57:譲れない気持ち
顔を僅かに俯けて、前髪が深雪の表情を隠している。圭達には瑞々しい唇だけが確認出来た。
「深雪……! いったい、何をしようとしてたの!?」
優希は深雪に厳しい眼差しを向けた。普通の少女ならたじろいでしまうような眼光。それを深雪はたじろぐどころか、口元に余裕めいた笑みを浮かべた。
「何って、わからないの? 首を絞めてたんだよ。そんなのもわからない?」
「わかってる! でもなんでそんなことしたのっ?」
訝しんでくる様子に深雪はさも当然と応えた。
「──圭くんが欲しかったから」
一遍の迷いも感じられないそれに、優希は目を見開いて絶句した。
「欲しかった、から?」
呆然と口から零れた言葉に、垂れた前髪を揺らしながら深雪が頷く。
「そう。欲しかったから。圭くんをわたしだけのものにしたかったから」
「そんな……! それで、圭を……」
「殺そうと、した?」
深雪の台詞に、しばらく優希は口を開けなかった。何を言っていいのか、何を言うべきなのか、深雪の自信すら感じられる物言いに言葉を失っていた。
どうしてと、口が頭に浮かんだ疑問を吐き出す。
「そんなことで、圭を殺そうなんて……。深雪は、いつも……」
優希から見た深雪は圭のことを考えていた。いつもいつも、積極的に圭の身の回りに気を配り、体調を心配し、どんな時にも献身的だった。こうゆう娘が、将来良いお嫁さんになるのかなと思ってもいた。
過剰に反応することもあったけど、それは圭への愛情が成せたことだ。圭に降りかかる火の粉を一心不乱に払っていた。
なのに、そんな彼女が自ら火の粉となって襲いかかるのか、優希にはわからなかった。
「わからないの?」
「え?」
「本当にわからないの?」
突然の深雪の問いかけに、優希は目を瞬いた。なんでそんなことを言うのか理解できない。
「わからない? 本当に?」
「……うん」
「嘘だね」
その肯定を深雪は慈悲なく無惨に切って捨てた。
「わかるよ、優希ちゃんは」
「……わからない」
「気づいてないの? それとも汚い自分から目を背けてるだけ?」
「わからない。本当にわからない!」
「なら教えてあげる。……優希ちゃん、圭くんが自分を見てくれたら嬉しいよね」
それは問いかけであるのに疑問系ではなく、わざわざ知っていることを再度確かめるようなものだった。
優希は落ち着きを取り戻してきた圭を気にしながら、静かに頷いた。
「でも、自分以外の誰かをずっと見たりする時。しかもそれが異性だった時。優希ちゃんは、どう思う」
「それは………」
「ほら、答えてよ」
「………い、や」
控え目に回答されたそれに深雪は満足気に首を縦に振った。
「そう。そういうこと。わたしは圭くんに自分だけを見て欲しかった。それなのに……」
前髪の合間から深雪の右目が覗き、優希を見た。視線だけで相手を射殺すかのような殺意を乗せて。
「貴女が奪ったッ!」
声を張り上げる。
「優希ちゃんが奪ったわたしから圭くんを奪った最愛の彼の目を奪った心も奪っていったッ!」
深雪の両腕が伸びて優希の胸倉を掴んだ。深雪が膝をつき優希を引き寄せると、襟元の布の繊維がいくつか音をたてて断裂した。
お互いの息がかかるほどふたりの距離が近づく。
その深雪の表情は、今まで見たことがないほど鬼気迫るもの。親の仇を見るかのような──否、深雪にとって圭は肉親を遥かに凌ぐ者だった。
「奪った、圭くんを奪った」
「違う! 私は──」
「違わない! 何も、ひとつも、違わない!」
「深雪から奪おうなんて考えてない! ただ私は、圭が……っ」
ぐっと息を飲み、背後の彼に聞こえる覚悟をしてそれを声にする。
「好き、だから!」
「同じなんだよ、それはッ!」
優希の胸倉に掛かる力がさらに増した。
「いくら何を言ったって詭弁! だって貴女は圭くんが異性を見るのは嫌といった。ならわたしを見させるわけがない許すわけがないさせるわけがないッ!」
「私は……私はそんなことしない! 圭はそんなこと望んでないから!」
「信じられないね! 薄っぺらい取り繕ったその場しのぎの言葉にしか聞こえないよ、貴女の言葉わっ!」
「──ッ、私だって……」
目に力を込め深雪を真正面から見返して、拳を握りしめる。
「私だって圭に見てほしい! 私だけを見てほしい。一緒に同じ時間を空気を体温を鼓動を共有したい!」
「ほら、ほらほらほらほらほらッ! 今自分でハッキリと断言したじゃない! わたしに圭くんは渡さないってッ」
鬼の首でも取ったかのような勢いで深雪はまくし立てた。
「でも、こんな……そうしたいと思う気持ちは止められないけど……」
優希は視線もそらさずに、深雪の悪意を受け止める。
「圭は望んでない。望んでないのに一方的な要求を叩きつけるのは、自分勝手な独り善がりよ!!」
「────ッ!?」
「本当に圭が大事なら! 圭のことを考えているなら! そんな勝手なこと出来るわけがない──!」
「ッ、うるさい! 貴女に……」
優希の胸を思い切り突き飛ばす。小さい悲鳴を上げて、優希が尻餅をついた。背に手をついて横転を免れたのは日頃の行いの副産物。
深雪、と頭を上げた時、そこに信じられないものを見た。
ポケットから木製の持ち手を握って、鞘から果物ナイフを引き出して佇んでいる少女の姿。
鈍い鉄が光を反射する。
「──大好きな人を奪われた気持ちなんて、わかるもんかッ!!」
殺意を持って、果物を解体する刃が優希の肉を裂こうと突き出された。
優希は無意識下で避けるために身体を捻ろうとする。深雪の動きは夜魔や人外の相手をした優希には、あまりに遅かった。
いつもの優希なら、子供の拳をいなすようにいともたやすく躱してみせる。しかし、本来出来たはずだった行動は優希の身に巣くうそれによって遮られた。
身体を襲う激痛。内側から剣山に刺し貫かれるのに似た痛み。
この瞬間まで、優希は自分が怪我人であることを喪失していた。
痛みに歪んだ視界で、深雪の手にしたナイフが近づいてくるのが分かった。
深雪を含めた周囲の動きが総てスローモーションになっていく。眼前の死に脳がフル回転しているのか、死ぬ直後の世界を引き伸ばされた時間。
緊張で汗を流す暇すらない、一秒程度の時間。
迫り来るナイフの起動から、ああ、これは左胸を突き刺して心臓に風穴を開けるのだろうと思った。他の部位ならまだ助かる可能性があったのかもしれないのに。
心臓を突き刺されたら確実に息の根は止まるだろう。化け物と死闘を演じられても所詮は人間。主要臓器を刺されたら死ぬ。
深雪に殺されると言うことに、優希は幾らか納得した。
そこまで、追い詰められていたのか。
圭は首を絞めて、ポケットのナイフを使おうとしなかった。用意していた凶器は、最初から優希に使うためのものなのだ。もし圭と優希が一緒に帰ってくるようなことがあれば、刺してしまえるように。でも圭には傷を付けないために首を絞めて。
歪んで醜く変わっていても、それは圭への愛情だったのだろう。心から何より、世界と彼をかければ一遍の迷いもなく彼を選択するほどに愛していたのだろう。
好きで、好きでたまらなくて、ずっと一緒に寄り添って幸せを噛み締めて。
なのに、そこで現れた泥棒猫。
深雪の口振りは、まるで圭が優希を好きだとでも言っているようだった。こんな女を好きになるわけがないのに、そう否定する優希と、そうだったら嬉しいなと思うもうひとりの自分が内心にあった。
けれど、もう終わり。
この一突きで呆気なく人生は終わる。
深雪を追い詰めて、ここまでさせたのは自分だ。ある意味自業自得。
それでも、後悔はない。
圭を好きになったことを、悔やむ気持ちはかけらもなかった。
たとえ数ヶ月の間に築かれた想いでも、この気持ちだけは深雪に引けをとってはないと思った。
でも、死にたくはない。死にたくはないけれど、もう避けられないのならと、瞼を閉じてその瞬間を待った。
────────────ズッ─────────クッ──。
凶刃が、肉に突き刺さる生々しい音。
赤い血液が流れる。
床に落ちて水音を鳴らした。
痛みはなかった。
だってそれは、自分に刺さったわけではないのだから。
目を開いた優希は、そこにある背中を見て何が起こったのか頭が理解を拒否した。
根元まで脇腹に埋まったナイフを握る深雪の手を、生暖かい紅が濡らした。
「…………圭、くん?」
呆然と、差した本人である深雪がつぶやいた。
恐る恐る、まつげを震わせながら深雪が少年を見上げた。
「深、雪……ちょっとストッ、プ……」
弱々しい笑みを浮かべる圭が、そこにいた。
「──っ、ぁ……ぁ、あああ、ぁああ……っ!」
深雪は目を見開いて後ずさった。指が硬直してナイフから手を離すことを忘れて、刃が圭の身体から抜けた。同時に血液が大量に流れ出すのを見て、息を切らした金魚のように口を開閉しながら言葉にならない悲鳴を上げる。
深雪に体重を預けるようにして立っていた圭は、支えをなくして仰向けにフローリングの床に倒れた。
じわりと、紅い水たまりが広がる。
「圭……? 圭っ!」
流れ続ける血を止めようと、優希が傷口を手で抑えた。それでも指の隙間から鮮血が零れる。
しっかりして、と呼びかける優希の声を耳に入れながら、鉄の臭いに深雪は自分の手に視線を落とした。
真っ赤な色模様を加えられた果物ナイフ。それを握る彼の命で濡れた、自分の両手。
「ひ……っ」
恐怖に駆られてナイフを投げ捨てれば、甲高い音を上げて床を転がった。
血塗られた自分の両手を再度凝視する。床に倒れ伏す彼。行為を行った自分。手に残る肉を刺す、感触。
「な、あ、あ、……こ、んな……わたしは……っ!!」
止まらない恐怖と震えに壁に背を預けて、腰砕けに床へ座り込む。
「圭! ねえ、圭っ! しっかりしてっ、圭!」
涙声になって優希が何度も何度も圭に声をかけ続ける。
すきま風のような小さい呼吸をしながら、うっすらと開けた瞳を動かして圭が深雪を見た。
「深雪……あの、さ……」
騒然とする場で、倒れていた圭が息も絶え絶えで口を開く。
「……圭、くん?」
「ごめん、な……そんな風に追い詰められるまで、気づいてやれなくて、ごめんな……」
「……圭くん」
多量の出血で視界が霞むなか、圭は続ける。
「いや、本当は……深雪の気持ち、分かってたのかも、しれない。ただ俺は、深雪から目を背けてたんだ……」
一言喋るごとに苦しくなり、息を肺に送り込むだけで脇腹の激痛が増してしまう。
その痛みを制して、額を脂汗で湿らせながらも言葉を続けることを圭は止めない。最後まで言い切らなければ、きっと後悔してしまうから。
今まで自分が煮え切らないからこうなってしまったのだ。なら、もうそんな間違いをしたくはない。どんなに稚拙なものでも、総て吐き出せずに悔いを残してしまいたくはなかった。
「恐れていたんだ……深雪の気持ちに気づいてしまうのが、怖かった。だって俺には、深雪をそうゆう風に見れないから」
小動物が耳をたてるように一瞬だけ、身体を一際強く震わせる。
「圭くん、それは……」
続きは聞きたくない、決定的な拒絶の言葉を聞いてしまいたくない。深雪の言葉はそう訴えているようだった。
「深雪のことは、好きだ。嘘じゃ、ない。俺の、包み隠さぬ本心だ。深雪と一緒にいる時も、好きだ……でも、」
そこまで言って、激しくむせた。苦しい。痛い。氷点下の世界にいるみたいに寒い。傷口が熱い。身体から体温が消えていく。意識が朦朧とする。何もかもが曖昧になる。
「だ、駄目! もう喋っちゃ! これ以上喋ったら、圭は……っ!」
優希の悲痛な叫び声。
言いたい言葉も、頭から滲んでぼやけて消えていく。
もう、目を閉じてしまおうかと思った。ここまで言ったのだから、休んでしまってもいいじゃないかと誘惑された。優希もこんなに心配しているじゃないかと。
「でも……でもさ……」
それでも尚、圭は最後の言葉を口にするために口を動かし続ける。
「俺にとって、深雪はさ……」
後、一言。
これに万感の想いを載せて。
「家族、なんだよ」
「─────────────えっ?」
家族。
圭にはもう、血の繋がった家族はいない。両親は死んでしまったし、兄弟もいはしない。
そんな中で、一番親しく付き合ってきたのは深雪だった。知り合ってからはずっと一緒にいたし、支えられて生きてきた。
楽しかった。何物にも代え難い幸福だった。
深雪との出会いは、彼女が中学校で虐められているのを助けた時。あの頃の深雪は今では考えられないほどに暗く、親からも虐待を受けていた。それを当時、同じく力を知られて恐れられ、同時に陰湿な虐めを受けていた圭が通りがかってたまたまた助けることに至った。
昔の圭も、今と違ってかなり荒れていたと言っていい。深雪を助けたのは同類だから分かる苦しみもあったが、その行為が異様に腹立って衝動的に行ってしまったようなものだ。
だから能力を使って、生徒を蹴散らした。
無論、恐れられた。
深雪にも、恐れられたと思った。
しかし数日後、彼女は圭の元に訪れた。
──わたし、朝倉深雪と言います。あなたの名前は、なんですか?
それがふたりの馴れ初め。
ふたりはどちらからともなく相手へ会いに行ったし、よく一緒にいた。
色々なことを話した。
両親のこと、よくわからない力のこと、食事や暮らしに勉強のこと。他愛ないこともあったし、真剣な話もあった。
圭はなんでも打ち明けられる理解者が出来たことが嬉しかったし、深雪もつぼみが花開くようにどんどん明るくなっていった。
それから、数え切れないほどのことがあった。深雪と一緒に居初めてからは、本当に毎日が輝いていた。本当にありがとうと幾ら感謝しても足りないほどに。
一時期、深雪に恋心に似た感情を抱いたこともある。ふたりきりでいる時に、唇と重ねてみたいと思ってみたり。抱き締めたいと思ったことなんて、それこそ一度や二度ではない。
それを一線で、何かが押し止めていた。
しばらくしてから、ようやくこれがそういうものとは違うと分かった。
今なら、これがなんであるか断言できる。優希に向けているものとは違う、家族愛と言うものなのだと。
だから、もう深雪をそういう目では見れなかった。
「圭、くん……それ、わたし……っ」
なんてこと。そう震える声が、圭の耳に届いた。そこに狂気の色は感じられず、良かったと胸をなで下ろした。そんなものいらないと拒絶されなくてよかった。
安心すると、急速に意識が遠のいていく。自分が眠りに落ちる瞬間を明確に感じ取るができないのと同じに、圭はそれを止めることを出来ない。
稼働する機械から電源を落とすように、圭の身体から力が抜けた。
後には床に広がる壮絶な量の血液と静寂だけが横たわっていた。
「……圭?」
圭の血で手や服を汚した優希が、軽く少年の肩を揺さぶる。本当は怪我人にこんなことをしてはいけないのに、何故かこうしなければと思ってしまった。
「……圭? ねえ、返事をして……っ!」
「……え? 圭、くん?」
深雪は圭の身体に手を伸ばした。予想以上に少年の肉体は冷たかった。
「圭、くん? お、起きてよ圭くん。圭くん!」
肩を揺さぶってみても、反応は返ってこなかった。
「嫌だ……嫌だよ、こんな……ねえ、起きて、起きてよっ!」
答える声はどこにもない。
「い、嫌ああああああああああああっ!!!」
懺悔を聞いてもらえない少女の絶叫は闇夜の帳に鳴り響く。
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