72:蟲壷の内
二階の廊下を全員が行く。夜魔の襲撃は幾度かあったが、それは総て少数であり同時に"手応え"がなかった。圭達が圧倒的なのではない、相手が明らかに弱体化している。力強さもなく、迫力や重量感もない。まるで不出来なイミテーションを相手にしているかのようだった。
それに疑問を抱きながらも、足を止めることはない。夜魔の劣化は気のせいだと思うしかなかった。
やがて夜魔などの姿が視界から見えなくなった時──突如前方の空間が"捻れ"た。
これには流石に圭達も歩みを止める。
空中に生まれた渦潮は黒を強調しながら螺旋を描き、廊下一杯に広がってゆく。どこからか聴こえてくる硝子のひび割れていく音が、物理法則に反して起こる事象に世界が悲鳴を上げているかのように思えた。
充分に広がり終えれば、渦から中折れの黒い棒が生えた。次に上部から五本の細い棒を備えた中折れの物体が出てきたのを見て──ようやくこれらが足と腕なのだと分かった。
渦からソレが現れ出でれば、異常の歪みは完全に消え去る。
「……シトリ」
絢人が機械音声でソレの名前を口にした。
燕尾服を着た人外は絢人の言葉に微笑で答える。
「此処まで来るなんていやはや見事としか言えないね。ある程度予想はしてたけど、あの中をくぐり抜けて脱落者は一人か」
「……誰も脱落はしていない。死んじゃいない」
フードの合間から絢人がシトリを射るように睨みつけた。
「そんなのはここで深く言及する必要はないだろう。ここにはいないのだから死んでいようが生きていようが関係ない」
荒凪の存在を無いものとすることが余程腹立たしいのか、絢人の敵意が膨れ上がる。今にも質量を伴ってシトリに襲い掛かりそうだった。それに絢人だけではない。他の三人も同様に剣呑な雰囲気を発していた。
各々、自分の得物をシトリに向けて構える。一触即発の空気の中、シトリは余裕を崩さない。ギャンブラーがポーカーでロイヤルストレートフラッシュを作り上げた表情、とでも言うのだろうか。
「いいのかな? たった一人に構っていて。早くしないと外の軍隊は全滅するんじゃないかい?」
その通りだった。例えここでシトリを倒しても無駄に時間を掛ければ、シトリとの戦いに勝っても全体的に見ればこちらの負けである。
そう、ここはまた人柱が必要な場面なのだ。
絢人が一歩前に踏み出す。
「次はボクの番だ。他は先に行け」
短い飾りのない台詞からは、押し殺された怒りを垣間見えた。そこには荒凪の時と同様、言葉は用を成さず、制止も意味はなく必要もない。本人が一対一を渇望し望むのであるのだから、そこへ横槍を入れるのは無粋にも程があった。
ここで絢人の意志をはねのけて他の人間も残ったとしても、今度は後がつらくなる。今度も一人残るのが最良なのだ。
任せたと赤瀬が言えば、圭と優希を連れて走り出す。道はシトリの真横のみ。気を抜かず刀を手にして、シトリと三人が交錯する。
距離にして僅か一メートル未満。互いの絶好の間合い。
しかし、シトリは三人に手を出すことはなかった。赤瀬等との距離が数十メートルと開いても、慌てることはない。
走り去っていく足音も聴こえなくなった頃、沈黙していた絢人が口を開いた。
「何故見逃した? お前らなら河原で見せた奇怪な術で全員を隔離できただろう」
「最初の問いは止めれば多勢に無勢で負ける可能性があった。二つ目は君達に耐性が出来てしまっているということ。前回あの赤瀬って人が直接地面に触れて身体に異常を感知させ、消し去ったみたいだけど、今度は君達もなんの意識なく消し去ることができるだろうからね。風邪に対する抗体みたいな考え方さ」
「……負ける可能性があった? だがお前がリスクを負えば全体の勝率は上がったはずだ」
それがこちらの懸念であり、先程起こり得る筈だった障害。なのに妨害をすることがなかったのは何故か。
そんなの決まっているとばかりにシトリは嘆息して首を振った。オーバーリアクションなせいか演劇でも演じているように見えてしまう。
「死にたくないからに決まってるじゃないか。死んだら外の景色も見えないし、面白く遊べない。なんで現世にしがみついているのか分かったもんじゃない」
「──死にたくない?」
後半は訳が分からなかったが、それはどうでもいい。重要なのは前半部分である。
死にたくなかった、と。遊べなくなるからだと。
フードの中で驚く絢人にシトリは当然と言わんばかりの様子だった。
「誰でも死にたくないと思うのは当たり前じゃないか。驚く程のことじゃないだろ。シトリと言う存在はこの儚く醜いけれども美しさを孕んだ世界を愛しているのさ。それを死んで愛でられなくなったら嫌だからね。そのためなら、夜魔を使って世界の構成物を破壊して内包した魂を取り込んででもしがみつくさ」
「……もういい、充分だ」
御託はどうでもいい。意味の分からない事は気にしない。
肝心なのは、つまりこいつは仲間の為に命を投げ出す覚悟もなく荒凪を脱落者と冒涜したと言うわけか。
仲間の為に身を投げ出せとは言わない。友人の代わりに死ねとは言わない。隣人のために餓えを堪えろとは言わない。責めることはできない。誰だって当然自ら炎に飛び込もうなどとは思うまい。
だが、それをしなかった者がした者を侮辱して言い訳がない。
「……死にたくないと言ったな」
ここに当初とは違う戦闘動機が芽生える。
「こちらが一人とはいえお前を逃しはしない。……ボクは足止めではなく、お前を滅ぼすぞッ」
刹那、疾駆。
予備動作無しに絢人は急激に加速、姿はさながら打ち出された一発の銃弾が如く。シトリに迫るまでまばたき一つ、接近と同時に脇腹で溜めていた拳を抉るように突き出す──。
神速の剛拳、相手が夜魔ならば確実に一撃必殺。だが今の相手は異形を越える人外の存在、この拳にシトリは反応した。絢人の腕を捉えて真横へと逸らす。受動側でありながらこの反応は神掛かっていた。それでもシトリは無傷ではない。逸らした側、左腕の裾が破け腕にも一筋の血を流していた。この拳の鋭さは剃刀にも匹敵する。
拳を受けられたと判断した時には絢人は次の手を繰り出している。膝が跳ね上がり槍となってシトリを強襲した。
これは捌けないと判断してか、シトリはもう片方の掌で受け止める。が、掌では人外と言えど抑えきれず、衝撃がシトリを突き抜けた。
怯んだ隙に連撃──そう、次の拳を握り締める絢人からシトリは跳んで距離を取る。後ろへ一度退いただけで二人の間は一気に五メートルは開いた。それでも恐らく本気で退いてはいない。シトリなら十メートル以上を優に跳べるはずだ。何せ彼方には単純な身体能力以外にも魔法があるのだから。絢人も純粋な身体能力で戦っているわけではないが。
腹部をわざとらしくさすりながら、シトリは困った風を繕って笑う。
「突然来るなんて危ないな。ただでさえ君は動きが速いんだから、捌き切れないじゃないか。おかげで一発喰らっちゃったよ」
「一発と言わず何発でも呉れてやるさ。それこそ雨のようにな」
「それは遠慮しよう。痛いのは好みじゃない。そもそも、もう喰らわないさ──」
繕われた笑顔にある双眸が、一瞬獲物を狙う鷹のように光った。
「ネタバレしてるんだよ、君の能力はね」
シトリの台詞が合図であったかのようなタイミングで、絢人は頭上に質量の存在を感じた。大量の空気が逃げるような気配。
大質量。
わざわざ見上げることはせずに絢人は真後ろへ跳び逃げた。真正面に巨大な瓦礫が落ちたのはその直後だった。瓦礫の重さに廊下が鳴動する。下敷きになっていれば危なかった。落ちてきたのは天井の一部。どうやらシトリが何らか方法で落下させたのだろう。そこに大きな驚きがあるわけじゃない。ここは奴らの拠点なのである。驚きなのは絢人の弱点を知っていることだ。
いや、あの人格持ちも絢人の能力を看破していた。ならより高次の存在であるコンダクターに分からないはずがないのだ。
「こういうのは苦手だろう?」
シトリは得意気な顔になって指をはじく。今度はそれを合図に瓦礫が落下した。
「チッ──」
これは受け止められない。
時速一○○キロ以上で爆走する大型トラックを片手で受け止められても、これは受け止められない。それが幸水絢人の能力。
再び後退を余儀無くされ、絢人は僅か一足で瓦礫の衝突範囲から逃れる。
逃れた、確かに瓦礫からは。しかし落下する瓦礫の隙間から見える風景に忌まわしき敵の姿が見えなかった時、絢人は心臓がドライアイスに代わったような寒気を覚えた。
「こっちさ」
直後、真横から人外の拳が絢人の顔面目掛けて打ち出された。
*
古城の廊下を駆け抜け続ける。メンバーは当初の五人から今や三人。二人も後方に置いてくることになってしまった。時間も一秒一秒も休むことなく経過している。一刻も早く中核を潰さなければならない。
焦りが足枷となって纏わりつく。それが鬱陶しくて、足から振り解こうと圭はより一層足を早めた。
今や手応えのない夜魔さえ現れなくなった城内を、不穏な空気頼りに走る。恐らくそこには身体に警告を与える元凶が鎮座しているはず──。
風を巻き込んで、
人を粉砕する鉄槌が天井を砕き圭達の頭上に振り下ろされた。
「────ッ」
回避、不可能。防御、不可能。迎撃、不可能。
暖色の巨大なエネルギー体が圭達に回避するまでの時間も与えずに、卑小な人間を押しつぶした。
はずだった。
なのに得体の知れないエネルギー塊は圭達に触れた瞬間、跡形もなく霧散無消した。足場になっている廊下の絨毯の毛並みがふわりと揺れた。
頭上を仰げば風穴の開いた天井、そこになんの補助も無しで浮遊する男が一人。
「ここならと思って試してみても、やはり効かないか。……こちらの十八番を無視して無理やり自分の戦闘領域まで引きずり下ろす。……まさに天敵か」
呟き風穴を下降してくるコンダクターの頭、ゼパルの登場にシトリが現れた時よりもさらに強く一同は緊張感を強めた。
暖色の裾をはためかせて、優雅とさえ言える動作で廊下に降り立つ。これで翅でも生えていれば、宗教の信心深い信徒ならば皆一様に頭を垂れていることだろう。それだけ異質な空気がある。姿形は人間でも、内容物が違う。人間が臓器や血液などで構成されているならば、相手の中身は総て臓器と血液以外を詰め込まれている。そう思わせられるほどに、目の前の存在は規格外の化け物だった。
突然本人自らの登場に、何か策があるのかと圭と優希は足こそ引かなかったものの、僅かに怯む。ここは相手の本拠地、罠が仕掛けられていないわけがない。しかし人格が仕掛ける罠がどのようなものかは不明である。この城にいると言うことは即ち睡眠している凶暴な肉食獣の口に手を入れていることと同義である。もし猛獣の目が覚めれば、手を噛みちぎられるどころか身体を牙や爪で凄惨に切り刻むだろう。
それでいて尚、赤瀬だけは揺るがない。焦った感情さえ見せず──まるで最初から焦燥などとは無縁のように──に刀の切っ先をゼパルに突きつける。
「御身自ら出向いてくださり至極光栄の極み。用は何だ? 自分の手で引導を渡しに来たか?」
「そんな所さ。どの道、遅かれ早かれ衝突することになるだろう? ならこちらから出向こうが、たどり着くまで静観してようが差して変わるまい。変化があるとすれば、戦いの時刻が早まるだけの話。……僕はね、余計な些末事に気を捕られてはいたくないのさ。特に今日この日ばかりにはね」
「その油断は死を招くがな」
戦況は三対一で圧倒的有利。他の二人が現れない限りこの優位は覆らない。元より目的は敵の中心であろうゼパルの撃破。この戦力差なら達成できる見込みは十二分にあった。
ゼパルは中空から諸刃の美しい剣を取り出す。その仕草に緊張は窺えなかった。悠然と携えた剣を構える。
「油断じゃないさ。厄介な敵を葬り去るにはこれが一番。勝てば後顧の憂いはなくなり、負ければ死亡──どっちにしろ変わらない」
それに、とゼパルは鼻を鳴らす。
「勝算はないわけじゃないのでね」
ゼパルの言葉が、起点となった。
──全身を蚯蚓が這いまわり、蠢動し、蹂躙されるような不快感が唐突に圭へと襲いかかった。いや、圭だけではない。他の二人も同様にこの感覚を体験している。この吐き気を催すおぞけは、きっと人間の本質が悲鳴を上げているのだ。心臓を鷲掴みにされ引き抜かれようとしている──そんな実感がある。
ゴウンゴウンと、どこからか心臓の脈打つ鼓動の音色が身体を突き抜けていくような錯覚。何かが稼働した、人類だけでなく生命体だけを的確に確実に殺す忌々しい魔の産物が禍働した。
恐らくこれは、異能者であろうが問答無用で"殺す"アウターの結晶。呪術的で殺せないなら物理的要因で殺しにくる。人間が知覚出来なくとも銃弾は身体を穿つように、異能者も死ぬ。これはアウターであるが、同時にアウターを使いそれ以外の手段で対象を殺しにくる殺人概念。
「気付いただろう? 今稼働したのは魂魄否定……人の魂を集積する魔法の結晶と言う奴さ。まあエネルギーが万全じゃないから本格始動はまだ少し先なんだがね。エネルギーは人の魂。有り体に言えば人や生物を殺せば殺すほど活動は活発化する。アレにエネルギーが総て充填されれば──日本の総人口は半分以下になるんじゃないか?」
ゼパルがさらっと告げた事実に圭や優希は目を剥いた。単純計算で六○○○万人は確実に死ぬと言うことになる。あまりに現実味に乏し過ぎる数字。それが実際に動けば、人類至上類を見ない大災害が発生するということだ。
「な……っ!」
「刻一刻と外の兵士の死体からも夜魔を使って魂を回収している。アレは魂を集めると言う行動を酷く簡略化してくれる優れものでね。一○万人程度の魂でその何百倍もの結果を弾き出してくれる。それがもうすぐ規定数の魂を与えられ動き出す。そうすればお前達でさえ死は免れない。……僕らは魂を喰わないと世界に存在できないはぐれ者なのさ。これも生き残るためでね、仕方ないんだ」
圭の頭の中が熱くなった。ガスに火を投げ込めば一気に燃え上がるのと同じく、思考が高ぶっていくのが理解できた。
何が、
──何が仕方ないだ。
死体を見たぞ、見せられた。作り上げていたし積み上げていた。それを今度は六○○○万人? バカも休み休み言え。細部は分からないが、ゼパルは生きる為と言った。生きるのを間違ってると言うつもりはない。ただそこに目眩が起きそうな数の人間を殺さなければいけないと言う事柄が付随するのを除いて。
あれだけ殺して、まだ足りないのか。か弱い少女まで夜魔にして、人を殺させて、魂とやらを集めさせて、まだ足りないのか。
決めた。
魂魄否定を止めるなんて目的が生まれた今、ゼパルを足止めする人間が必要になる。
ならば、その役目は、
「──俺が止めておく。お前らはザインとやらを止めに行け」
赤瀬がそう言って歩を進めた。
「赤瀬さん……!」
「奴は強い。だから年長者として俺が止める。子供ばかり捨てて行くわけにはいかんだろうが。だからお前達が行け。敵は夜魔以外にまだ二人もいるんだ。グズグズしてる暇はないぞ」
圭が奥歯を噛み締めて躊躇する。どうする? ここは赤瀬に従うのが最善だが、この堪えきれない激情をどうやって収める? まだ少年の圭には怒りをぶつけられる相手が眼前にいながら即座に矛を収める術など知らない。できるのは力ずくで思考を黙らせることだけだった。
早く決断せねばならないのに、意地が折れない。熱くなった頭は過負荷でクールダウンをすることが出来なかった。
苦悩する圭の手を、横から伸びてきた掌が握った。傷ついているけど柔らかい感触には覚えがある。
「圭……行こう」
たったそれだけだった。優希の一言で熱くなっていた頭が急速に熱を奪われていく。じっと見つめてくる瞳にじくじくと膿んでいた蛆が摘出される。
少女の一声と見つめてくる瞳だけで、圭の頭は常の冷静さを一時的だが取り戻した。
「……ああ、行こう」
優希だけに聴こえるようありがとな、とだけお礼をすれば優希は僅かに頬を染めて、別にいいよとだけ答えた。
そこにゼパルが割り込む。剣を圭と優希に突きつけた。
「むざむざ行かせると思うか?」
「思うさ。貴様は俺に首をはね飛ばされるのだからな」
「それは怖い」
しかしゼパルの声には本気で圭と優希を止めようなんて気概は感じなかった。あるとすればそれは赤瀬に対する闘志のみ。初めからゼパルは赤瀬と戦い叩き伏せるつもりだったのであろう。
圭と優希が互いに目配せをしてゼパルの横を駆け抜けた。ゼパルはまったく手を出さずに二人を見送った。
場に残ったのはたったの二人。
無精髭を生やした屈強な男に、
燕尾服を身に纏う黒衣の人外、
「……今度こそ、正真正銘決着を付けようか」
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