八章 選択肢
酷く息切れがする。背中からは汗が噴き出し、動機も激しい。痺れるような衝撃が躰を貫き、コナンは走るのを止めて身震いした。
一旦止めた足は動けと一喝する意識に抗い、ガクッと力が抜けた。膝に手をつき、肩を上下させ、乱れた息を整える。
「……くっ…そ…」
コナンは思い切り、壁を蹴った。びくともしない。打ち付けた爪先の鈍い痛みに顔を歪める。
――焦るな。落ち着け。冷静になれ。頭を使うんだ。
そう頭の片隅で囁く探偵としての本能に近い声だけがコナンの理性を保たせていた。
「新一!」
背後から名前を呼ぶ声に反応し、振り向く。白髪の老人が此方に駆けてきていた。博士はコナン同様息を切らし、それでも必死にコナンの元へと来ようとしていた。
体に悪くはないか、とちらりと考える。
「ら……蘭君は?」
息も絶え絶えに博士が訊いてくる。コナンは静かに首を横に振った。
あれから数時間。その間、コナンは一心不乱に走り続けた。駅、公園、本屋など思い付く全ての場所を探したが、蘭の姿は一向に見つからない。
どうやら博士の方も不発に終わったらしく、ガクリと肩を落として落胆してみせる。
「まさか蘭君、何かの事件に巻き込まれたんじゃ…」
眉を顰めながら博士が言った。
拉致。誘拐。監禁。その他不吉な考えの諸々がコナンの頭をすっとよぎる。だが、今幾ら考えを巡らせた所で仕方がない。自分に出来ることは諦めず、探し続ける事。
「オレ、もう少し探してみるよ。灰原も居るし博士は家に帰ってくれ」
「え?じゃが……」
「これ以上走ると体に良くないぜ」
有無を言わせぬコナンの口調に博士がたじろぐ。その時、コナンの胸元で何かが震えた。
「電話か?」
「いや、メールだ」
コナンは胸ポケットから携帯電話を取り出すと、パカッと開き内容に目を通す。と、急にその目がすっと細くなった。
それに気付いた博士が訝しげに首を傾げた。
「誰からだったんじゃ?」
「……蘭」
「なっ……! 彼女は無事なのか?」
この時、博士の頭では”身の代金の要求”なんて言う文字が激しく点滅していた事だろう。
コナンは目を細めたまま、なかなか返事をしない。
「新一……まさか」
博士が心配そうな顔で答えを急かした。数秒の沈黙の後、コナンは小さく息を吐き出すと、自分の携帯画面を前に突き出す。博士はそれを食い入るように見詰めた。
――”あなたの家で待ってます”
蘭がコナンに宛てた内容。絵文字や顔文字どころか、何の感動符さえ含まれていない。普段の蘭のメールからはとても想像出来ない素っ気ない物だった。
それを見終わった博士がほっと胸を撫で下ろす。
「良かった……無事なんじゃな」
「ああ」
蘭の無事が確認出来、安堵の表情を浮かべる博士に対して、コナンは何処か煮え切らない態度。「どうした?」と博士が訊いても考え込むばかりであった。
「ほれ、早く家に帰らんと。蘭君が待って居るんじゃろう?」
「――博士」
「うん?」
「おかしいと思わねーか」
コナンは重い口調で話し掛け、続ける。
「普通、小学生相手に”あなた”なんて使わない。第一あの探偵事務所は蘭の家だ」
一つ一つ謎解きをするかのごとく、コナンは丁寧に言う。だが、博士は今一つコナンの言わんとする事が判らない。それに気が付いたコナンは、自分の携帯を博士の目の前でひらひらと振って見せた。
「それに、これはコナンの携帯電話じゃない」
「え?」
「”工藤新一”の、携帯なんだよ」
「なっ……!」
博士の目が眼鏡越しに大きく見開かれた。
「そ、それじゃ、蘭君がいるのは……」
「オレの――”工藤新一”の家だろうな」
カチッと言う音がして二人のすぐ隣にあった電灯に光が灯った。光は何回か不定期に点滅した後大人しくなる。周りはいつの間にか暗くなっていた。
「行くのか?」
誰も通りかからないT地路は酷く物悲しげだ。その中でポツリと囁くように問われる。
”いい?工藤君、選択肢は無いのよ――”
昨日公園で哀に言われた言葉だ。まるで映写機に掛けたように、その場面、台詞、仕草までもが鮮明に途切れる事なく脳裏に呼び覚まされる。 彼女はこうなる事が判っていたのだろうか。
「行くよ」
しっかりと博士の目を見て答える。
「じゃが、行ったら君の正体がバレるんじゃ……」
「もうバレてるよ」
コナンは弱々しい微笑と共にそう言うと、ゆっくりと歩き出した。その行く先は工藤邸―――蘭の元。
地面を踏みしめる様にして顔を伏せながら前に進む。
「今度こそ誤魔化せなくなるんじゃぞ!」
背中に言葉が降り懸かってきた。コナンは一時的に足を緩め、首だけで振り返ったものの、何も言わない。相変わらずゆっくりと蘭の元へと進み続ける。
そんな姿を見て、博士も無駄だと悟ったのか、もう何も言わず、ただコナンの小さな背中を見送るばかりで。
「……選択肢は無い、か」と言う、コナンの小さな呟きが虚空を舞ったのを、その耳が捕らえる事はなかった。
冷たいオレンジジュースをトポトポと容器に注ぎながら、哀は窓辺へと体を寄せた。飲み物を口に含んだ途端、オレンジの酸味が広がる。
窓の外を覗いて見ても”夏の大三角”が映り込むと言った二流の演出が在るわけもなく、夜空には星座に成り損ないの二等星が、ちらほらと見えるだけだ。だが、それらが見えただけでも都会の空としては充分と言えよう。
時折ジュースをすすりながら、暫くぼうっとしていると、その限られたフレームの中に一人の少年が現れた。少年は俯き加減に歩いている。
哀はカップを片手に、少しばかり身を乗り出し、その少年の行方を目で追った。
「工藤君?」
名前を口走った瞬間、ちらりとコナンが此方に向いた気がした。何をした訳でも無いのに、哀は思わず物陰に身を隠してしまう。
二、三回深呼吸をしてから視線を窓の外へと戻す。
――どこにいくの……
哀の問いに答える様にコナンはある一点に向かって歩き続ける。阿笠邸の隣の家。そこはコナンの――工藤新一の自宅。
「そこで、待ってるのね」
哀は誰に言うわけでもなくそう呟くと、星空を仰いだ。
予感はしていた。昨日の蘭の様子をコナンに聞いてから何か起こる様な気がしてならなかった。そして彼女がどれ程追い詰められているかも知っていた。
だから。
”ごめんなさい”と。
先程のこの謝罪が只の自己満足に過ぎない事は重々承知していたが、言わずには居られなかった。彼の前で言っておかければならない気がした。
私の我儘に巻き込んでしまって、ごめんなさい。
あなたとあなたの大事な人を傷付けて、ごめんなさい――
ハッと意識を覚醒させて窓を覗き込んだが、そこにはもうコナンの姿はなく、規則正しく並べられた電灯がちかちかと照らしているだけだった。
哀は小さくため息をつき、視線を手元に下げる。目に入ってきたのはカップに描かれている大きなペンギンの図柄。昼間コナンが「趣味悪い」と言い放った物だ。
哀は、失礼ねと軽く口元に弧を描き、コナンがしていた様にペンギンを指で優しくなぞった。
「どうか頑張って……」
緩くなった口から零れ落ちた言葉だった。
ピンポーン、ピンポーン……
少し場違いな軽快な雰囲気を醸す呼び鈴。だが呼び鈴は、呼び鈴。これ以上どうしようもない。
博士かなと思い、哀は重たい腰を上げ、玄関へと向かう。
ピンポーン、ピンポーン……
前のチャイムから差ほど時間は経っていないと言うのに、再度呼び鈴が鳴った。
博士は何時からこんなにせっかちになったのか。
「はいはい、今開けるわよ」
哀は気だるそうにそう言うと、これ又気だるそうに鍵を開けた。呼び鈴を押した相手が露わになる。
瞬間、哀の形の良い切れ目は大きく見開かれた。二歩程後退りした為、哀の小さな体は棚に当たり、棚はガタンと音を立てる。
「あなた、なんで……」
そっと呟いた哀の言葉だけが部屋に響いた。
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