73:捲れ捲れる
「──────ッ」
拳が自らの顔面に打ち出されるのを絢人は辛うじて知覚した。
危険、と脳が判断するより早く動物的とも言える反射で、身体への負担をすべて度外視し絢人は能力を片足のみ起動する。
片足裏が磁石で同極同士を向かい合わせたように、文字通り地面から弾かれた。両足だったならば後ろに身体を跳ばせたそれも、片足のみ起動すれば左右対象にならず過剰な運動エネルギーがあまってしまう。
結果、絢人は片足を軸に独楽のように回転した。
頭を砕くはずだった拳は絢人の衣服を掠め、お返しとばかりに回転の力を利用した回し蹴りがシトリの顔面に向かい放たれた。
旋風のような一撃、だがそれをシトリは優雅に宙を舞い難なく躱した。今の動きを人間の技法に当てはめれば、爆転というものだった。その動きの素早さと同居する柔らかさを覗けばではあったが。
回避運動から繋げた蹴りさえ当たらなかったことが苛立たしく、絢人は無意識に舌を打った。やはり正攻法で打ち砕かなければシトリに手傷を負わせることは出来ないのか。もしくは余程予想外の攻撃を打ち込む、など。
「あそこから反撃されるとはね。少しばかり驚いたよ」
「……なら、目でも見開いて見せてくれ」
悪態をつき、始めて絢人は違和感に気を向けることが出来た。
頭がやけに涼しい。いや、本来がこれなのだ。ただ今はこうなりはしないはずであっただけに違和感として認知した。頭頂部に手をおいて布の質感が掌に伝わらなかった時、ああフードがさっきのシトリの攻撃で吹き飛ばされたのだな、と考え至った。
「いやいや、君の素顔の方が充分に驚きだからさ。実は柔肌に大火傷でも負っているから恥ずかしくて隠してるのかと思ってたんだよ」
「……なんだ、最初から気づいていたようじゃないか」
「この耳にはそんな小細工は無駄だからね。分かるのさ。だから中身がなんでもない様子なのに隠してる君に戸惑ってる」
バレてしまっていたのなら仕方がない。それならこんな変声機もパーカーもいらない。敵の前で取り払う時が来たのだから。幸い周りに他の人間はいない。なら、構わない。どうせ目の前の目撃者は消し去る。そして二度とこのような隠匿は不要になるのだから。
絢人は長年身につけた愛用のパーカーの肩を掴み、脱ぎ去る。宙を舞い、パーカーは瓦礫の上に覆い被さった。
パーカーを失いよく分かるようになった肉体。身長は一六○センチにギリギリ届く程度で小柄、線は細く華奢であり、男してならば頼りないと言えた。
「お前、後悔するよ。戒めを取り払った獣は以前とは変わる。本人の自覚無しにでも──」
声はヴァイオリンの音色のように繊細であり、強い意志を感じさせる。
「かつてボクの友が夜魔に目の前で殺された。王道な理由さ」
偽りで繕った人間と言うものは、本来より何かしら劣化している。人間は外部にある物品で人格、記憶などを形成しているのである。いつも通りのつもりでも、常の物品や身なりが違えばやはり本来とは違うものになってしまう。服装ひとつで性格が明るくなるのと同じなのだ。
故に、今ここで絢人は絢人を捨てる。絢人として記憶、記録が染み付いたパーカーを捨て、原初に回帰する。
「だけどその夜魔はかつて強姦魔であったのでもしたのか──ほら、お前らは人間の魂から夜魔を作るのだろう──友人を死姦したよ。ネクロフィリアってやつだ」
だが絢人としての戦闘知識、パターンは引き継ぐ。当然だ。所詮同一人物、本質変わるわけではない。それでも精神に何かしらの影響があれば──肉体にも反映される。精神が肉体を凌駕する、それが人間。
「その後ボクも餌食にされかけてね、それからお前らには素顔を見せたくなかった。見せる時は、」
戦闘する時は常に纏っていた物がなくなるのは少々しっくり来ないが、それを上書きする解放感と闘志が漲った。
念願だった。絢人ではなく自分として戦いあの娘の無念と自分の屈辱を払拭できるのが念願だった。
「お前らを滅ぼしつくす時だけと決めていた」
だから、今間違いなく自分は絶好調だ。
緩く握った拳を突き出し、構え、敵の身体へと打ち込む場所を選択していく。
粉塵混じりの絨毯を踏みしめて──
「幸水絢人改め、幸水絢奈──行きます」
一人の女性が古城を行く。
*
圭と優希は二人だけで廊下を駆け抜ける。戦力は最初の半分以下にまで減っていた。これから戦うにしても心許なく、圭は一抹の不安を覚えるが──振り払う。離脱した者達は自分の役目を全うするためにそうしたのだ。その分自分達の元に来る敵戦力も削られている。なら、たった二人でも行けるはずだ。
「ねえ、圭」
走りながら、唐突に優希が声をかけた。足を止めず、圭は横目で優希を見る。
「どうした……っ?」
優希とは違い、僅かに息切れしながら声を発する。こんなに走りっぱなしなのに息が切れないなんてどういうことなのか、と思う。自分は根本的に走り方を間違えているのではないかと錯覚してしまうほどだった。まだ未熟っていうことなんだろうな、ということにしておく。
「言っておきたいことがあるんだけど……」
「なんだ?」
今度はみっともなく息を切らすことはなかった。もしかして優希が足を緩めてくれたのかもしれない。それに感謝しつつ、同時に情けなくなる圭だった。視線の先には新たな階段がある。もう数秒もあれば到達出来る距離だろう。おそらく、あそこから"ザイン"とやらの膝元まで行けるはずだ。優希の言葉も、それに関係することに違いない。
目的地に向けいっそう気を引き締め、
「私、圭のこと好きだよ」
「…………は?」
予想斜め上から速球に意表を突かれ、素っ頓狂な音が喉から洩れた。止めてはならないのに、足が止まってしまった。対応が分からず案山子のように立ち尽くす。
優希も圭の数歩前で走るのを止め、踵を支点に半回転して背後を振り返る。ポニーテールが尾を引いて頭についていった。
「ちゃんと圭に言えたことはなかったから……」
よく見ると彼女の頬は上気していたのだが、圭にそんな余裕はなかった。前から言われていた気も、しないでもなかったが──改めて面と向かって言われるとまるで大海原に放り出されたかのような途方もない気持ちになり、そして恥ずかしく、嬉しい。
「好き。うん、好き。これだけ伝えたかったから」
「え、と……俺は」
「答えは、いい。後で、考えて決めて。言わなくても……いいから」
──考えるまでもなく決まってるんだ。
そう言おうとすれば優希は足を階段の方に進めてしまい、タイミングを逃してしまう。
「あ、ちょっと待て……」
待たなかった。優希は早足になって階段へと駆け寄っていく。タイミングを逃され手持ち無沙汰になり、数瞬その場で身じろいで、ああもうと口走って優希を追った。
階段の前で待っていた優希にはすぐ合流出来た。上階へと続く階段を見上げている。此処まで来ると異様な空気は肌を刺し骨に浸透するまでに濃厚になっていた。
「……このまま上で、いいのかな」
囁くように優希が切り出す。あちらは圭と違って、今すぐあの話題に触れたくないのだろう。それにこんな話を振られたら圭も返答せざるを得ない。
「多分、な。ゼパルも上から現れたし」
火と煙は上へに行くとも言うし、そういうご大層な代物もあるかもしれない。
「なら、進もう」
優希は一段目に足を掛け、異常がないと分かれば止める間もなく階段を駆け上がる。それに驚き、上等な敷物と石段の感触を靴底越しに感じながら、やけに長い階段を圭も急いで登り始めた。
優希の背が上階に消えた数秒後、圭も三階の目前にたどり着く。不用心に立ち入っていいものかと思いとどまるが、行くしかないのに無駄な時間を使うわけにはいかない──。
意を決して階段を上り切り、到達する。
「これは……?」
新たなフロア内を見て、唖然と口を開いた。
今までの城内と打って変わった内装。下の階はどちらかと言えば一九世紀の西洋を再現したような優美で繊細なものだったが、ここは例えれば骨のように無骨で、鋼のように冷たかった。
壁をほとんどぶち抜いているのか、やけに広い。民家を収納出来そうなくらい広大な一室を、夥しい数のパイプや計器らしき物が覆い隠していた。辛うじて荒れ地を舗装したかのように、パイプ等に侵されていない一本道が階段から先へと延びている。しかし壁はその本来の姿を針の先ほども垣間見せなかった。
ゼパルから上階から現れた時こんな風景は見えなかったことから──ここは"本来の三階"ではないのだろう。あの階段がやけに長く感じたのは何かしらの細工が施されていたのかもしれない。ある条件を満たさなければこの階層にはいれない細工、それを気づかぬ内に無効としこの領域に足を踏み入れたのか。
ここがダミーであるとも思えない。異常は濃度を高め床に泥が沈殿するほど違和感を生んでいる。
もう中核は目と鼻の先だ。
口を開ける時間も惜しい、気を緩める余裕もない。自分達の得物が手の中にあることを確認して、二人は奥に進んだ。
ある程度進めば、パイプだらけの飾り気がない風景にも変化が訪れる。人が四、五人は優に収まれそうなサイズのカプセルがいくつも地面から天井にかけて直立していた。中には人工羊水らしきものと──なんらかの生物が身を丸めて漂っている。形は人と熊の中間、サイズもちょうどそれくらいだが、全体の輪郭がぼやけていた。まるで粘土細工を水にぶち込んでいるみたいだった。
いくつも連なる生命の精錬所。その中身に圭は既視感を覚えた。優希も同じだったのか、訝しげに辺りを見回している。
──知っている。
これは知っている。なんなのか知っている。見たことがある。いや、見ただけではない。これは、総て──
「アンタ達の敵よ」
「────ッ」
声の方に二人は弾かれたように振り向く。視線の先、絡み合い四方に延びるパイプの一つ、そこに腰をかける女がひとり。
「よくここまでこれた物よね。正直予想外だわ。この城の位置がバレるのも最深部まで踏み込まれるのも。まったく不愉快よね」
相変わらずのゴシックドレス姿のアスタロトは唾棄するように柳眉を曲げる。
「アスタロト……」
かつて圭と優希を弄び殺そうとした人外の美貌を持つモノ。奇しくも顔をつきあわせるメンバーはあの時と同じだった。
面倒事を前にアスタロトは陰鬱気に溜め息をついて肩を落とす。
「まったく嫌になるわ、あたしひとりでアンタ等の面倒見なきゃなんないんだから。子守はごめんなんだけど」
「ひとり? お前はひとりじゃないだろう」
──まだ相羽が残っている。
どこにいるかは分からないが、ここは最深部。闇に潜みこちらの喉笛を狙っているはずだ。身がこわばる。この二人に優希と自分で勝てるだろうかと。優希は信頼している。彼女の強さを疑う訳ではない。だが、圭は彼女よりも総合的な能力では劣っている。工夫次第では彼女が勝てない夜魔にも勝てる時はあるが──正面真っ向勝負となると勝利出来るかは分からない。そんな中途半端な戦闘能力である自分が不安だったのだ。
「……ああ、そうね。確かにあたしはひとりじゃないわ」
不機嫌そうな表情が何故か圭の一言で霧散した。代わりに三日月のような笑みが口元に現れる。アスタロトの魅了はもう効かないはずなのに、美しい、と単純に感情で見惚れてしまうほどの妖艶さ。だが、それが、今この場においては何よりも恐ろしかった。
「では、ショータイム」
アスタロトが指を弾く。音が空気を震わせ、人工羊水の溜まったカプセルに次々と触れていく。
そして、炸裂。
カプセルがドミノ倒しのよう、連鎖的に砕け散ってゆく。散乱する破片から身を守るため、圭と優希は腕で身をかばう。カプセルからは人工羊水が流れ出し、色気のない地面を染め上げていく。
後に残ったのは、カプセルから解放された出来損ないの夜魔達の群れ、総勢数十体。
「こいつらッ」
通りで見覚えがあるわけだ。この城で何匹も切り倒したのだから。
「そう、夜魔よ。今回の戦いには間に合わなかった不出来な幼生体だけどね。それでもこれだけいれば驚異でしょ?」
幼生体の夜魔は四つん這いで地面を這い、満足に出来ていない瞼で必死にまばたきをしながら圭達を凝視していた。
確かに通常の夜魔と比べれば蟻のように弱いが──それでもこの数は危うい。圧倒的数に蹂躙される。何よりこいつらの相手をしていてはタイムリミットが訪れてしまうだろう。
──どうする?
ザインの気配がより濃く漂う方を向けば扉がある。ここから訳二○メートルほどか。三、四秒もあれば充分に駆け抜けられる距離。しかし行く手には夜魔が折り重なるようにして立ちふさがっている。今の背後や左右にも夜魔は待ちかまえていた。
──万事休すか。
喉仏を鳴らし生唾を飲み込む。刀を握りしめ冷や汗を流していると、圭の肩を優希が叩いた。
「圭、走って」
「え?」
「私もフォローするからあの入り口まで走って。こいつら反応も遅いから今ならまだ走り抜けられる。ほら、まだ視野が定まってないみたい」
頭を揺らして四方八方に眼球を巡らす夜魔を指差して、優希は圭を見上げた。その提案に圭は目を見張った。
「おい、そんなことしたら優希が……」
「私は大丈夫だから」
「そんなわけあるかよッ!」
こんな集団の中に居て無事でいられる訳がない。パワーファイター荒凪とは違い優希はテクニックで攻めるタイプ、しかも今は周りを囲まれた状態である。不利な要素ばかりだ。
「優希も一緒に来ればいいだろ!」
「それじゃこいつらも来ちゃうよ。足止めしないと」
「駄目だ、そんなの! なら俺が残るから──」
焦りが、焦燥が、心臓を極寒に冷やし、固め、ひび割れていく。優希をひとりにすることが、怖い。彼女が今していることは他のみんなもやってきたことだ。なのに、圭は優希にそうさせることが嫌だった。こんなに絶望的で、こんなに不利で、こんなに危険な場所に優希をひとりにはさせたくなかったのだ。そんなことをさせるくらいなら自分が残る方がいい──。
不安が恐怖が寒気が身体を締め付ける。優希が死ぬのは嫌だ傷つくのは嫌だ倒れるの嫌だ化け物に蹂躙されるのは狂ってしまうほどに嫌だ。
──ああくそ、嫌だ嫌に決まってる。好きな子をひとり危地に残すなんてどうかしてる駄目だ嫌だ止めさせなければ、優希は、優希は……ッ!
失うことが怖いから、優希を離すまいと彼女の腕を掴む。ひとりでなんて残すものかと、それなら俺も一緒にいたいと。そう、強く。
「──圭」
優希の背が伸びた。いや、彼女が背伸びをしたのだ。瞬間、圭と優希の距離は零になる。
触れたのはほんの一瞬。
それでも彼女の顔は圭の近くにある。
「……帰って、今度は圭からして。そうするまでは生きてるから。絶対死なないから。深雪だって待ってるんだよ? 死ぬわけないじゃん」
歯を見せて、優希が笑った。まるで太陽を受けたひまわりのような、元気で、力強く、暖かい笑み。その行為だけで、その仕草だけで、もう大丈夫だと思った。大丈夫じゃなくても大丈夫だと思った。
最初から心配することなどなかったのかもしれない。優希は死なない。いつかは死ぬだろうが今は絶対死なない。そう約束したから。優希は自分と違って約束は破らないだろうと、思ったからだ。なに、優希が心配ならとっととザインとやらを破壊して戻ってくればいい。たったそれだけのことじゃないか。
ならここに長居するのは勿体無い。今すぐ先へと進まなければ。
「援護よろしく」
「うん」
言葉を交わし、圭の身体は始動する。
日本刀を水平に腰で構え、敵の集団に走り込む。迫り来る気配に反応した夜魔三体が牙をむいた。
でも、遅い。
横薙ぎに一閃。手応えもほとんど感じさせずに二体の夜魔は絶命する。最後一体は射程外に待避後、圭に再度飛びかかる。腕を振るわんとする夜魔、その首に圭の背後から伸びる剣鞭が絡みつき、切断。同時に圭は空中に残る死体を敵陣へと蹴り返した。
死体にのしかかられ動揺する夜魔を亡骸事両断する。進路を妨害する夜魔を斬る、断つ、薙ぐ。向かうは通路。だが第二優先事項は出来るだけ多くの夜魔を殺していくこと。
入り口までの距離を一○秒以下で走破し、圭は振り返らずに先へと駆けていった。邪魔をした夜魔の亡骸を大量に残して。
「……行儀の悪い肉食獣みたいね」
アスタロトは呆れたように零した。確かにこの散乱した死骸は肉食獣に食い散らかされたように見えなくもない。
焦りを見せないアスタロトを優希は厳しく睨みつける。
「慌てないの?」
「慌てたって、ねえ。この先は誰もいないけど、行こうと思えば最深部にはすぐに行けるし。もしこれが失敗してもまたやり直せばいいじゃない。精々二十年って所ね。長い人生、良い暇つぶしだわ」
「……ここで死んだら長い人生はすぐ零だけど?」
「さあて、ね。殺されるとは思わないもの。この状況で。……ああ、そうそう。覚えてる? 前にアンタを夜魔達に輪姦させるって言ったこと。不細工極まった奴らだけど、いいわ。精々官能的に楽しませてよ」
アスタロトの発言の一部に違和感を感じながらも、優希は戦闘体勢をとった。
「……そんなの、お断り」
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