24:逃走
校庭は相も変わらずひしめく人に埋め尽くされていた。いくつもの談笑、かけ声が重なりあって、日本語とはまったく違う異国の言葉のように聞こえてくる。
そんな光景を目の前にして、優希は改めて呆然とした。この中から目的の人物を探し出せるかと。
もしかしたら会えないかもしれない、と考えてしまったら、濁流のようにいやな思考が頭になだれ込んできた。
ここではなく校舎にいるのではないか。怪我して保健室にいる可能性もあるし、実は大きな怪我で病院に行ってこの場にいないかもしれない。いや、会えたとしても話しかけられるだろうか。ちゃんと仲直り出来るのだろうか。無視されたりするかもしれない。
ずるずるずるずると、負の感情ばかりが先走って脳裏に浮かんでいく。数え切れない思考のスパイラルが秒速で巻き起こり、もはや何を考えているのかも分からなくなる。
マイナス思考の連続に目の前がスパークしたように一瞬真っ白になった。膝から力が抜けて倒れ込みそうになるのをギリギリで堪える。
だが、スパイラルが一瞬途切れたことにより、冷静な思考が少しだけ戻ってきてくれた。
迷いを振り払うように頭を振るう。尻尾のように揺れたポニーテール両肩を軽く叩いた。まるで肩を押してくれているようだった。髪は女の命、と誰かが戯れに言っていた気がする。確か酔っ払った真由美だったか。『女の命が綺麗なアンタは羨ましい』と続けて口にしていたはずだ。
とても彼女が髪を丁寧に扱っているようには見えなかったので、書いて字のごとく戯言と聞き逃していた節があるが──うん、そう言うのなんとなくわかる気がする、と優希はひとり納得した。
優希も髪をまともに手入れしたことはないのだけど──切るのも面倒くさいから後ろで結っているわけで──自分の命にまで応援されてる思えば、なんだか力が湧いてきた。
それに絢人にまでらしくないことをさせてしまったのだし、ここで引き下がっては罰が当たるというもの。
こじつけ的なものだけど、他にも理由があるとなんだか言わなければいけないと言う漠然とした使命感らしき物がこみ上げてきた。言い訳じみたことなんだろうけど、自分の中だけですら言い訳もしないで言葉を伝えられないよりマシだ。
気を取り直して今度は確固たる目的のもと、力強く凛とした足取りで歩を進めた。
まずは目の前の校庭から。ここにいる確証はないけれど目の前にあるのだし、素通りして校舎を探すのも非効率。だいたいさっきまで優希は校舎内を徘徊していたわけで、その時は一度でも圭らしき人物を見かけてはいない。
校舎内にいたからと言ってすれ違った可能性がないわけはない──と言うか一番可能性が高いのだが、途中まで優希は比較的人が賑わっているところも通過してきた。それでも見当たらなかったのだから、一番出店も人も多い校庭を探すのが常套だろう。
幸いにして優希は目が常人よりは優れている。単純に視力がいいだけでなく、動く物を認識する動態視力などもかなり発達していた。昔から夜魔との戦闘続けていたがため必然的に身に付いてしまっていたものだ。
これならば粗方校庭を散策すれば圭がいた場合は見つけられるだろう。先程は錯乱していて、こんなことも忘れていたが。
出店から漂う甘いソースの香りに、食物を焼く生理欲求を刺激する音。生徒の謳い文句に声を張り上げた宣伝。それに優希はお腹が鳴りそうになるのを堪えた。今は食欲を満たすのではなく、圭を一刻も早く探し出したかった。
そうして──単一の作業に没頭して驚くべき集中力を発揮した優希は僅か数分で第一の目的を達成した。
「……いたっ」
思わず小さくガッツポーズ。それは人から見れば拳を握って少し間接を曲げたようにしか見えないだろうが、確かに優希は自分の意志でガッツポーズを決めていた。
ここから約十数メートルの位置に探し求めた山里圭と言う人物が存在した。何かの屋台を覗いている最中らしく、こちらには気づいていない。
ようやく探している相手を捜し当てたのだから、ここで急いで駆け寄ろう──とはしなかった。いや、出来ないがただしい。
何故か、と聞かれれば身体の芯が猛烈に熱くなってしまったから。
頬にはほのかな赤みが浮かんでいて、心臓の一回一回の脈動がやけにうるさい。浮かれていられるのはここまでだった。
圭の顔を見た瞬間から、急に恥ずかしくなってきてしまう。何故だろう、と困惑して圭に声をかけることが出来ない。
こんな数十メートルの距離なんてたった数秒で無くせてしまうものなのに。
それなのに、この数秒と言う時間が酷く頑強な壁のように思えた。
だけど、この気持ちに惑わされてはいけない。言い聞かせ、必死に羞恥を押し込める。小さく深呼吸。身体を落ち着ける呼吸なんて武闘の基本、何年も前に会得している。
「……よし」
と小さく頷く。顔の熱さも目立たない程度にはひいた。心臓の鼓動も普段より少し速い程度。気にするほどでもない。
今度こそ話かけられる。仲直りができる。そう考えるだけで胸中が歓喜に湧き上がる。何度も感じる不思議な気持ち。これの正体はやはり優希にはわからない。圭が初めてまともに出来た友人だからだろうか。きっとそうだ。ファーストフードとか言うものに入ったのも圭に誘われたりしたからだったのだし。
自分が解る範囲でひとまず答えを出しておき、思考は一度ストップ。いつまでも私的精神分析をしているより圭と一秒でも早く会話ができるようにする方が重要だ。
そして足を踏み出し、圭を再度視界に留め、
「──────────あ」
足が、止まった。
それ以上進めないと誰かにとうせんぼされている感覚。
先程まではいなかった──否、人に隠れて視界に入っていなかっただけだ。ずっと、自分がここにくる前からずっとそこにいた。
朝倉深雪。
山里圭の幼なじみ。常に圭と寄り添ってきた少女。
彼女が圭と一緒に屋台を巡っていた。小さな手で、圭の手を握って。
そのとき、側頭部をハンマーで殴られたような衝撃がおこった。
なんで、
なんでふたりはあれが当然と言わんばかりの表情なんだろう。
手を握ると言う行為を、優希は昔経験したことがある。子供の頃、両親とよく手を繋いでいた。そんなことだけで胸が騒いで嬉しかったのを覚えている。ふたりも優希と手を繋ぐのは楽しいと言ってくれた。なんで、と無邪気な子供ながらに尋ねたことがあった。
あの時答えた母親は、不思議そうに目を開いた後、優しく慈愛に満ちた表情で微笑んで、こう言った。
『──好きな子と手を繋ぐのが、楽しくないわけないでしょう?』
なんでそんなことわざわざ聞くのかしら、と言った風情で答えてくれた姿をよく覚えている。
子供だった彼女には"好き"の意味がよくわからなかったけれど、とても優しくて嬉しい言葉なのだけは理解できた。
──ああ、そうか。
瞬間、理解してしまった。
ふたりはお互いのことが好きなんだ。だから、ああして手をつないで笑っている。疑問はない。ふたりにとって当然の行為、疑問なんて生まれるわけがないんだから。
途端、身体が感じたのは脱力感。すっぽりと胸に開いた穴を風が吹き抜けていく。全身に力が入らなかった。
周りの人間が一カ所に止まる優希を怪訝そうに見た後邪魔そうに避けていく。が、そんな些末事、優希にはどうでもよかった。
ただ、呆然とふたりの仲睦まじい姿を憧憬にも似た感情を抱いて眺めて──
「………え?」
呆然とした思考が緩やかに回復し、そして事実に目を見開く。
身体の芯から指先、毛細血管の一本一本まで冷水を流し込まれたように、火照った体温が強制的に下げられた。
見ていた。
朝倉深雪がこちら振り返って、確かに優希を真っ直ぐ射抜いていた。
表情には圭と会話を交わしていた豊かな機微はなく、喜怒哀楽をすべて人から取り去ったらこうなるのだろう、と思わせるような無表情だった。いや、無表情ではない。"無表情"とは何も無い表情と言うひとつの感情に分類される。笑顔、泣き顔、怒り顔、それらと同義だ。
しかし、深雪の表情は違う。今まで存在する表情を現す言葉では表現出来ない"何か"。異様。異質。異常。
人であるただの少女の深雪に、得体の知れない恐ろしさを抱いてしまった。この感覚は、夜魔に勝るとも劣らない。
──と。
唐突に、彼女の顔が裂け、表情が生まれた。
裂けたと思ったそれは、ただ単純に深雪の口の端が持ち上がって笑っただけだった。だが一瞬そう錯覚させられるほど、突然現れた表情は不気味に感じた。
優希の心中など知らすに──いや、完全に理解したうえで、彼女が絶句する行動を起こしていた。
深雪の両腕がするりと動いて、圭の腕に絡まり、そのまま抱きついた。
「───────────────ッ!」
狙い通り、絶句した。舌が回らず、いやそれ以前に肺が空気を吸収せずに声が出せなかった。
だが、ここで終わっていれば良かった。ここで終わっていれば、いずれふたりは人混みに紛れて消え、身体機能はそれと同時に回復するはずだった。
しかし、朝倉深雪と言う少女はこの程度で止まることはなかった。
長年一緒にいたとは言えいきなり腕に抱きつかれた圭は少し恥ずかしがって、身じろいでいた。その圭の顔に、
「あ……」
ゆっくりと、
「だ……」
深雪の唇が近づき──
「め──っ!」
──少年の顔に触れる寸前で、止まった。
「……………っ!」
笑っていた。
横目でこちらを見つめながら、その痴態を楽しむように。そして視線には挑むような挑戦的なもので、それでいて優越感に浸るようなものがあった。
自分はいつでもこんなことが出来ると、その気になればお前が出来ないことはなんだって出来るのだと。
気付いた時には、ふたりに背を向けて走り出していた。
人の群を掻き分けて、震える手足を抑えつけ。
どこからか聞き覚えのある人の声が聞こえてきても、振り返ることも出来ない。
今は、ただこの場から逃げ出したかった。
*
走り去っていく背中を見て、朝倉深雪は満足気に笑った。隣の人物に気付かれないように声を押し殺してだが。
「お、おい深雪、いくらなんでもくっ付き過ぎだろ。もう少し離れてくれ」
狼狽して声を上げる少年の声に優希に向かっていた意識を帰還させた。もういない人物に注意を払ってもしょうがない。
先程まであった邪悪な笑みなど影も残さず、圭の腕に抱きついた深雪は相手を見上げる。
「む、圭くんはわたしに抱きつかれたら嫌なの?」
不満そうな上目遣い。
すると少年は面白いくらいに慌てた。
「ち、違うって。ただこんな往来でしなくてもいいだろ……その、目立つし」
顔を僅かに赤くして恥ずかしがる相手にちょっとした嗜虐心が生まれる。もっと腕に密着してイジメてしまおうかとも思ったが、さすがに可哀想なので止めた。
「しょうがないなぁ、圭くんは。恥ずかしがり屋さんなんだから」
年上が子供に注意するような風に言うと名残惜しかったが、圭から腕を離した。何、自分にはいくらでも出来ることだ。一々執着を見せることもない。
そう、彼女とは違う。
やっと羞恥から解放されたからか、圭はほっと息をついた。そんな反応をされるとまた抱きつきたくなったが、堂々巡りになりそうなのでまたも自粛しておく。
安堵した圭がぽつりと言葉を洩らした。
「ふぅ……まったく、クラスの連中とか麻生に見られたらどうしようかと思ったぞ」
「………………」
一瞬顔がこわばった。
なんで優希だけわざわざ名前を出すのか、何故目撃されたくないのか、そこにどんな不都合があるというのだろう。
慌てて口から出そうになった言葉を押し止める。
分かっていた。圭が何かと優希を意識していたことなんて。だから改めて気にする必要はない。
落ち着け、落ち着け、落ち着け──。
感情の沸点を超えないようにするには実質一秒もかからなかった。
なんといっても自分は今優希より遥かな優位に立っているのだ。動揺する通りなんてない。慌てるのか彼女だけで充分。
涙を滲ませ、絶望したように目を見開いて逃げ去っていった彼女を思い出して、また深雪は笑った。
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