二十二章 迷宮の少女
研究室に入り、ぐったりと椅子に腰を掛けた。疲れた。疲れたけれど、最高に気分がいい。
腕を擦る。
鳥肌が立っていた。叫びだしたいような歓喜の旋律が身体を駆け抜け、ぞわりと心身が震えたのだ。
自分の頬を撫でながら、哀は誰にともなくふふっと笑いかけていた。
契約完了。約束は取り付けた。あとは時間まで待つのみ。
「明日の午後十時。最速でもその時間になるわね。それより前に計画は遂行出来ないわ」
ジョディの言葉を思い出す。彼女は、頬杖を崩しながら哀にそう告げたのだ。
「十時?」
「ええ」
「随分遅いのね」
「備えあれば憂いなしってね」
彼女は、にっこり笑い、携帯電話を取り出しダイアルを押した。母国語で二言三言話した後、「詳しいことはまた連絡するわ。それじゃ」と言って席を立った。その手にはまだしっかりと携帯電話が握られていた。
明日午後十時。
充分だ。計画遂行が何時からにせよ、明日中ならば彼が巻き込まれる心配はない。正直、ここまで上手くいくとは思っていなかった。ほぼ哀の要求通りに事が進んでいる。これほどまでに上手く運べると、逆に心配になる。
すんなり行き過ぎているときほど、危険な頃はない。
人生とはさしてそういうものなのだ。けれど、だからといって今更計画を中止する気は毛頭ない。自分は明日、組織の本部にFBIと乗り込み、全てを終わらせる。その決意に揺らぎは一切許されない。
全て終わらせるということは、組織を壊滅させると共に、薬のデータを手に入れることだ。それさえ手に入れば江戸川コナンは工藤新一へと戻り、愛する幼馴染と以前のような平和な生活を送ることが出来る。完璧なハッピーエンド。やはり物語にはそれが一番よく似合う。
そう。完璧な、ハッピーエンド……。
――私はどうなるの?
唐突にその疑問が浮かんだ。慌てて思考にストップを掛ける。今まで目を逸らし、絶対に考えまいとしていた疑問がふとした拍子に出てきてしまった。
いつもなら上手く自分を誤魔化して違うことを考えられるのに、今日は駄目だ。前日だからだろうか。どうしても歯止めが、利かない。悪魔の囁きに耳を傾けてしまう。
さっきまで体中に蠢いていた歓喜の渦がすうっと引いていく。変わりに冷たいものが腹の中心に居座った。
聴いちゃダメ。考えたらダメ。揺らぐなんて許されない。分かってるでしょう。私には贖うべき罪がある。だから組織に行って……
――組織に行って無事に帰れると本気で思ってるの。
……やめて。
――完璧って何よ。
黙って。
――解毒剤が出来たら、彼は幼馴染のところに行くわ。私になんて見向きもしなくなる。
煩い……。
――死ぬわよ。
……っ!!
「煩い! 煩い、煩い、煩い!!」
思わず吼える。髪を掻き、拳をにぎる。自分自身の暴言に激しく感情を揺さぶられる。気がつけば、はあっはあっと息が上がっていた。
乱れた髪を押さえつけ、呼吸を整える。自分の肩を強く抱く。小刻みに来る震えを懸命に押さえ込もうとする。けれど、止まらない。
本当は怖い。死にたくない。またあの身の凍るような処に足を踏み入れるなんて考えただけで吐き気がする。
目尻に指が触れたとき、冷たいものを感じた。一瞬それが何か分からなかった。水? 違う。冷たいものの正体に気付く。それが流れ出ないようにぐっと堪えていた。
泣いたらいけない。ここで涙するのは卑怯だ。弱い愚か者だがする行為だ。自分は愚か者ではあるけれど、弱くはない。常に強くありたかった。人に縋ってばかりでは強くなれない。
私は、一人で強くなる。
そう心に誓ったとき、この計画を思いついたのだ。当初の目的を思い出し、哀はだんだんと落ち着きを取り戻していった。
深呼吸してみる。今、自分が生きている喜びと感謝を身体に刻み付ける。その傍らでたくさんの人が犠牲になったことも忘れない。直接手に掛けたことはなくても、自分の作った毒薬の所為で被害を受けた人も少なくはない筈。そう、彼のように。
もともと組織を抜けるときに一度は諦めた命だ。怖気づくのは止めよう。今更、何を考えたって遅すぎる。事は既に始動してしまっているのだから。
カチャリと扉が開かれる音がした。
「哀くん?」
偶然とは思えないようなタイミングで博士が研究室に入ってきた。ドアの端からひょこり覗いたその顔は心なしか少し青ざめて見える。
まさか、聞かれた?
博士と視線が合う。と、博士の顔がふにゃんと垂れ、柔和な表情に戻った。
「帰っておったのか。遅いから心配しておったんじゃ」
博士がハハハと笑う。両手にはコーヒーカップが二つ握られていた。湯気は立っていない。
「……ええ、ごめんなさい。話がちょっと長引いて」
カップが手渡された。哀はそれを受け取り、「ありがと」と言って少し口に含んだ。コーヒーのいい香りが鼻腔に広がる。けれど。
――ぬるいわね。冷めてしまってる。
淹れてから結構な時間が経っている証拠だった。
博士にはこれ以上心配を掛けたくなかった。感謝している。組織を抜け、身体が縮み、雨に打たれ、ボロ布のようになったどうしようもない自分を、何の疑いもなく温かに向かい入れてくれた博士。あの瞬間、奇跡を信じた。人の優しさを姉以外から初めて感じた。
もし、あの時博士に出会わなかったら、もしくは違う人のところに拾われていたら、自分はきっと死んでいただろう。行く先には破滅しかなかった。罪を償うことも出来ず、裏切り者というレッテルを貼り付けられて無様に最期を迎えていた筈だ。
本当にありがたいと思っている。言葉には出来ないくらい、深く深く。
だから、もう心配なんてして欲しくない。自分なんかの為に心を痛めて欲しくない。けれど、明日自分が突然姿を消せば博士は間違いなく苦しむだろう。人との繋がりは時として大きな枷になる。一度結ばれた縁はどうやったって消えはしない。
心配かけて、ごめんなさい。どうか苦しまないで。
それから本当に、
「ありがとう」
博士の目が見開かれる。そんな表情を見ていたくなくて、哀の視線は、つっと横に流れた。
「……コーヒー」
「え?」
「コーヒーすごく美味しかったから。だから、ありがと」
「あ、ああ」
哀は頷き、「さてと」と言いながら立ち上がる。
「少し遅いけど夕飯にしましょ。私が作らないと、カロリーの高いデリバリー頼んじゃうんだから」
哀はスタスタと台所に向かう。そして振り向き様に一つ釘を刺した。
「野菜は博士が切ってね。ただし、ちゃんと手を洗ってきて」
博士は「わかっとるよ」と苦笑しながら後に続く。その苦笑に隠れて博士の顔に不安が過ぎったであろう事は、前を行く哀にさえも容易に想像がついたのだった。
作戦決行まで、あと一日と三時間。
空気は夏とは思えぬほどに、冷たかった。
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