きっと僕らは光と闇を抱えて、(17/26)PDFで表示縦書き表示RDF


また前話から間が空いてしまいました。申し訳ありません。携帯電話が故障して執筆出来ない状況でした……。お詫び申し上げます。
きっと僕らは光と闇を抱えて、
作:日向ひすい



十六章 贖罪の産物






 まるで、幻の水の上を歩いているみたいだった。
 立ち止まればずぶずぶと沈んでいく鉛のような身体。振り向けば、歩いてきた筈の道は真っ暗で、唯波紋が延々と広がってゆく。
 直視しがたい現実。
 見てみぬ振りをしてきた自分自身の逃避。
 平次にストレートな言葉で突きつけられたそれは胸に深く突き刺さり、同時に蘭を瞑想に浸らせた。
 コナンは寝ていない、と平次は言った。それも一週間も。
 その事実を聞かされたとき、蘭はたまらなく不安に駆られた。自分のせいだと責任を感じたからではない。もちろん、新一を苦しめる不眠の原因が自分にあるということは判っている。罪悪感もある。
 けれど、それは単なる後付にすぎなかった。
 あの時、蘭の中から湧き出た感情はただ、彼を労る純粋な気持ちのみだった。
 自分で自分がわからない、なんて。頼まれもしないのに、嘲笑を一つ。

「これ以上信じられなくなるのが怖い」

 コナンが正体を曝したときに自分は確かにそう言った。嘘ではない。この言葉は本物だ。いや、本物だった。
 だから、前に進むことも、後ろに退くこともできずにいた。そして、しようとしていなかった。
 けれど、本当にそれだけなのか。答えは否。
 その理由に隠れているものを見落としていた。簡単なことを勝手に複雑化して、誤魔化して来た。
 そんなことさえも、平次に教えてもらうまで気がつけなかったなんて。
 ――このままでいいの?
 幾度も自分自身に問いかける。
 このまま、ずっと逃げているの?
 目を背ける?
 長年抱えてきた想いはそんなに簡単に捨てられるもの?
 首が自然に横に触れた。そんなわけ、ない。それじゃ、一体……
 一体、どうしたいの――?
 気がついたら、ある部屋の前に来ていた。
 今アイツは一人で部屋に寝てる。
 うかつにも平次の言葉を思い出してしまった瞬間、蘭は足元の幻の水が大きく波立ったのを感じた。
 冷たいドアノブに手を伸ばしては、しまう。また、手を伸ばしては、しまう。繰り返しその動作を行った。
 部屋に入ったところで、何を話せばいいのか。自分でコナンのことを拒んでしまったのだから、かける言葉は一つも浮かばない。
 残された蘭は一人、またさっきの動作を繰り返す。だが、やがて諦めたように息を吐き出し、思い切ってドアを軽く叩いた。二回ほど、ゆっくりと確かめるようにノックをした。
 心臓がばかみたいに早鐘を打つ。
 突然、蘭はこの場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。勝手に動こうとする足を必死に床に釘付けにして、相手が出てくるのを待つ。だが、なかなかコナンは出てこなかった。
 寝ているのかも知れない。
 そう思ってドアノブに手をかけた瞬間、扉が勢いよく開いた。はずみで蘭は数歩後ろに飛び退いた。

「もっと早く起こしに来いよ。服部――」

 下のほうに不機嫌顔で現れたコナンは、蘭の姿を捉えるなり激しく硬直した。

「らっ……蘭?」

 戸惑いを隠そうともせずコナンは、信じられないといった口調で言う。

「……コナン君」

 蘭はそう発したけれど、これは違うなと思い直して、

「新一」

 震える声で一言呟いた。コナンは自分の本当の名前が呼ばれた瞬間、小さく身震いした。蘭は自分の頭の中が真っ白になっていくのを感じた。

「ど、どうしたんだよ」

「あの、えーと……しょ、食事」

「え?」

「食事が出来たって、呼びに来たの……。和葉ちゃんに頼まれて」

 咄嗟に口を突いて出た嘘は我ながら笑ってしまうくらい貧相なものだった。もちろんコナンがそれに気づかなかった訳がない。
 人の口調、顔色、瞳孔の開き方さえもを味方につけ、偽りを見抜く。的確に真実を貫く。それが秀でた探偵の証なのだから。
 本当は何しに来た。
 そう問われると思った。けれど、コナンは唯頷くばかりで。

「あ、ああ。分かった。すぐ支度するよ」

「うん……」

 しどろもどろの会話とも言えないようなやりとりをして以来、二人は一言も言葉を発しようとはしなかった。
 コナンは動揺しながらもベットを直したり、部屋に転がっている服などを片付け始める。蘭はその様子をしばらく見つめていた。
 コナンの瞳がつっと横に流れ、蘭に注がれた。瞬間、彼はぎょっとしたように息を呑んだ。

「蘭……」

「えっ」

「その手」

 少し上擦った声に驚いて、急いでコナンの視線を辿ると、行き着く先は包帯が巻かれた自分の指だった。
 痛みなどとうに忘れていた。だが、血のついた包帯をよくよく見てみると今更ながらその下にある傷の深さにぞくりとなった。

「怪我したのか?」

「あ、なんでもないの。ちょっと包丁で切っただけで…… 和葉ちゃんが手当てしてくれたし、ほんと大丈夫」

「ちょっと見せてみろ」

「だっ、大丈夫だってば!」

「いいから」

「ちょっ……」

 いそいそと背中に回そうとした蘭の手をコナンは無理やり取って、優しく硝子細工でも扱うかように指の調子を確認し出した。

「見るだけだから引っ叩いたりすんなよ」

「し、しないわよ!」

 あの夜の事を言っているのだろう。思わぬ抱擁に思わず手を上げてしまった。あれだって別にわざとやったわけじゃない。あの時は混乱していたから……。
 真剣なコナンの表情は、もう「新一」としか見ることは出来なくて。何故今まで気がつかなかったのかと疑問に思う。
 いや、気づかなかった訳ではない。予感はあった。唯、知らなかっただけだ。
 知ると言うことは覚悟を伴うと、この一週間で学んだ。「江戸川コナン」の正体を知りたいと騒ぐばっかりで、何の覚悟も出来ていなかった。真実を知ってしまったら、もう引き返せない。何も知らなかった頃の暢気な日常は戻ってこない。そんなことさえ判らないでいた。
 自分の愚かさに笑いがこみ上げてくる。けれど、実際蘭の表情を崩したものは笑みでなく、涙だった。
 蘭の意思に関係なく涙は止め処なく溢れて。嗚咽を堪えるのが精一杯だった。
 ぽつりと一粒水滴が落ちる。
 それを手の甲で受け止めたコナンは、驚いたように顔を上げる。
 二人の視線が噛み合った。コナンはふと俯き、名残惜しそうに蘭の手を解放した。

「……悪い」

 違う。謝る必要なんかない。もうこれ以上贖罪を求めてなどいないのに。
 けれど、これ以上涙が落ちてこないように力を込めていた所為で言葉が出てこない。首を横に振るのがせめてもの返答だった。

「痛み、本当にないんだな」

「うん」

「そっか」

「うん」

「良かった」

 本当に安堵を滲ませたコナンの声に、また涙が出そうになる。蘭が唇を噛むその時間がしばらくの沈黙を運んで来た。
 蘭は自分の気持ちを落ち着かせて、やや低めの声で問うた。

「新一は?」

「え?」

「眠れないんでしょう」

 コナンは、はっとしたように蘭の目を見つめた。

「服部に聞いたのか」

「うん」

「ったく。蘭に言うなんて何考えてんだアイツ」

 コナンはわざとらしく顔を顰める。蘭はそれを無視して続けた。

「大丈夫なの? 今は? ちょっと寝れた?」

「眠れたよ」

「どのくらい?」

「たくさん」

「ウソ」

「嘘じゃねえって」

「嘘でしょ。全然寝てないんでしょ? 顔見れば、分かるよ……」

 語尾を小さくし、俯く蘭にコナンは優しく声をかける。

「心配すんな。オレは大丈夫だから。な? オレは探偵だぜ。一週間くらい寝ずに容疑者を尾行するなんて日常茶飯事なんだからさ」

「新一、ごめ……」

「謝んな」

 有無を言わせぬ口調に、蘭の言葉は遮られた。びっくりして顔を上げると、そこには悲しそうに、そして悔しそうに目を伏したコナンがあった。

「謝んなよ。蘭」

「でも!」

「オレの事情を背負い込むな。自分の所為だなんて絶対に思うなよ。これはオレの問題なんだ。オメーには関係ねえよ」

 辛辣な言葉の筈なのに、そこには苦悩が滲み出ていて。

「だけど」

「え?」

「けどさ、ありがとな。オレにはこんな事言われる資格ねーかも知れないけど」

 屈託なく、だけど何処か皮肉めいた笑みをコナンは浮かべる。
 こんな顔、似合わないなと蘭は思った。して欲しくないと瞬時に願った。
 ああ、やっぱり簡単な事だったんだ。どんなに足掻いても、抗っても、この想いだけは真実。何より信じられる新一からの賜物。
 だからこそ、わたしは……。

「さ、飯食いにいこうぜ」

 口調をがらりと変えてコナンが言う。言いたい事はまだあるのに、蘭は頷くことしか出来なかった。



 扉を開けたとき、夢を見ているのかと思った。久しぶりに眠りに落ち、自分勝手な夢を見ていると。
 蘭は食事に呼びに来たと言った。それが嘘なのは見て取れたが、そんなことはどうだっていい。理由なんて要らない。蘭と言葉を交わしているという事実を噛み締められれば、後はなんだって良かった。
 不思議だ。幼馴染として何年も付き合ってきている筈の蘭を不思議だと感じた。単純で、涙もろいけれど、優しくて。この見解に間違いはなかった筈だ。少なくとも今日までは。けれど、初めて掴み損ねた。
 ここ一週間ほど、彼女には拒絶され、目を背けられ。当然の報いだと思った。おそらく神経の疲れから来ているのであろう不眠症も蘭に負わせた傷を考えれば、受け止めることは容易だった。
 今日は違う。蘭の方から自分を訪ねてくるなんて、眠れない自分の心配をしてくれるなんて信じられない。
 もっと憎めばいいのに。自分を欺いていた男のことをもっと詰ればいい。苛めば楽になるのに。
 けれど、嫌われたくない。
 蘭にだけは嫌われたくない。いや、嫌われてもいいから憎まれたくはない。そう思ってしまう。蘭の人を恨めない性格をありがたく感じてしまう。そんな自分の甘さがたまらなく嫌だった。
 遅すぎたのだ。全てが。二人過ごした時間は忘れるには長すぎる。蘭への想いは断ち切るにはあまりに重い。
 コナンは唇を噛み締めた。噛み締めたまま、かぶりを振る。
 やめよう。今は考えられない。考える時間も気力もない。
 けれどいつか、近い内に変わってみせる。この壁を崩してやる。
 また二人、歩み寄れる日を目指して。



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