二十章 底なしの闇
一時間前――。
和葉は、夜の道をゆっくりと歩いていた。隣には美しい黒髪を月明かりに光らせる蘭の姿。和葉が連れ出したのだ。
「外に行くなら、し……コナン君と服部君にしらせておかないと……」
「ちょっと歩くだけやもん。大丈夫」
そんな会話があったのを覚えている。少し不安そうな顔をした蘭の腕を和葉は半ば強引に引っ張り、二人だけで夜の森へと足を踏み入れた。
今思えば、そこからして失敗だったのだ。蘭の言うとおり平次に一報入れるべきだったし、怖がり二人で夜道を歩くなんてあまりいいアイデアだとは言えないということに気がつくのが遅すぎた。
都心から隔離されたこの場所の夜は暗い。全てのものが黒く塗りつぶされる。星や月、自然の光があって、やっと回りの色が見える程度だった。
ポケットの中を探り、ペンライトを取り出し、点ける。以前、蜘蛛屋敷事件のときに持っていたものだ。蘭も見覚えがあったらしく、可笑しいような、申し訳ないような、どこか不自然な笑みを浮かべた。
かくして、光源は手に入れたわけだが、たかがペンライト一本。足元が見やすくなったくらいで、大して周りの景色は変わらない。
「真っ暗だね」
と、蘭が呟いたように本当に色がなかったのだ。和葉も蘭も、幾度となく木の幹などの見落とした障害物に足を滑らせ、前につんのめった。
それでも、暫く歩いていると目が慣れてきたせいか躓く回数も減っていき、十五分ほど歩いた頃には草花の形までが見えるようになっていた。
「だいぶ慣れてきたね」
蘭が、膝についた泥を落としながら言った。
「ほんま」
和葉もそれにならい、ぱたぱたと自分の膝を叩く。
「コナン君達、心配してるかな?」
「アタシらが抜け出したこと気ィついてへんと思うな」
「たしかに」
どちらからともなく吹き出す。初めはくすくす笑っている程度だったが、だんだんと気分が高揚してきて押さえが利かなくなり、終いには森に響き渡るような大声でお腹を抱えて笑っていた。
――良かった。蘭ちゃん、少し元気になってる。
蘭と一緒に笑い転げながらも、和葉は感じた。蘭の顔からは、もう張り詰めたような表情はあまり読み取れない。どちらかというと、柔和で優しいいつもどおりの彼女の表情を浮かべている。
蘭の表情を細かく観察していくうちに、彼女の眼に光るものがあることに和葉は気づいた。
涙……?
苦しみの涙であろうか、もしくは笑いの発作からくる生理的な涙であろうか。後者であることを望む。
蘭は、笑いで乱れた息を整えながら目の端に浮かんだ涙を巧みにふき取り、次の瞬間には蘭の目は乾いていた。蘭は数歩前に進み、くるりと和葉の方を振り返った。
「あーっ、可笑しい!」
「うん。せやね」
「なんか久しぶりに笑った気がするな」
蘭の言葉を最後に森はまた沈黙を取り戻した。いや、虫の音が微かに聞こえる。秋が近い証拠だ。
蘭はまた向きを変えて、ゆっくりと歩き出した。和葉は何も言わず、その背中を追いかける。しばらく二人は無言で森の中を進んだ。
風が吹き、雑木が揺れる。さっき部屋の中で感じた風だ。心地よい。自然は厳しく、優しく、そして偉大だ。時に人を傷つけることもあり、時に傷を癒してくれる。
平次が旅行先をこの場所に指定したのは悪くなかったと思う。
「和葉ちゃん」
突然、蘭が振り向いた。
沈黙から十数分が経ち、ペンションからの距離もだいぶ離れていた。迷子にだけはならないように道順をおさらいする。もっとも、真っ直ぐにしか進んできてないのだから道順も何もないのだけれど。
「なに?」
和葉も足を止め、優しく聞く。
「あの……」
「うん」
「わたしの相談、聞いてもらってもいいかな」
首を傾げ、少し躊躇いながら蘭が言った。その仕草がとてもかわいらしくて、和葉は思わず口許を綻ばせた。
「もちろん」
それを待ってたんやもの。
和葉の返答に安心したのか、蘭は「ありがと」と言って表情を緩めた。けれど、なかなか口を開かない。和葉も無理に急かすようなことはせず、黙って続きを待った。
「喧嘩したの」
蘭が横を向く。視線が闇に吸い込まれた。
「けんか?」
「うん。いや、ちょっと違うかな…… わたしが一方的に避けてたっていうか」
「コナン君を?」
えっ、と蘭の目が瞬いた。
「あっ。ゴメン、相手は聞かへん約束やったね」
「ううん、いいよ。相手は」
新一。
蘭の口がそう動く。それから「嘘吐いちゃってごめんね」と謝った。
うそ? ああ、新幹線のとき。
「別に気にせんでええよ、全然」
「ありがとう」
「でも、コナン君も元気あらへん気ィするけど。蘭ちゃんが心配やったんかな」
聞くと、蘭は痛いような笑みを浮かべた。
「コナン君は優しいから」
ああ、またやってしもたと和葉はため息を吐き出す。
どこに地雷が落ちているかわからない。何が蘭をあんな表情にするか検討もつかない。もう余計な詮索するのはやめようと心に誓った。
「それで」と蘭はまた口火を切った。
「わたしが新一を避けてたのには理由があって……」
そうやろな、と和葉は頷いた。蘭は進んで人を傷つけるような人間ではない。ましてや、相手は工藤新一。蘭が誰よりも大切にしている人なのだと知っている。
「理由って?」
「新一がわたしに何ていうか……その、隠し事してたの。和葉ちゃんたちが来た日に本当のこと聞いたんだけど、なんかわたしその時混乱しちゃって。あんまり覚えてないけど、たぶん酷い事言っちゃったんだと思う」
「うん」
「ほんとに酷い事……新一を突き放すようなこと、言ったの。だけど、どうしようもなくて。歯止めが利かなくなっちゃって。わたし……」
蘭は目を伏せ、息をついた。
「怖かった。新一のこと信じられなくなるのが、たまらなく怖くて嫌だった」
「蘭ちゃん……」
手を伸ばしかけて、やめた。蘭は支え棒なんて必要としてない。
――そっとしとけ。オレらはそっとしといたらええねん。
平次に言われた言葉が胸に響く。和葉は、そやね、と小さく頷いた。聴くだけでいい。気休めを言うわけでも、同情するのでもなく、ただ話を聴く。そのかわり、蘭の口から零れた言葉は一言一句絶対に聞き逃さない。
「でも」と蘭は続ける。彼女の表情が多少緩んだ。
「でもね、此処に来て、冷静になって、服部君と和葉ちゃんと話して分かったんだよね」
「なにが?」
「わたしは逃げてただけだった」
そう言って、蘭は微笑んだ。その微笑は美しく、優しく。
「わたし本当は――」
「蘭ちゃん」
和葉は蘭の言葉を素早く遮った。
「アタシに相談するまでもあらへんかったね」
「え?」
「自分で答え、出せてるやん」
ちゃう? と言いながら、にっこりと笑ってみせる。蘭は大きく二回瞬きした。
「せやからその先は本人に直接言わんと」
「直接……」
「そう、直接」
蘭は何も言わなかった。無言で足元を見つめていた。虫の声だけが豪勢に響く。
「帰ろっか」
和葉がぽつりと言った。
「帰ったほうがええよね。平次もそろそろ気づくかも」
蘭は「そうだね」と小さく答えた。数歩前を行っていた蘭が和葉の横に並ぶ。二人してもと来た道を帰ろうとしたとき、
「あっ」
和葉の手がペンライトを弾いた。
「ヤバっ!」
咄嗟に駆け出し、回りながら転がる光を掴もうと手を伸ばす。が、掴めたのは空気だけだった。ああ、もう! と悪態をつきながらペンライトを追いかける。下へと広がる緩い傾斜が回転のスピードに拍車をかけていた。
ざっざっざっ。下草を踏み鳴らす音が自分の下から、そして後ろからも聞こえた。蘭がついてきている。
ペンライトはとまらない。奥に進むにつれ傾斜が急になり、更に勢いを増しながら転がり続ける。和葉は懸命に走り、進んだ。
あと少し。
やっと手を伸ばせば届くくらいまで距離が縮まった。もう少し足の回転を早くして、手を掲げた。そして。
消えた。
――消えた?
ペンライトが消えた。本来なら自分の手中にある筈のモノが突如目の前から姿を消した。ペンライトだけではない。目の前の雑木、草、あるもの全てがなくなった。
なっ、なに。
同時に来るふわっと体が浮かび上がるような感覚。知らないうちに前傾姿勢になっている。やっと気づいた。景色が消えたんじゃない。開けたんだ。背中の辺りがひゅっと冷たくなる。まさか……
――墜ちる。
「和葉ちゃん!!」
蘭の叫び声が聞こえた。
落下の恐怖に思わずぎゅっと目を瞑る。風を感じた。怖い。あとどのくらいで地面に激突するのだろう。此処はそんなに高くはないと思うけれど、打ち所が悪かったら大怪我なんてものじゃすまないかも知れない。
風がまた体を通り抜けた。ああ、これが墜ちるって感覚なんだ。と、妙に納得した気分になる。
けれど、急に浮遊感がなくなった。代わりにぐいっと強く体を引っ張られる。引っ張られると言うより、振り回されたみたいだ。景色が反転する。
そして、次の瞬間には自分の体は硬い地面の上に横たわっていた。
「な、なにが……」
和葉は呆然と呟いた。
目の前に崖がある。とりあえず、墜ちずにはすんだようだ。でも、どうして?
「蘭ちゃん……?」
嫌な予感がして、呼びかける。返事がない。さっきとは違う意味で風が心を冷やしていく。
「蘭ちゃん?」
少し大きめの声にしてみても、蘭の姿はない。背筋が凍る。最悪の場面が頭の中に広がった。
冗談よね……?
声に出したかも分からない。ただ目の前の崖を見つめながら愕然と思った。だめだ。体が動かない。足がすくむ。
ありえない。絶対にない。だってそんな……。
指ががくがくと震えた。崖の下になにがある。なんで自分は落下しなかったのか。なぜ――答えは簡単だ。崖の下を除けば、判る。
和葉は、ゆらりと立ち上がり、目下を見下ろす。そして、見つけた。
「――……っ」
息を呑み込む。声が出ない。
和葉の目線の先、崖の下には長い髪の少女が横たわっていた。
蘭ちゃん……。
和葉の脳裏に一瞬にして美國島での光景が蘇る。あの時は、崖から墜ちそうになった平次を遠心力を利用して和葉が地へと戻した。それとほぼ同じことが今起こったのだ。ほぼと言うのは平次が行った行為を自分は出来なかったから。身代わりとなり、落下してゆく蘭に手を伸ばせなかった。
どうしよう。
「どうしよう……」
自分の声が妙に遠くに感じる。変にエコーして、気持ち悪い。
「アタシのせいや……」
じわりと涙が浮かんでくる。
目の前が滲んだ途端、和葉はどうしようもないパニックに襲われる。
「蘭ちゃん!!」
ソプラノの叫び声が漆黒の森に響き渡った。
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