32:白銀の漆黒
朝の九時を少し過ぎた辺りに目を覚ますと、俺にしてはちょっと遅い起床だな、と回らない頭で呟き、山里圭がカーテンを開けるとそこには目を疑うような光景が広がっていた。
勢いで窓と網戸を開け放ち、部屋から身を乗り出す。眼下は地面からかなり離れているが、圭は恐怖感を感じなかった。それは別のもっとインパクトが大きいものに打ち消されていた。
「嘘だろ……」
向山市は太平洋側の地方都市であり、山脈などの関係で寒気がなかなか入ってこないはずだ。なのに目の前に広がっている光景はまるで北の国さながら。
寝ぼけているのかと思って目をこする。ちょうど冷たい風が一陣吹いて、ぼんやりした靄が取り払われる。
改めて目を開けた。
……それは相変わらず街を支配していた。現在進行形で支配を拡大しながら。
今まで圭の経験では見たことがない。降らなかったこともないが、ここまで身を厚くすることはなかった。数年に一度あるかないか──いや、温暖化が進んでいるから、今は数十年に一度かもしれない。
つまりは、
「雪……っ!」
向山市はたった一夜で白銀の化粧を纏い、世界を一変させていた。
ホワイトクリスマス。正確にはイブ。
絶好の聖誕祭日和だった。
*
一歩足を踏みしめれば、ザッと音を立てて足が雪に埋まった。軽く見積もって約四、五センチ程度だろうか。
辺りを見回せば、スコップ片手に玄関前の雪を掬って下水工に落とし、脇に寄せたりしていた。見るからに手つきが慣れないのが見て取れた。
道路の道にまではあまりてが及んでいない。手一杯だからだろう。いや、道路は公共物だから国が処理するのか。こんな積雪に見まわれたことのない圭には皆目見当もつかない。
朝倉宅前の雪はまだ除雪をしていないので積もったままだ。母親の慶子は論外で、深雪には力仕事なんて出来ない。
ここは圭がやるべきなのだろうけど、深雪が断った。予定が狂ってしまうから、と。そう言われたら引き下がるしかない。何せ今日は深雪に頭が上がらない日なのだから。
息を吐くと白い靄となってから宙に溶けて消える。外が冷えている証拠だろう。いくらコートを羽織っていても、顔や手、首の隙間から冷気が入り込んで寒い。手はポケットに手を突っ込めばなんとかなるが、他はどうしょうもなかった。
それから少しして後ろで扉が開いた。振り返るとちょうど深雪が玄関から姿を現した。
「ごめん。お待たせ」
申し訳なさそうに深雪が頭を下げるが、圭は気にするなと軽く返す。
ウール製のトレンチコートにマフラー、ふんわりと肌触りの良さそうなスラックスを穿き、防寒対策を織り込んだ服装になっている。
ただ、それだけならたいして変わらないが、圭はある変化に気づいた。唇に薄く紅が引かれていたのだ。ほんの些細なものだけど、白い肌と背景の雪とは対照的にうつって、それだけでだいぶ印象が変わって見えた。
圭の視線が自分の口元に来ているのに気づいて、深雪が口元を手で隠す。
「あ、変……かな?」
照れたように頬を僅かばかり上気させて、深雪が恐る恐る尋ねた。
はっとして圭が答えようとする──が、口が上手い方ではない圭は良い賛美が浮かばない。時間の比例して沈んでいく深雪の表情に、圭は装飾なしの言葉を口にするしかなかった。
「変、じゃない。……可愛い、と、思う」
同時に色っぽくもあったが、さすがにこれを口にすることははばかられた。いつもはあまり化粧っ気のない幼なじみが口紅をしていたからって、動揺していたなんて、恥ずかしくて。
「え、そう、かな?」
率直な言葉に深雪は顔を赤くしながら、嬉しそうに笑った。これがまた不意打ちだ。彼女の笑みは数え切れないほど目にしてきたが、タイミング的にかなりの衝撃が走る。
顔に血液が上っていくことを感じて、急いで話を逸らす。
「み、深雪! 早くしないと時間がヤバいんじゃないか?」
とっさの割りにはなかなか良い言葉が出た。あまり不自然には見えない。
「あ、そうだね……。でも、時間余ってるからゆっくり行こっ」
いきなり圭の手をとって深雪が歩き出す。なんだか上機嫌な様子で、ゆっくりと言いつつもいつもより歩調が早い。
それに引っ張られる形で進む圭は危うく転びそうになるが、なんとか体制を立て直した。
「……時間が余ってるなら、雪かきした方がよくないか?」
「それはダーメ」
「なんでだよ」
「なんでもダメなものはダメ。今日はクリスマスイブなんだから遊んで祝って盛り上がるんだから」
今にも鼻歌を口ずさみそうなほど上機嫌に言った。これほどまでにテンションの高い深雪はあまり見たことがない。それを台無しにするのも無粋なので、もう雪かきのことは言わないことにした。
唐突に深雪が両手を伸ばして、圭の腕に絡めた。身体を傾けて圭の腕に密着する。完全に抱きつく形だった。
ふわりと髪が踊り、シャンプーの花の香りがする。
さっきの出来事がまだ抜けきってなかった圭は、再度の不意打ちに言葉を失いそうになるが、それをなんとか堪える。
身を寄せてくる深雪を気にしないようにしながら、ふたりは街の中心に向かって歩き出した。
*
非常に情けないことではあるのだが、圭は今日のデートコースなどまったく考えてなかった。すっかり考えるのを忘れていたと言う、口にするのをはばかられるようなことも、まあ原因ではある。
それ以外にもうひとつ。
圭はたった今言葉にして、初めてこれがデートだと認識したのだ。
鈍感、と言うか深雪に限って言えば、圭は頭に超が付きそうなほどに鈍感であった。理由はひとつ。あまりに身近な人間であるからだ。
中学の時から四六時中とは行かないまでも、深雪とはかなりの時間を一緒に過ごしていたし、別に今日みたいにクリスマスをふたりで過ごすことも珍しくなかった。否、恒例行事とも言える。
休日に深雪と遊ぶことだって何度も会ったし、そんなことは普段意識すらしていない。
ただ、今回に限って言えば、デートと認識した瞬間、恥ずかしさが吹き出しそうになった。
「あれ、圭くんの手、暖かいね。冬なのに凄いや」
腕に抱きついたまま、手を握っていた深雪が微笑むように囁いた。
「……わたしのプレゼントはいらないかな」
「は、な、なんだ?」
「ううん、なんでもない」
一瞬、深雪の顔に陰が差したが、圭は気づかない。
除雪された地面の上にまた雪が薄くつもり、ふたりが足を踏み出すたびにシャリシャリと、小気味良い音が耳に届く。
寒いけど、風情がある。
それに寒さも、密着する深雪の身体のおかげで、あまり気にならない。まるでウサギが身を寄せあっているように。
いつもはそんな戯言めいたことが脳を掠めても、たいして気にならないのだけど、今日は何故か過剰に反応してしまう。
自分たちの姿はもしかして、周りから見れば──恋人同士のように見えているのだろうか?
冬に身を寄せあって歩く年が近い男女。……これで恋人に見えないなら、その人物の目はよほど節穴だろう。
そう考えたら、急に居心地が悪くなった。満席の電車の中で空いていた優先席に座ったら、目の前に腰を折っている老人がいたような、そんな感じ。
なんで、そう感じたかは分からない。けど、失礼なことだと思い、沈黙で感情を奥深くに押し込めた。
また少し歩くと、目に見える人の数が増えてきた。中心街に近づいてきた証拠だ。後数分でたどり着くだろう。
「ねえ、圭くん」
唐突に深雪が顔を上げる。お互いの顔が目と鼻の先にまで迫っていて、どきりとする。
「……なんだ?」
緊張で言葉が少し遅れた。しかし、些細なラグがさらに深雪に疑問を積もらせた。
「……なんで今日はどもってるの?」
「うっ……!」
いきなり図星を突かれてたじろぎ、一歩後ろに下がろうとするが、深雪にがっちりと捕まえられた腕のせいで不可に終わる。
突然、もう片方の手を圭のおでこにあてた。
「熱は……ないよね」
「そ、そんなんじゃないって。別に、気にしなくてもいいだろ」
「だって、圭くんがそんな喋り方するのは、風邪ひいてる時と慌ててる時くらいしか、」
と一度深雪が言葉を止めた。
「……まさか、また圭くんわたしに隠し事してない?」
次の瞬間、深雪の声が変貌する。身に纏う空気さえも、その性質を変化させた。
細まる瞳。暗い輝きを帯びたそれは、相手の心を覗き込むように錯覚さえ、恐怖で詰問する冷酷なもの。
ちょっと久しぶりだから、無防備になっていた。
しかも、自分では思いも寄らないタイミングでだ。あからさまな動揺が表情に出たのだろう。圭の腕に込める力を強めて、声をまたさらに低くした。
「言ってよ」
辺りに落ちる淡雪と違い、彼女の言葉は氷柱のように容赦なく突き刺さる。
でも、さっきの言葉には圭自身他意は込めていない。だから喋らされることはなく、心底から従ってしまうような感情に教われることはなかった。
だが、このままではまったく予期しないことを口走ってしまう可能性がある。
これから抜け出さねばならない。
しかし、どうやって? この深雪から抜け出したことなんて、ない。どうしても真実を喋ってしまうから。そんな魔性が深雪にはある。
「いや、だから……」
「なんで、何も言ってくれないの?」
「それは……」
「言い訳なんていらない。本当のことをわたしに話して。ね?」
語尾は優しく、包み込むようで、それは闇に差し込む救いの光明と錯覚させられる。
でも、深雪に隠し事はしたくはない。
実は優希と──
動きそうになる口を、口内を噛み締めることでこらえた。
ちょっと待てよ。
俺は何を言おうとした?
なんで優希の名前がここで出てくる?
予見したように、関係ないことを口走ろうとしていた。危なかった、と内心安堵の息を吐く。
「圭くん」
深雪がつま先を立てて背伸びをして、語りかける。
「話してよ」
蠱惑的な笑みと共に、圭とは違う甘い息が鼻孔をくすぐる。
「全部、わたしが聞いてあげるから」
距離は既に、ちょっとしたアクシデントで唇が触れ合う距離にまで達していた。
「あ、あ、俺、は……!」
やっぱり、逆らえない。深雪の懇願は、絶対に尊守しなければならないのだ。
"真実"を語るために、口が動いた。
「────────────────────────────────深雪が、可愛かったから……」
「─────────────────────えっ?」
ぱちくりと、深雪が目を瞬いた。
念を押すために、もう一度、今度は声を張り上げて。
「たがらっ、深雪が可愛かったから、上手く話せなかったんだよっ!」
恥ずかしいこと言わせるな! と最後に付け足す。
すると深雪の顔が面白いくらいに赤くなった。肌に触った雪が湯気をたてて消えていくようで、その内ぼすんと煙りを吐きかねない。
「か、かかかかか可愛い!? わ、わたしがっ!?」
恥ずかしくて、もはや声も出せない圭はただ頷くだけ。
そ、そっか、と小鳥のさえずりみたいな声でつぶやくと、顔を俯ける。いつの間にか、深雪の身体は圭から離れていた。
張り詰めて今にもはちきれそうだった空気は、今やすっかり弛緩して消滅する。
そう、これは"真実"。
確かに存在した"真実"とは名ばかりの代物。だが、紛れもない"真実"であった。
深雪はどもる圭を不審に思い、あるはずのない隠し事を詮索した。しかし、あるのは"深雪と密着するのが恥ずかしい"と言う思いだけ。
なら、それを教えてしまえばいいのだ。
深雪に嘘は通用しないが、真実ならば信じる。簡単なことだった。
ただし、代償はこの気まずい空気。
どちらともなく視線を逸らして、しかし歩調だけは合わせて歩く、奇妙な光景。
数分が経過して、深雪がまだ赤みの残る顔を上げた。
「ちょ、ちょっと急いで行こっか。ずいぶん遅れちゃったし」
これ幸いと圭が続ける。
「だ、だな! 冬だから日が暮れるの早いしなっ」
慌てて言ったから、少し変な言葉になったが、この際気にしない。
ふたりして不器用に笑うと、歩調を早めていく。もうここからでも中心街は確認できていた。
一瞬、深雪が圭に視線を向けて小さな声で、
──疑って、ごめんね。
そう、呟いた。
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