54:踊り狂う黒姫
ヒュッ、と口笛でも吹いたような風音が幾重にも響き、協奏曲を奏でる。
しかしこれは、口笛のように気楽なものでは断じてなかった。
銀色の鞭と黒色の鞭が鋭くお互いを叩き合う。風船が割れるものより数倍鋭角的な破裂音が耳をつんざく。
優希が軽快に動き回ながら、腕を連続的に振るう。剣鞭が少女の意志を汲み取って、まるで手足と違わず身をしならせてゴシックドレスの美女を強襲する。
それをことごとくアスタロトは自分の鞭で叩き落とし、相殺した。笑いながら、愉快気にステップをして、踊るような華麗さで死合の場を舞う。
受けに回っていたかと思うと、途端に積極的で挑発的、魅せつけるサディスティックな嗜虐の動き。黒の鞭は、優希の比較的無防備な位置を激しく露骨で官能的に攻めたてる。
ある程度鞭と言う法則から外れて自分の意志通りに動かせる剣鞭をもってしても、ピンポイントの鞭打を防ぎきることはできない。
防ぎもらした鞭が、肉を平手で思い切りひっぱたいたような音を上げて優希の身体を襲う。その度に衣服が裂けて、下にある肌が紅い一文字の化粧を施されていく。
「ああっ、くぅ……!」
「ほらほらどうしたの? せっかく逢瀬のために清めてあげた身体も服も台無しよっ!」
苦痛に喘ぐ優希を見て瞳を恍惚に濡らしながら、なおも攻撃の手をゆるめない。
一度主導権を握られてしまい、反撃の手が出せないままに優希は無数の鞭打に晒された。ひとつひとつが顎を開いた蛇のように、柔肌に食らいつく。
鞭と言うのは、防御するには非常に厄介だ。元は拷問で殺さず痛めつけるための、拷問器具。しかし、優希のものは違う。鞭であり、剣であるそれは相手に叩きつければ極細のワイヤーを絡めたように、肉を輪切りすることができる。
優希は自分の獲物の特徴を理解している。いるからこそ、剣鞭に触れても破損しないあの鞭は"頑丈"と言う意外にも特殊なものがあるだろう。
しかし、優希は何度攻撃を受けているが、どれも致命打には至らず、一向にそれらしい物が出る様子はない。
つまり、完全に遊ばれていた。
アスタロトに真剣さはなく、顔に浮かんだ見る者の背筋を震わせるような妖しい笑みが浮かんでいる。
猫が鼠を追い詰め、いたぶり遊ぶのとまったく同じだった。狩猟でさえなく、ただ玩具と戯れているだけの行為となんら変わりない。
気丈にも悲鳴をこらえて、優希は剣鞭を力任せに振るった。守りを考えなかった一撃は、相手の鞭で肩に裂傷を作ることを代償に、アスタロトの二の腕を切り裂いた。
右二の腕の袖に布で出来た口が生まれる。間からは白磁の肌が覗くが、そこに異分子が混じっていた。
アスタロトの瞳と同じような、紅。
一文字の痕からは、血液が滲み出ている。出血量は針が刺さったのを少々拡大した程度だし、傷自体もまったくたいしたことはない。
それでも、アスタロトがこの場で初めて受けた負傷だった。
「……敵の心配なんかするから、そうなる」
自分に勢いをつけて波に乗ろうと軽口をたたき、優希は自らを鼓舞し、それに嘲笑も込めてやった。
その瞬間、空間が凍結する。
*
圭はベッドの上で優希の闘いを、じっと見守ることしかできなかった。
あの体内から圭を焼き、あるいは蒸し、もしくは溶かそうとした高熱は身体から引いていた。まだ僅かな余韻が残り、身体が火照って手足が重いものの、問題はない。イメージ的には、学校の校庭を何周も走らされた時程度だった。
それでも、圭は優希が傷ついていくのを黙って傍観に甘んじるしかない。悔しさにベッドのシーツを握り締めた。
鞭の打ち合いで優希の身体がさらに傷ついて行くに連れ、圭の中で怒りが煮えていく。今すぐにでも駆け出して優希を助けたい。だが、そんなことをしても武器がない圭では足手まといなのも理解していた。万が一武器があったとしても、アスタロトのアレを使われれば手も足も出せなくなる。
故に、ここは堪えているしかない。
塞ぎ込んでた時は、助けることは出来たのに実行する気がなかった。今は助けたいのに実行する力が足りない。
このふたつが揃わないことが、酷く煩わしかった。
圭が苦悶していたその時、優希の肩に鞭が決まる。あっ、と声を上げた次の瞬間、優希から放たれた一撃が、浅くはあるが初めてアスタロトを捉えた。
夜魔と違い、真紅の鮮やかな血が滲み出て、重力──こんな空間にもあるのかよく分からないが──に従って闇の地に落ち、飲み込まれて消えていった。
ふたりに気付かれないよう、圭はぐっと拳を握りしめる。たとえ小さくても初めて攻撃が当たったのだ。劣勢ではあるものの、嬉しい戦果だ。
優希が挑発の言葉をアスタロトに投げるのを見ながら、今のをきっかけに圭達の有利な状況になるかもしれない。そう僅かにでも考えた時、
──空間は氷結する。
熱い、内側の拘束ではない。
極寒の、外側からの浸食だった。
空気が質量を持ち、それが絶対零度で凍らされ、身体の自由が効かない。錯覚であると理解はしている。していても、指一本動かせなかった。今臓器が稼働していることさえ不思議に思えた。
これは圧倒的な殺意。
それに対峙している優希もさすがにたじろぐ。夜魔が熱湯だとすれば、これは熱した油ほどの差があった
アスタロトは自分についた傷口を指でなぞると、小さい裂傷は塞がっていた。
指に付着した傷周りの血液を、紅い舌で艶めかしく舐めとる。
些細な動作ひとつが、何かの予備動作に思えて背筋が徐々に冷えていく。
「……やって、くれたじゃない」
美女の口端が狐を描いた。
薄皮一枚の笑みの下には、隠しきれない怒気がある。
「あたしに、よくも、傷を、つけて、くれた、わね?」
出来るだけ、声を荒げないよう途切れ途切れの言葉。それは嵐の前の静けさと言って過言ではなかった。
「この傷……何倍にして、返して上げるわッ!!」
今までの余裕に満ちた表情を引き剥がし、殺気を隠さず身から放出しながら、アスタロトは優希に飛びかかった。
*
それを気に優希は金縛り状態から脱出する。上手く整えられていない体制から、すぐさま牽制を兼ねて剣鞭を走らせた。
受けにくい鞭の一振り、しかも斬ると言うことが可能な剣鞭なら触れただけで危うい。何度も打ち合いを続けたアスタロトなら、それも正しく理解しているだろう。必ず避ける行動をとるはず。その隙に体制を立て直す。
そう、考えていた。
ただ、優希は剣鞭と言う特殊な武器を持っていたことと、人間の姿をした相手が自分と同じ獲物で戦うことを想定しておらず、一瞬だけ先程の攻防を忘れていた。
アスタロトが黒鞭を剣鞭に打ち付ける。派手な音立てた鞭は、互いの衝撃波で勢いをほとんど相殺された。勢いの緩くなったそれをしゃがんで回避することなど、人外にとっては呼吸をするように簡単だった。
剣鞭がアスタロトの頭上を通過する一刹那、黒き痩躯はゴシックドレスの裾をたなびかせ飛び出す。
一息で優希の懐にアスタロトが入り込んだ。
優希が彼女に対応するより速く、アスタロトは掌を突き出した。纖手が腹部を正確に捉え、優希の身体を衝撃が貫いた。
「ク、ハッ」
華奢な少女の身体がくの字に折れ曲がり、目と鼻の先に敵がいるというのに、優希は地に膝を突いた。剣鞭を取りこぼさないのは、昔からの戦い身体が覚えているゆえ。
「あたしを傷つけたんだから」
つま先が跳ね上がり、優希の鳩尾を抉る。
「まだまだ、こんなもんじゃ、すまない」
吐き気を堪えながら喪失しかけた意識をつなぎ止める少女に鞭を振るい、鮮血を散らせ。
「じゃあねっ」
踊りを舞うように一回転して、優希の横顔に踵を叩きつけた。
鈍い音がして、首が可動範囲を越えてねじ曲がり、不気味なオブジェクトを作り出す一撃。
だろうが、トドメの一撃であるそれを、間一髪で圭が受け止めていた。
シーツを縦に捻って形を定め、なんとか作り出した剣で。
「このッ」
剣を振って足を払いのける。アスタロトはよろめくでもなく、数歩分後退した。
自分を傷つけた張本人に終止符を打てなかったアスタロトが、邪魔をした圭に視線を向けた。
全身が総毛立つ。腹を空かした猛獣の群に放り出された方がまだ生存確率があるんじゃないかと思うほど、自分に向けられた殺気は恐ろしかった。
「邪魔、しないでくれる?」
「……断る」
蛮勇でも、ここで見せぬわけにはいかない。柄を握り締めて、驚異と相対する。
「拒否権は認めない。醜く這いずりなさい」
言葉で再び"あの"スイッチが入った。
ドクン。
身体が熱い。
骨が熱した鉄パイプにすり替わる。肉は熔解していく鋼に替わる。血液はマグマに置き換わる。灼熱。自分が人ではなく炎人に変わる。変貌する。変えられる。燃やされる一生燃え続ける神の炎のみたいに未来永劫変わりなく燃えて燃えて燃やされ尽くされ身を焼く苦痛が身体を焼き煮尽くす。
やめて。止めて。ヤメテ。
脳がとろけて耳から出そうになるのに途中で蒸発して香ばしい匂いを発する。臓器も焼けてヒトガタだけが残って意志も思考も存在も消えたはずなのに熱くて堪らなくて、目が血走ってでもなんでまだ目が残ってるのか分からなくてこの地獄から解放されるにはただ一人の女性から許しを乞わねばならず。
アスタロトは忠実に従い地に伏し身悶える圭を一瞥して、こちらを睨みつけている優希を見下した。
「生意気な目。何も出来ないのに気概だけは達者ね」
「うる、さいッ」
優希は剣鞭を振ろうとするが、それを腕に巻きつく黒鞭に止められた。
「──ッ!?」
「無駄よ。そう簡単にこれから逃れることは出来ないから」
蛇のように絡みつく鞭を振り解こうとするが、意志を持っているようにうねるそれから抜け出すことはできない。人外が使用するものだ。意志に近いものが備わっているのかもしれない。徐々に身体を這い上がり、動きもままならなくなる。
「さっきは簡単に殺すとこだったけど、あたしに傷を付けたんだから、もっと残酷に死んでもらうわ」
クンッ、と鞭を引っ張り地面に引き倒した優希を足蹴にしながら、そうね、とつぶやき逡巡する。
「意識と痛覚を保ったまま五体を引き裂いて、眼球を引きずり出すか。盛った夜魔達に正気を維持させ続けながら一生陵辱させて……あ、これじゃあ死なないわね。それにちょっと安直。指先から精肉機械にかけて行くのは? 脳味噌削れるまで意識がなくならないようにして。……そういえば干渉はほとんどできないとか、ゼパルから思念が来てたわね。じゃなきゃ、さっきので内臓ぶちまけてるはずだし。でも過度じゃなきゃいいみたいだし、真ん中のならできるかな……?」
身の毛も弥立つ企みを優希に聞こえるように口ずさみながら、なおを思案する。途中何度も優希が抵抗をするが、拘束も緩まず頭を蹴られて意識が途切れそうになる。
唐突に、アスタロトが酷薄な笑みを浮かべた。
「そうだ。これが一番苦しめがいがあるわね」
視線を向けられた優希は、気丈に睨み返す。たとえどんなものが来ようとも、屈しず諦めない。この拘束をなんとしても解いて、目の前の敵を殲滅して、
「そこのアンタ」
地面でうごめく圭に声をかけた。脳裏に刷り込まれた魅了のせいで、圭はあんなに苦しんでいるにも関わらず、アスタロトの言葉に反応した。
「今、苦しい?」
焦点を結ばない瞳でアスタロトを見返し肯定する。
「逃れたいわよね? なら楽になる方法を教えてあげるわ。──そこの女を殺しなさい」
「………え?」
今、なんと言ったのか優希は理解できなかった。
そして、圭が幽鬼のように立ち上がって自分の肩に手を置いていることにも脳が追いつかなかった。
気づけば、剣を持った圭が優希のうえに跨っていた。
鞭が優希を拘束から解放するが、今度は圭に強い力で取り押さえられる。
血走った少年の眼球が、苦痛からの解放を望んで優希を見ていた。
呆然とする優希の耳に高らかな哄笑が届く。
「どう、親しい男に殺されるのは? というか、アンタそいつのこと好きだったんじゃない? シトリは男女の心を操ることが出来るんだけど、アンタは元からああゆうことを望んでたんでしょ? じゃなきゃ、あそこまで綺麗に決まらないもの。そんな人間に殺戮の対象としか見られず殺されるなんて、最低に最悪な拷問よね!」
それともあたしに殺られるより本望かしら、そう笑う声は優希にはほとんど届いていなかった。
圭は優希を見下ろす。彼女を殺せば、楽になれる。何も考えず剣を振り下ろし息の根を止めれば、精神を削り摩擦してくるこの痛みから。
なら、なら、やるか。
やるか?
この苦痛から逃れるためなら、この衝動を発散できるなら、願ってもないじゃないか。
少女の左胸に切っ先を押し付ける。一瞬脳裏に、河原に倒れて傷つく優希の姿を思いだした。
ノイズが走る。異物がある。それを認識しろ。吐き出せ。排除しろ。抹消しろ。
急な頭痛が圭を襲う。いつもの頭痛くらいなら、この苦痛に比べれば些細なもののはずなのに、今は頭が割れて中身をこぼしそうなくらい痛い。
なんだ。クソ。なんなんだ。優希に刃を押しつけようと思考を働かせるたびに一際痛みが強くなる。
ソウしたいのに、"圭自身"がダメだとイッテいた。
ダメだ。ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。
絶対に許さない。気づけ、滅ぼせ、復帰せよ。
頭が痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
「………圭」
儚げな少女の声。
「苦しいなら……我慢しなくていいよ。私だって、圭のためそれを味わってあげるから」
それはつまり、
今この場で圭に殺されても良いと言うことか。
苦しみ。
苦しみ
……苦しみ?
なんだそれは、と圭は思った。今までは苦しくなかったみたいな言い方は。
そんなわけはない。彼女は今まで傷ついていた苦しんだ。そのうえまだ苦しもうと言うのか。しかもそれを圭が与えようと言うのか。
──……ふざけるな、だ。
異物は排除。自己は己。邪魔、不必要、こんなもの払ってしまえ。
瞬間、爽快感は再び身体の内を満たしていた。が、すぐさま消えてしまう。それでも、あの苦しみは戻ってこなかった。
立ち上がって、優希に手をさしのべて身を起こさせた。ふらふらと足元が不安定だったが、もう大丈夫そうだった。優希はいきなり素面に戻ったことに驚いていたが、すぐ安堵で表情を緩めて、自分の胸元を隠しながら圭の胸板を軽く叩いた。
「……もう、あんまり心配させないで」
「……ごめん」
気まずい雰囲気で謝る。いったいこれは今日何度目の謝罪かはもう虚しくなるだけなので、やっぱり数えなかった。
驚愕に目を見開いたアスタロトが、忌々しげに圭を睨んだ。
「アンタ……!」
「よくも、優希に俺をけしかけてくれたな。……今度は、俺が報復させてもらう……ッ」
圭は切っ先をアスタロトに突きつけた。
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