42: 零
カーテンの隙間から差し込む太陽の光で、山里圭の目が覚めた。
冬なこともあって、暑さは感じない。むしろちょうどいいくらいだった。でも、やはり眩しいことには変わりはなく、目覚ましになるには充分である。
開けた目が日の光に眩みながら、寝返りを打って昨日のようにテレビのリモコンを探して、手をバタバタとフローリングの上をさまよわせる。近くにあったリモコンを見つけると、テレビの電源を入れ──ようとして、昨日は本体から直接消していたことを思い出す。
極楽天国羽毛布団から抜け出すのは、正直自分から雪山を裸で歩くような苦悶ではあるものの、しばらく迷って出ることにした。このまま冬眠していたら人間様の名折れである。
予想通り部屋は冷えていた。この部屋は優希の所と違って耐熱、耐寒性は並だった。せめてストーブは備品として設置してくれ、と思ってしまう。圭の部屋にだって、昔特価で購入した省エネ電気ストーブがあると言うのに。
寒さに身震いしながら愚痴って、テレビの電源を入れた。水がはねるような、ピシュンと言う電子音と共にテレビが起動する。映ったのはまたしてもニュースだった。早朝はニュース番組のオンパレードなので、よっぽどのことがない限りこういうことは固定だ。
ブラウン管の左上に表示される時計表示を見た。まだ九時になって少し経った程度。今日はもう少し寝ていようと思ったのだけど、毎日の習慣はなかなかに御し難い。
体内時計に狂いがないのは良いことか、と苦笑する。
『───────が、連行しようとした警察を斬殺して逃亡しました』
瞬間、
目を限界まで見開いて、画面を凝視した。力を込めすぎて眼震する中、ニュースで今言ったことをもう一度言えとキャスターを睨みつける。
いやいやまてまて、と圭の理性が訴えかける。今のは聞き間違いに決まっている。そんなわけはない。昨日確かに自らの手──足で顔面を射抜いたじゃないか。確実に脳を揺らした。簡単に起き上がれるわけがない。ましてや警官を振りほどくなんて無理無駄無謀。常人が実行できる可能性など皆無である。だいたいアレが逃げ出したら、SDFTが圭に連絡を入れてくるはずだろう。
先回りする理論武装が心を囲った。そんなわけはないと、ダムのように溢れ出そうとする感情を押し込める。
だが。だが違うと、本能が訴えかける。
真実は今、目の前にある。だいたいアレが常人だったか? 違う。あの血走った目はけして何もしていない人間などではない。自分の願望を現実に差し替えるな。ただ事実だけを受け入れろ。もしくはニュースを見て確認をとれ。聞き違いかどうなのかを。
でも、どうして脳震盪から起き上がって、なおかつ警察から逃亡できたのだろう。意識不明から回復した後、身体を動かすなんて満足に出来ないはずなのに。それに鼻の骨だって折れていた。激痛に抵抗する気力なんてないはずだ。
それをまるで、痛たくないように──
「そうか……っ!」
本能が無意識に起こした行動を理性がついに理解した。その時、圭の睨みが通じたのかはわからないが、再び同じニュースが流された。
その中で流れた一文。
──薬物中毒者。
予想は見事に的中する。
薬物。
それは精神を錯乱させ、多幸感を与え幻覚を見せ、猛烈な快楽を与える魔の悦楽嗜好品。副次的に感覚を麻痺させて痛みを感じさせなくしたり、筋肉のリミッターを外して常では出せない力を一時的に出すことだってできる。
もちろん副次的な効果は都合の良いものだけではない。絶頂時の後にくる精神の落下。自殺願望。錯乱、悪くて精神崩壊。思考能力の欠如。上げだしたらキリがない。
それを快楽に浸って何度も飲用すれば、身体が精神が嫌でも薬を求めてしまう。それが薬物中毒。一度依存してしまえば、身体から染み付いた薬害を取り払うのは難しい。
もちろん違法中の違法である。麻薬所持が発覚すれば問答無用で監獄行きだ。
──クソッ、なんでもっと早く気づかなかった?
怨み嫉み妬み。すべてをぶつけるように刺殺された死体。精神錯乱と幻覚が作用してあんな殺し方になったのだろう。震えた喋り方も、真っ赤に血走った目も、強い力もドラッグによる症状。
脳震盪による意識喪失は、桁違いの衝撃でもない限り一五分程度が関の山である。SDFTから要請があった警察が到着して、薬物中毒者の通り魔をパトカーに押し込む。そして手錠を掛ける時に抵抗をする。
なるほど、あの殺人鬼が逃げ出すには充分かもしれない。凶器だって、まだ手の内に残っていたのだから。感覚が鈍重になるようなドラッグを服用して、あの動きができたのだ。多少脳が揺れて視界が歪んでいても、手足の麻痺さえ抜ければどうにかなるだろう。
気づけていれば、あの場に止まっていたのに。自分の不注意で、また危険な殺人鬼が野に放たれてしまったのか。
それで満足感に浸っていと言うのだから、自分の思慮の低さには反吐が出る。
しかし何故それなら、自分に連絡が入らないのかと圭は訝しむ。SDFTが気づいていないわけがない。獲物を取り逃したのだから、すぐにもう一度捜索に繰り出されるのではないだろうか?
審議の程を確かめようと立ち上がって玄関に向かおうとするが、自分が寝間着のままなのを思い出して押しとどまる。それに昨日連絡を入れた人間から話を聞くには、直通番号をしっている電話の方がいい。何よりこちらが寝間着だろうがなんだろうが構わない。
そう思うと即座に携帯を取り出して、アドレス帳から相手の電話番号を呼び出した。
通話ボタンをプッシュして携帯を耳に運ぶ。三回ほど呼び出し音が鳴ったところで、相手が電話を手に取った。
「もしもし、山里ですけど。昨日の方──えっと、江田さんでしたよね」
『ああ、江田だ。江田正志。こんな時間から何か用、山里くん』
間違いなく、最近何度か連絡をとった男の声。確かSDFTの第三戦闘機動回収歩兵部隊──主にヘリや自動車での異能者運搬、及び夜魔の後片付け。戦闘と付いているのは、銃器類で武装しているので便宜上──の副隊長とか溝呂木が言っていた気がする、と圭は頭の隅で思い出す。
その、とまず遠慮がちに口を開いた。手違いで何かあって連絡が来なかったのであれば、それは江田のせいではないので、最初から怒鳴るようなことはしたくなかった。もしくはテレビ局が面白おかしく脚色していて、本当に逃げたとしても、もう捕まっているとか。
「テレビのニュースで昨日の殺人鬼が逃げたとか報道されてるんですけど、あれは……」
『ああ、あれなら本当だ』
あまりに淀みなく同意されたものだから、言葉の意味を頭が理解するのに数秒の時を要した。
「本当に……逃げたんですか?」
なんとか電話相手の言葉を飲み込んで、震えた声で尋ねた。その問には、淀みなく受け答えた江田がもう解決した、と言ってくれる期待を抱いていた。
『ああ、逃げた。警察も目下全力で捜索中だそうだが、未だに見つからんらしい。あの辺りに潜伏しているのは、確からしいが』
「なら! なんで逃げた時に連絡をくれなかったんですかっ?」
思わず語気が荒くなった。が、今はそれに気を配って注意する余裕はない。
『山里くん、何か思い違いがあるようだな』
「思い違い?」
『そうだ。君の任務は昨日で完了している』
「昨日? 俺の任務は、今日の帰宅時まで有効のはずですけど」
『それは事件が解決しなかった場合の話だよ。君は事件を解決した。だから君の任務と言う予定は一足早く終了したんだ』
「解決? 何言ってるんです。終わってないじゃないですか。事実、殺人鬼も逃げて──」
『だから思い違いなんだ。勘違いの方が正しいか。君の任務は、あくまで夜魔がいるかどうかの確認だろう』
脳内で任務の内容がざっと再生された。
当初の予定。なんで自分はここに派遣されてきたのか。理由は明白。夜魔の所在確認だ。
無差別惨殺殺人事件。
夜魔によるものか、人為的なものか、それを判断すること。夜魔ならばこれを纖滅、人為的なものなら警察に委託。もし犯人に遭遇したら、出来る限り捕らえること。
つまり、人が事件を起こしていると判明した今、圭の任務は終わりを迎えたわけだ。
電話口で江田が息を吐いたのがわかった。
『ようやくわかったか。つまりはそうゆうことだ。君の任務は今日で終わり。殺人鬼が逃亡したのは君の責任じゃなくて警察のせいだ。向こうが意地でもって逮捕するさ。何、本来の任務内容以上の成果をだした。気に病むことはない』
「で、でも、捕まえられることに越したことないでしょう。あの時すぐ知らせてもらえば、なんとかなったかもしれないのに」
納得いかずに食い下がる圭に、江田がくぎを差す。
『じゃあ、逆説的に言おう。君がいたところでどうなった?』
それは冷たい宣告。
『君は戦うことに関して、強い。夜魔なんかとやり合えるんだからな。でもな、逃げて隠れた人間を探すのは力じゃない。それは一朝一夕で出来ることでもないんだ。だから専門家に任せる。君がいたって何も出来ない。手痛く言うなら、邪魔にしかならん』
果実に刃を入れるような繊維が千切れる音を発して、心に言葉が突き刺さる。
邪魔。
素人が追跡捜査とゆう専門の人間でないと出来ないようなものに参加するなんて、邪魔にしかならない。当たり前だ。たかだか高校生程度が加わってマイナスはあってもプラスはない。もちろん追跡の心得なんて圭にはなかった。
熱した頭が冷える。
何、調子に乗ったことを言っているのか。なんで連絡をくれなかったのか? そんなの当然する必要性がなかったからに決まっている。
山里圭は、ただの不思議な力を持っているだけの高校生。喧嘩も出来るし、そこらの人間から果ては人外まで、相手に出来る自負もある。
とんだ自惚れ。
力を求めて、最低限の実力を手に入れ始めた。だから自惚れて調子にのった。万能になったような錯覚をした。もちろんそれは大きな間違い。圭は確かに強くなったが、あくまで肉体的ものでしかない。他の特殊技能が養われたわけではないのだ。
なのに、殺人鬼が逃げたと連絡があればどうにかなっていたかもしれない、などと思うことはただの妄想であり、自意識過剰にもほどがある。実際、連絡があったとしても何も出来なかっただろう。
己のあまりの不甲斐なさに歯噛みをすると、少々気遣うかのような江田のフォローが入った。
『悔しむな。人間は万能じゃない。一から十までこなせる人間なんているわけがないんだ。君は自分の役割を果たした。胸を張るといい』
「はい………」
励ましてくれる相手に沈んだ声でなんとか答えて、早々に通話を切る。もうあまり話を続けていたくなかった。悪意はなくとも、自分の無様さを無理やり眼前に突きつけられているようで酷く気持ちがざわついた。
「ふぅ……」
ため息をついて、布団に背中から落ちる。ぼふ、と鈍い音が圭を受け止めた。
さっきまで殺人鬼が逃亡したとかで馬鹿騒ぎしていたのが嘘のように、圭の心は平坦になっていた。落ち着いたのではない。平坦だ。まるで舗装用のローラーを使って感情の起伏を真っ平らにしたような感じ。
これ以上思考を続けたくないとか、もう殺人鬼は自分とは縁遠く感じて諦観してしまうとか、とりあえず色んな理由で感情が冷めてしまった。
テレビのニュース番組が耳に入ってくる。もう違うことが報道されていたが、どっちにしろ興味は失せた。
まるでふてくされた子供みたいだな、とか自己嫌悪の言葉を呟いて、ひとまず不貞寝をすることにした。
情けない、二度寝と言うやつだった。
*
時は過ぎる。
大晦日の夕方。辺りに油断なく視線を巡らせながら、不安定な足運びで移動する男がいる。
ぼろ切れのような煤けたコートが目を引くが、目立つと言えば男の風貌すべてが、常人ではなかった。何せ、半身以上は血に汚れていた。
髪は汗と油で固まり汚れているし、ふたつの眼球はくすみ白目は血走り、頬はこけて口の周りには無精髭が剃られずに残っている。何故か片方の手首からは銀色の手錠がたれていた。しかし先に繋がる物がないそれは、拘束具にはならず、ただの鉄塊と化している。
近寄ると腐臭が漂ってきそうな雰囲気が、男には漂っていて、生存屍を連想させた。
それは殺人鬼。血に餓え迷った斬殺思考保持者。
男の目が覚めた時、そこには警官がいた。片方の腕に手錠を掛けられている時だった。
捕まる──戦慄が身体を駆け回り、ドラッグによって誇張された危機感閉塞感自意識の過剰と誘発して、脳に多大な刺激を与える。頭の奥で爆竹が炸裂したような感覚と共に、かろうじて手足の感覚が戻った。
その後は、運が良いとしか思えない。
余った手錠の輪を別の所に掛けようとした警官に、手から抜けて背に隠れていたらしいナイフを掴んで突き立てた。
ズブッ、と肉厚のナイフは男の左胸に深々と突き刺さる。
──え?
それが警官の生涯最後の、味気ない言葉。気絶していた犯人がいきなり襲ってくるとは考えず、油断していたのだろう。何が起こったか正確に理解しないうちに、ひとりの警官は呆気なく死んだ。
人が倒れるような音を聞きつけて、もうひとりの警官──おそらく無線連絡をしていた──が顔を恐ろしく無謀に、平和ぼけした顔を晒した。
殺人鬼はすでに警官の眼前まで接近していた。懐から新たに取り出した予備のナイフを眉間に容赦なく突き刺す。頭蓋骨を貫通して柔らかいプリンみたいな脳みそを一瞬で破壊する。
今度は死に際に一言も発せず、人生を半分以上残して一生を終えた。
ほとんど危機感に感化された反射的行動だった為か、緊張感が抜けると頭痛がして、今にも倒れそうになった。が、パトカーの車内から怒鳴って呼びかける無線の音声を聞いて、身体に鞭を打った。
最初の警官の心臓から、ナイフを抜く。絶命して少したっていたが、心臓だと言うこともあって血が吹き出た。手や身体に赤黒い血液が掛かるが、特に気にしない。
眉間に刺さったナイフは、疲れているので抜かなかった。このシースナイフはそれなりに思い入れがある相棒だ。しかもこんな刃渡りのナイフは、銃刀法の関係か、なかなか日本では買えない。安物のナイフとの優先順位はかなり開く。
そして、昨日からずっと逃げ続けた。
身体全体に溜まった疲労は凄まじく、ドラッグを服用するにしても胃が拒絶して戻してしまう。身体が吸収出来なければ、さすがのドラッグも無力だった。
喉が渇いて張り付いた皮膚を指で引っ掻いて、辺りを見回す。精神的プレッシャーも合わさって、水分不足と渇きはピークに達していた。身体に付着した血液もさすがに不快になってくる。そろそろ洗い流したいし、誰かに見られたら一貫の終わりだ。
……まあ、最後のは殺せばいいか。
かなりめんどくさいけど、と口に出さずつぶやく。
しばらくして、殺人鬼はオアシスを見つけた。
公園。
それは比喩表現なしに、男の目には熱砂の砂漠で見つけた救いのオアシスに見えた。公園にならば、水飲み場があるはず。
──今日は、ついてる。
乳酸が溜まり鉛のように重い足を動かして、公園に足を踏み入れた。
探すまでもなく、水飲み場は見つかった。水分がなくなり唾液も分泌されていない状況だったら、喉がなっていたかもしれない。それだけ水分があれば喉なんて鳴らさないかもしれないが、と言う疑問は脳の隅に放棄した。
急いで水飲み場に向かおうとして──ぽんと、ゴムボールを叩く音がした。
人の気配を感じなかったので驚いてそちらに視線を向けると、こちらに背を向けてゴムボールを突く小さい少女の姿を見つけた。
瞬間、心がざわつく。
殺したい、そうゆう衝動が湧いた。先程まで優先しようとしていた水を次点に追いやるほどの、殺人願望。
理由は簡単、無力な傀儡と同位の子供を殺したいから。悶え足掻く姿を見て愉悦に浸りたいから。
明らかに異常。だが、異常でなければ人なんて快楽のために殺せないし、男が警察に終われている時点で異常者認定を公式に受けているようなものだ。
──今日は本当についてる。
神様がようやく慈悲を与えたもうたのかもしれない。
身体を不安定に動かして、少女へと向かう。懐に手を忍ばせ、プラスチック製の鞘から抜いた相棒を取り出す。人体殺害時の汚泥が拭われていない刀身が、夕日に照らされ血の色に輝いた。
口元が歪み、邪悪な笑みを浮かべた。
ナイフを振り上げる。すでに少女は射程内。お前の命は我が手中に有り。
影が自分に覆い被さることで背後の人間に気づいたのか、少女が振り返った。
「お兄──」
少女の顔はどこかで見たような気がしたが、殺人鬼は構わず笑みを張り付け、ナイフを振り下ろす。
すぶりと、
肉を貫く感触がした。
*
目を開けると、部屋は夕日に染め上げられていた。
「………あ」
ヤバい、寝過ぎた。と遅すぎる後悔が頭をよぎった。
寝過ぎたせいか、身体の節々が軋む。骨が鉛に置き換わって身体の芯が重くなったような、疲労が残っていた。しかもなんだかまだ眠気があるうえ、眼球も乾いている。一日の半分も寝て、疲れが溜まるなんて不公平だと愚痴って圭は身体を起こした。
あくびをして、ぼんやりと天井を見上げる。
夜頃に向山市へ車で送ってもらう予定なので、のんびりしている暇はないだろうと文句を言われそうだが、あいにくと荷物は衣服類だけなので、荷造りは昨日の内にすませていた。
やることは、もうない。ない、ような気がさる。多分、ない。でも忘れている気がする。
忘れてる、何を、忘れる、何を、そもそも忘れることってなんだ、頭に何か引っかかる、なんの約束を忘れた?
──約束。
「あ」
公園で遊ぼうと、奈美と約束していたんじゃなかったっけ。
「あああああーーーっ!」
絶叫して飛び上がった。そうだ、なんで忘れていたんだ。今日は最後だからあの娘と遊んで上げると約束したんじゃないか──。
時計を見る。時刻は五時にさしかかっているところだった。もうすぐ暗くなる頃合いだ。
「ヤッバい……!」
慌てて出掛ける準備を始まる。
服は昨日の夜、荷物を詰め治す手間を省くために外着で寝ていたので、着替える必要はない。とりあえず見た目に気をつけなくては。みっともない格好で行ったら年上としてみっともない。
洗面所の鏡で見た目をチェック。髪、寝癖に問題なし。幸い、頬とかにも布の跡はついていない。
うがいをして、寝起きの身体に水を流し込んで洗面所を飛び出す。
最低限の身支度をすると、マンションの一室を後にする。階下に到着すると、走り出した。車で送ってもらうことも私情であるためはばかられるし、自転車などもないため自然と走るしかない。昔から走ることには慣れているので、今更苦に感じることもないのだけど。
小気味良く息を吐いてリズムを整えながらも、出来るだけ早く走る。心に余裕──急いでいるから余裕があっては困るのだが──があると、身体に力が入りすぎることもなく、早くに疲れを感じることもない。
しばらく走っているとやはり息は荒くなってくるものの、苦しいと訴えるようなものでもなかった。
街灯が点滅して道行く道を照らしていく。辺りを照らす紅は、黒に取って変わられていた。
なんでもっと早く起きなかったんだよ俺、と自己嫌悪する。
だいたい、明日遊ぶと言っても時間を指定してなかったのを思い出す。それならもっと早く──昼ぐらいに来ているのが妥当だろう。三度目の正直と言う言葉もある。親御さんがもう連れ帰っているだろう。そうだったら約束を破ったうえに、二度と謝ることさえできない。
なら、なんで今更走っているのかと言うと、悪あがきと答えるしかないだろう。
居てくれればいい、と言う願望を抱いて走っているだけ。希望的観測で出来れば、と思い、もしもの可能性にかけて走っている。二度あることは三度ある、とも言う。
なんだか矛盾しているような気がするが、人間とはそんなものである。
公園が迫ってくると、夜をよりいっそう意識した。
ザザッ、とゆう細波のようなノイズが頭をよぎる。一瞬、何かと重なった。この光景が何かとぴったりはまりあう。
なんだ、と思い、デジャヴを感じたのは昨日のことだと気付く。
昨日、殺人鬼を追走した時。
昨日、昨日、殺人鬼。
まだ捕まらない。この辺りを放浪している。警官を殺害。薬物中毒者。殺しに利益と快楽を求める。確か前に収集した情報には、子供も対象に入ってなかったか。
そして、昨日なんであんなに慌てたのか──
悪寒が走った。背中を大量のムカデが走り抜ける。気持ち悪い、吐き気を催す。
足に力を入れて全力疾走。しかし動力は昨日とは違う。昨晩は炸裂するような怒りだった。でも今日は違う。これは恐怖だった。怖い、よじ登ってくる蟲のような。
理由は、わかる。自分の失態でもしかしたらの可能性が実現しそうになっているからだ。
昨日は、言い訳が出来る状況だった。でも今回は、間違いなく完璧無比に圭のせいでこうなっている。自分のせいで昨日起こさなかった可能性を実現させようとしている。それが、怖い。傲慢な恐怖が襲いかかる。
首筋がちりちりと疼き出す。身体が、何かよくないことを予感しているのか。
よくないことって、なんだ。
居ないでくれ。そこに居ないでくれ。もう親に手を引かれて帰っていてくれ。
さっきとは正反対のことを願った。
背後に消えていく景色の先に、公園を見つけた。ここ数日でそれなりに見覚えのある場所だった。
心臓が緊張と焦燥に脈打ち身体中に伝染する。胃が収縮して胃液を吐き出しそうだった。
公園に近づくにつれ身体の毛穴が開き、冬なのにも関わらず汗が流れ出す。寒風を受けて冷えた汗が肌を冷やすが、気にしていられない。
公園は眼前にあり、入り口から園内に飛び込む。
圭の願いは、
「あ………ぁっ」
無情の元に断ち切られた。
鮮血が広がる解体現場。地面の土に血液が染み込み、黒く変色していた。
もはや"肉片"と呼ぶしかなくなった赤黒いものが、辺りに散乱していた。あれは、指。あれは、足。あれは、内蔵──。
シュレッダーに人が掛けられたら、きっとこんなミンチみたいになるのだろうと、用意に想像させた。
これはすでに、殺人などではなく、ただ楽しんで玩具を壊したようなもの。
周囲に展開された血液、臓物、肉片、骨片の中央に権限するものは、片手に脊髄を金魚のフンのように垂らした頭を持っていた。虚ろな光を移さないかつて人間であったものの瞳は、絶望を見据えているようだった。
ああ、
嗚呼、
ああ嗚呼アア───。
なんで、なんでこうなる。
ちくしょうちくしょうちくしょう気持ち悪い吐き気がする目眩がした世界が瓦解して滅ぶようなイメージが浮かんだ。なんだこれなんだよこれふざけるなよ──
なんで、
「あ、お兄ちゃん」
なんで、
「遅かったね」
奈美の顔を胸部に浮かび上がらせた夜魔が殺人鬼を惨殺して滅殺して笑っているのだろう。
嘘だ。こんなの嘘っぱちだ。幻覚に決まっている。いや夢か。まだ圭は布団の上で不貞寝しているに決まってる。でなければおかしい。こんな突拍子のないことが起こるわけがない。荒唐無稽に無茶と無謀を塗り重ねたような滑稽なことが。
こんな気持ちの悪い夢なんて早く覚めてしまえ。胸糞悪い。しばらく肉なんて食えないかもしれない。夢は一日に体験したことを編集して追体験することらしい。ならつまりこれは、大人しく捕まらなかった殺人鬼のせいか。やっぱり後で探し出して徹底的に殴り飛ばしてやる。
「……むぅ、お兄ちゃんどうしたの? ほら、せっかくだからはやく遊ぼーよよ」
ぽいと、奈美の姿をした虚像が殺人鬼の頭部を投げてきた。
本来なら圭の手の中に落ちたかもしれないが、力加減を間違ったそれは地面に当たってはじけた。西瓜を押しつぶしたみたく中味が飛び散った。眼球は転がり落ちて脳は圭の足にこびりついた。
「─────────」
現実、じゃない。現実、じゃない。現実、じゃない。
これは夢幻。現実じゃない。絶対に、違う。
「あ、こわれちゃった。せっかくゴムボール代わりにのこしてたのに」
残念そうに笑って、奈美の顔を張り付けた夜魔が圭に歩みよってくる。一歩進むたびに肉片がペーストされていく。有象無象の蟲共を蹴散らしているかのよう。
そんな奈美らしく言うな。笑うな。近寄るな。
最初は拒絶するが、ああ、いいかもしれないと気を取り直す。夢と言うものは些細なきっかけで覚める。ここで自分がすればこの悪夢は終わるかもしれない。ならば、抵抗する必要はどこにも存在しえなかった。
大丈夫、大丈夫、これは夢なんだから。己に言い聞かせる。これは夢うつつの幻なんだから。
──ああでも、と本能が意義を申し立てた。
なら抵抗してもいいじゃないか。どうせ夢なんだから奈美が傷つくわけじゃないんだから。
無理だ、と理性が首を振る。夢でもあの娘に手は挙げられない。
なら現実では、抵抗しろ。本能が生存を主張した。なにを言ってるんだと馬鹿にする。この状況のどこが現実なものか。
現実であると、本能は理性を蹴り飛ばした。
考えてみろ。奈美とは夕方以降しか会わなかったじゃないか。夜魔と時間帯が一致する。
それは、夕方にしか来なかったからだ。奈美のせいではない。
ならもうひとつ。殺人鬼が押しかけ強盗なんてしたのは、あれが初めてじゃなかったか。
獲物がいなかったんだろう。近づいてくる奈美を尻目に、額に脂汗を浮かばせて答えた。
昨日はふたりもいたのに? 押しかけ強盗なんてする必要がない。それに思い出せよ。昔あの家で惨殺された家族の名前を。村上夫妻と娘ひとり。娘の名前は村上奈美。
やめろ。
あの娘はお前の言った通りかつての家に帰った。だがそこには新たな住民がいたから、あの娘は邪魔だから殺した。
──止めろッ!
お前が認めたらな、そう本能は慈悲を与えず言葉を続ける。
他にも昨日のことがある。なんであの殺人鬼は手負いだった? 理由は簡単。あそこにはお前の予想通り奈美もいたんだ。でも奈美が夜魔になったから、殺人鬼は逃げ出した。あの男なら全身全霊で逃げに徹すれば、奇跡さえおきれば逃げ切れるだろう。それにあの娘もめんどくさくなって、追跡をやめる。ふたりが去った後にお前があそこに現れて、殺人鬼を追いかけた。矛盾のない推測だろう。
ふざけるなッ! 矛盾どころの話じゃない。それは勝手な妄想を並べているだけだ。どこに理屈がある証拠がある。虚言で惑わしてくるな。
証拠ならあるだろ──目の前に。
パリン、と。
何かが割れる音がした。
──剣を振るいながら、思う。
殺された人間の共通点だって、あったじゃないかと。なんで人の良さそうな父兄が殺される。決まってる、夜中にひとりで遊んでいる奈美に声をかけたから。なんで子供が殺されたのか。決まってる、お人好しの子供は可哀想な一人遊びをする奈美に手を差しのばすからだ。
多分、殺された殺人鬼も確かに"殺人鬼"とした存在したのだろう。しかし、元凶ではない。ただの奈美の隠れ蓑でしかなかった。そこまであんな女の子が頭を使うとは思わないから、きっと偶然なのだろうけど。
圭を殺さなかったのだって、たまには遊び相手がほしかっただけで、今日にでも殺害するつもりだったのだろう。彼女の誤算は、圭の異能であったことは間違いない。
────ザンッ。
だからこうして、この奈美とゆう夜魔は絶命しているのだから。
「う……」
押さえきることは、もはや不可能。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
慟哭は闇に絡みとられ、
敗者の血液が地面を小さく穿った。
*
ぬいぐるみを抱き締める。
優希は暗い部屋でひとり、孤独に沈黙していた。電気をつけるためにベットから起きあがるのさえ、億劫だった。テレビも耳障りで消した。
今日は圭が帰ってくる。しかし、どんな顔をして会えばいいのだろう。それ以前に会っていいのかわからなかった。
深雪の威圧と言葉がなくならない。呪いめいた台詞が脳から離れない。
彼女は自分みたいに恋じゃなくて、圭を愛しているのだろう。最近、こうゆうことに敏感になった。が、あそこまで言われたら誰でも気づく。
恋は下心、愛は真心。愛に恋は届かないし比べるのも失礼なくらい、違う。だから深雪は怒ったのだ。お前なんかがでしゃばるなと。
気持ちの時点で負けていた。言い返せもしなかった。そんな自分が、圭と一緒にいていいのか。深雪と圭の時間をすり減らしていいのか。
間違って、たのかな。
わからない。もう何もわからない。頭が狂って壊れそうだ。
それでも、圭に会いたい。会いたい。話をしたい。こんなことも、許されないのか。
泣き出しそうになった時、ベルの音が枕元から響いた。出るのはめんどくさい。けれど、無視するわけにもいかない。
ゆっくりとした動作で携帯を掴んで開く。
表示は、山里圭。
「え──」
びっくりした。
なんでこんなタイミングでかかってくりのだろう。待ちわびた彼の声が聞けるのだろう。
簡素な文字列を見ただけで、胸が締め付けられるように切なくなる。ぐっと緊張を押し殺して、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
平静を装って声を出すが、それでも震えていたと思う。
何か言われるかな、と思ったが"何も言われなかった"。
「……圭?」
声は帰ってこない。
「圭?」
無音。
「圭っ? 圭!」
答えはない。それは何故か、背筋が震えるほど怖かった。
「返事をして、圭──っ!」
返答はやはりなく、重たい剣が地面に落ちて甲高い音をたてるのが、スピーカー越しに聞こえてきた。
*
無邪気な夜魔は葬られた。剣は十字架と同じような形をしているから、"悪魔殺し"は簡単なんだろうな、とくだらないことを思う。十字架みたいな清浄なものに放逐されたのなら、まあ本望だろうなと勝手な思考が頭をよぎった。
結局のところ、これはどうでもいいので思考の端に追いやる。
「年もめでたく明けることと相成った……こちらの計画も無事レールに乗ったことだ、そろそろ仕掛けるとしよう」
気軽に宣言をして、最後に無垢な人格保持者であり無邪気さ故、人の姿に戻れた少女を思い出す。彼女は魂を狩るとゆう点では、かなりの働きを見せてくれた。が、結局はそれだけ。最後に思い出してやると、ゼパルは自分の意識でこの少女を思い出すことはなかった。
|