35:交錯し暴走するは狂った愛情
圭とふたりで荷解きをされた優希の部屋の机の中央には、クリスマスケーキが置かれている。まだ両親がいた頃の癖で、ケーキは巨大な数人分用のホールがひとつ箱に入れられたままあった。
それを挟んで、ふたり分の食事が並べられていた。暖かい湯気を立てていて、まだできたてなのがわかった。初めて他人とクリスマスを過ごすとあって、腕によりをかけて作り上げた品物達。卵焼きに白米、鶏肉のソテーにシチューと少々ちぐはぐな品揃えになっているが。
優希の手には赤い毛糸で編まれたマフラーがあった。端は少し解けかかっていて、飾り気のない赤一色。編み目も少しおかしい。こんなのあげていいのかな、と不安にある。だけど、夜なべして作った渾身の力作だった。
時計の針が八時を差す。
圭は来ない。
ちょうどに来るわけはないのだから、と時計を確認する自分を笑った。
八時を少し過ぎる。
八時を三○分過ぎた。
時計は九時を差す。
食べ物から湯気はなくなって、すっかり冷めてしまっていた。
まだかな。
時計の秒針がやけにうるさい。
早く来ないかな。
扉を叩く主は、訪れない。
「まだ、かな……」
少女のつぶやきは、自分自身しか聞いてはいなかった。
*
宣言通り、半分以下の速度で自分の家がある場所まで戻ってはこれた。
代償、極度の吐き気、目眩、頭痛、などなど。ただでさえ全身打撲状態の圭の身には堪える。
なんとか礼を述べて口を手で覆いながら、炎のように真っ赤なスポーツカーから圭は降りた。
運転席の窓から堂島真由美が身を乗り出す。
「じゃ、ちゃんと送ったからねー。でも、なんで直接優希のマンションに行かないわけ?」
「……たいした訳もないのに、SDFT関係の人の車に乗ってたら怪しまれるでしょう」
ああ、そりゃそうか、と真由美は愉快そうに笑った。
げっそりと、数日何も口にしてなさそうな浮浪人みたい顔した圭は、リアクションするのも億劫で元気そうな真由美をじと目で眺めていた。
笑い終わると真由美は、ポケットから煙草を一ダース取り出すと、ライターで火を点けて口にくわえる。ああ、医者なのに煙草吸ってるから、こんなに乱暴なのかもしれない。となんの因果関係も見当たらない皮肉を口にした。もちろん胸中で。
「後はがんばんなよー」
ひらひらと手を振って、車がゆっくりと発進していく。圭の手が車のボディに届かなくなるくらい距離が離れる寸前、
「半月振りに絶叫が聞けて言い暇つぶしになったわ」
とか口にしていた気がする。
……鬼め。
そう思った時には、すでにスポーツカーは視界の彼方に消えていた。
まあ、結果的に各駅停車の電車に乗るよりも早く帰ってこれたのだから、文句を言うのはやめよう。それと半月前にこのヘルアンドヘブンな車に乗せられたのはいったい……?
疑問は残ったが、今は迷っている時間はない。急いで深雪宅に向かって駆け出した。
走りながら、耐衝撃、防水性を誇る支給品の携帯を開いて時間を確認する。出るのは舌打ちと焦燥感。
──あそこで油断なんかしなければっ!
そうすれば急いで深雪宅にパーティーをして、八時頃に優希の家に行くことができたのに。
悔やんでも始まらないのは分かっていても、自分の失態を罵倒してしまう。
身体を動かすたびに激痛が脳天を貫く。歯を食いしばって耐えた。
深雪と食事をとるのに怪しまれないようにするには──最低一時間はかかる。
大幅な遅刻を連絡するために携帯で電話をかけようとして、異変に気づく。ボタンをプッシュしても携帯がほとんど反応しなかった。いや、たまに操作を理解して反映するが、まともに動作しない。
思い当たるのはたったひとつ。夜魔の打撃を受けた時だ。
さしもの衝撃性も夜魔の一撃には、形無しか。
慌てて公衆電話を探して辺りを見回すが、携帯の復旧に伴ってここ一帯の公衆電話は撤去されたことを思い出す。
連絡を入れる術が見当たらない。
もちろん深雪宅の電話は感づかれるためにアウトだ。
結局、なんの連絡もなしに待たせるしか選択肢がなかった。
己の不甲斐なさにやるせない憤りが吹き出しそうになるのをこらえて、圭は雪夜の中を疾走した。
*
深雪宅の玄関を叩いた時、出てきたのは不満オーラを身体から滲ませて仁王立ちする朝倉深雪だった。その迫力は、まだ色褪せていない夜魔との死闘と同程度の迫力を持っているように感じた。
「……け・い・く・ん?」
目が異様に細い。そこから身を射し貫く無言の圧力が刃を形作って襲いくる。
「はあ、はあ……っ、あ、あのな深雪……」
ここまで全力疾走をしてきた圭は、息をするのに手一杯で言い訳を口にすることができない。しかも激痛まで邪魔をして、思考能力まで奪われていた。
「……何か申し開きでも?」
何を言っても許さない、と有無を言わせぬ威圧感があった。きっと何を言っても、今の深雪の気分を晴らせまい。一度拗ねた、もしくは今朝方のように思い込んだ深雪の機嫌を戻すには、間違った根底を崩すか、それが吹き飛ぶようなことをしなければならない。
一瞬迷ったが、圭は現時点において最強の切り札を投入した。
懐に手を入れると、確かな箱の感触。
「……深雪」
「むっ、なに?」
「クリスマスプレゼントだ」
圭は深雪の手を引き寄せて、掌に小さくラッピングされた箱を渡した。
突然のことに驚いて目を瞬くも、すぐに顔を不機嫌そうに歪める。が、これがなんなのかと言う好奇心と嬉しさが顔に滲み出ていた。
「こんな時にプレゼントでご機嫌取ろうとしてるの? わたしそんな単純じゃないよ」
失敬な、と表情を歪める。もちろん表情は幾らか緩和されている。
「いいから開けてみろって。俺が苦労して考えたプレゼントなんだから」
またむぅ、と唸って、ラッピングしてある紐を解き、
それが──トドメ。
「こ、これって……」
それが予想外の物だったのか、先程まで怒っていたのを忘れて、深雪は口を閉口しながら手の中の物をつまみ上げた。
銀色に輝き、よっぽど信頼した人間にしか渡さない物。
「圭くんの家の……鍵……っ!?」
家主の圭から渡されたそれは、紛れもない合い鍵だった。
驚きに言葉を発せないでいる深雪に圭は照れたように、後頭部を掻いた。
「いや……深雪にはよく世話になってるし、俺はほとんど深雪の家に入ってるのに一方通行は悪いだろ? だから、さ……お前も自由に出入り出来るようにと思ってさ」
圭にとって、深雪は血の繋がりはないまでも"家族"のような存在だった。なのに家に入るための鍵を持っていないのは、なんだかおかしいと思ったのだ。
「で、でも……プライベートな物だよ? そんなのわたしなんかが貰っていいの!?」
「いいんだよ。ってか、深雪に貰って欲しいから作ったんだ」
今にも感涙を流しかねない勢いで深雪は喜んだ。こういう顔を見ると、いつもしっかりとした所ばかり見せる深雪が無性に可愛く見える。
ゆっくりと舞い落ちる雪が圭の首筋に落ちて、身体が震えた。
「なあ深雪……寒いから、そろそろ中入らないか?」
「う、うん、そうだね! 入って入ってっ」
深雪に先導された家に入ると、暖房の効いた暖かい空気に包まれた。爪先を叩いて靴底に張り付いた雪を落としてから、靴を脱いで居間に入る。
テーブルには詰め合わせのパーティーパックと切り分けられたショートケーキが並べられている。
さり気なく時計を見上げた。
九時十数分前──。
*
待っていた。何もせずにただ来ることを信じて。
だって、彼が約束を破るわけがない。
それだけの思いで、彼女は待つ。
チャイムが鳴った。
安っぽいだけの電子音が、彼女にはまるで福音のように聞こえ、慌てて飛び出す。
鏡の前を通り過ぎた時、ふさぎ込んでいて急いで立ち上がったせいか、髪が乱れていることに気づいた。着衣も少しいがんでいる気がする。
これを直そうと思って──でもこんな雑事に割く時間すら惜しく、着の身着のまま玄関に走った。
期待に胸を膨らませて、円形のドアノブを握る。
まず、最初に何を言おう。やはり待たせたことにたいする文句だろうか。それとも愚痴なんてかけぜに、早く早くと急かしてパーティーを始めようか。
一瞬のうちに様々な内容が脳裏を掠め、すべては圭の顔を見てから決めよう、と鉄扉を開け、
「こちら加藤さんのお宅でしょうか?」
愕然とした。
片手に広く平べったい何かを収めた紺色のバックを持ち、ストライプの模様が入った制服を着ている男性。
間違っても圭ではない。
バックからは香ばしく食欲を誘う香りが漂ってくる。
ピザだった。
今日はクリスマス。パーティーの場にピザは定番の品だった。
それを認識すると、一際胸が痛んだ。ただ独り虚しく自分は部屋で彼を待っているのに、余所では楽しくパーティーを開いている。
夜魔討伐の任務を初めてから数年。羨ましいと思っても妬ましいとは思わなかった優希が、初めて幸せにパーティーを開いている人間に少なからず嫉妬した。
「……違います」
間違いを指摘するために、ようやく言葉を絞り出すことができた。
配達先を間違えた事に気づいた宅配員が、謝辞を述べ申し訳なさそうに頭を下げて背を向けると、耐えきれないように扉を閉めた。
身体に力が入らない。行動を起こす気力が抜けたようで、足を動かすのも億劫だった。
ようやく部屋に戻ると、壁に背をつけて崩れ落ちる。途中で背中に固い何かが当たった。途端に証明が落ちる。電気のスイッチだ。
床に座り込んだ優希は再び起きて電気を点ける気にもなれず、そのまま膝を抱えて沈黙した。
暗闇はまるで、愁う心を写すようであり、カーテンの合間から覗く月明かりだけが部屋を照らす。
時計の針が、一○時を示す。
待ち人は、未だこず──。
*
視界の隅でほぼ常時捉えていた深雪の後ろにある時計が、遂に一○時を示した。
少しの間なりを潜めていた焦燥感が胸の奥から広がり、じりじりと圭の精神を苛む。
待ち合わせの時間から既に二時間。
常の二時間なら、もうこんなに過ぎたのか、程度で済む。しかし、人をずっと待たせているのかと思うと、この二時間が何か絶望的なものに思えた。いや、確かに圭は二時間の経過に半ば絶望しているのだから、あながち外れでもない。
圭の目の前にある食卓には、量を減らしたオードブルの数々とケーキが並んでいる。それを挟んで向かいには深雪が椅子に座り、フォークで刺したケーキのスポンジを口に運ぶ。洋菓子を食べる深雪の口元は、甘さで嬉しそうに綻んでいた。
一口一口が少ない深雪と違って、男である圭は既に切り分けられたケーキを一切れ食べ終えていた。
BGMのために付けられたテレビの映すクリスマス特番が耳に入る。乙女がどうだとか、この時期はこうすればいいだとか、そんな他愛もない内容が流れるなかフォークを器に置いた。
深雪がフォークを口から離して、不思議そうに聞いた。
「圭くん、もう食べないの? いつもの半分位しか食べてないけど」
「昼に食い過ぎたんだよ。まだ腹ん中に残っててさ」
なんでもないと言う風に答える。間違っても、優希が用意してくれているかもしれない料理を食べられるように、とは言えない。
そっか、と納得した深雪が再びケーキを口に運ぶ。
デザート──この場合はメインディッシュ──を口にする深雪と取り留めのない雑談を交わす。
時に笑い、時に怒り、時に呆れる。そんな会話。
いつもと変わらない雑談に、圭はこれがクリスマスではなくいつもの夕食時と変わらないような錯覚を受ける。もしそうなら、どれだけ良かっただろう。いつもと同じなら、優希が圭を待っていることもない。
いや、こんな仮定は止そう。
ふと息を吐く。こんなの逃げでしかない。楽しく会話を続けている間にも刻一刻と経過する時間に対してからの。
やがて深雪が食事を終える。時間はさっき確認した時から、半時が経過していた。胃に石が落ちたような気分だった。
テレビを見やすいようにソファへ行こうと深雪が提案してきたので、圭は提案を受け入れる。
ソファに腰を下ろすと、柔らかい綿の弾力が身体を押し返してくる。少し表面のざらついた布製のソファの脇には、ここで寝かせてもらうとき頭の下にひくクッションがあった。これもソファと布は同じ素材だ。
そういえば最近泊まらせてもらってないな、と思う。まあ、女子の家で夜を明かすのはどうかと思うので、圭も進められないと泊まりはしないから別段気にはしない。ちょっと、このソファの寝心地を思い出しただけだった。
テレビに映し出された内容に対して何かしらリアクションとり、のんびりと談話を続ける。ただ、いつもは落ち着く雰囲気も、今は鈍重に感じて酷くもどかしい。
自宅の鍵と言うプレゼントを上げて、深雪から手造りのまるで市販品のような精密差の手袋を貰う。触っただけで、手が暖かくなる心の籠もった代物。
いつもとは違う特別な料理を食べる。
それ以外、特に変わった様子のない日常。
確かに深雪のプレゼントは寒かった圭には凄く嬉しかったし、それ以上に深雪の心遣いも感じた。
一緒にいる時間も楽しいし、いつもより浮かれた気分になれた。
でも、逆に言えばこれ以外はいつもと同じ。
いつもと同じ会話のために、優希を孤独に待たせている。それがどうしようもなく、圭を苛立たせた。
見た目に出さないようにしていたが、そろそろ切り上げなければいけない。
「なあ、深雪──」
そろそろ帰るよ。
その言葉は、唐突に消されたテレビに気を逸らされて紡げなかった。
「深雪? いきなりどうし……っ」
続くはずの言葉は、突如肩をひっばられる慣性の重力に打ち消された。
どん、とソファの背もたれにではなく、座席に押し付けられる。スプリングが鈍い音を立てて軋む。全身打撲の身体に痛みが走った。ソファの上に押し倒されたことに、数秒遅れて認識した。
いきなりこんなことをしてくる人間なんて、この場にはひとりしかない。
圭は困惑しながら、自分を組みしいている少女を見上げた。
「お、おい深雪……いきなりなに──っ」
言葉は、深雪の唇に塞がれた。
突然の出来事に、圭は目を見開き身体を硬直させて動けない。
その間にも深雪は唇を動かし、赤い舌を歯をこじ開けて、圭の口内に侵入させる。
「ん、ふっ……」
唇の間から艶っぽい声が洩れた。
頭を左右に動かしながら、ねじ込んだ舌で口の中を愛おしく、愛でるように蠢かす。舌同士を絡まり、淫靡な水音が静寂が降りた空間にこだまする。
両手で圭の頬を挟み深く熱いキスを交わす深雪は、夢中になるように唇を離さない。
深雪の荒い息が頬をくすぐり、甘い蜜のような香りが圭の鼻孔と肺を満たす。
口内を蹂躙し、快楽を与える唇。頬を紅潮させ、僅かに覗く瞳はうっとりしたように濡らしている。時折洩れる熱っぽい吐息は、脳髄をゼリーのように溶かしかねない毒素を持っていた。
息が出来なくなって、酸素が脳にまわらない。眠りの縁にいるように視界が霞む。
そろそろ本格的に酸欠で圭の意識がどうにかなりそうになった頃、長い拘束を深雪が顔を上げて解いた。細い唾液の糸がふたりの間に繋がる。数分間ずっと唇を繋げていたのに、深雪はまだ名残惜しそうだった。
「ん、はあ……っ、……圭くんの中、美味しいね?」
そして深雪は妖しく笑う。
魅力的で、心臓を鷲掴みにされているような、本能に直接訴えかけてくる凶悪な笑み。
「深、雪……? いったい、なに……?」
なんとか意識を浮上させて、呂律の回らない舌で発したものは、なんの意味もない言葉だった。
動揺して物事を把握してない圭の様子が、いきなり握っていた手を離された幼子のようで、深雪はさらに笑みを濃くする。
「何って、キスだよ。ディープキス。……クリスマスって、こうゆうものだよね?」
そう嘯いて、さらに身体を密着させていく。ふたつの胸が押し付けられて、緊張と高揚に圭の心臓の刻むビートが早まる。
あはっ、とまた深雪が笑った。
「聞こえるよ、圭くん。凄いドキドキ言ってる。緊張してるのかな? それとも興奮してるのかな?」
自分の存在を強く感じてくれた事に、深雪は歓喜の声を上げる。
プレゼントを上げた時と同等の笑顔を見せる彼女は、心底嬉しそうだった。
ああ──、とようやく気づかされる。
深雪にとって、今日は変わらない一日ではなかった。
慣れない紅を塗っていた。
照れくさそうに身体を密着させてきた。
雑用に時間を割かず、今日一日を目一杯遊んだ。
探そうと思えば、いくらでも見つかる。今日だけ、もしくは今日だからこそ特にやってきたことがある。
深雪は今日のこの瞬間を間違いなく待ち望み、切望していたのだ。恍惚と濡れる瞳がそれが間違いでないと証明していた。
「ねえ、圭くん」
熱い吐息を吐いて、圭に語りかける。
「今、何か悩んでるよね?」
「─────────」
答えは、いえない。
だが、深雪は沈黙こそが欲しかった。図星を突かれれば、誰だってまともなことは言えなくなる。
唾液で瑞々しく湿った唇が、耳元に寄せられる。
「わたしがすべて、解決してあげる」
確信。自分なら圭のためになんでも出来ると言う確信。
「わたしが全部包み込んであげるよ。熱く、愛しく、最高に」
だから、と深雪は勿体ぶるように。
「だから、わたしを受け入れて」
再び、唇が重なった。
柔らかかい唇。甘い香り。人肌の温もり。
頭の芯が、ぼーっとする。そして確信がある。
今この瞬間、深雪を受け入れれば、圭はきっと楽になれる。このまま身を重ねて深雪に溺れれば、少なくとも彼女に気を配る必要はない。この焦燥感からも解放させられる。
甘い。甘美な蜜の味。
無意識の内に、圭の両手が深雪の背にまわった。猫が背中を撫でられて喜ぶような仕草で、深雪が鳴いた。
そのまま手を滑らせて肌の柔らかい感触を感じながら、ゆっくりと上に向かって動かしていく。
深雪の手も圭の背中にまわり、鍛えられた筋肉の繊維をなぞるように指先を滑らしていく。ぞくぞく、と背筋が快感に震えた。
深雪の身体の熱さを感じながら、ぼんやりと、虚ろな頭で思い出す。
そういえば、今、包帯付けてたっけ。
このまま行くと、間違いなく気づくだろうな。どうやって誤魔化そう。
──駄目だ。
目の前の快楽に絆されていた思考に、"誰"かが声を投げかけた。
──駄目だ。
いや、"誰か"ではない。この声の主が誰かは考えるまでもなく、自分だった。
それは、理性と言う名の人の本質を覆い隠す偽りのもの。気にすることはない。
──違うだろ。そうじゃない。それじゃ、駄目だ。
何がだよ、と圭は返した。何がいけないのか。眼前の少女の想いに答えて快楽に身をたえ、苦しみから逃れることの何が悪い。否、悪いことなどない。苦しみから逃れるのは、忌むべきことではないのだ。人として、人間として、生物として、外界のしがらみから脱しようとするのは当然だろう。故に理性と言う、人付き合いのために生まれた偽りの薄皮の言葉なんて、気にしない。
──違う。違う。そうじゃない。そうじゃない。
子供が駄々をこねるようだった。所詮偽りなんて、この程度。あれは人に悪く思われるからしてはいけない、あれは迷惑になるからしてはいけない、あれは違法だからしてはいけない。人の目を気にするだけの存在なんて、同じことを繰り返し吐き出す出来そこないのコンピューターだ。
だけど、
──それは、誰のために受けた傷だ?
いきなり冷水を頭から浴びせかけられたような、熱に魘された頭が急速に冷えていくのを感じた。
この、バレたらどうしようか、なんて悠長に考えた包帯。これは夜魔と戦い受けた傷。深雪や、優希を傷つけたくなかったから──、
浮かんだのは、暗闇に包まれた部屋で膝を抱える少女の姿。
「────────────────────ぁっ」
見える、わけはないのに。
今、頭に浮かんだものは頭が浮かび上げた妄想の映像であるはずなのに。
なんで、こんなにも胸をかきむしりたくなるのだろう。身体が震えるのだろう?
霞んでいた視界が蘇っていく。こんなにも世界はクリアだったのかと感嘆したくなるような、裸眼にメガネを掛けた時のような、そんな爽快感。
馬鹿じゃないのか、俺。
一時でも、彼女の存在を蔑ろにしてしまった自分を叱咤する。
待っている。待ってくれている。優希は、自分が来ると信じて待っていてくれている。きっと、疑ってなんてない。
それを、その想いを無為にしようなんて、出来るわけがなかった。
深雪の背にまわしていた手を離す。柔らかい肌から指が離れる時、もう触れるのを辞めてしまうのかと、名残惜しい思いがあった。でも、それを振り切って深雪の小さい肩に両手を置いて、一方的に身体を離した。
「──っ、圭、くん?」
いきなりの拒絶に、深雪が驚いたように目を見開く。そんな嫌がる様子はなかったのに、と訳が分からなさそうだった。
そのまま身を起こして、深雪から身体を離す。
「──ごめん」
ただ、この言葉を深雪に言うのは、酷く後ろめたくて、圭は視線を逸らした。
「───────────え?」
信じられない。そう言うように、深雪の瞳が揺れた。
「う、嘘だよね、圭くん? わたし、圭くんに嫌われるようなこと、してないよね……?」
「……してないよ」
むしろ、助かるようなことしかしていない。あのプレゼントだって、寒さに辟易していた圭には大助かりの代物だ。
「な、なら! どう、して………っ?」
わたしを拒絶したのっ?
胸に鋭利な刃物が突きつけられる。懇願するように潤んだ黒曜石の瞳が、圭の心を責める。しかし、これは自分が選んでしまった代償であり、耐え抜かなければいけない責めぐ。
深雪の身体は暖かかった。良い香りがした。抱き締めているのが上質な羽毛布団に埋もれるように心地よく、そのまま自分のものにしたかった。
触れ合った唇も、離したくないと思いもした。
それでも、自分は──優希に会わなければいけないから。
今はただ、
「……ごめん」
無意味な謝罪をするしかない。
「大事な、用事があるんだ」
ソファーから飛び退いて、近くに掛けてあったコートを引っ付かむと、背を向けて走り出した。
「ま、待って! 待ってよ圭くんっ、ねえ──っ!」
嗚咽を堪えている。
そんな、叫び声だった。
*
時間はもう一一時をまわっていた。もうすぐ、今日と言う一日が終わる。
圭はまだ来ない。あのチャイム以来人がくる様子なんて一向になかった。
もしかしたら、と可能性が脳裏に浮かぶ。
もしかしたら、圭は来ないのかもしれない。
そう思った瞬間、言い知れない恐怖が身体を貫いた。
圭が、来ない。
あの圭が、来ない。
昨日、約束をして、徹夜でプレゼントを作って、楽しみにしながら料理を作り、奮発してゲームを買った。
なのに、圭がこない。
──嫌だ。
怖かった。
──嫌だ嫌だ。
両親が死んで、夜魔と戦い始めて、尚折れずに戦い続けた。人が死ぬと言う現実からも、逃げなかった。
なのに、
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!
現実を否定した。
圭が来ないと言う現実を否定した。したかった。そんなものはないと認めたくなかったから。
たったひとりの少年が、約束を破って自分の所に来てくれない。それだけなのに、形容しがたい確かにあった。
分からなかった。
なんでこんな気持ちになってしまうのか、分からなかった。まるで、両親が死んでしまった時のように、自分の大切な人が居なくなってしまったような──
大切。
そう、大切。
何か、答えのようなものが脳の内側で閃いた。この問いのすべての答えが、それであると確信できた。
大切。
家族は、大切なものと同時に何であったか。
思えば、本当に簡単で。
簡単過ぎて、身近にありすぎたせいか、逆に思考の視野に入らなかった。
──好き、なんだ。
私は、麻生優希は、山里圭と言う少年が好きなんだ。
会って2ヶ月もしていない相手なのに、自分はどうしようもなく好きになっていた。
一緒にいると少し息苦しい感じがしたけど、それでも幸せで、話していると嬉しかった。
いろいろと知らないものを見せてくれた。自分が今まで遠ざけて知らないでいたことを、目一杯教えてくれた。最初、興味なんてなくて、ちょっと煩わしいと思った時もあった。けど、それは何も知らなかった自分に"日常"を教えてくれるためだったのだろう。
最初会った時は、仲の良い恋人──正確には幼なじみ──といつも一緒にいて、能力を持て余しているだけの少し冷めた少年だと思っていた。
けど、実際は全然違う。
冷めてなんていない。凄く情に厚くて、こっちが勝手に巻き込んだだけのことにも、命懸けで助けようとしてくれた。あの時は結局、圭は何も出来なかったけど、別の時にちゃんと駆け付けて助けてくれた。あまつさえ勝手な言い分で勧誘したSDFTに入ってくれたのだ。
驚いた。
復讐でもなく、尊敬でもなく、そんな理由もなくこんな恐ろしい異形と相対する組織に入隊したのだから。未だに圭から入隊理由は聞いていないけど、いったいどんなものなんだろうか。
きっと、必要以上に圭を意識し始めたのは、あの頃からだったのだろう。
そして、圭を好きになる決定的な出来事は──。
圭が好きだと、そう意識したら、途端に胸が締め付けられるように苦しくなった。切ない、と言うのだろう。
会いたい。早く会いたい。
「圭に、会いたいよ……」
洩れた声は、暗い静寂の中をよく響いた。
後一分で、クリスマスイブは終わる。終わってしまう。
もう、駄目だ。そう諦めてしまった。
だって、圭には深雪がいる。ずっと一緒にいた幼なじみがいる。今更ながら、彼女がクリスマスなんて大イベントを見逃すわけがない。きっと、今頃は──
いつの間にか涙が滲んでいて、喉の奥から嗚咽が洩れそうになった時、
ピンポーン、と。
チャイムが、鳴った。
「───────っ!」
あり得なかった。
そんな、都合の良いことが起こるわけがない。そう理性がつぶやく。
だけど、圭はいつでも変なタイミングで現れたじゃないか。
確証のない確信がある。期待がある。
髪も服も乱れたまま、優希は部屋を飛び出し、玄関の扉を開け放った。
*
「あ──っう……!」
白い息を湯気のように吐き出しながら、山里圭は走っていた足を止めた。両手を膝について、荒く呼吸を整える。
身体が異様に痛み、もう足を動かすのさえ一苦労だった。。
全身打撲なのに鞭打って無理に走ったのが行けなかった。しかも少量とはいえ食事もしていたものだから、身体の至る所から悲鳴が上がる。
深雪の家から飛び出した時の元気はすでに失われて、手足が鉛のように重かった。
──深雪。
ごめん、としか謝れなかった自分の語録の貧弱さを恨む。
あんな状況から突然逃げ出せば、嫌われたと思うだろう。絶対に深雪を傷つけた。優希に会うためとはいえ、もっと優しくすることだって出来たかもしれないのに。
いや、今は悔やんでいる時ではない。一刻も早く、優希に会わなければ行けない。
足を一歩進めると、身体が馬鹿みたいに痛みを発した。まるで、全身に大量の針を突き刺しながら歩いているようだ。
それでも、痛みを噛み殺して歩いた。
会わなければいけない。
会わなきゃ、いけないんだ。
──会って、クリスマスを祝いたいんだ。
雪さえ舞い落ちる冷気の中で、汗が雫のように頬を伝って路面に落ちた。額にも痛みに耐えているためか、びっしり汗をかいていた。
包帯の下から血が滲み、赤い染みが広がると同時に鉄臭い匂いが鼻につく。あんな一撃を喰らったのだ。包帯の下に裂傷、もしくは擦過傷がないわけがない。深雪の甘い香りを汗と一緒に洗い流してくれると思って、なんとか痛みを耐える。
いつもならあっという間に踏破できる道のりが、無限に続く回廊を延々と歩いているように思える。
ふらふらゆらゆらぐらくらと、幽鬼と思えるかのような足取りで、満身創痍の肉体を引き摺る。
どれくらいの時間が経ち、何度膝を突こうとしたか──もはや数えることが出来ないほどだった。
それでも、どうにか優希のマンションの前までやってきた。
一段、二段、三段と踏み外さないよう気をつけながら階段を上がっていく。登り初めてからエレベーターを使えば良いことを思い出したが、今更引き返す気力もない。このまま階段を登りきってしまった方が楽だった。
暗いコンクリートの内壁に階段を叩く靴音がやけにうるさく反響した。
太股や脹ら脛を特に痛くしながら階段を上がり、ついに目当ての四階までたどり着く。
揺れる身体で無理やりバランスを取り、廊下を進み、ある一室で足を止めた。
表札には、麻生と名前が掛かれていた。
やっと、
やっとたどり着けた。
目的地に到着した安心感は、砂漠を単身で横断したような気分さえもたらせた。
震える指先で呼び鈴のボタンを押し込む。一回押しただけで、腕は疲れて重量に従って力無く落ちた。
たった一度で、気づいてくれるだろうか。
分からない。
ただ、気づいてくれると信じるしかなかった。
結果は、慌てて開けられた鉄扉に寄って示された。
そこから現れたのは、紛れもなく麻生優希とゆう少女だった。
「圭っ!」
と開口一番に待ちかねた人間の名を呼び、そのまま勢い余って抱きついた。
「はっ、な、あそ──いったァッ!」
優希に抱きつかれたことに深雪との一件を思い出して、目を見開いて驚き顔を羞恥で赤く染めるが、酷使した全身打撲の身体を強烈な激痛が走り抜けてたまらす悲鳴を上げた。
圭の絶叫に慌てて優希が飛び退いた。抱きついた本人である優希も顔が真っ赤だった。
「あぅ、ご、ごめん……っ! でも、そんなに強くは……、鉄臭い……血?」
優希が不自然そうに眉を顰める。なんとかバレないように言い訳を取り繕うとして、未だに身体を苛む激痛に邪魔されて上手く喋れない。
そして優希が何かに気づく。
「……圭、ごめん。ちょっと寒いよ」
二本の綺麗な筋を描く腕が伸びて、圭のシャツの裾を掴む。
「あっ、ちょっ、待っ……!」
苦痛で上手く呂律の回らない圭の言葉を無視して、優希がシャツを上げた。
シャツがなくなって見えた上半身──胸の辺りには包帯が幾重にも巻かれている。本来は白く清潔な包帯のはずだが、それは斑点のように赤い模様が染み込んでいた。多い、と驚くほどではないが、少ない、と言えるほどの量でもない。
自分の予想が当たったことで、優希の顔から血の気が引いて白くなる。
「これ、巻き方が真由美の……っ! け、圭なんでこんなの……!?」
「……特訓の時にヘマしてちょっと」
「赤瀬さんは寸止めか峰打ちしかしてないよ! それな血が乾ききってない……最近の傷だよね、これ」
独り言を呟いて優希が考えを整理する。これはもう言い訳出来る問題じゃなかった。
予想通りにたいして時間を掛けずに優希は事実をはじき出す。
「まさか……圭、夜魔と戦ってたの?」
「うっ……」
「そう、なんだ」
呻いて視線を逸らすと、優希は自分の言葉が正しいことに気づいた。
少し居心地の悪い沈黙が続き、何かに気づいた優希がハッと顔を上げた。
「あ、じゃあ……まさか、今日遅れたのって……夜魔と戦ってたから?」
「まあ、そうだな……あそこで気絶しなかったら、遅れはしなかったと思う」
今更否定するのも往生際が悪いので、素直に肯定した。
すると、優希の顔がさらに赤くなり、拳を振りかぶり、
「──バカっ!」
圭の胸板に叩き込んだ。
「ウォゴフゥッ」
なんだか変な苦悶を上げ、胸を押さえて悶絶する。全身打撲で擦過傷がある位置にダイレクトと拳が叩き込まれて、痛みがとんでもないことになった。
思わず崩れ落ちてのた打ち回ろうかと思ったら、圭の首に細い両腕がまわされた。
頭に柔らかくて暖かい感触があり、少しいい匂いがして自分が抱き締められているのだと気づいた。
「こんな怪我して……死んじゃったら、どうするの……?」
圭を労る声が、真上から降ってくる。彼女の声に、圭の高揚していた気分がゆっくりと鎮まっていく。
「私にも、連絡してくれたら……一緒に戦ったのに」
お前には、楽しいクリスマスを味わって欲しかったんだ。そう言いたかったけど、今の状態ではみっともなくて口にすることができず、ただ優希の言葉に耳を傾ける。
「私だって、圭と戦えるんだよ……? 一緒に、痛みを分かち合えることだって出来るんだよ。そんな、怪我なんてして欲しくない……」
「……うん、ごめん」
「ひとりで、無茶なんてしないで。……私も、信じて」
「……うん、わかった」
優希の言葉は深雪と同じように圭を心底心配する暖かなもので、でも深雪とは違う意味で心が落ち着いた。深雪は羽毛なら、優希はまるで青々と茂った草原の絨毯。自然と心が穏やかにされていく。
だから、優希には傷ついて欲しくないけれど、もうこんな心配はさせたくなかった。
今度からは、優希には頼ろう。一方的にではなく、お互いのために。助け合うために。傷ついて欲しくない、と言うのが今も変わらぬ本音ではあるけれど、それは優希を信頼していないことになってしまうから。
言いたいことが終わったからか、優希が包容を解いた。心地よい感じが名残惜しかっが、そういうものは何時までも味わえるものでもない。
顔を上げた圭と優希の目が合うと、気恥ずかしそうにお互い視線を外した。
これでは何時までたってもパーティーが始まらないので、圭がちょっと緊張気味に口を開いた。
「えーっと……それじゃあ、パーティー始めよう、か。……優希」
「う、うん。そうだ……え?」
頷いて家に上がろうとした時、違和感を感じて圭を振り返った。さり気なく言ったので、出来れば気づかないで欲しかったのが圭の本音だ。
「今……なんて?」
「何って、その……あれだ、クリスマスプレゼント……って言うと情けない、けど……。今日から、名前で呼ばせてもらうぞ」
視線を中空でさまよわせながら言葉にする。なんだか酷くぶっきらぼうでみっともないが、気にして修正する度胸はない。
しばらく呆然と立ち尽くしていたが、途端、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう──ちゃんと受け取ったよ、圭」
さあ、あのみっともないプレゼントを圭に上げよう。あんなのでいいのかな、なんて、もう思わなかった。
*
テレビのクリスマス特番から、女性の黄色い声が虚しく響く。
走り去った圭を追おうとして、しかしそれが出来なかった朝倉深雪は、茫然自失と床に腰を落としていた。
追えなかった。
怖がったからだ。もし、引き止めようと追って、それでも振りほどかれたら。完全で完璧に言い訳して補完しようのない拒絶をされたら──。
背筋が震えた。もしそんなことになったら、と想像するだけで今すぐ死を選びたくなるほどに。
だって仕方がない。深雪にとって、圭は疑いようのないほどに"生きるための存在意義"になっているのだから。
過去に自分は死んでいた。息をして、動いて、一日を過ごす。生物学的に言えば生きてはいるが、本人にとっては死んでいるも同然。
きっとこのまま無情に過ぎていく時間に、ヤスリでじわじわと肌を削るように己の存在を消されていくのだと、無意識に自覚していた。
そんな運命を変えたのは、蒼くこの世のものとは思えない輝かしく神々しい光だった。
あの瞬間、遠慮がちに──恐れるように自分へ手を差し伸べてくれた少年のために、生きることを決めた。
それなのに。
拒絶。
自分の思いへの拒絶。
自分の命よりも重要に考えてきたものからの、拒絶。
自分のすべてを捧げても構わないと思っていたのに。
普通に生きている人間では、到底想像も体験も出来ないであろう絶望。翅を広げ蒼穹で自由を謳歌していたのに、突然翼をもがれたような転落感。
あまりのことに、茫然自失としている他なかった。
すると玄関の扉が開く金属音がした。
暗雲に一筋の光明が差し込む。
「圭く──」
戻ってきてくれたであろう人物の名を読んで腰を浮かし、
玄関から姿を見せた女性に、突き落とされたように再び絶望へと転落する。
朝倉慶子。
それは自分が求めていた人物が帰ってきてくれたわけではなく、最も忌むべき存在が帰宅したことを表していた。
「あ……なんで……? 今日は、帰らないって……」
「私が帰ってきたら変? 今日は雪が降ったから、服が汚れたのよ」
そう娘とのコミュニケーションも早々に切り上げる。自室に荷物を取りに行こうとして、テーブルに置かれた食事、乱れた服とただならぬ様子の娘をみて、小さく微笑を浮かべた。だが、小さい笑みのはずなのに、深雪にはまるで悪魔のように見えた。
「あら、さっきまで山里くんがいたのかしら?」
ピンポイントに、深雪の傷口を抉る。
面白い暇つぶしを見つけたと、いつも生意気な娘を痛めつけられると、嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「ああ、なに? 迫ったら逃げられでもしたの」
「───────────ぁっ!」
他人に指摘されて、より深く理解し、傷口が広げられる。気を緩めればうめき声を上げてしまいそうになる。
「なに、図星? 情けない……。身体を使って男も落とせないわけ? よっぽど相手にされてないのね」
「やめてっ!」
たまらず悲鳴を上げた。
しかし慶子はより酷薄な笑みを深める。
そして、娘の圭への執着と言っていい思いを理解し、女として最大の屈辱である言葉を投げかけた。
「それとも、他に好きな女でもいたのかしら?」
「いや、いや、やめてぇぇぇぇぇ───っ!」
頭を両腕で抱え、悲痛に叫び声を上げる。
肩を震わせてうずくまる実の娘で存分に遊ぶと興味をなくし、慶子は自室に荷物を取りに行く。
幾つかの荷物を紙袋に詰め、玄関に向かう途中で再び居間を見ると、まだ深雪はうずくまって震えていた。まるで暴力に怯える幼児のようで。
慶子はそれを足下で這い蹲る虫螻でも見るように、侮蔑さえも浮かべず、ただ無感情に見下ろした。
「無様に這い蹲るしか出来ない芋虫は、空を羽ばたく蝶には勝てないのね」
ただ、頭に浮かんだ言葉を慶子は娘に投げかける。
再び身を貫く刃に深雪の身体がひときわ震えた。それを見て、最後に悪魔の言葉を投げかけた。
「本当に自分の物にしたければ──殺してでも自分の物すれば良いじゃない?」
「────────────えっ?」
深雪が顔を上げると、悪戯に笑う母の姿があった。それは何か気紛れに戯言を吐くときの笑顔であり、マヌケな人間に向ける嘲笑。
慶子は深雪を嘲笑い、身を翻して自宅を後にした。
呆然として、視線を動かせなかった。
──殺す?
誰を?
問わなくても分かる。誰を殺せば自分が幸せになれるのか。
気紛れに慶子が放った言葉。たいした意味のない文字の羅列。聞き流して数秒後には忘れているべきもの。
なのに、
なのにどうして、こんなにも魅力的な言葉に聞こえるのだろう?
意識せずに、笑っていた。
愉しげな想像が脳内を通り抜け、薬をキメてトリップしてしまったように、そんな妄想を繰り広げるのが愉快で愉快で堪らなかった。
自分の哄笑が耳に入り、深雪はハッと口をふさいだ。
──何? 今のは何?
先程まで脳内を闊歩していた──愉快と笑ってしまった──想像に、驚愕した。
殺す? 殺すだって? 誰を? わたしが?
駄目だ。人殺しはいけない。そんなのは道徳的にしてはいけないことだ。いや、常識的考えなんてどうでもいいけど、何より自分が犯罪を犯したら圭が悲しんでしまう。
なんで、あんな女のくだらない妄言に振り回されているんだ、自分は。
頭に浮かび続ける想像を消し去ろうと、必死に否定の言葉を発し続ける。だが一向に妄言がなくなる事はなく。
もう否定してしまうことに疲れてしまって。
殺人を受け入れてしまった。
うん、と頷いた。殺そう、と。殺してしまおうと。
だって、こんなに愉快なコトなのだから、きっと悪いコトなんてない。
だけど、それはあくまで最終手段。受け入れはするけれど、実行する気はない。圭が悲しむのは嫌だ。
拒絶して否定して自分から消し去るのは無理だから、心の奥に鍵を付けて埋没させよう。消えてはないから、思い出せなくても想像がまた噴き出すことはない。
最高の安全策に安堵して、心の奥底に殺人想像を沈めた。
すると、あの天にも昇るような愉快に気持ちはなくなり、陰鬱な思いに支配された。なんでまたこんなに気分が悪くなったのかと思っても、殺人想像を忘れたので分かるわけもなかった。
──悔しい。
奥歯がぎしりと悲鳴を上げた。
悔しい。何故あんな外道が好きな人間とまぐわることが出来て、自分は出来ないのか。
今頃、辰也とどこかのホテルにいるに違いない。服をはだけ、唇を重ね、ベッドの上に倒れ込む。身体を撫でまわし、お互いの秘部に舌を這わせて下準備。もしかしたらこの時点で一回達しているかもしれない。否、一回ここで確実に昇っている。その後、充分濡れ光った慶子の下腹部が辰也の肥大し熱を放つ肉塊を求めて花開く。蜜に誘われる蟲のように、辰也は躊躇なく自分のモノを突き入れる。待ちわびたモノがようやく入ったことで、恍惚とした表情になり嬉しそうに鳴く。もう離さないとでも主張するかのように、両足が辰也の身体に絡まって拘束する。完全に雄と化した辰也は、求めるようにキツく締め付けてくる肉壁に呻き声を上げて、自分の下半身を叩きつけた。慶子の喘ぎと肉同士を叩きつける鈍い音だけが響き渡る。体内に入って暴れる巨根に堪らない快楽を得る。玉袋に溜まった種を求めて、傘や棒を圧迫する肉に射精を堪えるために歯食いしばる。快楽に溺れる雌に、雄が相手の双丘を揉みしだき、口の中で頂点を操り追い討ちをかける。行為をより最高に愉しむために開発した慶子の身体は、悲鳴に近い歓喜を上げて限界に達した。ただでさえ強烈な力を加えて
きた膣内が、種子を求めてひときわ締まる。雄のモノも蠢く肉により限界に達し、腹の底に響くような雄叫びを上げて欲望を吐き出した。火傷しそうに熱い白濁を注ぎ込まれた慶子は、悦楽のせいで汚く涎を垂らし、白目を向きかけ、身体を痙攣させる。それは一子の親の面影はなく、完全に雌の表情だった。しかしまだ飽き足らないのか、下半身は雄を求めて動くのだ。
少し正気を取り戻したら、慶子が辰也の上になり淫らに腰を振り、快楽を貪る。時には口で濡れたモノを、時には胸で扱い、時には苦労して拡張した後ろの穴で快楽を与える。そして雄の白濁と快楽を求める。例え出なくなるまで吸い取ろうが、関係ない。
こうして今、雄と雌は交尾を繰り返しているのだろう。
なのに、
なのになのになのになのになのになのになのになのになのになのになのに────────────────。
何故、自分はこんなに惨めな醜態を晒さなければいけないのか。自分は一家を台無しにした淫乱女以下に甘んじなければいけない。
結婚していて子供も出来ているのに、職場で出会った他の男に惚れ、それのために家族を捨てた。しかも相手の辰也は愛妻家で知られる既婚者だったのに、それを誘惑し籠絡させて無理やり自分のものにした。
そして父が会社の重役であることを利用して、離婚したら妻──つまり自分──に逃げられた哀れな男として、雑誌に売ると脅迫までしている。
本当に、最低だ。
自分にあの女の血が流れていると思うだけで虫酸が走った。己の為には何もかも奪う、類人猿。
──奪う?
慶子は辰也を奪った。
瞬間、奪うと言う単語がある言葉を汲み出す。
──それとも、他に好きな女でもいたのかしら?
他ニ好キナオンナ?
好キ、オンナ。
確かに、圭は一度自分を受け入れてくれようとしていた。なら、誰カガ邪魔ヲしてイタのだ。
心アタリなんて、ヒトツしかなイ。
圭ガ走ッテ向カッタ先ニハ、
麻生優希ガイタンだ。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ああ、そういうこと」
奪われたんだ、わたしも。
あんな横から出てきたオンナに大事ナ大事ナ圭クンを、取ラレタ。ワタシだけの王子様ヲ。
許セナイ。
あんなオンナに、圭クンガ。
まさか、今、あのオンナは圭クンのモノを体内に埋め込ンデ貰ってイルノデハナイダロウナ?
想像する。圭に抱きしめられ、唇を重ねるふたりを。ベッドに倒れ込んで身体を密着させるふたりを。圭の情欲の固まりを挿入される時の優希の表情を。慣れない上下運動が始まり、シーツに染みを作りながら行われる一連の行為を。
圭は、多分自分からそんなことはしない。だから、優希は深雪が歯軋りするような方法で圭にねだって、交わる。
汗が飛び散り、嬌声を上げて。
やがて圭から溢れる粘液を受けて、でもまだ飽きずに圭を引き寄せて、可愛く囁く。
もっとちょうだい。
と。
苛ついた。本当ノ殺意が何かわかった。
許セナイ。許ス必要さえない。
一瞬、殺人想像が浮かぶが、生温い。殺すなんて楽にするだけじゃないか。
絶望を。麻生優希に絶望を。
そして圭を奪い返す。何としてでも。
「……………あははっ、優希ちゃん……絶望させてあげるよ。大事な人が奪われる痛みを味あわせてあげる」
狂ったような笑い声と、それを失笑するかのようにテレビから流れる音声だけが、この空間を支配していた。
*
優希にプレゼントを貰った。不恰好な縫い目の荒い、絶対に市販されることのないような、正直誉めるなんて出来ない酷い代物だった。
でも、とても暖かかった。身体も心も。
作ってくれた食事を食べた。冷えていたけど、すごく美味くて、一心不乱に胃の中にかき込んだ。そんな俺を見て優希は嬉しそうに微笑んだ。まるで、ようやく思い出せてきた母さんに微笑まれているようで、恥ずかしかった。それを誤魔化すために、また食べ物を口に入れた。
食事を終えると、明らかに複数人用の大きなケーキが出てきた。優希の手料理を腹一杯に食っていたので血の気が引いたけど、なんとか一切れは食べられた。
結局優希も食べきれなかったので、ケーキは半分以上を残されて冷蔵庫に仕舞われた。
その後は、他愛もない話をしていた。
本当に他愛のない、けど話しているだけで楽しくなる会話。そんな歓談の中、優希がぽつりと言葉をこぼした。
「私ね、将来お母さんになりたいんだ」
「え?」
「私を守ってくれて、いつも優しくしてくれたお母さんみたいになりたいの」
深夜過ぎの二人きりの状況でこんなことを言われれば、色々驚く。けど、優希にはそういう意味は無いみたいで、俺は自分の考えを恥じた。
「そっか。それは良い夢だな」
心の底から、そんな言葉が出た。本当に、良い夢だと思ったから。
彼女は俺の言葉に恥ずかしそうに笑う。
優希の笑う横顔を見て、俺はこんな彼女をずっと守っていたいと思ってしまった。彼女が自分の夢を見つけることができるまで。
ふと、疑問が浮かんだ。
優希が誰かを好きになって、その誰かと結婚して子供を作り、優希が夢を叶える。嬉しそうに優希が笑って、幸せに慣れたのを確認して俺の役目は終わる。それが理想。
けど、俺は優希が誰かのものになってしまうのを黙って見守っていられるだろうか?
……多分、無理だ。
ようやく、気づく。なんで、俺が優希を守りたいと思ったか。なんで、彼女のことが常に頭の中をちらついたのか。
理由は、色々あった。だけど、今俺がこうして優希といるのはきっと。
俺は、優希が好きだから。
でも、それを言葉には出来ない。もし拒絶されたら、怖いから。
深雪に思いを告げられるようなことをされて、それを振り切ってここまで来た。彼女の思いから間接的にでも逃げるようなことをしたのに、自分がそれをするのが嫌だなんて、とんだへたれ野郎だと思った。
だけど、もう少しだけ──。
こうして優希と気楽に会話交わして、些細な時間を共有していたかった。
だから、俺は口を開いて大切なことはない、他愛のない会話を続ける。
*
「……それで、なんで人格保有者を退かせたのよ。もう少しひとりにはトドメをさせたのに」
黒一色に染まった漆黒のゴシックドレスを纏い、それと対局する金色の瞳を糾弾するかのように細めて、妖艶な美女アスタロトは目の前のソファに腰掛ける青年に迫った。
燕尾服を纏った青年ゼパルはアスタロトの気迫に圧されて後退るものの、ソファの上なので背もたれにぶつかって距離は開かない。
「で、どうなのよ」
「いや、話すから……顔近いぞ」
「ど・う・な・の・よ」
「……人格保有者は貴重だろう」
諦めてそのまま口を割ると、アスタロトの顔がムスッと歪んだ。
「嘘」
「いや、本当だから」
「確かに人格保有者は貴重で、今まともに使えるのはあいつだけだって分かってるわよ。でも敵の戦力の一角を削れるなら、たかだか人格保有者の一体見捨てたっていいじゃない」
アスタロトの言葉に、冷たさはなかった。ただ"人間の人格"が残ったままの悪魔──使い魔とも呼称する──が死のうがどうなろうが、どうでもいいと言う無関心だけがあった。それらに向ける言葉があると言うなら、それが間接的に自分へどんな影響を与えるかだけ。
彼女の性格を何百年と前から知っているから、ゼパルは特に意識もしたりせずに答える。
「目先のことに捉えられてたら駄目だ。因小失大って言うだろ?」
「シトリみたいに小難しいこと言わないで早く答えてよ。まどろっこしい」
めんどくさそうに美しい顔をしかめる。見た目の妖しい雰囲気と違って、回りくどいことは嫌いなのだ。単に考えるのがめんどくさいだけかもしれない。
「つまり目先の小さい利益を見て、後の大きい利益を見逃すってことだ。あのまま突撃させてれば、確かにひとりは倒せたかもしれない。けど、それはあくまで可能性であり、確実じゃなかった。人格保有者は、その名の通り人格を持っているだけで体格は普通の夜魔と変わらない。人格保有者は、あの身体で思考能力を持っていることが驚異なんだ。あのまま真っ向勝負になったら、返り討ちにあっていたかもしれないだろ? それより、単体のCODE:BLADE MASTERなら倒せると分かったんだ。こんなところで持ち札を減らす必要はないよ」
自分の言い分を直球ですべて口にすると、すっきりと僅かな達成感があった。それはアスタロトも同じらしい。尋ねたい事が、全部纏めて返ってきたからか満足げだ。
「へぇ。兵隊なのによく考えてるわね」
「……元豊穣の女神がよく言うよ」
「それは昔の話よ。ってか、その豊穣の女神イシュタルはちゃんと現存してるから──まあ、正確に言えばあたしイシュタルのコピーになるのかしらね?」
「……知らないよ、そんなの。僕はイシュタルに会ったことないから」
こんな性格の豊穣の女神もないと思うから、結局性格とかは別物なのだろうなとも思ったが、口にしたら殴られそうなので止めた。
それで会話は終わり、アスタロトはゼパルの隣に腰掛けた。赤い本革のソファにゴシックドレスの身体が落ちる。黒と赤が絶妙なコントラストを見せて、見る者の視線を釘付けにするような魅力的な雰囲気を醸し出していた。
今はシトリも青年もこの部屋にはおらず、静かな沈黙だけが降りる。
「ねえ、ゼパル」
「ん?」
肘掛けに頬杖をついていたゼパルが喉を鳴らして応答する。
「今日がなんの日か知ってる?」
「キリストの誕生日」
「……違うわよ」
「そうだよ、本当はキリストの誕生日なんかじゃないから、聖誕祭は今日行うべきじゃないと思うんだ」
「……なんだ、分かってるじゃない」
嘆息を吐いて肩をすかす。
聖誕祭、クリスマスイブだった。
「……ゼパル。この日がこの日本では、なんて呼ばれてるか知ってる?」
「交尾の日、だっけ? これは蔑称だけど」
「いいの、それで。あたしが言ってるのは、そっちだから」
ギシィ、とソファのスプリングが軋む。アスタロトが両手をゼパルの方に突いて、身を乗り出す。小さな口から漏れる吐息がゼパルの頬を撫でた。
「……シトリ達に見られる」
「……帰ってこないわよ。今"悪魔"を作ってるじゃない。まだ数時間は工房の中よ」
アスタロトの瞳が艶っぽく光る。ゆっくりと身体がゼパルに傾いていく。
憂いを帯びた金色の双鉾に見つめられ、常人なら生唾を飲み込むような色っぽい光景なのに、ゼパルは動じなかった。
「今日みたいな日くらい、良いでしょう?」
「……………」
「一日……一晩くらい、あたしだけを見てよ、ゼパル」
いつも強気な彼女らしくない懇願に、ゼパルが頬杖を止めてアスタロトを見た。
ふたりの視線が絡まりあうが、ゼパルはそれを気にしないようにする。
「君は、杏奈のことは嫌いか? 僕達以外で、初めて心を許しているように見えたけど」
アスタロトの瞳が陰り、揺れた。
「嫌いじゃ……ないわ。そりゃあ、最初の頃は嫌いだったけど、今は……。それに嫌いだったら、ゼパルに協力なんてしてないわよ」
でもね、と一息ついて続ける。
「好きな男に振り向いて欲しくないと思う女なんて、いないわ」
陰った瞳が、熱っぽいものに変わりゼパルに絡みつく。白い頬もほのかに上気して、髪や服装の色のギャップがさらに引き立てられる。呼吸も常より荒い。
何かを、せめておこぼれを与ろうと期待しているように目がゼパルを見つめる。
「……駄目だよ、そうゆうの」
目を伏せて顔を背けようとしたすると、伸ばされた両手がゼパルの両頬を挟んで、相手の唇を自分の唇で塞いだ。
「んぅ……っ!」
熱く愛しく、重ねた唇同士を密着させる。唇が重なっている程度の距離では満足できず、完璧にゼロにしたいと訴えるようで。もっと近づきたくて、舌をゼパルの口内に侵入させた。両頬に添えていた両手を、ゼパルの後頭部と背中に移動する。
暫し甘んじてアスタロトの愛撫を受け入れると、両肩に手を置いて優しく自分から身体を離させた。
「ゼパル……ッ!」
「もう、いいだろう」
「嫌ぁっ、もっと……っ!」
今にも泣き出しそうな顔で、甘えた声を上げる。幼児から遊んでいた玩具を取り上げたような、退化した反応。そこにはいつもの彼女の姿は微塵も見受けられない。
眉尻を下げて困った顔しか浮かべられず、答えあぐねていると、しびれを切らしてアスタロトがゼパルに飛びついた。考えに気を取られて胸元に抱きつかれる。
額をゼパルの胸板に押し当てて、
「あたしはゼパルに触れるんだよ?」
「それは………っ」
彼女の台詞に驚き、言葉を詰まらせた。
「杏奈とは違って、あたしは……あたしはゼパルに触っても平気なんだからっ! もう……ゼパルが努力したから、杏奈だって触れるけど……。けど、杏奈がいない間、ゼパルに触れる女はあたしだけなんだから……。だから……少しだけで、いいから……あたしだけを、見てよ……」
後半はほとんど嗚咽になって霞んでいて、よく聞き取れなかった。けど、彼女の思いは痛いほど伝わってきた。
いくら思い人に心を伝えても、絶対に振り向いてはくれない。だって、既に心に決めてしまった人がいるから。
でも、だからこそ、数時間で良い、数分でも良い、数秒でだって良い。少しの時間で良いから、自分の姿だけを見て、感じて欲しかった。
「………少し、だけだ」
それは何故か、苦痛に耐えて絞り出したような声だった。
アスタロトは、ゼパルの言葉に思わず涙を滲ませる。
「うん……うん! ありがとうっ、ゼパル……」
再びふたりは唇を重ねる。
同時に今度はゼパルの服に手をかけて、ゆっくりと脱がせていく。抵抗も推進もせずに能動的に受け入れるゼパルは、アスタロトと舌を絡ませるだけで何もしない。
しばらく唾液が絡み合う淫らな音と、喉の奥から漏れる押し殺したような声だけが部屋を支配する。
やがて、名残惜しそうにアスタロトは唇を離す。そして、ゼパルの燕尾服をはだけてサスペンダーを外し、黒のスラックスに手をかける。
ゴシックドレスのスカートをつまみ上げ、ゼパルの下半身に跨った。
熱い吐息を漏らしながら、徐々に腰を落としていく。ん、とスカートの中で自分の下にゼパルのモノが触れ、興奮で声が漏れた。
「ああ……っ、ゼパルぅ……っ!」
悩ましげに眉根を寄せて頬を歓喜で上気させる。下半身がゼパルを根元まで飲み込み、今日一番の嬌声を上げた。しっとりと艶やかな雰囲気を醸し出す黒髪を振り乱し、金色の瞳は今にも溶けかねないような快楽に染まっていた。
スカートの裾から両手を離し、ゼパルのはだけられた胸板に置かれる。
餌を前にして餌の食事を許可された雌犬を思わせる断続的な吐息を吐き、下半身に力を込めて蠢かす。その快楽を貪ろうとする貪欲なまでの動きに、ゼパルも歯を食いしばって快感に耐える。だが、ついにはゼパルの身体も快楽を欲して、突き上げるピストン運動を始めていた。
口の端から涎を垂らして、快感に顔をだらしなく緩めてあるアスタロトを見て、しかしゼパルは今アスタロトを見てはいなかった。彼女を一時的にでも受け入れて快楽を得ようとする身体とは別に、頭は違うことを考えていた。
──なあ、杏奈。
居もしない人間に語りかける。
──いつもは近くにいて僕を見守っていて欲しいと思うけど、どうか今の僕だけは見ていないでくれ。
意味のない懺悔。
──今の僕なら、君に触れられる。この手に抱き締められる。だから、こんな僕でもまだ愛してくれているなら──
最後の言葉は、絶頂に達したアスタロトの絶叫と、自分自身の唸り声にかき消されてしまった──。
各々の思惑と行動が交差する。
そんな最高で最低で最悪のクリスマスが、終わりを告げた。
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