39:叫び損なった慟哭
優希は突然の訪問者に目を瞬いた。なんで彼女がこの家を訪ねてくるのかとか、軽く頭が混乱してしまう。
「へ、あ、うん……こんにちは」
無難に挨拶を返すのが精一杯だった。戦闘に類することなら的確に判断を下せても、こういう突撃隣の晩御飯なノリには滅法弱い。
不思議そうにしている優希に深雪は笑って言葉を返し、笑顔のままである問いを口にした。
「ねえ、優希ちゃん。圭くん知らない?」
背筋が、凍った。
凍結。脊髄が丸ごとドライアイスに差し替えられたように寒い。それを通り越して背筋が熱を持ったかと錯覚を覚える。痛い、と感じる脊髄はドライアイスに倉代わりしたはずなのに痛みを感じる。否、脊髄はちゃんと背骨に収まっている。ただ、意識しなければ身体も動かせず、骨の随まで固まってしまうかもしれない。人間の氷像、なんて流行るだろうか。
「あ、やっぱり知ってるんだ」
予感が当たったことに喜び、深雪が顔をほころばせる。端から見れば楽しそうに笑う女の子。いや、優希からもそう見える。しかし、それとこれは何か根本的な部分で決定的な違いがあるように思えた。
だいたい、花のような笑みでこんな感情を抱くだろうか?
「昨日から家にいなくてね、携帯の番号も教えてもらってないから居場所が分からないんだ。優希ちゃん知らない? というか、ここにいたりしない?」
「し、知らない……ここにもいないよ……」
声が出せない。
真綿で喉を締め付けられているような悪寒。このままだと声を出すどころか窒素しかねない。そんな圧迫感。
ふぅん、と鼻を鳴らして背伸びをすると、優希の肩口から玄関を覗き込み。靴棚もない飾り気のない玄関には、優希の靴しかなく男物は置かれていなかった。
それでひとまず深雪は納得する。
「最後のは本当みたいだね。……でも、居場所は知ってるよね?」
「し、知らない……」
「知ってるよね?」
「だ、だから、知らない……」
「知ってるよね?」
有無を聞かせず、深雪が繰り返す。同じ決められた行動を何も考えず繰り返す機械人形のように。
正直、怖かった。
確かに顔には表情が張り付いているのに、文字通り張り付いているだけで、それは能面と同じだった。
「知ってるよね?」
念を押すように、また繰り返された。
「……知ってる、けど」
結局、真実を口にした。いや、口にしてしまうしかなかった。でなければ、深雪は枕元でもずっと同じ言葉を続けるはずだ。これは無論比喩であるが、深雪は迷いなくそれを実行してしまうほど自分の問いに自信があり、事実正解していた。
「へえ、優希ちゃん知ってるんだ。羨ましいなぁ。それならやっぱり組織のお仕事なんだね?」
「──っ、ぁ。そう、だけど……」
だから、これにも頷く術しか持ちえない。
気づけば、なんで圭が田舎町に赴いたのかとか、根ほり葉ほり聞き出され、これ以上はマズいとさすがに正気に返った時、すでに必要最低限の情報を深雪は手に入れていた。
「懇切丁寧な解説、ありがとうね」
にこり、と深雪が笑う。無意識に生唾を飲み込み。自分が話したことを思い返して見ても、圭の居場所や決定的なことは口にしてはいない。だから深雪に判明しても大丈夫、と優希はなんとか自分に言い聞かせる。
──結局の所、圭は深雪が怪しまないために優希は残したのだが、彼女の行動はすでに少年では推測不能な域に達していた。
「でも優希ちゃん、圭くんにそんな危ないこと独りでさせるんだ……最低だね」
胸の中心を不可視の槍に貫かれる。心底軽蔑するような言葉と視線に、身が震えた。
「ち、違っ──私は……」
「違わないよ。だって止められてないもの。自分は一度でも止めたので役目は充分果たしました、とでも思ってるの? ダメだよ、そんな自己満足。結果を見なよ。結局、圭くんは独りで化け物と戦いに行ってるんだよ? 優希ちゃんのは、所詮薄汚い言い訳だよ」
針千本を体現するかの如く身体を針が、ガラスが、槍が突き刺さり、蹂躙していく。
足がすくみ、地面に倒れそうになるのをドアノブを掴んで踏みとどまる。
こんな冷え切った情け容赦などなく慈悲も一片もなければ、自己を満たすためでもない中傷。これは少年を独りにした少女に対する正当なる断罪である、とでも厳かに告げるように。
滲みそうになる涙を一線で染み出さないように拳を握りしめる。
だがそんな時、先程まで侮蔑しかなかった深雪の顔が緩み、優希の頬に指を這わした。びくっ、と想定外のことに小動物じみだ動作で震える。
一方深雪は愛でる、あるいはなぶるように優希を見て、指を顎まで滑らせて美しい曲線に触れる。
「ふふふ……っ、震えちゃって……可愛いね、優希ちゃん」
そこから円を描かきながら肌を滑り、優希の唇をなぞる。
「圭くんとキスする時もそんな顔してたのかな?」
「は……っ?」
なんの、こと?
圭とキスなんていきなり言われて、優希の頭は混乱した。そんなことしたことがないし、恥ずかしくて出来もしない。
「したんでしょう、クリスマスの夜に」
「してない! そんなこと、してな……えっ?」
なんでクリスマスと日付を特定出来るんだ?
確かに、と優希は強く内心で言葉を強くする。確かにクリスマスの夜、優希は圭と一緒にいた。が、そんなことはまったくしていない。ただ会話を交わしあい、優希が作った料理を食べてプレゼント交換をした。とまったく持って健康的なものであった。
でも、深雪はなんでクリスマスに優希が圭と一緒にいたと知っているのか。
圭が深雪に漏らす、とは思えない。知られて困ることはないけど、こういう個人の重要な約束を漏らすとは思えなかった。それ以前にふたりが会話を交わす時間がないように思える。約束した日は、特訓のため圭の帰宅時間は遅かったはずだ。
なら、話をする機会──クリスマスイブ当日。
そういえば、圭が来た時は日付が変わる一分前。夜魔と戦っていたにしては、やけに遅すぎやしないか?
しかし夜魔と戦ったことに間違いはない。実際戦闘が行われた記録がある。
でも、夜魔と戦う以前は何を──っ?
困惑する優希の姿を見て、なんだ、と深雪はあからさまに肩を落とした。それは逆に安心したような仕草であったが、今の優希にわかるわけもない。
「なんだか拍子抜け……私の勘違いだったんだ。キスもしてないなんて」
でも、と言葉を続ける。
「あの後、圭くんはここに来たんだ。やっぱり」
あの後って……?
深雪の含みのある言葉に優希の頭に様々な予測が飛び交う。理解しようとしているのに、本能がそれを拒絶する。
「ああ、そうそう。優希ちゃんは知らないんだね。あの日、私ずっと圭くんと一緒にいたんだよ」
ここに来るまではだけどね、と意味ありげに付け加える。
ずっと、一緒。
つまり圭が遅れてしまったのは、もしかしたら深雪も関係しているのか。嫌な考えが胸中に暗雲と立ち込める。
「それでね、わたしたちキスしたんだよ」
言葉の矢が心の臓を穿つ。さらに刺さった鏃が体内で四方に展開し根を張る。叫び出したくなるほどの激痛。そうできたら楽だろうに、度をすぎた痛みは精神がブラックアウトすることも許さない。
圭と深雪が、キス?
考えてなかったわけじゃない。むしろ色濃く予想し想像したりしたこともった。あんなに近い人間で男女がキスのひとつもしないわけがないと。逆にしない方が異常である。
最初は息苦しかったけど、我慢して過ぎたことと許容したし、あのふたりならば納得できた。それほどまでにふたりは仲がよかったから。
でも、よりによってあの日に──
「実はね、あれがわたしたちのファーストキスだったんだよ。おかしいよね、もう高校生なのにキスしたことなかったなんて。しかもわたしが。びっくりだよ。だから勢い余って、ひとつに成りたくて圭くんを押し倒しちゃった」
悪戯な言葉が優希の心を深く傷つけていく。斬り斬り斬り斬り斬り斬り舞。自動鋸のように刃が内側を激しく攻めたてる。挽肉にしてやろうと刃は激しく擦れあい悲鳴を上げる。
痛い痛い痛い。
やめて、止めて、ヤメテ──
クスッと、深雪が唇を吊り上げる。美しく形が逆に歪。歪でない故の邪悪な歪み。
「ねえ、どうなった思う?」
どうなったと思う? 何度も、お互いの息がかかる距離まで近づき、圭と触れ合った唇で、何度も。どうなったと思う?
どうなったと思う?
どうなったと思う?
どうなったと思う?
「圭くんは、あなたと会って平凡に会話を始める前に何を、どこで、わたしとしていたでしょうかぁ?」
「や、めて……!」
「何を? 何を止めるの? わたしがあの時の圭くんがしていた表情を今思い出すこと?」
「止めて──ッ!」
顔を伏せて悲鳴を上げた。残虐で酷薄で快楽的な暴力に屈しそうになる悲鳴。
それでも、拳を握って震え一線をギリギリで保つ。耳も塞がない。もし自分が深雪の言葉を拒絶したら、きっともう圭と目を合わせることも出来なくなる。
それだけは、それだけは、絶対に嫌だ。
深雪は苦しみに打ちひしがれて震える少女をやけに冷めた目で見下ろして、わざとらしい明るい声を作った。
「ざぁーんねん、わたしと圭くんはキスだけしかしてなかったのでしたーっ!」
「え……っ」
「だからしてないよ。わたし達は大人の階段は上ってないの」
優希は顔を上げて深雪を見上げる。彼女の言葉がやけに嬉しかった。だって圭は、あの日にそんなことをした身体で平然としていたわけではないから。いや最初から考えれば分かっていた。あんな怪我をしたのに激しい運動なんて出来るわけない。
すっかり安心して弛緩した優希の隙を突くように、緩んだ隙間に容赦なく最後の言葉を突き立てた。
「圭くんがわたしを突き飛ばしてあんたの所に行ったんだからね」
平坦。実に平坦な感情のない台詞。否、一度に放出限界以上の怒りを放つためにわざと薄っぺらに圧縮して言葉にしていた。それは空気中で拡散、増殖する。
あんたさえいなければ。
あんたさえいなければ。
あんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければあんたさえいなければ消えてしまえ消えてしまえ消えてしまえおまえの性であんな危険なことに巻き込まれたんだ疫病神化け物雌狐魔女死ね消えて二度とこの世に現れるなおまえの存在なんてわたしが許さない圭くんはわたしだけのものなんだあんたなんかに絶対あげない消えろ消えてしまえ。
「う──っ、あ──ぁっ」
呪詛。人を呪う情念。しかし呪うではなく呪い殺すための悪魔の言葉。紛れもない殺意の塊。具現化し顕現した人間だけが作り出せる悪意と殺意と敵意の権化。
足がすくむ。大量に襲いかかる負の念に身体と心が悲鳴を上げる。だが声帯は凍りついてコンクリートで固められたように動かない。
こんな何十何百と言う人間の悪意を一心にうけたような恐怖。これをたった独りの少女が作り出したかと思うと戦慄を禁じ得なかった。
彼女の狂気と自分が圧倒的な怒りと憎しみで憎悪されているとゆう事実が、身体を締め付けていく。真綿などではなく、極太の綱で雁字搦めにされているような圧迫感。
小さく瀕死の小鳥のような声しか出せない優希に、深雪は愉快で愉快で愉悦が止まらないと笑みを浮かべる。
「言いたいことはそれだけ。じゃあ、二度と圭くんには近付かないで早く消えてね。ばいばーい」
最後に皮肉と別れの挨拶を兼ねた言葉を残し、深雪はエレベーターに消えていった。
ただ独り残された優希は茫然自失と立ち竦み、
「け、い──私、ダメなのかな」
好きになっちゃ、ダメだったのかな。
自問ですらない嘆きは、意味もなく姿を消す。
世の中は無常であり、彼女を慰める者はこの場にはおらず、そして哀れな少女は取り残される。
*
歩道を歩き、優希のマンションから遠ざかっていく。
かんぷなきまでに優希を打ちのめしたはずの深雪の顔は、予想と反して暗い。感情を押し殺しているように影が差していた。
晴れない。気分が晴れない。
今回の目的──圭の所在確認とそれを盾にした追求──を済ませたのに、依然として暗い気分が払拭されなかった。
優希の傷付いた顔を見た時は、満たされた満足感だけが胸に広がり、法悦に顔を歪めて高笑いをしてしまいそうになったほどなのに。
なのに今は、暗澹──泥沼に半身を沈めたような、不快感と束縛感が身を支配する。
気持ち悪い。胸焼けがする。嫌悪が脳内で渦巻く。
理由は分からない。分からない、けど、原因は優希だ。この自分を不快にさせる諸悪の根源は優希しかいない。
惨めな醜態を晒せばいいのに。叫んで声を張り上げて耳を塞ぎ目を閉じしゃがみこんで世界を外界を拒絶すれば良かったのに。
なんで馬鹿みたいに耐えて、言葉を耳にし続けたのか。自分みたいに、泣き叫べば良かったのに──。
人通りを抜けながら、唇を噛み締める。
イライラする。優希に自分と同じ痴態を望み、さらにそれを頑な拒絶して責めぐに耐えた優希に。
それになんだ、残念でしたって。
あれは自分に向けた言葉であった。残念でしたって、圭と交われなかったことがか。自分で己をあの中で皮肉ったと。
それはつまり、朝倉深雪は自らの嫌悪を麻生優希のものとして置き換えたかっただけなのか。
違う。
認めない。
違う。
悪いのは優希だ。自分は悪くない。悪くない。わたしから圭くんを奪ったあの女がすべて悪い。
悪の魔女は必ず墜ちる。それは世界と生存する人間が決めた絶対の宿命。
ショッピングウィンドウに自分の顔が写る。
とても、愉しそうに笑っていた。
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