44:拮抗
向山市内に優希が戻った時には、既に日が暮れていた。
駅前から頼りない足取りで離れながら、優希はSDFTで知ったことをぼんやりと反芻する。脳内で繰り返される惨劇の映像は、何度見たことかもう思い出せない。実際、目にもしていない現場を妄想しているのだから、気持ち悪くもならなかった。自己の経験でその光景を補強しても、やはり不鮮明のままで、それにする意味もない。ただ、圭の姿だけがやけに鮮明となっていくのが悲しかった。
あの後、しばらくの間は単独の戦闘行動は慎むように、と言付けされただけで終了した。溝呂木と赤瀬が話したかったことは、あれで終わったのだ。
ふたりは、伝えて起きたかったのだろう。このまま戦い続けるなら、圭がしたことみたいに明確な意志を持ったモノを殺さなければならないと。
でも多分、あのふたりは続けるだろうな、と優希は確信していた。今までも顔があるものを倒してきた。それが意志を持ったところで、虐殺者だと言うことに変わりはない。
優希だって、今更止めるつもりはなかった。自分が戦うことをやめたら、自惚れでもなく確実に誰かが死ぬことになるから。それに今日の話で、もしもの時のための心構えだって少しだけ出来た。
だけど、
だけど、圭は立ち直れるだろうか。
訳も分からず知り合った女の子に襲われて、自己防衛のためとは言え殺してしまった圭。
二度と戦おうと出来なくなるまでも、せめて正気は取り戻して欲しい。
そう思ってしまったから、優希は今圭のマンションの前にいた。
明るいうちに来た時とは違って、日が落ちてから訪ねるのは少々緊張する。訪ねてくるならいいけど、訪ねるのは苦手だった。それに見慣れない夜の風景は少々怖い。
マンションを圭の部屋がある階層まで登って、飾り気のないクリーム色の鉄扉の前に立つ。
すっ、と息を吐いてからチャイムを鳴らした。
そこで気づいたことがある。
圭は精神的ショックで、何に対しても無反応状態。例外として生理行動はするけど、逆に食物は摂取しない。そういうものはここ数日、訪れていた深雪が与えていたらしい。
そんな状態の人間が、果たしてチャイムに反応を示して都合よく出迎えるだろうか。
あ、と声を上げる。しまった、中にはいれなかった時のことを考えていなかった。圭の様子を見たくて訪れたが、肝心の相手の顔も見れないのでは話にならない。
寂しくぽつんと廊下に取り残される。チャイムを押したままの姿勢が、たまらなく情けなかった。
もうこのまま帰ってしまおうかと思った時、目の前の盤石と錯覚した扉が押し上けられた。
これを望んでいたはずなのに、予想外のことに唖然と扉から出てくる相手を見てしまい、
──それが深雪であったことに愕然とした。
「こんな時間に何か用?」
唇の端を不敵に持ち上げた朝倉深雪が、平然とそこにいた。当たり前のように圭の部屋から現れた深雪が、何故だか堪らなく不気味だった。
なんで、こんな時間になっているのに深雪がいるのか、と頭が混乱してしまい、返事を返すことが出来ない。
「ねえ、どうしたの、優希ちゃん?」
じれた様子もなく、余裕を持った笑みを浮かべる。はだけた服装を直すこともせずに、健康的な胸元を覗かせていた。
──はだけた、服?
頭の中の片隅だけが、やけにはっきりとしていく。視界に収めたモノを意志とは関係なく分析する。
深雪の服装は所々はだけていて、シャツのボタンが幾つか外されいた。少し汗ばんだ同性から見ても綺麗な胸元が見えている。しかし何故、こんな寒い時期に汗なんてかいているのだろう。額や首筋もうっすらとだが湿っている。
それに、この服装もおかしい。昼頃見た時と変わっている。外出着には見えない。まるで寝間着か何かのようだ。
なんとなく、分かってきた。
確か、昼頃にあった深雪は、ビニール袋か何かを持っていた気がする。それはきっとスーパーなどで購入した食材だ。無論、圭の家で料理を作るために。
買い物袋、寝間着、夜遅くまでの滞在。
つまり、深雪はこの部屋に泊まっていた。
食事は深雪がとらせているらしい、だって? なんでこの時気づけなかった。
普通にここへ訪れているだけなら、細かい世話が出来るのは精々数時間程度。圭に食事を与えるのも、昼に来て夜までに帰るなら一食が限度だろう。作り置きをしても圭はそれを胃に入れるとゆう行為すらしないのだから。いくら動かないと言っても、成長期の少年にとってはあまりにも少ない。なら、どうやればもっと食べさせて上げられるか。
答えは簡単、泊まっていれば夜も朝も昼だって自分が世話をしてあげられる。幸いにも部屋に入るための手段は、圭自身が与えている。
この数日間、深雪は圭と衣食住を共にしていた。
でも、それと深雪が服をはだけさせて汗までかいていることは別だ。
いや、関係ある。本能に近い何が察している。
ほとんど意識の少年がひとり。片や少年を想う少女がひとり。ふたりきりの状況、自分の意志で思い人に干渉できる。生理行動はする。なら、彼女が自分から圭に迫れば無抵抗の彼は──。
ようやく理解をし終えて、慄然とする。
「え……、あ……」
呂律がうまく回らない。それ以前に脳内の思考速度が有り得ないくらい急低下。自分が何を口にしようとしていたかさえ分からない。
笑みを浮かべたまま、深雪は小首を傾げる。
「用はないの? じゃあ、もういいね。さよなら」
淡泊に、まるで優希の反応なんて自分には関係ないとばかりに答えも聞かず、深雪が扉を閉めようとする。
「あ……っ」
止めることも出来ない。何か言わなければと思うのに、やっぱりその場しのぎの言葉は浮かんでこなくて、意志などない無機質な扉が閉められようとする。
とっさに、手で扉を掴んで止めた。圭の腕力も受け止めた力があれば、深雪の動きを止めるのは造作もなかった。しかし、なんでこんなことをしたのか、自分でも分からない。頭も混乱している。ただ強いて言えば、深雪がこの後、圭の部屋に戻るのが嫌だったのかもしれない。
ちらりと扉にかかった手を、深雪が無感情に見つめる。汚物を見るかのような侮蔑でもなく、嫌な存在に対する嫌悪でもない。眼球にはそれに対する意志は感じず、ゴムボールを連想させる無機質さ。それの次に、深雪は優希を見た。
背が震える、冷たい眼光。
「……わたし達の邪魔しないでくれる」
瞬間、
"何か"が内側で崩壊する音を、聞いた気がした。
──わたし達。
──わたし達、だ。
砕けた。今まで水をせき止めていた防壁がなくなり、決壊したダムから大量の感情が溢れ出す。
「あ、ああ……」
足が竦む。身体が震える。涙が滲んで視界が歪む。もう何が何だか分からない。崩れた壊れた瓦解した。自分が第一線でなんとか引き止めていた感情が表に現れる。
もう嫌だ。怖い。朝倉深雪の前に立っていられない。本当に圭の顔を見たいなら深雪を押しのけて入ればいいのに、それが出来なかった。
手が離れて、逃げるように後ずさる。腰に壁が当たって、もう行き止まりなのかと絶望した。デッドエンド。
まだ、一メートルも離れられていないのに、なんで、早すぎる。
生者のモノとは到底思えない、沼底じみた瞳が優希を捕らえて離さない。
足が床に張り付いたように動かない。この場から逃げられない。逃げたくないのに逃げたい。二律背反矛盾の思いが精神でせめぎ合い、身体が麻痺している。
無様な、常の姿からは想像できないほど壊れた優希を前に、深雪は無表情にただ一言。
「帰って」
「───────っ!」
精神の均衡が、崩れた。
とどまりたい思いを逃げ出したい欲望がねじ伏せて、優希は逃げ出した。
一度走り出したら足は止まらなくて、流れ出す涙を隠すこともなくマンションを駆け降りる。
同じだと思った。
学園祭の時とまったく同じだ。深雪の前から無様に逃げ出した。怖くて、恐ろしくて。
圭が来てくれた時、もうあんなことにはならないと思った。けど、駄目だった。
それはつまり、自分は何時までも成長していないと。
でも、多分、きっと、
自分が一番恐れているのは、圭が盗られしまうことかもしれない。身勝手に、そう思った。
*
逃げ去っていく優希の背中を目で追うこともせず、深雪は扉を閉める。
その表情は、未だに無のまま。感情が浮かび上がってくることは一向にない。事実、愉悦さえも深雪の中には生まれていなかった。
無機質な眼前の扉を見ながら、虚しさだけが募る。
憎き優希を打ちのめして、無様に逃走させた。この上なく愉快なことだ。何度も思い出して笑いだしたい位に。
だけど、どうしてか出迎えた時は確かにあった高揚が、水をかけたように鎮火させれなくなっている。
ひどく、どうでもいい気分。周りから波長がズレて、無意味な世界を諦観しているような、くだらなさ。
くだらない。本当にくだらない。児戯にもほどがある。滑稽だ。
身体を使ってアピールしたら思い込んで恐怖する優希が、何よりそれをして哄笑を上げようとしていた自分。
よろめくような仕草で背後を振り返る。
圭が、膝を抱えていた。昼からまともに動いてもいないし、服装だって変わってはいない。
だから、優希が勘違いしたようなことは一切なかった。
なのに偽りで震える優希は、哀れ。自分を少し押し退ければ、簡単に分かった事実に気づけなかったのだから。
深雪だって、今に圭を押し倒して唇を奪い、服をはだけ、肌を重ね合わせたかった。幸い相手は無抵抗。例えば深雪がペンを持たせて何かを書かせようとすれば、身体は動くし、食べ物を上げようとすれば反射的に口を開ける。だから、そういう行為も可能ではあった。
しかし、その"幸い"が深雪の"障害"。圭は声も上げてくれない、自分を力強く抱き寄せてもくれず、愛をささやいてもくれない。
そんな状態の圭と行為に及んでも、意味がなかった。無理やりだったとしても、感情の起伏がある圭としたい。
でもそれは贅沢なのだろう。一度拒絶された。圭が好きで、望んでいるのはきっと──。
いけない。と考えを振り払った。今さらなる泥沼に足を突き込もうとしていた。それはいけない。一度足を踏み入れれば、悪意の魔手に絡みとられて深い澱みに引きずり込まれてしまう。
先程までの思考を放棄すると、重くてイマイチ焦点が定まらなかった身体のピントが合い、動きに覇気が戻る。
小さい台所に行き、汗をかいた原因でもある熱い料理達を器に盛り付けて、小さな卓袱台の上に並べる。
圭の頬に手を添えて、顔を上げさせる。虚ろな目が開いてこちらを見ていた。いや見ていた、ではない。開かれた目がたまたま目の前にあるモノを視野にいれていた、が正しい。
深雪はふと、圭の目が以前より光を取り戻していることに気づいた。意志を表に出すことはなく、未だに身体を動かすことはないけれど、小さな変化だった。
そのこと嬉しく思い、同時になんで生気が戻りかけているのかと、歯を食いしばる。目を開けて起きていると言うことは、さっきの会話を聞いている。彼女の声を聞いている。たった数回しゃべっただけなのに、深雪は確信してしまった。優希の声を聞いたから、戻りかけていることに。
心がざわついた。一度生まれたざわめきは波紋を浮かべて広がり、身体に浸透していく。
──悔しい。
自分の声は届かないのに、あの娘の声は届くのが無性に悔しい。我慢しても殺気が滲み出てくるほどに、この感情は強いモノだった。
だが、すぐに殺意は収まる。大丈夫、それでも圭は優希ではなくて深雪の手中にある。
いくら優希の声が届くからって、二度と聞けなければ意味がない。圭はこれからはいつも、ずっと、永遠に深雪のモノだ。一緒にいる。誰も間に入ることは出来ない。これはもう確定事項。この六畳の密室はこの世の楽園。いつもふたりの桃源郷。独りでは何も出来ない圭を助けて上げて、楽しいふたりの同棲生活。楽しい愉しい、最高の行為。ここにいれば優希みたいな悪い虫はつかない。圭が戦うことも昔みたいに迫害されることもない。他の女を見ることもない。自分しか見ない。つまらない俗世に心をすり減らすこともなくなる。何もかもが達成される聖なる空間。ふふふっ、と笑いが漏れる。この部屋には深雪の望むすべてがある。駄目だ、楽しくて笑いが堪えきれない。
目を潤め、頬を染てうっとりと恍惚な表情を浮かべながら、圭の頬を指先で撫でる。髭を剃ってないからか、少し硬い産毛があるざらついた感触。だけど、これをすべてひっくるめて目の前の少年が愛おしい。心臓がときめいて切なくなる。
いつまでもこうしていたいけど、当初の目的を思い出して踏みとどまる。このままでは料理が冷めてしまう。
親指を圭の唇から口内にねじ込み、優しく口を開ける。
唾液で濡れる親指を抜いて妖艶な仕草で舐めとると、箸を持ってご飯をつまみ、圭の口へ持っていく。
「はい、もっとあーんして、圭くん」
深雪が甘い声を上げると、少しだけ動いて、さらに口が開かれる。そうして食物を口に運ぶ。
鈍い動作で咀嚼する圭を満足げに見て、また食べ物を口に運んだ。
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