43:もう聞こえない声
除夜の鐘が鳴り響いた。
一○八の煩悩を清める為に鳴り響く。
荘厳な反響音を遠くへと飛ばす。重い音は腹の底を震わせた。
煩悩が、消えてゆく。
一緒に、感情もなくなった。
*
年が明け、二○○六は最後の数字を七へと変えた。
外はまだ肌寒く、それが心を凍えさせる。身体は指先まで凍結されて、動かない。感情は消されたうえに、再生されないよう噴出孔を氷で塞がれた。
寒い。
膝を抱えて、虚ろな瞳が床を見る。埃くらいしかないフローリングを、見ていた。自分の影が落ちる床を、見続ける。
その実、瞳は何も見ていなかった。眼球の表面が反射しているだけで、脳は認識しない。すべてを拒否する。
身体が動きを拒絶した。
精神が思考を拒否して、何も考えないよう凍結させた。
自分が世界を拒絶した。世界と自分の間に相違が生まれて、外界を理解できなくなった。
理解できない。理解しない。行動しない。活動しない。
まるでゲームのオプションで設定を切り替えるように、すべての選択をネガティブに。
頭上から、優しい旋律が落ちてくる。
「大丈夫だよ……大丈夫だよ……」
膝を抱えて床を見ているようにして虚空を見据えている山里圭の身体を、朝倉深雪が後ろから抱いた。
「わたしはずっと一緒にいるよ。わたしは圭くんの傍にいるよ。だから、大丈夫だよ……わたしだけが圭くんの隣に居続けるから」
愛しく囁きかける声に、圭は身体を委ねるでも拒絶することもなく、呼吸をして心臓を稼働させ臓器に血液を送り込み最低限の生命活動を続けるだけ。
それでも、深雪は傍にいられてこの温もりと命の鳴動を肌で如実に感じ取り、なおかつ"奪い返した"優越感が最高の幸せ。ロストしたパラダイスが再びエデンへと帰り着く。
──嗚呼、これが幸福。
まさに絶頂に達した快感。欲しいものが手には入った優越。それとずっと一緒にいられるとゆう希望。世界中の多幸を手に入れたら、きっとこんな気持ちに違いない。この世すべての幸福がここにあると、深雪は童女のような笑みを浮かべた。
「一緒……一緒なんだよね、圭くん? 嬉しい……」
腹部の辺りに腕を絡めて、背中に身体をさらに密着させる。息ひとつ、鼓動ひとつ、血流も、体臭も、何もかも圭のモノは深雪の所有物。
それに安堵し、深い悦楽が身体を染める。
それでも、圭は何もしないのだけれど。
*
麻生優希は、とあるマンションの一室を見上げる。頭上の窓からは、中の様子を伺い知ることはできない。
もうああなってしまってから、幾日が経っただろう。
三日は過ぎたが、一週間は経っていない。
あの後、優希は現地のSDFT隊員に連絡をとって、GPS情報から圭のいる位置を特定してもらい駆けつけてもらった。たどり着いたそこにあったものは、血祭りの残骸だけ。無惨に挽肉と化した殺人鬼と、切断された夜魔の死体。
そして、呆然と立ち尽くす圭の姿。
何があったのかは知らない。何故ああなったのかも分からない。
まさか"殺人鬼"を殺してしまい、人殺しに嘆いているわけではないだろうと思う。人を殺したら、確かにショックだ。常人ならば、しばらく立ち直れない。しかし圭は殺していないと、死体を検証した人間が断言していた。検証と言ってもペースト状にされた肉片を弄くって、人間が刃物で行ったわけではないと、簡単に結論付けただけなのだが。あれを人がやるには、精肉工場に持って行くしかないことなど一目瞭然である。
ならば、夜魔に圭が親しくした人間を殺されたとか?
それもない。これを断言してしまうことは、醜いことだけどそれはない、絶対に。
たかが二日、三日知り合った程度の人間が死んでしまったところで、人間は感情を封印することなんてない。無常であるが、それが人間と言うものだった。
だいたいこの問題以前に、夜魔があの時殺した人間は殺人鬼以外存在しない。
ならば、問題は夜魔自体となるわけだが──
これでまた最初に舞い戻る。まるでメビウスの輪のように、ぐるぐるぐるぐると同じ所を言ったりきたり。
なにがなんだか、わからない。
「圭……何があったの……?」
聞こえない言葉に意味はない。それは自分に尋ねるような、独り言でもあった。
優希の感情を一言で現すなら、寂しい。
実直で最初に愚を付けてもいいぐらいに、圭は特訓を重ねていた。短期間に力を付けようと必死に身体を鍛えた。汗と裂帛の気合が飛び、ひたすらに夜魔に打ち勝たんとした。
その姿は、見ていて関心するもので、同時に壊れてしまわないか心配にもなった。過去に優希もそれこそ死に物狂いで鍛錬に励んだことがある。あの時は、本当にどうかしていた。おかげで何度も身体を壊した。その恩恵で今の身体能力があるわけだが、圭にまで同じ思いは味合わせたくはなかった。
なのに、もうあの姿はない。悩みの種だったはずなのに、寂しい。
今までの圭の姿が全部なくなってしまった。それはとても、悲しいことだ。
支えられてない。
前に支えると独り誓ったのに、全然できていない。これでは、深雪に言われた通りじゃないか。言っても実行しなければ意味がない。
なら、やろう。
今から、やろう。
圭の分まで、夜魔を冥府煉獄へと叩き落とそう。
自分に出来るのは、それくらい。そうして障害を取り除くだけ。
深雪のように、寄り添って慰めることも出来ない。資格がない、あの時止められなかった自分では。
もう一度、名前を呼んでもらいたい。
心に思うと、前は当たり前のように出来ていたことが、遠いことのように感じた。そんなの両親が不条理になんの脈絡もなく死んだ時、理解しきったはずなのに。
寒風が吹くなか、名残惜しくて部屋から目が離せなかった。中で深雪がどうしているか、気になるのかもしれない。圭の様子を見に部屋までいったら、ちょうど"何故か持っている鍵"でロックを解除して中に入る深雪と遭遇した。
──言い忘れたけど、クリスマスプレゼントなんだ。うらやましい?
ほくそ笑んで、深雪は圭しかいない部屋に消えていった。
怖くて、近づくこともできない。部屋を覗く今も緊張する。もし見つかったら、どんな風に蔑まれるのだろうかと考えるだけで怖い。蔑ろにされるのは慣れているつもりだったが、深雪のは別格だった。第一、放たれる言葉の元が違う。
そんな風に怯えていた時、携帯が鳴った。SDFTからだろう。気が紛れる、と安心してしまい、同時にそんなことを思った自分が嫌だった。
首を戻すと同じ方を見続けていたためか、鈍い痛みがある。それに顔を一瞬歪めて、携帯を取り出した。連絡はSDFTから。早速任務かと心を引き締めるが、すぐに違ったと理解する。
文章は短く要約すると、圭がああなったことについて推測が出来たから、暇つぶしと思って来てよ。そんな感じ。
圭がああなった理由。知りたい。是非もなく知りたい。
そうすれば、自分がもっと何とかしてあげるかもしれない。
期待と不安に胸を膨らませると、最後にもう一回マンションを見上げた。また後で来ようと決めて、優希は駅前に急いだ。
*
概要を説明するならば、こうだった。
圭がああなってしまった理由は、夜魔にあるのだと。
あの夜魔も感情を持っていた可能性が高いという。
それによって圭は外見はどうあれ"人を殺した"とゆう事実に捕らわれた。
溝呂木龍一と堂島真由美が、集合した異能者達へ簡潔に説明したことは、おおよそこのようなものだった。
まず最初に意見を発したのは、意外にも荒凪だった。
「ちょっと待った。今更過ぎないか? 夜魔の身体には人面があるし、この間は人格を持った奴がいたじゃないですか。改めて意識することでもないんじゃないっすか。圭だって、任務には自分からついたんだし」
夜魔が原因であることについては否定せずに、疑問を口にする。
荒凪の言葉に一瞬優希が身を震わせたが、全員がいる部屋の一番後ろにいたので、当の本人の視界には入らなかった。
「荒凪くんの言うとおりだけど……これは赤瀬さんに話てもらった方がわかりやすいかな」
その疑問がくることは予想していたのだろう。溝呂木は特に困った様子を見せず、壁に背を預ける赤瀬に問題を振った。
話を丸投げされた赤瀬は、あからさまに顔を歪める。
「……俺は全部お前に話したはずだが?」
「実際によく知ってる人間の方が説明し易いでしょ。経験者は語る、ってね」
「まったく……。ああゆうことは、あまり思い出したくないんだかな……」
陰鬱そうにため息を吐いて、赤瀬はゆっくりと語り始めた。
「お前らには黙ってたんことだが、昔俺は数回だけ人格持ちの夜魔と戦ったことがある」
「え、そうなんすか?」
びっくりしたように荒凪が目を瞬かせた。反応こそ薄いなれど、絢人と優希も少なからず驚愕していた。度合いは荒凪とそう変わらない。ただ荒凪が心境を人一倍顔に出しやすいだけだ。
なるほど、と絢人は内心で納得した。道理でこれといった事態になっていないわけか。今までに出現したことがない個体、しかも人語で日本語を解する夜魔が現れた場合、もっと騒然とするはずだ。少なくともこんな時に単独任務を行わせ、冷静に通常の任務を指示することはできない。可能だとすれば、それが前代未聞のことではなく前例があると言うこと。
でも、こんなに表情を暗くするのは何故だろう。
「たった数回出ただけだからな。もうあんな厄介な存在が出てくるとは思いたくなかったが……。世の中、希望的な願いが叶うことはないな」
困った風に赤瀬は肩を竦める。
「確かに厄介って言えば厄介っすけど……。赤瀬さんが手こずるような相手ですか? いつもみたいにこう、スパッと華麗に一刀両断にしちゃえば終わりでしょ」
身振り手振りを加えて答える荒凪に、今度は気まずそうな顔をして赤瀬はボサボサの髪を掻いた。
「いやまあ、そうできる奴にはするんだがな……」
「まさか、赤瀬さんの攻撃を躱す奴がいるんですか!?」
思わず荒凪が身を乗り出して声を荒げた。赤瀬の台詞がショックだったのだろう。赤瀬に多大な尊敬を払っている荒凪にとって、彼は最強にして最大の目標である。それを苦戦させる夜魔がいるなんて、信じられない。
一転、今度は呆れたような顔を赤瀬が作った。
「あのな……俺だって人間だぞ。超人かなんかと勘違いしてないか? 夜魔相手に手こずるなんて当たり前だろうが」
「はあ……いや、そうなんすけど……」
「……まあ、それと別に、斬り難い相手がいるんだよ。人格持ちには」
「斬り難い相手?」
ああ、と答えて、赤瀬は溝呂木は見た。やっぱり俺が話すのか、と言う抵抗と、良いのかと言う許諾。
溝呂木はその両方に首肯した。
悪あがきを止めて、覚悟を決めたように赤瀬が続ける。
「お前達もこの間あっただろ。報告書で人格最悪の享楽者、とか書かれてた奴」
三人が頷いて先を促す。
「人格持ちは大抵こうゆう人間失格な野郎が大半だ。この手の奴らは、手を下すのに嫌悪感はない。見た目化け物だし、存在する人格がアレだからな。しかも遭遇時は訳が分からなくて混乱する。しかしこれにも例外がある。人間型の奴さ」
「人間型?」
「そう、人間型。簡単に言えば人の形をした夜魔だ」
「人の……形……っ!?」
これにはさすがに絢人も驚いて、身じぐ。イスに腰掛けていたら、思わず飛び上がっていただろう。
皆同じような反応を見せていて、先程まで絢人以上に沈黙を保っていた優希も目を見開いて身を乗り出していた。それを待て、と赤瀬が手を出して押しとどめる。
「そう慌てるな。人の形はしていても、人間のままであんな化け物的な行動をするわけでもないし、出来るわけでもない。
この夜魔は人への擬態を解いて元に戻る必要がある。ただこの擬態は完璧過ぎて、誰にも見破れない。放射線を浴びせようがレントゲンをとろうが、この時は細胞レベルまで人間なんだ。何故かな。だからまともな方法じゃあ、絶対に見破れない。まああるとすれば車で轢いたりすることか。危機的状況に陥ると夜魔に戻る。……もちろん好きで試したわけじゃないからな? たまたま一度だけそういうことがあっただけだ」
誤解を受けないよう付け足して、三人の様子を確認してから再開。
「……最後に、この人間型の夜魔には、ひとつの絶対的な共通点が存在する」
ぴっ、と太くて皮が固まった無骨な指を立てた。
「人間時の姿──そして夜魔に戻った時の性格、それが必ず子供だと言うことだ」
場の空気が、静まり返った。
荒凪、絢人、優希は言葉の意味を咀嚼するのに、しばらく時間を費やした。その間、赤瀬と溝呂木は黙して待っていた。
「えっと……マジ、ですか?」
「冗談言える雰囲気かこれが」
顔を引きつらせる荒凪に、赤瀬は憮然と答える。
「赤瀬さんの言ってることは全部一片の間違いもなく本当だよ。俺が保障する。なんと言っても、実際に体験したからね、赤瀬さんは」
溝呂木が駄目押しをすると、ようやく受け止めきれていなかった三人も、それを事実なのだろうと受け入れた。第一、自分達と夜魔の存在自体が非現実じゃないか。今更ひとつくらい変なことが増えた位で、ガタガタ言っていられない。それが夜魔を狩ることを決めた自分達の立場だ。
「……でも、その話をなんで今?」
優希がようやくまともに口を開いた。それもそのはず、優希は圭がああなった理由を知りたくて来た。なのに一向にその話が始まらない。何かを言いたくもなる。
それに溝呂木が、きっぱりと一言で答えた。
「山里くんが遭遇したから」
「────────っ」
優希は息を止めた。
……圭が、この厄介な代物に遭遇しただって?
なら、公園で分断して見つかった夜魔は、最初子供の姿をしていたとでも?
いや待て。待て。待て。圭が子供の時の姿を見ている可能性は低くないか。だって最初から殺人鬼が挽肉になっていたのだから、圭は子供の性格をした夜魔しか見ていない。……それで、感情を封印するほどの傷を負うだろうか?
でも確か、あの時圭がいた公園は、セーフハウスから正反対の位置にあったらしい。あの日は圭が帰ってくる日で、なのに日が沈みかけた後に荷造りもしないで部屋を飛び出したと、同じく一度ここを離れる為に荷物を用意していたSDFT隊員が証言した。その時、圭の携帯には任務などの連絡はなかった。つまりSDFTはこの夜魔について認知していなかったことになる。
なら、圭はどうしてこうも都合よく夜魔に出会ったのか。気に入った公園を見つけたから、最後にまた行きたかった。有り得ない。そんな偶然あるはずがない。あったならば、なんて理不尽なんだと声を上げて怒りだしてしまいそうだった。
それなら、"最初からこの夜魔と知り合いで、そうとは知らず公園で会おうと約束していた"──。つまり、その子供を夜魔として認識する前から"交流があった"。しかも、最後に何か約束する程度には仲が良かったと言うことになる。
結論から言えば、圭は親しくなった女の子が夜魔になって殺人鬼を殺してあまつさえ自分を襲ってきたのでそれを殺すことになってしまったと──。
とっさに優希は、自分の口を覆った。想像しただけで、口から何か溢れてきそうだった。
それは、それはあまりにも──
「分かったみたいだね」
溝呂木が顔を曇らせる。
「そういう、ことだよ」
優希は、聞こえるはずのない、少年の慟哭を耳にした気がした。
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