七章 彼女の異変
見れば今まで街を包んでいた闇は、一筋の光にだんだんと侵略されていく。風光明媚かつ、平面的なその光景は何処か一流画家が書いた絵画を思わた。
夜が明けようとしていたのだ。
――十、九、八、七……
コナンは目を瞑り、ゆっくりと声には出さずカウントを始める。最近は朝の習慣に成りつつある行為。それはコナンがいかに熟睡出来ていないかを物語っていた。
六、五、四……
己の度量の小ささと、情けなさで溜め息を尽きながらも数字は刻々と進んでいく。
三……
空の明るみが増した。カーテンの隙間から光が差し込んでくる。もうちょっとだ、と息を吐き出した。
二……
後少し。
一。
―――ジリリリリ!
コナンが”一”と言うのと殆ど同時に目覚まし時計が喧しく騒ぎ出した。ただしコナンの部屋の時計では無い。
蘭の、だ。数秒間鳴り続けた目覚まし時計は瞬間、ピタリと止まった。その後ガサゴソと人が動く気配がし、台所が騒がしくなる。
新たな一日の始まり。
「また全然寝てねえな」
言葉にするつもりは無かったのに自然と漏れた。おまけにそれは疲れた様な呟きになってしまった。
眠れないと言うのは結構堪える。精神が擦り切れているからか。もしくは躰の機能が巧く作動していないのかも知れない。
何にせよ自分の弱みが浮き彫りになるこの夜明けと言う時間帯をコナンは酷く嫌っていた。唯でさえあの嵐の夜から余り寝ていないと言うのに、昨日の哀の言葉の仕業で今日は一段と躰を安められていない。
コナンは最終確認をするかの様にもう一度だけ目を瞑ってみたが、眠気は一向に襲っては来ず、とうとう諦めてベッドを抜け出した。
――とん、とん、とん…
食卓に入ってまず目に入ったのは長い黒髪を纏った、すらりとした後ろ姿。蘭の腕が忙しなく包丁を動かしているのは背後からでも充分に確認に出来た。
「おはよう」
コナンの方から声を掛ける。だが声にピクリと反応した蘭はなかなか此方を向かない。
「蘭姉ちゃん?」
「……あ、お、おはよう」
二度目の呼び掛けに蘭が口籠もりながら答えた。チラリと目端で捕らえた蘭の横顔。
目が赤い?
「蘭姉ちゃんどうしたの?目、腫れてるよ」
「え……昨日本読んで寝たからかな」
コナンは、ふうんと首を傾げながら自席に着いた。まさか蘭のそれが涙の痕だったとは知る由も無く。
思えばこの瞬間から蘭の異変は見て取れた訳で。こうして事態は動こうとしていたのだ。
「ちょっと待っててね。もうすぐ朝食出来るよ」
蘭が少し微笑みながら言った。
「あ、ボクいいや。博士の家に行ってくる」
「こんな朝早くから行くの?」
「う、うん。ちょっと用事があって……」
そう、と低めのトーンで蘭は告げた。そんな蘭から逃げるように、コナンは沃さと出て行こうとする。
「じゃあ、行ってきます」と、コナンはドアノブに手を掛け、足を進めようとした。その時。
「まっ……待って!」
突如家に金切り声が空を切った。その場に似つかぬ余りの突然さと切羽詰まった声に、コナンは、え?と呆然と蘭を見詰めてしまう。
蘭はハッとしたように口を閉じると気まずそうに顔を伏せた。
「蘭姉ちゃん……?」
混乱気味にコナンは声を掛けた。
「どうしたの」
「……ううん、ごめん。何でも無いの」
蘭は絞り出すような声で、それでもはっきりと言った。
「車に気を付けてね」とだけ付け足すと、また台所へと向かい朝食の準備を再開した。その時の蘭の顔からは何の感情も読み取り得なかった。
「それで?」
コンピューターをカタカタと操っている小さな背中に話の続きを促される。その横からは博士が三つのカップを持って現れた。
カチャカチャと音を鳴らすカップ達に気が付いたのか、哀も画面から顔を離した。
「それでって……別にそれだけだよ。お、サンキュー博士」
コナンは青色のカップを手に取り、面倒くさそうに返答する。
「呼び止められた後何か言われなかったの」
今度は哀が赤い色のカップを取り、中身を口に含んだ。コナンもそれに習って半透明の中身をこくっと飲む。と、口の中に程良い酸味と甘味が広がった。
カルピスか。きっと博士への御中元だ。そう言えばカルピスなんて久し振りに飲んだな。などと、全く話題にそぐわぬ他愛のない事を考えてみたりする。
「ちょっと、工藤君。聞いてる?」
そんなコナンの脳内暴走を止めるように哀が鋭く言った。
「聞いてるって。車に気をつけろ以外には何にも言われなかったぜ」
「本当に?」
「マジ」
それだけ訊くと、哀はまた物思いに耽るように椅子をコンピューターの方に向き直した。コナンはもう一口カップを啜り、口内の甘味を噛み締める。
そうして盛大に溜め息を尽くと、椅子をズルズルと滑った。非常にだらしのない格好になってしまったが、コナンは敢えて直そうとはせず、そのまま椅子の上で伸び続けた。
それを見た博士は、どう感じたのか、何処か憐れみの優しい目つきでコナンを眺めていた。
「新一」
「ん」
「まだ話さないのか?」
「うーん……」
コナンは手の中のカップの柄を指でなぞりながら唸った。
「どうすっかなー……」
「まあ、蘭君が君の正体に気付いてるのかも判らないんじゃ判断しにくいとは思うけどのう…」
「……」
カップをなぞりながら時折溜め息を漏らすコナンに博士が何か言う前に、部屋にコール音が鳴った。
「電話じゃ」と言いながら子機の元へと向かおうとする博士にコナンは小さく声を掛けた。
「博士」
「ん?」
「このカップ趣味悪くねーか?」
コナンはカップをくるりと一周させ、博士に柄が見えるようにする。曲面いっぱいに広がる不細工なペンギン。
博士はそれを目に止めると少し困ったように口籠もった。それから「ほっとけ」と苦笑を零し、電話に出るためにコナンに背を向けた。
「ごめんなさい」
「……え?」
今のは哀の言葉だ。だがコナンは意味が理解出来ない。
「何で謝るんだよ」
「あなたにじゃないわ」
「はぁ?」
カタカタという最早部屋のBGMと化していたキーボード音が止む。
「じゃ、誰に?」
「彼女」
「蘭?」
哀は首を振るでもなく、何も言わずふいっとそっぽを向いた。コナンは額に皺を集めると顔中に疑問符を浮かべる。
「お前ってさ、時々訳判んないよな」
「そうかしら」
「いや、間違えた。いつもだな」
にやりと笑みを浮かべたコナンを見た哀は心外だとばかりに顔をしかめて見せた。
「そう言えば」と哀が切り出す。
「あん?」
「そのカップ選んだの私なのよね」
「……あ。そう……」
微妙な空気が二人間に流れ、コナンは笑みを引っ込めざる負えなくなる。コナンのその様子を見た哀は勝ち誇った様に鼻歌を歌った。
「なんじゃと!?」
暫く受話器を持ち、何かを話していた博士がいきなり声を張り上げた。何事かと哀とコナンが椅子から立ち上がる。
「……ああ。…いや、来とらんよ。コナン君だけじゃ……まさか、もう夕方じゃぞ……ああ、分かった…来たら君に連絡すれはいいんじゃな?…分かった…それじゃ」
博士は通話を切断すると、暗い顔でコナンをじっと見た。
「ど、どうしたんだよ」
肩で息をする博士の様子に狼狽える。博士は数回深呼吸をしてコナンに向き直った。
「いいか、新一。落ち着いて聞くんじゃぞ。今のは毛利君からの電話でな。実は──」
続く言葉を聞いた時、落ち着けと言われていたにも関わらず、コナンの頭の中は真っ白になった。
まさか…何で……
心拍数は上がり、何も考えられない。何も聞こえない。呼吸法すら忘れてしまった。ぐらりと足元が揺らぐ感覚にコナンは立っていられない。
完璧にパニックに陥ったコナンの心の中では唯唯博士の言葉が連呼されるだけであった。
「蘭君が行方不明になった……」
|