0:異形遭遇
季節は、秋から底冷えするような冬に移り変わろうとしている一一月の後半。
まだ四時過ぎにも関わらず、日は傾き、辺りを薄く茜色で染めていた。あと半時もしないうちに日が完全に沈むだろう。
茜色の空の下、下校途中だろう少年と少女の姿があった。
寒さをしのぐために、少年の方は制服のポケットに手を突っ込んで、寒さをしのいでいる。
少女の方はと言うと、セーラー服の上から、厚手のコートを羽織っていた。
唐突に少女──朝倉深雪が言葉を発する。
「もうあんなことしちゃダメだよ?」
紡いだ言葉は、自分の隣にいる少年に言い聞かせるようなもの。
「仕方ないだろ。見てられなかったんだから」
言葉を受けた少年、山里圭はふてくされたように言葉を返した。
その様子を見て、深雪は軽くため息をつく。
「あのね、わたしはあの人を助けるなとは言ってないの。圭くんがアレを使おうとするのに怒ってるんだよ?」
アレ、と抽象的な言葉で圭には十分通じた。いやこの場合、アレであのことしか該当しないので間違えようもない。
「だって、相手は五人だぜ? 武術の心得なんて微塵もない俺に勝てると思うか?」
「ならそもそも助けに入らなきゃいいのに」
少しばかり呆れぎみに言葉を吐くと、一〇センチ近い身長差があるので深雪は圭の顔を見上げた。見上げたさいに、肩のあたりで切りそろえられた髪が小さく揺れる。心配そうに潤んだ、深雪の黒燿石のような瞳が圭の目を覗きこんだ。
改めて見ると深雪の顔立ちは整っていて、きっと和服をきれば大和撫子と呼ばれるんだろうな、と不謹慎と思いながら圭は内心で言葉を漏らした。
深雪は圭自身が傷つくことを過度に怖れている。擦り傷程度の怪我でも、深雪は圭が傷つくとすぐに駆け寄ってきていた。理由は深雪と知り合った中一のころから、現在にいたる三年という時間を過ごしていても、圭にはさっぱりわからなかった。
しかし、今回深雪が怖れているのは、これとはまた違うことなのは圭は容易に想像できた。……アレが一目に触れるのを単純に怖れているのだ。
「ほうっては置けないだろ」
「そうだけど……」
「じゃあお前に聞くけど、あの時深雪は助けて欲しくなかったのか?」
圭の一言でうっ、と声を漏らして深雪は押し黙ってしまった。
「……圭くんずるい」
恨めしげな視線を圭に送るが、それを気にした様子もない。
圭と深雪が話しているのは、つい先程目撃したものの話だ。
路上で他校の生徒が五人の男に囲まれて、金銭を要求──つまりはカツアゲをされていた。
それに圭が助けに入ったことで、深雪に注意を受けていたと言うわけだ。
圭は人が誰かに不利益なことをされていると、どうしてもほうってはおけない性分だった。元孤児院暮らしの影響なのかもしれない。
深雪が押し黙ったのは、自分もそんな圭に助けられたひとりだからだったりする。
「そんな心配するなって。別に不良相手に向かって行ったって死ぬ訳じゃないしさ」
「なら心配かけないようにしてよ?」
「俺的に最前は尽くさせてもらうよ」
返ってきた言葉に深雪は諦めたように肩を落とした。
「今日は相手が簡単に逃げてくれたからよかったのに……。そのうち極道にも掴みかかりそうで、気が気じゃないよ……」
ため息混じりの不平に軽口を叩こうとして──圭は唐突に足を止めた。
「圭くん?」
突然足を止めた圭に合わせて、深雪も歩むを止めた。半身だけ圭に向ける。
ぼそりと、自信なさげに圭がつぶやいた。
「揺れてる」
震度計にさえ記載されないような小さな揺れ。それを圭はスニーカー越しに感じた。
「地震かな? わたしは感じないけど……」
小首を傾げて深雪は足下に視線落とす。
「いや、地震じゃない。こんな揺れ方……」
圭は眉をひそめた。根本的な地震とは違う揺れ。足下から掬われるような一般的な地震とは違う。言うなれば、なにかの衝撃で地が揺れているといった感じだ。例えば工事現場周辺での破壊の衝撃のような、そんな感じの。
ただ、この周辺一帯では工事や、ましてや建設物の撤去作業などは行われていない。少なくとも揺れが分かる範囲では。
「……多分、向こうからだ」
気づけば圭は肌寒い秋空の下を走り出していた。本来なら、気にせずそのまま帰ればいいのに。事実いつもならそうしていた。だが今日は違う。
行かない方がいい、引き返して帰宅しろ。圭の思考中枢が訴えかける。それでも走る足は止まらなかった。
いかなり走りだした圭に驚いた深雪の声とうしろから追ってくる足音。それを背中に感じながら、圭は引き寄せられるように震源へと駆けていった。
*
走る。走る。走る。
まだ数分程度走っただけなのに息が妙にきれた。精神がよほど圧迫されているのだろうか。当然、何に? と疑問が浮かぶ。
それは、行き着く先に答えがある。根拠もない確信が圭の胸の中に渦巻いていた。
「あッ」
ガッ、と足の爪先が何かにあたり、圭は躓いた。
コンクリートの地面に身体を打ちつけないために、両手を突き出して身体を支えようとする。だが、人間が自分を支えられる限界速度は早歩き程度までだ。なので圭は、自分の身体を支えきれずにコンクリートの荒い地面に身体を打ちつけた。
「いっつ〜……」
地面にひざを突き、片手を地面に突いて頭をもう片手でさすりながら上半身を起こす。
圭の背後に息を切らせた、深雪が立ち止まった。
「圭、くん……だ、大丈夫?」
ひざに手を置き、胸を上下させながら、圭に尋ねた。
息を切らせた深雪に圭は少し呆れたように息を吐く。
「……お前はまず自分の心配しろよ。すこし打ちつけただけだ」
立ち上がり、ズボンを叩いて付着したゴミを払う。地面に打ちつけた箇所が多少痛むが、それ以外に異常は感じられない。至って正常だった。
圭は深雪に向き直る。
「息を切らせるくらいなら先に帰ってろよ。俺に付き合う必要はないんだし」
すぐさま頭をふって、深雪はそれを断った。
「いや。圭くんが気になるんなら、わたしも気になる」
「どういう理屈だよそれは──」
子供みたいな深雪の言葉に微笑を浮かべて、圭が答えようとした瞬間、
「グオゥゥウウウオオオオッ!!」
轟音──空間をも引き裂かんと思わせるほどの獣の咆吼がそれを遮った。
「んなっ!?」
今まで聞いたこともないような獣の怒声に、圭は全身の毛を逆立てて絶叫した。
熊を思わせるような、それでいて人の声にも似たそれは圭と深雪を畏怖させるには十分だ。
得体の知れない恐怖に襲われた圭は、乱暴に深雪の腕を取る。
「深雪逃げるぞッ!」
「え!?」
何から逃げるのか、遠吠えの主からに決まっている。圭の人間としての生存本能が、とにかくヤバい、と告げていた。
その感覚に従い逃走のための一歩を踏み出した瞬間、
背後の建物が爆砕した。文字通り、爆弾が背後で炸裂したかのような轟音。
巨大な質量を数メートルうしろで感じた。咆吼の主が──うしろにいる。
恐怖が心を支配しようするのは、背後に振り返ることで無理やり霧散させた。きっとこの獣が地震の張本人だろう。せっかく来たのだから一目見ておきたかった。わずかばかり残っていた好奇心が圭を行動に走らせていた。
振り返り、まず最初に浮かんだ感情は後悔。なんと表現すればいいのだろう、とにかく圭は目の前に絶句した。
崩れかけた廃屋。自動車がバランスを崩して体当たりをしたかのように、外壁が砕かれていた。
違う。問題はこれじゃない。優先するべきは、ここへ来るきっかけになった目の前の化け物だ。
三メートル強もの身長は熊のようで、しかし、テレビで見る熊などよりも遥かに威圧感が存在していた。なにより、異常。こんな生物は地球上どこを探してもいない。いるわけがなかった。
腐ったような紫色の身体に、成人男性の体のように太い双腕。先端にある五本の爪は鋭く研ぎ澄まされていて、上等な刃物のように鋭い。
そして二本足で地面に立っている化け物の最大の特徴は、胸部にある人面だった。同じく紫色に変色し、激しく脈打つ血管が顔に浮かび上がっている。浮かび上がっている顔は男性のように見えた。表情は苦悶に歪められてるのか、愉悦に歪んでいるのか分からなくなっている。
「なん、だよ……こいつ」
恐怖で胃が縮まる感覚を腹部で感じながら出した声は、喉から絞り出すので精一杯だった。深雪の身体が震えているのも確かに圭は感じていた。
急いで逃げる、こんなに簡単な選択すら今のふたりには選択すらできなかった。建物を破壊する剛腕を振るわれたら、人なんてひとたまりもないだろうと分かっていても。
それでも、足が竦みあがり、ここから動けない。まるで足が見えない糸で地面に縫いつけられていると錯覚させるような感覚。
化け物がこっちに気づき、顔が、獣ではなく胸部の人面のが、粘液に濡れた歯をむき出しにして、ニイッと下品に笑った。
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