十九章 知る者、知らざる者
細く開いた窓の隙間から緩やかな風が吹き込んできた。
ざわざわと木が踊り、続いて不規則に訪れる沈黙。シャワーを浴びた後のすこし湿った長い髪を風が揺らしていく。
「風邪、引いてしまうよ。蘭ちゃん」
呼ばれて振り向く。陽気な声だ。いつもは高く結わいている髪の毛をおろし、遠山和葉が立っていた。白いタンクトップにジーンズという大分ラフな格好の彼女。それだけでも和葉は十分に魅力的だった。
蘭と目が合った瞬間、和葉はにこりと口元を綻ばせた。
「髪、もう少し乾かしたほうがええんちゃう?」
そう言って、和葉は蘭の揺れる毛先に視線を落とす。蘭は、思わず吹き出した。
なぜこのタイミングで自分が笑われたのか分からなくて、和葉は少しうろたえる。
「なんか、お母さんみたいなこと言うね、和葉ちゃん」
「え? そう?」
「うん」
和葉は、へえ、と目を見張った後、わざとらしく顔を顰めた。
「平次がアカンねん。いつまでも子供で、世話が焼けるんやもん。いっつも一緒に居るアタシは自然とそうなってしまうんよね」
あー嫌や、と和葉は何度も首を振った。蘭はくすっと笑いを零し、それからふと首を捻った。
いつも一緒に居る。
さらりと言われたその言葉に妙に揺すぶられる。和葉への嫉妬などではない。ただ、純粋に、不思議に思う。思わず首を捻ってしまう程に、なんだろうと思った。
いつもってなんだろう。一緒ってなに。
蘭は、知らず知らずの内に、大阪の街を二人仲良く喧嘩しながら歩く和葉と平次の姿を頭の中に思い描く。そして、また、知らず知らずの内に、大阪の街並みは東京の都会の風景へ、街行く二人は蘭と新一の姿へと変化した。
わたしと新一は”いつも一緒”だったのかな。
自分自身に呼びかけてみる。生まれてから高校二年になるまでの十六年間、確かにいつも一緒に居た。同じ時を同じ場所で同じ景色を見ながら共に過ごしてきた。。
それじゃ、あの日からは?
突然、新一が消えてしまったトロピカルランドに二人で行った日。たぶん新一はあの日を境に江戸川コナンになった。それでも。
指の傷が包帯の下で疼き、熱を持った。強引に、けれど優しく先ほどコナンが触れた箇所に蘭も自分の手を添える。
それでも……彼はやっぱり、
「いつも一緒……か」
「え?」
聞こえないように呟いたつもりだったけれど、和葉はきちんと振り向いた。なっなんでもない、と蘭はくるりと目を伏せた。
「なあ、蘭ちゃん」
いつの間に閉めたのか、窓の隙間は埋められている。閉められた窓の傍に和葉が立っていた。
月明かりに照らされながら、小さく微笑を浮かべる。
「ちょっと外出えへん?」
コナンは瞼を落とし、ベットに身を投げ出していた。ここ数日で一番ほっとしていたのだ。
――嬉しい。
蘭と言葉を交わせただけで、こんなにも安堵している。普段は気恥ずかしくて、こんなことを思っている自分を認めるのはなかなか難しいけれど、今だけは素直に頷けた。
ドアが開く音がして、それから隣のベットのスプリングが派手に軋んだ。コナンは片目を半分だけ開け、視線を横に流す。
「メシも食わねえで出かけやがって…… 和葉ちゃん怒ってたぞ」
反応はない。ただ、少し疲れているように息を吐いただけだった。
「どこいってたんだよ、服部」
服部平次は乱暴に横たえていた上半身を、これまた乱暴に起こし、にやりと含み笑いをした。
「仕事、や」
仕事? と、目を細めながら聞き返す。平次は含み笑いを止めようとはしなかった。
「なんだよ、それ」
「お前には関係……あるけど、今はない」
「引っかかる言い回しだな」
「いつか分かるちゅーこっちゃ。それも、近々な。せやから今は気にせんでええで。オレに任せとけ」
「はぁ?」
平次は、もぞもぞと口を動かして、肩を竦め、黙り込んだ。違和感が芽吹いた。
何か掴んだな。
確信する。顔を見れば一目瞭然。悟られないとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、なんて腹立たしい。
いくら神経が細くなっていようと、探偵の腕は落ちていないつもりだ。この男は何かを掴んだ。それもかなり大きなコトを。
けれど、曖昧に誤魔化されたことでコナンも追及する気が失せ、そのまま部屋は沈黙が支配した。
「そういやさ」
「ん?」
平次が首だけをコナンの方に傾ける。
「蘭と話したよ」
「ほんまか?」
「ああ。オメーの妙なお節介のおかげでな」
「ふん、節介言うてもオレに感謝してんやろ?」
「まあな」
苦笑しながらそう返すと変な間をおいて平次が、は? と零した。見ると彼は「鳩が豆鉄砲を食らったような」表情そのものであった。
そして、眉に皺をよせる。平次はそのままの面持ちでコナンに近づき、ぺたりと小さい額に手を置いた。
「なんだよ?」
「いや……やけに素直やなって思って。熱はないよな?」
その言葉を聴いた瞬間、コナンは顔を顰め、ぱんっと平次の手を振り払う。返事をする気にもなれなくて、ただ深くため息をついた。
平次は払われた手をひらりと振る。
「冗談や、冗談」
苦笑しながら言っているところをみると、あながち冗談でもなかった気がする。平次はまだ手を振っていた。
「それで? 仲直り出来たんか?」
「いや。それは、まだ……だな」
「そうか」
「けど、どんなに時間掛けても分かって貰えるように努力はするよ。少なくとも、もう蘭の泣き顔は見たくない」
真っ直ぐ前方を見据えて、コナンは言い切った。
「そんなに時間もかからへんと思うで」
「どうだかな」
平次は笑った。
「絶対や」
――絶対?
平次の断言にコナンは目を細めた。また一つ、違和感が根付く。
なぜそんな風に言い切れる?
でも、たしかに平次は笑った。もう先は読めているかのように。
先が読めてる?
ありえない。当事者の自分だって先のことなんかさっぱり分からないというのに。
それを平次に言うと「お前は自分のことに鈍すぎなんや」と軽くあしらわれる。正直言って、全て見透かしているような平次の視線が面白くない。
思わず拗ねたように横を向いてしまう。そんな子供じみた自分が急に恥ずかしくなって、コナンは何度も空咳を繰り返した。
それにしても……。
コナンの額に自然と皺が寄る。考えを馳せるときにどうしてもなっていしまう、いわば癖のようなものだった。
それにしても、この胸の引っかかりは何なのだろう。
この数日間で異常なことが起こり過ぎている。突然、工藤新一へと戻り、蘭に正体を知られ、とどめはこの手のことに誰よりも慎重である筈の灰原哀のあまりに浅はかな行動。
そうだ、灰原。これが最初の違和感だった。
以前にも感じたことだが、わざと危険を冒してまで解毒剤を飲ませるなんてどうかしている。それ程までに重要な目的が彼女にはあったのだろう。
でも、肝心の目的が分からない。
自分を工藤新一に戻すこと?
否。戻ったと言っても数分だけなのだから特にメリットがあったとは到底思えない。じゃあ、一体なんだ?
蘭に真実を知られてしまい、自分らの正体が外部に漏れやすくなったという決定的なミスを犯してまで、彼女が手に入れたかったものってなんだ。
決定的なミス――まさか、ミスじゃないのか。それこそが目的だったのか……?
今まで頭の片隅にあった全てのことが一本の糸に繋がれていく。
きっかけは只の小さな違和感、されど考えを馳せれば馳せるほど胸がざわつき、信じていたものを初めて疑うような感覚に陥る。
しかし、まだ足りない。繋がらない。
もし、本当に蘭に正体をバラすことが目的だったとして、灰原に有利になるものなんてあるのだろうか。
ふと、目の前の男が目に止まった。
『仕事、や』
平次の言動も違和感の一つだった。
「服部」
「なんや」
「おまえ……」
おまえ、知ってるのか。灰原が何をしようとしてんのか、調べてたのか。仕事って、それか? いや、でも……。
一瞬、問うてしまってよいものか躊躇う。
それって考えすぎじゃないのか。ちらりと思った。でも可能性はゼロじゃない、と続けて思う。
この一瞬の葛藤がこれ以上の語らいの時間を奪った。すぐ後に起こったばんっという衝撃音によってコナンの言葉は打ち砕かれ、思考は強制終了させられたからだ。
続いて、廊下を走ってくる足音が鳴り響く。
何事かと平次とコナンがドアのほうを振り返った刹那。
「平次!!」
空気は突如部屋に駆け込んできた和葉の悲鳴に切り裂かれた。
額に汗、頬に泥、そして目には涙を浮かべた和葉が息を切らしながら平次に抱きつき、勢いで体を揺さぶる。
突然のことに反応、出来ず平次は大きくよろけ、仰け反った。コナンも呆気にとられながら和葉を見つめる。
「平次! どないしよう!」
「ど、どうし……」
「アタシのせいやねん! ほんまどないしたらええの……!」
「だっから! なにがや!!」
泣きじゃくる和葉を引き離し、平次が言う。それでもまだ和葉の涙は止まらない。嗚咽を漏らしながら賢明に話そうとする和葉から一言だけコナンの耳に鮮明に届いた。
「蘭ちゃんが……っ」
愛しい人の名前を聴いた瞬間、少年の足は迷うことなく地を蹴った。
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