閉じた時だった。

「やめろ」
 
 若い、凛とした声が響いた。

「廟王家の姫君か」

 兵を分けて現れた青年が、毅然とした声音で瑚蝶を凝視する。
 黒い戦装束に、漆黒の髪を結う朱色の綾紐がまぶしい。
 瑚蝶はゆっくりと、その青年を見上げた。そして、

「……てください」

 震えながら、瑚蝶はか細いながらも声を絞り出した。

「ころ……して……ください」

 この状況が何を意味するのか、瑚蝶は悟った。自分の国、わずかな間自分を包み込んでくれた国はもうないのだ。
 家族は……いなくなったのだ。
 だが、青年は兵を制したまま、そっと瑚蝶の方へ手を伸ばすと、その髪をやにわに一房取った。

「……おとなしく言うことを聞けば、命は助けてやるが?」
 
 耳元でそう囁かれて、瑚蝶の体中が熱くなった。そして、青年の手を容赦なく弾き返した。
 再び瑚蝶に鋭利な矛先が向く。

「――フフン」

 手持ち無沙汰になったその手を見て、青年は鼻で嗤った。そして、瑚蝶に向けられた刃を制したまま、青年は瑚蝶を見下ろし口角を上げた。

「……気に入った」

 そんな呟きを聞いたかと思うと、瑚蝶の体は軽々と青年に抱きかかえられた。

「城に戻る!報を知らせに行く者は先に走って伝えろ。みやげを持って帰るとな!」

 瑚蝶を抱えたまま、兵の間を従容とした足取りで進みながら、高らかに言い放った。

「お……おろして! いやあ―――――っ!」

 必死で抵抗するが、とても相手の腕力にはかなわない。

「威勢がいいな。少しの辛抱だ、眠っておれ」

「あっ…」

 穏やかな言葉とともにみぞおちに激痛が走り、やがて体の自由がきかなくなった。


 晩秋の頃二十日、廟、(とう)によって攻め滅ぼされる。
 国の柱を失い国の民は南下、統の支配下となった。


 そのうち末姫は、統の皇太子(後の皇帝)劉閃長恭(りゅうせんちょうきょう)の傍らで、生涯仕えることになる。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(3) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




TOP | NEXT


小説家になろう