63:巨鬼の右腕
電車から一歩踏み出すと、辺りの光景は一変していた。
──圭達があの墓地から飛び出して電車に駆け込んでから、早一時間以上経過している。空に浮かんでいた陽は既に西の彼方に沈んでいた。
駅のホームに漂う噎せ返るような血臭に、圭と優希は口元を覆う。電車に乗っている時はこんな臭いも、辺りに広がる血痕もなかったのに。一歩進めばここは別世界。道順を間違って天国から地獄に訪れてしまったのか。
背後を振り返ると、閉じかけた扉の向こうにいる深雪の姿。酷く狼狽している圭の顔を見て深雪は目を白黒させていた。
「深雪──」
何かを口にしようとするが、無機質な扉に情はない。発車音も高らかに、電車は向山市市街への方角に消えていった。
途端、圭は不安に襲われる。この惨状を見て、圭は深雪をひとりにさせてよかったのか。
そんな様子の圭を見て、優希は安心させるため肩に手を置いた。
「きっと、大丈夫。あの電車の中は安全だと思う。中からこれは見えなかったし、誰もこの駅に降りてない。ここと一般の人は隔絶されてるんだよ。だから電車の中に残ることが一番安全」
確かに今は、ふたり以外誰もホームには存在していない。それに外からもこの状況を見ることが出来なかった。あの人外──コンダクター達が何か細工を施したのだろう。他も安全かどうかは分からないが、他の駅では乗り降りも通常通り行われていたことから異常なのはここだけようだった。ならここから何も見ずに離れた深雪は安全なはずだ。
「……行こう」
圭はベルトに片手を廻して臨戦態勢をとり、足を踏み出した。
血臭の中、ふたりの靴音だけが不気味に耳朶を叩く。冬であるのに梅雨明けのような湿気を孕む生温い空気の中を慎重に進んでいく。
改札機の周辺に来ると、また人の死体が転がっていた。人数を数えようとすると途中で吐きそうになるので行わなかった。ただ言えることはそれらが人の仕業とは思えない死に方──例えばシュレッダーにでも掛けられたような──をしていたと言うことだけだ。
改札機の横手にある駅員室を見ると、血相を変えて優希がそちらに向かい飛び出した。
「……優希?」
開いた駅員室の扉の中を見る優希に圭も遅れて駆け寄ろうとして──圭は肝が冷えていくのを感じた。
駅員室の窓は目に見えて赤く汚れていた。多量の血痕。これだけの血液を喪失して生きていられる人間などいない。
遅れて駅員室を圭が覗くと、そこには当たって欲しくない予想通り駅員がひとり倒れていた。
特別仲がよかった、と言うわけではない。ないが、知らない人ではなかった。いつもここからSDFT内に入る時に顔を合わせていた青年だった。通常の駅員業務もこなし、SDFTへの入退室を管理している真面目な人だったのを圭は覚えている。恐らくSDFTで彼を知らない人は稀であろう。
そんな人が無惨に死んでいるのを見て、圭は酷くショックを受けていた。見知らぬ死体を見た時と見知った死体を見るのでは、ここまで違うものなのか。想像の範疇を遥かに凌駕していた。SDFTに入隊して半年にも満たない圭でさえこれなのだから、隣の優希がどれほどのショックを受けているのだろう。到底計り知れない。
慰めの言葉でも掛けようと思い、しかし安っぽいありきたりな物しか脳裏には浮かばず閉口していると。
「早くしないと、他の人が危ない」
奥の扉を見て優希はそう言った。その扉はパイルバンカーか何かでこじ開けられたようにひしゃげている。通路には巨大な血による足跡が点々と続いていた。この奥に惨劇の元凶が押し入ったのだ。
「……ああ」
犯人が確定すると、精神を蝕んでいた衝撃が怒りへと色を変えていく。悲しみを怒りに、と言うのはこういう物なのだろう。
死体を踏み越えて、圭と優希は通路を走り出した。
拳から血が滲みそうになるほど握り締めて、圭は腹の底にある怒りを絞り出す。
「こういうことかよ、クソッたれが──ッ」
ゼパルはあの墓地で言っていたのはつまりこの事を警告していたのか。
SDFT内でも疾走中に何人か死体が転がっていた。それを見て圭は軽蔑を覚える。これは戦いなどではなく、一方的な虐殺に他ならなかった。
夜魔の邪魔な巨体が転がっているのも見たが、明らかに人の死体とは数の比率が合わない。
ある程度走ると、あちらこちらから戦闘を知らせる銃声が聴こえた。二人一組では行動に限界がある。
「二手に分かれよう」
圭の提案に余裕がないのか優希はにべもなく頷き、二人は別々の方向に走り出した。
*
普通の人間なら扱おうとすれば、必ず重さに引きずられるだろう重量を持った大剣を自由自在に振るい夜魔を一体斬り倒した少年、荒凪健一は方を上下させながら愚痴を吐き出す。
「斬っても、斬っても、キリがねえ……。いったい何体いやがるんだよ!」
もう片手で数え切れないほど夜魔を倒したが、戦火は一向に収まる気配がない。むしろ数が減っているはずの夜魔に圧されている。SDFTは完全に劣勢だった。このままでは夜魔に組織が押しつぶされかねない。
この戦場の中、荒凪の愚痴に答えるモノがいた。
「侵入した夜魔は俺様を含めて二二体。お前に殺られた分をいれれば一六体──ま、もうちょい少なくはなってるだろうな」
「テメェは……ッ!」
声がした方に振り向き、荒凪は大剣を構えた。刀身に血糊がべったりと付着しているが問題はない。もとよりこの剣は鋭く斬る物ではなく叩き斬るものだ。大体血糊を拭う時間は既にない。
眼前にいるモノは、夜魔でありながら人語を解すイレギュラーな個体。
それはにやりと獣面と人面の口端を吊り上げた。
「本当は、こいつで俺の腕を切り落としてくれやがったあの糞餓鬼を真っ先にぶっ殺してやりたかったんだけどなァ。この際オマエでも構わねェ」
夜魔は"右腕"をもたげた。まるで見せつけでもするかのように。
その腕だけ、何かが違った。左の腕とは不釣り合い。左右不対照。異質、異様、異常。
右の肩の部分には接合したような継ぎ接ぎ。確か右腕は圭に切り落とされたはずだから、新たに移植でもしたのだろう。その肩から下の肌の色も大きさも左腕とは違った。
巨大。
通常の夜魔の腕よりさらに一回り以上も大きい。成人男性の肩幅以上はあった。それに伴い腕と爪の長さも変化していた。より広く届くようになり、爪は一本一本が鍛えぬかれた刀剣並に鋭い。簡単に人を両断できる爪がライトを反射して凶悪な光を持った。
ニィ、と不気味に笑みを深め──
「試し切りだアアアアアアアアアッ!!」
夜魔の巨体が榴弾砲さながら飛び出した。
夜魔は振りかぶっていた右腕を力一杯に薙払おうとする。それを見て荒凪は逃げるようなことはせず、大剣を振りかぶり迎え撃つ。
──振るえない。
夜魔の腕を見てそう判断した。より広範囲に射程を拡大されたそれは驚異だが、それも腕を振るえる立地だったらの話。この通路ではあの巨大過ぎる腕を存分に扱いきるスペースはない。加えてあの巨躯である。身体が人間サイズならば可能だろうが、熊並の体格では無理だった。対して荒凪の大剣ならギリギリこの場所でも使用することが可能だった。
そんな余裕を持って居られたのも、この時までだったが。
一向に笑いを止めない夜魔。それに妙な違和感を覚えた。何故笑っていられるのか。まだ気づいてないのか? だとしたら滑稽だが、その笑みはまるで勘違いで行動しようする者を嘲笑たぐいのもので──。
荒凪は勘だけで背後に飛び退く。その一拍後、夜魔の腕が勢いよく振るわれた。巨腕は案の定壁に接触し、だが止まることなく壁を粉砕する。コンクリートが粉塵を巻き上げ、中の鉄筋をも断った爪は先程まで荒凪がいた場所を薙払った。
「なんつー威力だよ……ッ」
夜魔の右腕の威力を見て荒凪は声を上げる。
「まァだ終わっちゃいねえぞォ、オラァッ!」
気を抜く暇も与えられずに追撃が襲い掛かった。
腕を振るう、ただそれだけの単純な行動。ただそれだけが一方的な暴力による蹂躙へと昇華されていた。天井を、壁を、床を、一撃で粉砕する威力を持つそれは、人間が喰らえば即死は必死。
前進しながら振るわれる剛腕のせいで荒凪はどんどんと後退していく。とてもじゃないが現状の空間では迂闊に前進など出来ない。最初は地の利を付けたかかとも思ったが、今やもくろみは正反対になってしまっていた。
夜魔の巨腕が荒凪の目と鼻の先を通過し、かすった刃が荒凪の鼻頭に一文字を刻み付ける。鋭利な刃物で切られた傷からは痺れるような痛みが走った。
「く……、ッ! 圧されてばかりでいるかってんだよォ!」
瞬間、防戦一方だった荒凪が反撃に転じた。天井を破砕しながら脳天をかち割ろうと降り下ろされる右腕に大剣を振り上げた。爪を生やした手と大剣がぶつかり合い、爪と刃が火花を散らす。刃は夜魔の掌に食い込みはしたが切れはせず、頑強。
「──オラァッ!」
両腕に血管を浮かび上がらせて頭上に君臨する死の質量を強引に跳ね飛ばし、力を内包したままの大剣が壁に激突しコンクリートを砕いた。さらに壁から反発するように大剣を横一閃。
胴を断ちに来た刃を夜魔は肉食獣と同じ俊敏な動きで飛び退いて躱した。身体を壁に引っ掛けるような無様は晒さない。
自分の進撃に水を差され夜魔の顔に苛立ちが浮かぶのを見て、荒凪は自らを鼓舞する意味で笑みを浮かべた。
「力押しはオレの得意分野なんだよ、熊人間」
「一回凌いだからっていい気になるんじャネェぞ……ッ」
それが夜魔の癪に障った。
再度の猛攻。
壁に爪で抉りながら荒凪に向かい疾走する様はブルドーザーがフルスピードで迫るほどの威圧感を孕んでいる。強大なプレッシャーと共に凶刃を振るった。
荒凪は紙一重でそれを躱す。頭上スレスレを通過するそれに肝を冷やしながら、荒凪も大剣を振るった。が、この一撃は夜魔の左手で受け止められる。右腕だけが特別なのだろう、掌には大剣が食い込んだ。しかし中ほどまで来た所で巨大な刃が突き出た爪に引っかかり、断つことを遮る。
大剣を振るった体勢の荒凪に、引き戻した右腕を夜魔は鋭く突き出す。途中で斬撃の軌道を遮られていたのが不幸中の幸いで、腕が延びきっていなかった荒凪は大剣を引き戻して刀身の腹で刺突を受け止めた。コンクリートをも容易に粉砕する攻撃を受けながらもタングステン製の大剣は揺るがず、驚異的な強度を見せつけこれを見事に防ぎきる。
手首を捻り、夜魔の腕を剣で頭上に受け流せば、無理やり一足分踏み込みまた力任せに再度大剣を振るう──。
直線上には先程と同じ夜魔の胴体。
「何度も何度も──」
夜魔がこの斬撃を致命打にしないよう回避運動をして躱すには、後数瞬ほど時間が足りない。右腕をすくい上げて放たれたそれを無傷で防ぐことは不可能。それを野生の勘で悟った夜魔は反射的に左腕を剣の前へと突き出した。
刃が左腕に埋まり、人間離れした怪力が手首を押し潰す。その犠牲でもって作られた空白を利用して夜魔は後ろに飛び退いた。
自らの潰された左腕を見て、夜魔が荒凪を睨む。殺気混じりの四つの眼光を向けられた荒凪は大剣を油断なく構えた。
「劇の前座如きが主演に楯突きヤがって……!」
「そうのたまう奴は必ず途中降板するのが鉄則なんだぜ、大根役者?」
「ほざけ猿がァ──ッ!」
人面の叫びに獣面の咆吼が重なり、巨体は疾走。
「馬鹿のひとつ覚えて言うんだぜ、そいつはよ──」
荒凪も今度は躱しはしない。三度見た行動。既にタイミングは見切っている。後は確実に力任せに断ち切るのみ。
今までの戦闘ですっかり広くなった通路は、大剣を縦一閃に振り下ろすことも不自由はなかった。
斬るのではなく鈍器を叩き付けるように大剣は振り下ろされる。通常の夜魔なら真っ二つに出来るほどの威力。
耐久性では通常の夜魔と遜色ない目の前の獣も無論当たれば一撃。
しかし、それが右腕以外だったらの話だが。
夜魔は荒凪に振り下すではなく、力を込めていた右腕を大剣に叩きつけた。大剣は右手の肉を裂きおのが刃を埋没させるが、なんとか骨に到達するだけで断つことはかなわない。
「しまっ──!」
た、とまで口にすることは出来なかった。夜魔の突進で壁際まで吹き飛ばされたからだ。
壁にぶち当たり、背中から全身に激痛が走り小さく呻いた。視界がチカチカと点滅する。
「ザマァねえなァ、オイ! 餓鬼が粋がるからこうなんだよ!」
耳障りな声に頭を叩かれた。やけに気に障るそれを受けて、荒凪は身体に鞭を打つ。脳が揺れて身体の末端まで神経が廻らないが、気にしない。どうせ一時的なものだ。痛みを振り切って大剣を杖代わりに身体を起こした。
大丈夫、問題ない。戦える。夜魔などに負ける気は更々ない。
「たった一発当てたくらいで、いい気になってるんじゃねえよ」
頭から流れてきた一筋の血を舐めとって、大剣を肩に担いで夜魔を強く見返した。
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