46:彼女と彼女と彼
暗い、暗黒い、色無い空間に立っていた。
何もない、虚無を映した心象世界。
あるのは足場に広がる"沼"のようなものだけ。見えないけど、見えている。沈まないのに、沼のように重い質量を持った粘液だと理解する。
この暗闇も光がないと認識し、壁も天井もないことを見ることができる。
決定的矛盾。
それはここが自分の中だから。この個体が見ることが出来なくても、今いる世界を内包するリアルの自分が理解する。リンクされた思考から情報が流れてきた。
山里圭は、現実の自分とまったく同じ服装や格好、ステータスを反映して、空間に立ち尽くす。
何もなくなっていた。
沼に視線を落とす。何も見えないし、暗い沼を見ることができる。現実では有り得ない認識に頭が混乱して、ズレているような感覚がある。気持ち悪いし吐き気もするが、両方とも目の前が"黒"であることに変わりないと思えばなんとかなった。
沼であると知覚できるものの、中を見ることはできない。そこに飲み込まれてしまった自分の精神世界は、ここを内包した圭にも窺い知ることはできなかった。
濁りきった汚泥は人の視覚的介入を許さない。たとえここに照らす日の光があっても、けして目視できることはないだろう。海中に沈んだ都市とは似ていても、水没させたのは澱んだ汚水だからだ。もっとも暗闇でも"見る"ことができるこの空間では、光とゆう概念さえも無意味なものなのかもしれない。
試しに手を入れようとしても、波紋を作るだけで指先が入ることはなかった。間にプラ板があって遮っていると言う感じでもない。水面に触れているのに、身体がそこを壁だと思い込んで拒否しているのか、はたまた沼自体が進入を許すまいとしているようだった。
生まれてこの方、沼の上を歩いたり水に拒まれた経験のない圭は、この不可思議な現象に眉をひそめるばかりだ。
数日もの間、この空間にいたはずだが、その時間が遥かに永く、短く感じる。こんな何もない場所にいたら、人間の精神なんて狂ってしまうはずなのに、心は正常を保っていた。
いや、
「俺の精神は、とっくの昔にこいつの胎内か……」
なら、狂うことはない。そうなるはずの精神が存在しないのだから。
リアルの自分は自発的な行動を放棄している。肝心の意志であり人格の圭がこんな空間にいれば、当然だ。言わば圭は喩えるなら、身体を動かすパイロットであり、それが欠けたらただの人形同然である。
まあ、どうでもいいか。
沼の上に寝っころがると、一際大きな波紋がいくつも浮かんでは消える。
どうでもいい。何も考えたくない。思考はとうに放棄した。
ここなら、何もしなくても何も考えなくても生きていける。また"誰か"を殺すこともない。それに"何もない"と言うことは、不純物もないのだ。これほど安心して心地よく感じる場所はない。
一息ついて、眠ろうとした時、
──とある少女の声が聞こえた。
「────────っ」
反射的に目を見開いていた。意志の影響でリアルの圭が、発生源へと首を向けようとする。不気味な穏やかさを持っていた水面が鈍く揺れ、無数の波紋を広げた。
動きそうになる自分を必死で抑えつける。駄目だ、今彼女を見てしまっては絶対に駄目だ。平穏を保っていた世界が崩壊してしまう。また悩み傷つく精神が復活する。そんなのは嫌だ、懲り懲りなんだ。
殺す。
また人であるモノを殺すのか。
浮かび上がるのは、自分が"殺した"夜魔の少女。
「ぐ……っ、や、め、ろォッ……!」
身体が意志に反して動きそうになった時、彼女の声が完全になくなった。同時に気配もどこかに遠ざかっていく。圭はこの世界でも、リアルの自分が感じた感覚を共有していた。
沼の荒れが収まり、背中を表面に張り付けて、胸を上下させ苦しげに深呼吸を繰り返す。
疲れた。ここに来てから、初めて感じる肉体的欲求だった。
汗が肌を伝う触覚まで機能していた。
不快な感覚がこの空間では、いつも異常に鬱陶しい。清浄な空間にいる病原菌のように憎々しい。
些細なことで腹を立てることで、ムリヤリ彼女を思考の端に追いやった。またこの空間が荒れては嫌だ。なんで彼女を想うと世界が荒れるかは、やはり考えないようにする。
リアルの圭の視点が変わった。目の前には深雪が元気付けるように笑みを浮かべて──圭にはそう写る──口を開けさせると、食べ物を入れてきた。
ここ維持出きるのは深雪のおかげかもしれない、そう感謝しつつ食べ物を咀嚼する。
だが、圭は深雪に何かしてやることはない。彼女が世話に飽きて食事が与えられなくなった頃に、餓死するのを待つだけの人間だから。もし辛うじて保っている生への終着がなくなれば、逆に深雪も邪魔に思うかもしれない。
くすんだ目で目の前を見つめながら、ぼんやりと考える。
圭は自分の身体が、少し、本当に少しだけ──沈んだことには気づかない。
*
顔に日が当たったことで、夜が明けているのだと理解した。
それで喪失していた意識を取り戻し、一瞬、ここがどこか分からなかった。
不鮮明な脳を総動員して分析。それは一秒もかからない。ここは自分の部屋であるから。
どうやって帰ってきたかは、あまり覚えていない。ただ、眠くてすぐさまベットに倒れこんだのは覚えていた。
布団もかけずに寝たからか、身体が冷えて震えそうになる。
麻生優希が時計を確認すると、起きた時は朝かと思ったが、とうの昔に昼をまわっていた。随分と寝ていたらしい。半日以上寝ていたのは、久しぶりだ。身体がやけに重たく感じるのは、このためか。
テレビを点けようとして、止める。どうせ正月特番しかやっていない。さもなくばゴルフか競馬。両方ともあまり興味はない。
起きてからしばらく中空を見つめながら、頭が目覚めるのを待つ。
次に時計を確認した時には、結構な時間が経過していた。頭からは思考能力がすっぽり抜け落ちていて、寝起きの状態からあまり変化があるようには思えない。
するとお腹が子猫のように鳴いて、ようやく自分が空腹なのだと気づく。
──そういえば、昨日の昼から何も食べてないんだっけ。
腹が減るのも当然だ。
気だるげに立ち上がると、料理をするために台所にある冷蔵庫へ向かう。あいにくと優希宅には、インスタント食品は置いていなかった。ハンバーガーなどを知らない人間なのだから、インスタントに偏見があるのは容易に想像がつく。
冷蔵庫を開けると、漏れてきた冷気が身体に染みる。
中身はどっちかと言えば充実していて、やろうと思えば何でも作れる気がした。
簡単に出来るものをと中身を見回して、サランラップにくるまれた冷やご飯と、蒲鉾、卵、葱など具材になりそうなものを取り出す。
フライパンを水で軽くすすいでから火にかけ、水気がなくなるまでの間に卵を混ぜ、葱を刻み、蒲鉾は歯ごたえが残るよう少し大きめに切る。
水分が蒸発したフライパンに油をひいて馴染ませると、予め電子レンジで温めておいた冷やご飯を投入。少々火を通すと、溶き卵をご飯の上にかけて炒める。醤油をベースに塩胡椒で味付けをしながら、残りの具をいれて少し炒めればチャーハンが完成する。
器に出来上がったものを盛ると、コップに冷たい麦茶を注いで、蓮華のみっつを持って机に移動して、ほそぼそと食事を始めた。
熱い湯気が立ち上るチャーハンを蓮華で掬って口に運ぶ。出来はなかなかによく、空腹のためかすぐに平らげてしまった。
身体の欲求を叶えると、徐々に思考能力が回復する。まだ夢の中にいるような曖昧な感じがなくなり、周りが現実感を持って認識出来るようになり始める。持ってきた麦茶を飲み干すと、眠気は完全になくなっていた。
そうすると、徐々に昨夜の苦悶がせり上がってくる。
気分は一気に急降下。寝ぼけて何も考えいない方がマシだった。
ああ、そうかと思う。圭もきっとこんな感じなんだ。今まで苦しいことがあっても、逃げなかった人間が逃げてしまう。それはとても真面目だから。真面目に何もかも受け止めてしまうから、傷ついてしまう。例えば普通の人間なら、鉄杭が降ってきたら避ける。でも圭はそれも受け止めてしまい、苦痛に苛まれる。賢くない生き方だ。無様だ。避けられないのかと、嘲笑う者もいる。確かに不器用だから、避けることができない。だけどそれは、何度当たろうが立ち上がり続けられる強さでもあった。
それが、折れた。
鉄杭どころではなく、雪崩のような衝撃に折れて、立ち上がることを止めた。逃げたのだ。立ち上がれば、また鉄杭のようなものに傷つけられる。もう嫌だ勘弁してくれ、もう堪えられない。
そう、何も考えることのない、これ以上傷つけられない生き方。
現実から逃避し意志を失った人間を人は、廃人と呼ぶ。
──嫌だ。
それは、とてもとても嫌だ。
理由はわかなかったが、優希は強くそう思う。嫌だ、と。
やっぱり圭には、そんな風にいてほしくない。力強く立っていてほしい。いつもの彼をまたみたい。今のまま嫌だ。あんな痛々しい姿の圭なんて、見ていたくない。
身勝手な願いだと言うのは、わかっている。また立ち上がって、今より傷つけと言うのは、酷く、酷く残酷な願いだと。
傷つくことは、辛い。胸を掻き毟りたくなるような、傷みは泣きたくなる。優希も、昨日は簡単なことも堪えられずに挫けそうになってしまった。
何かを壊してしまったし、ついさっきまで──今もどうしようもなく、それが辛い。
だけど気付けば、自分はそれを修復しようとしている。壊れた何かを継ぎ接ぎだらけにしながら、汚く取り繕っていく。その壊れたものは、とても大切なものだったから。
本当に、身勝手に──。
携帯を手に取る。電話帳を呼び出す。カーソルを合わせた名前は『山里圭』。
せめて、一言でもいいから声を聞かせて。
──伝えたい言葉があるから。
おかしいな、と自分でも思う。昨日まではあんなに曖昧で決心がつかなかったのに、今では信じられないほど、堅く強固になっている。信じられないほど迷いがない。
たった一日で、人間は変わるものだ。
電話をコールして、耳に受話口を押し当てる。迷いのなくなった行動は驚くほどに早い。
繰り返す電子音と、鼓動が重なったように響く。
少しの間コールが続き、電話が繋がった。
『もしもし?』
第一声は少女のもの。だけど優希は戸惑わない。彼が出なければ彼女が出る。予想はしていた。
「もしもし、……深雪?」
『そうだけど。圭くんに何か用?』
「うん、そう。変わってくれる」
『無理だね。圭くん携帯持てないもん』
電話口の向こう側にいる相手が、おかしそうに笑った。そんなこともわからないんだね、と。
そんな笑いも、今では優希の心を乱すことはなかった。
「じゃあ、あなたが耳に当ててあげて。そうすれば、私の声が聞こえるから」
『……なんで? わたしがそんなことする必要ないよ』
「私は圭と話がしたいの。お願い」
『──っ、圭くんはあなたなんかと話すことはないよ』
「私は、ある」
『圭くんは話せないって、言ってるでしょう! 勝手な都合ばかり押し付けないでよッ』
一方的な優希の言葉に、温厚を保っていた深雪が激昂した。
静かな怒りではなく、今まで自由に支配できた人間が、いきなり自分の思い通りにならなくなった不条理への焦りが、彼女をそうさせていた。そうでなければ、深雪がこのように一時でも感情を露わにすることはない。冷静を欠いて怒り狂ってしまえば、負けだとわかっているから。
だから、次の瞬間、深雪は息をのむように口をつぐんだ。
「お願い」
強くたたみかけると言うわけでもなく、さっきと同じ声音で懇願する。
『……嫌』
それでも深雪は突っぱねた。彼女の声は応答するだけでも嫌なようだった。
しばらく、ふたりの間に重い沈黙が横たわる。携帯越しの会話が実際に顔を突き合わせているように錯覚してしまいそうになる。
そんななか、深雪が訝しんでいたことを尋ねる。
『……圭くんに何を言うつもり?』
これは譲歩でもなんでもない。電話を正当的に切る口実を得ようとしているだけ。何を答えても圭の状態が云々と難癖をつけて電話を切り、答えにつまればやはり切る。譲ったわけではなく、ただ頑なに拒絶をする布石。
それに優希は、刹那も迷わず答えた。
「励ます。また頑張ろう、とか。元気出してって。──麻生優希は、何時までも圭が苦しんでいるのは嫌だから」
着飾らずに紡がれた率直な言葉に、深雪は──見えないがきっと──顔を歪めて吐き捨てた。
『励ます? 元気付ける? ダメだね。落ち込んでる人間に対する禁句って、何かわかる? ──ポジティブな言葉だよ。それは圭くんを傷つける。だからダメ。そういうことでさよう──』
「なら、深雪は圭が今のままでもいいの?」
不意をつかれて、深雪は言葉を止めた。
「いいの? 圭があんな風に苦しんでいるのを放っておいて」
『……苦しんでいる? 違う。圭くんは傷ついて苦しんだから、今は身を守るためにああしてるんだよ。悩んだりする頭がなければ、これ以上苦しまないもの。だから、それを無理やり起こそうとするのはいけないことなんだよ。だいたい優希ちゃんが言える言葉じゃないよ。圭くんはいったい、なんでああなったのかな? その上まだ傷つける気?』
責めるように言われた言葉に、反論はなかった。圭がああなったのは、やはり自分の責任でもあるのかもしれない。
だから、
「──うん、傷つける。そうでもして圭の意識を取り戻させる」
自分の残酷な願いを嘘偽りなく言葉にした。
開き直ったような優希の口調に、電話先の少女は一瞬言葉を忘れ、次に我を忘れて怒りをたたきつけた。
『なっ──ふざけないでッ! あんなに傷ついてるのに、まだ傷つける? あなた正気? 圭くんがどれほど傷ついてるか分かるのッ?』
「深雪には分かるの?」
『分かるッ! わたしには圭くんの総てが分かるの! 圭くんは今そっとしておいてほしいと思ってる!』
「なら、私も分かるようになりたい。なりたいから、圭とまた話がしたい」
『だから! 無理だって言ってるのッ! なんでそんな──』
「好きだから」
『──に……』
割り込ませるように、今まで直接誰にも伝えなかったことを、はっきりと口にする。
「圭が好きだから。好きだから、あんな姿でいてほしくない」
『勝手な……っ! それがどれだけ圭くんを傷つけるか、分かって言ってるの?』
「うん。……凄く、苦しいことだと思う」
泣きっ面に蜂とか、とっくに超越したレベルだ。
『分かっていて……それほど、圭くんを傷つけようとするのッ!? なんで!』
なんで、か。
それはとても簡単で。
「──また、圭と一緒に話たりしたいから」
『────────っ』
単純過ぎる言葉に、深雪は絶句した。
また一緒に話がしたい。そんな些細なことが、信じられないくらい楽しいから。また同じ時間を共有していたいから。
『そんな……そんな自分本位な考えで圭くんを……っ。圭くんを傷つけようとするなんて! 圭くんはもう苦しまなくていいのに! 充分悩んだのに! だからもう傷ついちゃダメなのッ!』
癇癪を起こしたように声をあげる深雪をよそに、優希は圭に呼びかける。
「圭ッ! 圭ッ、聞こえる!?」
『やめてッ!』
「私、圭がいない時に夜魔が出たってなんとかするから! 時間がかかってもいいから! また一緒に話そう! お祭りを回ったりしよう! カレー食べよう! だから、待ってるっ! 圭が、元に戻るの──」
ブツッ。
切断音の後、通話が断たれた。
断続的に電子音を発する携帯をしばらく見つめて、ふっと息を吐いた。
──これでいい。
これで、いいんだ。
後は圭自身が、どうにかして戻ってくれることを祈るしかない。最初から最後まで、勝手なことばかりだけど。
圭が、また現実に興味を持ってくれれば、立ち上がってくれる。でも、絶望しか浮かばなくなっていたら、圭は絶対に立ち上がれない。
その時は、今度こそどうしようもない。
諦めきれるわけではないけど、諦めるしかない。
諦めるしか、ないんだ。
窓から差し込む光に、朱色が混じり出す。
そんなに話し込んだつもりはなかったが、どうやらそれなりに時間は経っていたらしい。起床時間が遅かったのもあるだろうが。起きて数時間で外が黄昏ると、少し一日を損した気分になる。
それに高々電話をしただけで、肩に疲労感がのし掛かる。今まで出来なかったことを実行できた達成感があるが、それを言うために相当精神をすり減らしていたようだった。会話をしている時は気づかなかった。熱っぽく息を吐いて、また眠ろうかなと思う。あんなに眠ったのに、まだ睡眠欲があることに苦笑した。
ある程度お腹が膨れていることもあって、気持ち良く眠れそうだ──と目を閉じかけた時、携帯の小鳥のような着信音が鳴り響いた。
いきなり現れた音源に眠気が吹き飛び携帯を掴み取る。
メールが届いていて、宛先はもちろん言わずもがな。
「──……早速、か」
携帯を閉じて立ち上がる。
服装は昨日のままだからオーケー。身体は汗っぽいけど、どうせ今から汗を流すのだから関係ないし時間の無駄だ。髪も纏めたまま。身体の調子は驚くほどに良好。食べ物を口にした後の運動だが、その程度で気持ち悪くなるほど柔な鍛え方はしてはいない。準備運動は──行くまでの間で行ける。
場所はここから近い河原の電車の高架下。
討伐仲間は荒凪と絢人──今回は赤瀬もいるらしい。最近のことを警戒してだろう、頼もしい限りだった。しかしトレーラー輸送で時間がかかる。
すぐに行けるのは優希と──圭──。
待っていると言った。なんとかすると言った。圭がなんとかなるまで、憂いは断ち切り続けると約束した。
ならば──夜魔を狩りにいこう。
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