十五章 絡み合うのは
コナンを半ば無理矢理寝かしつけた後、平次は頭を冷やすためにテラスへと足を運んだ。
短髪を揺らす風が心地良い。都心とは違う自然の空気を吸い込み、やや強い風にされるがままになる。
――何やってんやろ。オレ……
平次は独りでに苦笑を零す。そして、出ていきざまのコナンの言葉を思い出してほくそ笑んだ。
”ありがとな。服部”
「ほんま、どういたしましてやで」
その時、平次の胸ポケットの中で携帯電話が震えた。見たことのない番号がディスプレイに表示される。
夏休みなどの期間休業中に平次に電話をかけてくるのは大抵和葉か、部の仲間か、刑事達と決まっている。新一と電話越しに話をすることもあったが、それのほとんどは平次からかけていたものだった。
平次は怪訝に思いながら、通話ボタンを押し、携帯電話を耳へと持っていった。
「もしもし」
「……」
返事がない。相手の無作法に多少苛ついて、更に電話の向こうに呼びかける。
「もしもし?」
「こんにちは」
その声を聞いて、今度は平次が言葉を失う。
声の主は一瞬にして分かった。一度聞いたら忘れられない、その年齢にそぐわぬ落ち着きを払った美声。
だが、彼女がなぜ自分に連絡を?
「いえ。もう、こんばんはかしら」
くすりと笑ったような声が聞こえた。平次は困惑しながらも懸命に平静を装う。少し咳払いをして、心臓を落ち着けた。
予想外の出来事などいつも体験しているのはずなのに、足元がぐらつく。
ため息をつく。
けれど、平次がここまで戸惑うほどに、この少女からの電話は危険な香りを漂わせていたのだ。
「何の用や?」
「そんなに警戒しないで。だから、探偵って嫌なのよ」
「工藤か?」
「違うわ。あなたに訊きたいことがあるの」
静かに少女は言った。平次はごくりと唾を飲み下し、身構える。
「なんや」
「お願いだから警戒しないで。私と話していること、彼に悟られないようにして。いい? ……それで、滞在はいつまで?」
「は?」
「だから、いつまで東京を離れてるの」
素っ気なく訊かれた。なんだ、そんな事か。体全身から力が抜けていくのを平次は感じた。だが、足元がぐらつく感覚はまだ続いていた。
突然、受話器の奥で物音がした。扉が開いた音だ。続いて、なんと言ったのかは分からなかったが、確かに男の声がした。
途端に少女の慌てた様子が伝わってくる。
「早く!」
「え」
「早く言って」
今まで冷静だった声が、突然噛みつくようなものに変化した。
いきなりの豹変に戸惑い、平次は口ごもる。自分と話しているのが見つかったらまずいのか?
「……明後日までや」
「明後日、ね。ありがとう。それじゃ」
「あっ……ちょっ、ちょー待て!」
「あなたには感謝してるのよ」
僅かに笑いを含んだ声に遮られる。平次は、はっと息をのみ、足を踏ん張った。
――感謝?
「あなたが、工藤君を連れ出してくれたんだから」
「は?」
「ありがとう。本当に」
その言葉の意味を問う間もなく、もう通話は断たれていた。冷たい機械音だけが平次の耳に煩くこびりつく。切断されたと分かっていても、耳から電話を離すことが出来ない。
なんやったんや……
平次は、ただ呆然と呟いた。
今のはただの少女の戯言だ。気にするに値しない。ならば、この締め付けられるほどの不安感はなんなんだ。
そもそも自分は何故、少女から連絡が来ただけであんなにも動揺したのか。普段なら絶対にそんなことはない。
何かが、おかしい。引っ掛かる。今の電話の何かが……。
ふと、人の気配を感じて振り向いた。
薄暗闇の中に蘭が立っていた。平次を見上げたその表情は美しくも悲しげで。整った大きな瞳には、切迫した感情だけが浮かんでいる。
まだ自分の手が携帯を握っていたことに気づき、耳から離した。
「いいの? 話し中だったんじゃない?」
蘭は、ばつが悪そうに平次に訊いた。さっきの電話のこともあって、平次はなかなか緊張の姿勢を解けずにいた。「いや……もう切れとったから」と答えるだけに留める。
平次の様子を変だと思ったのか、蘭は不思議そうに首を捻った。
――まずい。
何がまずいのか、平次自身よく分からなかったが、とにかく目の前の少女の神経をこれ以上すり減らすような行為だけはしないように努める。今、一番辛い状況にいるであろう彼女をこれ以上不安にさせる必要は皆無だ。
「それより、なんや?」
優しく聞くと、蘭は真剣な表情で軽くうなずいた。
「服部君に訊きたいことことがあるの」
――あなたに訊きたいことがあるの。
さっきの言葉が思い出される。また胸がざわめく。いったい何だと言うのか。
平次は、「訊きたいことって?」と慎重に聞き返した。蘭はまた軽く頷いたが、その後少し沈黙した。そして、顎をくいっとあげ平次と視線を絡ませた。
「コ……し、新一のことを教えて」
小さく、しかしはっきりとそう言った蘭の表情は崩れ、いまにも泣きそうなものになった。平次は一瞬ぽかんと口を開け、目をぱちくりさせる。
「……それは、アイツから聞かされたんやろ?」
そう言うと、蘭の身体はびくっと跳ね、興奮して顔は硬直した。「やっぱり」と、突然叫んだかと思うと、立ち上り地面を大きく蹴った。
「ど、どないしてん……」
「やっぱり服部君、知ってたのね」
「せやから、何を」
「コナン君が新一だって……!」
そう訴える蘭を見て、平次はやっと状況を理解した。顔を引き締めて、ああと頷く。
「知っとったで」
蘭はそれだけ聞くと、地面にへたり込んでしまった。慌てて平次が手を差し伸べたが、あまりの無力感にこっちまで引きずられそうになった。「大丈夫か」と平次が聞くと、蘭は小さく頷いた。
がくっと脱力したままで蘭は静かに囁く。
「いつから……なの?」
「ずいぶん前から」
「なんで、教えてくれなかったの」
「……」
「分かってる。服部君は優しいから、新一が自分で言うの待ってたんだよね。わたしも……もう少し、待ってればよかった……」
かける言葉がなくて、平次は押し黙った。蘭は、平次が眉をひそめているのに気がつくと、はっと手を振った。
「ご、ごめん。わたし、こんなこと聞きたいんじゃないのに」
蘭は、首を横にやり、軽く目を瞑った。平次は、首を捻って蘭を見る。
「ほな、何を?」
「わたしの知らない……アイツのこと」
「工藤?」
「うん。わたしが、コナン君としてしか見ていなかった間の新一を教えて欲しいの」
平次の表情は変わらなかった。二、三度瞬きを繰り返しただけだった。
なんと答えれば良いのか。平次は、ただ、それだけを考えていた。
自分と工藤新一との間に面識が生まれたのは、彼が”江戸川コナン”へと幼児化した後。もちろん平次は、東の高校生探偵として注目を集めていた新一を常に気にかけていたのだが、あの時は表面上ばかりで彼の内面までは知らなかった。知る必要などないと思っていた。
ライバル。
そんな軽い言葉で表したくはないけれど、それ以外に二人の関係を上手く当てはめる術がない。そして、今ではそこに友情まで絡んできている。
いつの間に。そして、何故。
やはり、そこには互いに持つ幼馴染の存在は欠かすことは出来ないだろう。
同じ幼馴染を持つ者として、彼にとってそれが探偵として、人として、どれだけ支えになっているのか、痛いほど判る。
だからこそ、慎重に言葉を選らばなくては。
平次は大きく息を吸ってみる。花の香りが鼻腔に広がった。
「オレは、工藤新一でいたときのアイツを知らんけど、たぶん全然変わってへんで。工藤のヤツ、アンタのことばっかりや」
「え?」
「気づかへんか? 工藤は小さなってからも、ずっと見てた。ずっと傍におった。自分を犠牲にしても守り通そうとしてたんや。大切にしとった。アンタを」
蘭の目がみるみる広がっていく。
「アイツは何にも変わってへん。まあ、見た目は変わったけどな。でも、此処は姉ちゃんの知っとる工藤のまんまやで」
そう言って、平次は自分の胸の辺りをとんと軽く叩いた。
「向き合うの、怖いんは分かる。けど、このままじゃ何にもならんのとちゃうか? きちんと話さんことには何も解決せえへん。まだ、聞いてへんのやろ? なんで工藤が小学生になってしもたのかとか、なんで姉ちゃんに黙っとったのかとか。聞いたってくれや、アイツの口から。工藤は姉ちゃんに自分を偽るのを止めたんやで。今、逃げてんもうてんのは、アンタの方やと思うけど」
そこまで言ってから、しまったと思った。
今言ったほとんどのことは自分が言うべきではなかったかもしれない。変わってないなんて何度も連呼すべきではなかった。
言葉を選んでいたつもりなのに、いつの間にかいつもの謎解きモードになっていたようで、変に饒舌になってしまっていた。前にもこんな失敗をした気がする。
身体は正直なもので、そう思った途端に平次の口からは、あっという呟きがもれていた。
「ス、スマン。言い過ぎた。つい……な。オレが今、言ったこと、気にせんでええから」
平次がそう言うと、蘭はゆっくり首を横に振った。
「ありがと」
「は?」
「ありがとう、服部君。なんだか……まだ、分からないけど……話、聞いてよかった」
「そうか?」
「うん」
蘭が、にっこりと微笑む。笑えるようになったのかと、おかしな安心感が全身に広がった。
平次もその笑みにつられて笑い返す。
「ほな、よかったわ」
そのままテラスを退散しようとしたが、ふと思い出して足を止める。
「お節介ついでにもう一つだけ言ってもええか?」
「うん。なに?」
「工藤、寝てへんみたいなんや。ここ一週間。知っとった?」
蘭は驚いたように口元を強張らせ、ぶんぶん首を横に振った。
「そうか。あっ、いや、アンタを責めてるんとちゃう。姉ちゃんの方が大変やったんやろうし。ほら、そんな顔すんな。せやからな、何が言いたいかっちゅーと、今アイツは一人で部屋に寝てる」
「寝てる?」
「せや。ま、それだけやから。オレ、行くな。冷えてきたし、和葉もそろそろ飯作り終わったやろ」
「あっ、うん」
「ほな、頑張って」
最後にそう付け加えて、静かにテラスから出る。今まで風に当たっていたから、なくなるとなんだか少し物足りなさを感じる。
――あのタイミングで頑張っては、ちょっとクサかったな……。
平次は一人、苦笑をこぼす。
我ながら粋な計らいをしたものだ。両手をあげ、胸を張る。
「しっかりせえよ、名探偵」
そう、小さく呟いて……。
――ピッ。
「ただいま、哀君」
電話を切ったのと、博士が部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。
良かった。どうやら、電話をしていたことは気づかれていないみたいだ。
哀は、出来るだけ自然に博士におかえりを言った。博士は微笑んで、手に持っているビニル袋を誇らしげに掲げた。
「ほれ。すごいじゃろう。今日は、珍しい部品が手に入ってのう」
「よかったじゃない」
嬉しそうに話す博士に、哀も合わせて感心したような態度をとる。
「そうじゃ。歩きながら考えておったんじゃが、今から二人で」
「博士」
滑らかに話す博士を、哀は静かに遮った。
「博士。私、いまからちょっと研究室にこもるつもりなの。出来れば静かに作業したいんだけど」
博士は一瞬戸惑ったような表情になったが、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。
「あ、ああ。分かった。じゃあ、コレは今度にしようかの」
「ええ。悪いわね」
哀は、本当に残念だわという表情を作りながら博士の前から立ち去り、研究室への階段を一段一段丁寧に下りた。
扉を開け、自分が入るとすぐにピシャリと閉じる。電話を取り上げ、名刺を見ながらダイアルを押す。
研究室は防音になっているから、誰にも会話を聞かれる心配はない。
女は、ワンコールですぐに出た。けれど、相手の様子を伺うために、すぐには返事をしない。女は、さっきの相手とは違い、哀が返事をしなくても怒鳴るようなことはしなかった。
おそらく、今は一人なのだろう。女の口元が擦れる音以外は聞こえない。
それが確認できてから、ようやく哀は口を開いた。
「お久しぶりです」
「そうね。あなたから連絡が来たのにはちょっとびっくりしたわ」
サプライズ。国籍が国外なだけある。とてもいい発音で女はそう言って、ふふふと笑った。
「それで? 今日はどうしたのかしら。もしかして、私たちの要求、呑んでくれることにしたの?」
「まさか。それは前に断っているはずよ」
「そう言うと思ったわ」
女はまた笑った。そばで、氷と液体がぶつかる音がする。哀は、「お酒でも飲んでるの」とからかい半分に聞いてみた。だが、返ってきた返事は「ただの水よ」というそっけないものだった。
そう、分かった。早く本題に入れって事ね。いいわ。
「あなたに電話したのは頼みたいことがあったから。もちろん、ギブアンドテイクは守る」
「あら、何をくれるのかしら」
好奇心を滲ませた声で問いかけられる。
食いついてきた。この糸は絶対に離さない。
「新しい情報を掴んだの。全部、あなたたちに売るわ」
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