9:見つめる彼女
翌日の教室の中、朝倉深雪は登校して、表情を歪める圭を見つけると、原因たる部分に触れた。さらに直視するなり目を白黒させながら、うわぁ……、と声を漏らす。
「ど、どうしたの圭くん? 大きくなって……あ、こんなに硬い」
「あ、ちょ、そんなに触るなよ……。ただでさえあれなんだから」
突然の刺激に顔をしかめて、深雪の手をやさしく振り払った。
なおも不思議そうに深雪がそれを見つめながら聞いてくる。
「でもどうしたの? そんなにしちゃって」
うっ、と圭は返答に困って息を詰まらせた。本当のことを話すのは恥ずかしいと言うか、気まずくなる可能性があると言うのか。
言い淀んだ圭を見て、深雪が軽く息を吐いて、細い繊細な指でそれを撫でた。
「な、なにするんだよ。恥ずかしいだろ」
ぶつくさ不平を述べながら、また深雪の手を払った。あまり触られると、いろいろと響くのだ。
人前だからなのか、恥ずかしがる圭を見て、仕様のない子供を見つめる母親に似た困ったような笑みを浮かべる。
「で、どうしたの? ──そのたんこぶ」
深雪は圭の頭に視線を落とした。その先には、頭皮と黒髪を押し上げている物体があった。腫れたたんこぶは結構大きめなものの、幸い髪に隠れて遠目からは分からない。たんこぶがあることに気づかれにくいのは助かるのだが、触れられると、撫でられているようにしか見えない。
昨晩、優希に殴られたものが肥大かしてしまったのだった。本人は軽く殴ったつもりなんだろうが、彼女の軽くは、圭の本気に匹敵する。あんなのを頭に食らったらたんこぶも出来るのも当然だ。しかも拳を握る拍子に小石を掴んでしまったらしく、石を握った拳は威力が倍増されすぎて、気絶しかけてしまった。これには流石の優希も焦ったようだった。
一晩経った今でも、たんこぶの辺りが熱を持っているように、ひりひりと痛みが響く。早く治ってくれると助かるのだが。
と内心ぼやきながらたんこぶをさすって顔をしかめていると、ふいに視線を感じた。そちらに視線を向けると、優希と目が合うが、彼女は気まずそうに視線を逸らす。
そんな圭の視線に気づいた深雪が声を上げた。
「あ、麻生さんがどうかしたの? ……もしかしてまた何か言われた?」
不意に声が低くなり、優希に向けていた目が細められる。暖房が掛かっているこの教室で、深雪の周りだけ冷気が漂うような錯覚。そう、錯覚だ。室温は変化していないし、実際に下がっていたら、周りの人間が不思議がるだろう。
だが、この深雪の目を直視している圭は確かに自らの体温が下がるのを感じた。
──ヤバい。
「違うって。あいつは別になにもしてないよ」
深雪が目を鋭く細めて相手を見るのは、スイッチが入る予兆であった。彼女がこの目で見つめた人間は、その後なにかしらトラブルに遭遇する。大から小まで様々だが、とにかく深雪がこの目をして良いことがあった試しはない。……圭に利益があること以外は。
誤解を解こうと放った言葉に深雪は、不振気に柳眉をひそめて、圭に視線を投げた。
「……なにもしてない?」
あ、と上げそうになる声をこらえて、圭は口を手で覆った。
「わたしは"なにか言われた"って、聞いたんだけど。……まさか、頭の怪我はあの子が?」
冷たい視線が突き刺さり、冷や汗が背を伝う。
自分の失態に顔から血の気が引くのを感じながら、すぐさま頭を振って否定した。
が、深雪は唐突に表情を崩して、口元で薄く笑った。とても美しい壮絶な微笑み。だが、何者もこの笑みを美しいと評価するものはいないだろう。
圭の肩に深雪の柔らかい手のひらが置かれる。その瞬間、形容しがたい感覚──否、恐怖に襲われ、身体の筋肉が固まって動かなくなった。
「わたしに隠し事はしないでって言ってるよね?」
向けられた無垢な笑顔は、とても残酷で凄惨だった。
「ね、話て」
けして大きくはない少女の声が、鼓膜を震わし、脳の隅々に行き渡り、浸透する。無意識のうち口を開いてしまう。まるで催眠術師に命令されているように。
すべて話てしまおうと。組織に入ろうとしていることも、すべて、すべて、話てしまおうと。
迷う必要はないだろう。彼女はいつでも支えてくれていたじゃないか。
そして、話そうと口を開こうとして、
キィー──ンコォー……ン。
悪魔のような甘い囁きが脳に染み渡り、口を開けかけたそれを遮ったのは、スピーカーから流れ出した安っぽい鐘の音だった。
だが、そんな単調なメロディーで圭は現実に引き戻された。
「ほら、チャイムなったから……ハゲ松岡がくるぞ」
辛うじて絞りだした言葉に、深雪は不服そうに顔をしかめる。が、すぐにいつもの明るい表情に戻ると、ハゲは可哀想だよ、と言葉を付け足して、自分の席に戻っていった。
圭がホッと胸をなで下ろしたのと、教室の引き戸が開いたのはほぼ同時だった。
*
授業が終わり放課後。
あれから深雪に問い詰められることもなく、無事に今週最後の授業が終了した。
教科書を手早く鞄に詰め込んでいると、既に準備を終了した優希が机にやってくる。
圭はこれから優希に連れられて、組織の入隊手続きに赴くためだ。
昨日はあの青年はおらず、優希を解して伝えてもらっただけで、これから正式に手続きをおこないに行くのだった。
「準備は?」
「もう出来た。行こう」
教科書を詰め込んで重くなった鞄を手に持ち、席を立ち上がる。
放課後の人ごみに紛れて教室を出ようとすると、ひとりの少女が圭に声を掛けた。
「圭くん……?」
疑問を込めた言葉を放ったのは、他ならぬ朝倉深雪だった。
「深雪……」
視線を向けると、深雪は目を圭と優希を行ったりきたりしながら、動揺を隠しきれないようだった。
「ふたりで、何処行くの?」
あー、と答えに詰まって、圭は視線を宙にさまよわせる。まさか本当のことを話せるわけもない。
優希にごまかして貰おうと目を向けるが、彼女も同じく答えに困ったように眉根を寄せていた。まあ、彼女に説明させたらややこしくなるだろうから、最初から頼れるはずもないのだ。
答え倦ねてるふたりを不振そうに見つめ、深雪が声を上げた。
「まさか、圭くん──」
彼女の深刻な何かを話そうとする仕草に、ふたりが緊張に息をのむ。
「──麻生さんと仲良くなったの!?」
しかし、彼女の口から出たのはそんな言葉だった。
「はあ?」
「へ?」
彼女のなんだか酷く的外れな言葉にふたりは揃って目を白黒させて、マヌケに口を開いてしまう。
その様子に深雪は自分が勘違いをしていたと気づいたのか、恥ずかしそうに顔を朱に染めた。
「あ、え、違うの?」
「いや、まあ……違わないわけじゃないけど」
仲が良いかは別としても。
これから圭は組織のメンバーになるわけで、友達と言うか、戦友のような関係にはなるだが。
「そうなんだ。圭くんの友達はわたしの友達だね。これからよろしくね、麻生さ……優希ちゃんっ」
圭の言葉に満足した深雪は、にこりと、花も恥じらうような美しい笑みを優希に向けた。その笑顔のまま、深雪が手を差し出す。
「あ、うん。よろしく」
屋上の時といい、彼女に向けられていたのが怒りや憎悪の感情だったからだろう。初めて向けられた笑顔に戸惑いながらも優希はうなずき、差し出された手を握り返す。
「えーっと、じゃあ俺は用があるから……。一緒に帰れなくて悪いな」
様子を見計らうようにして言った圭に深雪が、いいよ、とこれまた満面の笑みで返した。
身を翻して、今度こそふたりは深雪に見送られるなか、リノリウムの廊下を歩きだした。
窓から西に傾きかけた淡い陽光に照らさて、凍えるように冷えた廊下をあるくなか、圭はふと考える。
何故いきなり深雪が優希にやさしくなったのだろうか?
心当たりはまったくと言っていいほど、ない。そして今朝は、あんなに問い詰めてきた事をまったく口にしなかった。
──おかしい。
一瞬、自分を支えてくれていた幼なじみが得体の知れないものに思えた。
──馬鹿らしい。
頭を振って思考を打ち消す。一瞬でも彼女に恐怖を感じてしまったなんて。
圭は今の思考を破棄し、組織について考えを巡らせることに集中することにした。
少年を見つめる陰がある。共に歩く少女を見つめる人がいた。
教室の扉から目を覗かせて、彼を見送る。愛おしむように見つめる者は、彼を溺愛し、支配を望む者。
それは横歩く少女を見つめると、慈愛の瞳は憎悪に変貌する。まるで地獄の業火を連想させるような、熱く醜い憎悪の炎。
こいつが彼を危険な目に合わせるのだと。こいつが危険を引き寄せるのだと。激情がこみ上げ、今にも暴れ出してしまいそうだった。
しかし、ふたりがこの主に気づくことはない。
──朝倉深雪は、山里圭をひたすらに安じる。 |