二十三章 きっと僕らは
斜面を下りながら、砂埃の奥に、重く暖かい空気を肌に感じた。
一雨来るかな。
顔を上げ、遠くの空を見据えると、降り注がんばかりの星粒を厚い雲がすっぽり覆っていた。
あの雲はいずれこの場所までやってきて、恵みの水を地にもたらすだろう。
その前に、なんとかなるだろうか。
地面に降り立ち、手に持つ懐中電灯を左右に振る。パッと光が闇を照らす。その光の筋の先に少女はいた。
――蘭……
服が少し汚れて、白く艶やかな蘭の頬に紅い掠り傷が目立つ。それでも、蘭は充分に生気を放っていた。運が良かったと思う。この高さから落ちて、この程度の負傷で済むなんて。
偶像崇拝なんてものに興味はなくても、何かに感謝する気持ちがコナンの中に溢れる。
その対象が神なのか、自然なのかは定かではないけれど、安堵と感謝でふいに目の奥が熱くなった。
コナンはゆっくり息を吐き、その場にへたり込んでいる蘭の傍まで寄った。
蘭は、動かない。身じろぎ一つする気配がない。彼女の目は大きく見開かれ、コナンの顔を唯見つめるばかりだった。
声を掛けようとしたとき、頭上から名前を呼ばれた。コナンではなく、本当の名だ。
いきなり斜面を滑り降りたコナンの安否を確認するために「くどー!」と服部平次が声を張ったのだ。あれほど気を付けろといっているのに。
コナンは小さく舌打ちして、崖の上の平次を睨んだ。それから、息をつく。
――まあ、状況が状況だし今回は許してやるか……。
それに、今更正体を隠そうとじたばたする気も起きなかった。今まで必死に欺こうとしてきた人は全てではなくとも、もう真実を知っている。
「大丈夫か!」
怒鳴り声がまた降り注ぐ。
「大丈夫だよ。平次兄ちゃん」
兄ちゃん、を強調してコナンも怒鳴り返した。じたばたする気は起きなくとも、和葉が居る手前、大っぴらに平次と対等な語調で話すわけにはいかない。
「大丈夫か? 怪我はないか」
懐中電灯を持っている手を大きく振り、平気だということを強調する。
「蘭ちゃんは!?」
和葉が叫んだ。
コナンは、視線を素早く横に走らせた。
「蘭、大丈夫か?」
優しく声をかける。見たところ大きな外傷はないようだが、結構な高さの崖から転落したのだから、内臓などが圧迫され内部で出血をしているということも考えられる。
その場合、自分に出来る処置はかなり限定されてしまう。
蘭は答えない。ただ、呆然と瞬きを繰り返すだけだった。
「蘭? どうした。どっか痛むのか?」
もう一度、問いかけたとき、彼女の視線がはっきりとコナンの顔に向けられた。
蘭は、はっとしたように息を呑み込んだ。
「あ、うん。大丈夫……」
コナンはどこかぼうっとしたような蘭の態度に首を傾げながらも、また視線を頭上に戻した。
「蘭姉ちゃんも無事だよ。和葉姉ちゃん」
良かったあ、と平次の肩に顔を埋める和葉の姿が見て取れた。平次が軽く頷き、携帯電話をポケットから取り出す。
「ほな、誰かに連絡――うわっ、アカン。此処、圏外や」
「ええっ」
「しゃーないな。和葉、お前は街の方まで行って来い。この道右に曲がってすぐやから、分かるやろ。オレはペンション戻って電話する」
「うん。分かった」
「くど……ボウズ! 聞こえたな。オレらで助け呼んで来る。動いたりせんと、姉ちゃんと大人しく此処で待っとれよ。ええな、絶対動くなよ」
「え? あっ、おい! ちょっと待てよ、はっとり――」
呼びかけたけれど、平次と和葉から返って来たのは駆け出そうとする足音だけで。
あの二人に振り回されるのはもう慣れたつもりだったけれど、やはり少々面食らう。
コナンはため息をついて、頭を軽く掻いた。
とは言っても、この場合は平次の言葉に素直に従うのが得策だろう。暗闇の中でよく知らない場所を無闇やたらに動き回るのは賢いとは思えない。
二人きりになり、辺りがまたしんと静まり返った。蘭の身体がぶるっと震えた気がした。
情けないな、と思う。ここ最近、幾度も自分のふがいなさを痛感している。
助けにきたつもりが、二人して助けを待っている状態になってしまった。結局蘭の不安要素を除いてやれたのかも分からない。
何も考えず、いや、ただ蘭の近くに行くことだけを考えて唐突に崖下に飛び込んでしまった自分よりも、平次のほうがよっぽど冷静な対処をしたと言える。
何もしてやれない今の状況が、無力な自分の象徴のようで、コナンは奥歯を噛み締めた。
「本当に大丈夫か?」
蘭の隣に腰をおろしながら再度聞いてみた。何か話していないと空気がどんどん重くなる気がしたのだ。
重圧を得た空気はやがて胸を押し潰し、大切な言葉も腹の底に押し込めてしまう。それが募り大きな塊となり、しこりが出来る。そんなどうしようもない悪循環にひどく嫌気が差していた。
「痛てえとこあんなら我慢しねーで言えよ?」
「――うん」
「あっ、えっと、寒くねーか? なんか気温下がってきたし。寒かったらオレの上着」
「……新一」
蘭はコナンの質問には答えず、静かに名を呼んだ。呼んだきり何も言わない。
コナンは、不振に思って、蘭の顔を覗き込んだ。彼女の視線が一点に向けられていることに気付く。蘭の視線を辿ると、コナンの膝から血が滲んでいた。痛みなど殆ど感じなかったから、気付かなかった。
他者が傷つくことに人一倍敏感な蘭はこの傷を案じているのだろう。蘭を安心させたくて、コナンは笑った。
「ああ、こんなの全然痛くねえから大丈夫だよ。そんな事より――」
「そんな事?」
低い声で蘭が言う。表情は硬かった。
「そんな事ってなによ」
「え?」
やっと重い口を開いたと思ったら、蘭はコナンを鋭く睨みつけた。
自分が大丈夫だといえば、蘭は笑ってくれると思っていたコナンは、彼女の荒々しい態度に気付き、困惑した。
蘭はすっと立ち上がり、コナンとの距離を縮める。コナンと同じ高さになるように膝立ちになり、そして、声を張り上げた。
「バカ!」
静かだった暗闇の中を鋭い声が切り裂く。
あまりの迫力にコナンは一歩後ずさった。その開いた分だけの感覚を埋めるように、蘭がまた一歩コナンに詰め寄る。
「バカ、バカ、バカ! あんな所から飛び降りるなんて、なに考えてるの。怪我したらどうするのよ。そりゃ、最初に落ちたわたしが悪いんだけど、でも! なんでそんな無茶するの?」
「え、あの、蘭?」
ぽかんと口を開けて、蘭を見る。蘭は構わず続ける。
「大体、新一はいつもそうじゃない。いっつもいっつもいっつも! 何にも言わないで無茶ばっかり! コナン君が――新一がいなくなる度にわたしがどれだけ心配してたか少しは考えてよ!」
「わ、悪い……」
一気に捲くし立てる蘭に思わず謝ってしまった。蘭は息を乱暴に吐き、肩を大きく上下させると、ふっと力を抜いた。儚げな目でコナンの膝の傷をじっと見つめる。
その表情にコナンの胸は小さく疼き始めた。
「下手したらそんな擦り傷だけじゃすまないんだよ。もしかしたら……もしかしたら死んじゃうかもしれないのに……なのに……ほんと、バカだよ」
語尾に近づくにつれ、蘭の声は震えていった。一瞬、蘭の瞳が揺らいだ気がした。
いつもこうやって、蘭を不安にさせて来たのだろうか。コナンは胸が締め付けられるような思いで、もう一度
「ごめん」
と囁いた。
たしかに、バカだったかも知れない。蘭に言われるまでもなく、愚かだったと思う。
それでも。
たとえバカだと言われても、平次の行った処置の方が聡明だったと分かっていても、また同じことが起きれば、やはり自分は今と全く同じ行動をするだろう。
計算なんてしない。出来ない。蘭を救うことが出来るなら、いくらだって危険に飛び込む。怖いなんて思わない。
――仕方ねーだろ。体が勝手に動いちまうんだから。
コナンの口からふっと笑みがこぼれた。小さな笑いの種はだんだん大きくなり、コナン自身調節できなくて、気がつけば腹を抱えていた。
蘭は、一瞬きょとんとコナンを見つめた。そして、訳がわからないというように首を振り、目を細めた。
「なっ、なによ。何で笑うの。わたし本当に心配して」
「ははっ、悪ィ。そうじゃなくてさ、やっと……やっと、目が合ったよな」
「え?」
「ずっと、すれ違ってばっかだったからさ」
疼く笑いを噛み殺して蘭と向き合う。蘭は相変わらずかたくなに口元を引き締めている。
今まで完璧に視線が合わなかったわけではない。けれど、目が合いそうになる度、どちらからともなくすっと逸らしていた。
こんな風に目と目がばちりと、火花を散らすほどに見詰め合ったのは久しぶりなような気がした。
「……そうだね」
蘭の口元が一瞬緩んで言葉が零れ落ちた。俯き、辛そうに眉を寄せる。
「バーロ」
んな顔するなよ。
本当はそう続けたかった。けれど、それを言っていいのかどうかも今のコナンには判断がつかなくて、言葉はただの呟きになる。
むず痒いような笑いは、もう腹の奥におさまっていた。
「知ってたか?」
「え?」
「オメーだって、ここ、擦りむいてんだぜ」
コナンの手が伸び、蘭の頬をすっと撫でる。少女の小さな肩がびくりと震えた。
昨晩のことが蘇る。蘭の肩を抱き込もうとした手は見事に弾かれ、そして拒絶されたのだ。
正直、また同じことになるのではないかと心配だったけれど、今日は手を振り払われることはなかった。
ほっとした。それを蘭に悟られないようにするため、今まで詰めていた息を吐き出す。
他人のこと言えねーだろ、と蘭に笑いかけコナンは彼女の頬から手を離した。そのまま空を見上げてみる。雨はまだ来そうにない。
「ねえ、新一」
コナンは黙っていた。返事の変わりに蘭に顔を向ける。
「昨日、わたしが言ったこと、覚えてる?」
「――ああ」
覚えている。あの部屋のむせ返るような熱気も、聞きたくないと必死に耳を塞いだ蘭の姿も、振り払われた手の痛みも、すべて生々しい感覚として此処にある。
そうだ、覚えている。忘れられるわけがない。
「あの時言ったこと、全部嘘じゃないよ」
またしても息が詰まった。
――聞きたくない。
耳の奥にこびりついて取れない響き。あの言葉もやっぱり嘘じゃないのか。嘘じゃないんだろうな。蘭は、あの状況下でそんな稚拙を並べるような人間じゃない。
コナンの想いを察したように、蘭はゆっくり頷いた。
「嘘じゃない。何も聞きたくないって言ったことも、新一を信じられなくなるのが怖いって言ったことも、ぜんぶ。でも」
蘭が微笑む。
「ホントじゃなかった」
「え?」
「意味がわからない?」
「ま、まあな……」
「新一でもわからないことがあるんだね。小さくなって腕落ちたんじゃない?」
「うっせーな」
コナンの拗ねたような様子はまるで本物の小学生みたいで、蘭は思わず吹き出した。コナンもつられて口元を緩める。
「で? ホントじゃなかったって?」
「それだけじゃなかったって事」
ますます訳がわからない。首を捻るコナンに蘭は優しく微笑み、「つまりね」と続けた。
「わたしが聞きたくないって言った理由は、そんなことじゃなかったの。もちろんわたしの中で新一って存在を否定するような気持ちが浮かんできちゃったのはショックだったよ。だって今までずっと仲の良かった幼馴染なのに、その信用がガラガラって崩れたんだから。出来ればそんな思いもうしたくない。だから、もう聞きたくないなんて酷い事言っちゃったの……そう思ってた」
「違ったのか」
蘭の首が肯定の意味で縦に振られる。
「わたしが新一を拒んだのは、それだけじゃなくて……そんなことだけじゃなくて、もっと単純なこと」
ごくりと唾を飲み下す音がした。それがコナンの中に響く。心臓が早鐘を打つ。
早く先が聞きたい。真実を――真実に一番近い真実を知りたい。
それは証拠をかき集めて犯人を暴き出すときのあの高揚感とは違い、もっと重く、濃密で、そして穏やかな想いだった。
「新一が大切なの」
にっこりと微笑んでそう言った蘭はとても綺麗で。
呼吸の仕方なんか吹き飛んでしまうくらいに――。
「あの時、わたし、裏切られた気がして、目の前が真っ暗になちゃって。今までずっと一緒にいたのに何で話してくれなかったのってすごくショックで……。でも、それって裏返せば悲しいのと同じくらいに――」
新一が大切ってことでしょ?
「バカだよね。服部君に言われるまで、こんな簡単なことに気付けなかったんだもん」
今まで驚いて動けなかったコナンがぴくりと耳を動かした。夢ではないのかと疑うような蘭の言葉に放心状態だったコナンの意識が服部平次という超現実的な単語で、ぐいっと現実に引き戻されたのだ。
「服部に?」
「うん。服部君がね、今逃げてるのはわたしの方だって言ってくれたの」
「はっ!? アイツなに勝手に」
思いっきり額に皺を寄せる。コナンは、イライラと髪を掻いた。
蘭に「逃げている」などと好き勝手を言ったことも腹が立つが、何より二人きりで蘭と話したという事実が許せない。
「でも、その通りだったよ」
「え? なにが?」
「逃げてたんだよ、わたし。新一から逃げてた。ほんとバカみたいに……さっき、やっと目が合ったって言ったでしょ」
「ああ」
「新一と目が合うとね、怖いの。自分でも気付いてないわたしの心の中見透かされそうで怖い。小さい頃から喧嘩した後とかは新一の目見れなかったなあ」
遠くを見るような目で蘭がくすっと笑った。コナンは黙って続きを待つ。
「でも、もうわかったから。もう自分がどうしたいのかわかったから、逃げない」
二人の視線が絡み合う。コナンは、ふっと口元に弧を描き、優しく蘭を見つめる。
「――話すよ」
囁くように言った。
「ぜんぶ話すよ、蘭。もっと早くこうすべきだった。オレがなんでコナンになっちまったのか、なんで蘭に黙ってたのか、全部隠さず話す。だから、聞いてくれるか?」
蘭が、にっこり笑う。
「うん」
コナンはこみ上げる想いを押さえ込み、「サンキュ」と返す。
さて、どこから話せばいいのか。拙い言葉でどうしたら上手く蘭に伝えることができるのか。
最初から、だよな。
一度深呼吸をして、もう一度口を開こうとする。全てを伝える為に。
「あっ、待って」
突然、蘭が口を挟んだ。コナンは、首を捻って蘭を見る。
「ぜんぶ聞く前に、どうしても言いたいことがあるの」
「言いたいこと?」
「うん」
蘭は、コナンの顔をじっとみる。その瞳には優しさが揺れていた。
この眼は、工藤新一に向けられるものじゃなくて、今となっては慣れ親しんだ……
「コナン君」
ついこの前まで、この声で呼ばれていたのかと思うと不思議な気分になる。
姿はどうあれ、工藤新一を意識しているのとしていないのではやはり全然違い、江戸川コナンは全くの別人だということを痛感した。
「どうしたの?」
”コナン”の調子で尋ねる。
「コナン君にはいっぱい助けて貰ったよね。いつでも危ないことに首突っ込んじゃって心配してばっかりだったけど、でも嬉しかったよ」
蘭はコナンに微笑みかけると、すっと息を吸った。
「ずっと守ってくれてありがとう。コナン君」
コナンは一瞬驚いたように目を見開く。
ざわざわと枝が揺れた。パシッと音がしたかと思うと、直ぐに鼻の頭に水滴を感じた。
全身の力を抜く。自然に笑みを浮かべていた。
「どういたしまして。蘭姉ちゃん」
夏の夜の風が言葉を運んでいく――。
. |