五章 夕暮れ時は
阿笠博士から電話があったのは平次との会話から更にその三日後、正午を少し程過ぎた頃だった。
「どうだった?」
通話ボタンを押した途端、噛みつくようにコナンは言った。それほど博士から報告を急いていたのだ。
博士に、そう慌てるな、と諭されたけれど、慌てず落ち着いていられる訳が無い。コナンの心臓は高鳴りを見せ、口はいつもより些か滑らかになっている。
「どうだったんだよ」
コナンは声を押し殺してもう一度催促した。
「……君の言う通りじゃったよ」
受話器を落としてしまわないように、しっかりと握り締める。
酷く落胆し、訳が分からないと言う戸惑いを、博士はそのまま口調に残していた。
「そうか……」
「新一……どうなってるんじゃ? 何で───」
「……分からない」
コナンは博士の言葉を重々しく遮った。博士はその口調から何かを感じ取ったのか、以降何も言わなかった。
それよりも、とコナンが話しを続ける。
「アイツに気付かれてねーだろうな?」
「調べた事をか?」
「ああ」
「大丈夫じゃ。彼女が学校に行っとる間にやったからのう。分かるとしたらワシがパソコンを少しいじった事くらいじゃな」
”くらい”でもアイツは不審に思うかも知れねーけどな。
チラッと考えたが、それは敢えて言わなかった。博士にこれ以上要らぬ不安を与えたく無かったし、不審に思っていようがいまいが、いずれ彼女には追及しなくてはならないのだ。
何で解毒剤を自分に飲ませたのか、を。
「新一」
博士が言う。
「蘭君の方は大丈夫なのか?」
「蘭?」
「さっき君の家の前で、暫く何か考え込んでいたぞ」
「……」
「その顔が、何というか、泣きそう……いや、違うな。苦しそうな……そんな感じじゃった」
部活に行ったんじゃなかったのか。
コナンの額には深い皺が刻まれ、受話器を握る手に力が入った。
「新一?」
「……大丈夫だ。全部なるようにしかならねーよ」
なるようにしかならないのが大丈夫なのかは謎だが、今はこれくらいしか言えない。
「色々サンキューな。博士……」と礼を言って受話器を置く。
コナンは一息ついてから、もともと少し開いていた窓を全開にした。心地良い風が十分に入ってきた。部屋には冷房が効いているため、少し勿体無いかも知れない。が、ほんの少しの間だ。大丈夫だろう。
大丈夫。さっきから自分に言い聞かせるように何度も使っているこの言葉。そうでも言っておかないと崩れてしまいそうな気がする。脆い。
けれど、今一番脆いのはきっと蘭だ。部活だなんて嘘をついてまで行った工藤邸で蘭は何を思っていたのか。
考えれば、考えるほどに頭が鈍く痛む。コナンは頭を抱え、外気をそっと自分の肺に入れた。
ある人物へと呼び出しの一報を入れたのはこの後の行為だった。
がらりと人の居ない公園は、待ち合わせの場所としては最適だったと言えよう。
時は夕暮れ。好き勝手辺りを照らしていた太陽は大人しく地平線の彼方へと姿を消す。最も、ビルが立ち並ぶこの東京では地平線なんて見えるわけは無い。要は言葉の”あや”である。
待ち人はまだ来ない。呼び出しておいて遅刻とは聞き捨てならない現状ではあるが、少女の内心は穏やか、むしろ沈んでいる。
今日、自分が彼に呼ばれた理由はすでに熟知していた。仕方無い。それだけの事をしたのだ。
”あれ”が彼女を傷つけた。彼女が傷付いた事で彼の事さえも。
「大切に、なんて綺麗事かしら……」
少女は苦々しげに自分の手を腕を抱く。強い力だった為に細くて白い少女の腕には、赤い指の痕が禍禍しく残った。
まるで戒めの刻印の様に。
――でも、後悔はしない。
そう決めた。
誰かを傷付けるのはこれで最後。今は無理でも、必ず良い方に転じるから。そう信じて彼に薬を渡した。
正解じゃない。でも間違ってもいない。これで良かったなんてとても思えないけれど、悪かったとも思わない。
リスクは高く、失うものは限り無い。けれど得られるものもまた多い筈。
複雑に絡み合った彼と彼女を繋げてあげられたならば、自分を抑制できるのだろうか。自分の中に渦巻く欲望を、制御し、いずれ消す事も可能なのか。
答えはおそらく、否。
それを知った上で少女は願う。それでも、と。
「それでも……諦めなきゃいけないの」
チリチリと肌を焼くような暑さは嫌いだ。人の領地にずかずかと踏み込んで来る様な無礼さに耐えられない。
そう思ってしまうのは、きっと自分が闇に染まっているから。
夕日に彼の姿が浮かび上がる。逆光で見えない筈なのに、そのシルエットだけで彼と判ってしまった自分が嫌になった。
「本当に……諦めなきゃね」
少女は苦笑混じりにそう言うと、くいっと顎を引いた状態で沈んで行く太陽を一瞥した。
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