十一章 分岐点
拳が静かに震えた。
視線を車窓の外へと走らせると、左から右へ物凄い速さで流れる深い緑色。思わず引き込まれそうになる。拳の震えた原因がこの景色にあるのはまず間違いない。だが、それは感動なんて言う楽観論ではないのも明らかであろう。
怒り、だ。
誰にでも在るものだと思う。怒りとはかなり大切な感情であり、自分を制御する能力、即ち自制心なるものを養う上で大切な役割を果たす。ただ、それが時には殺意に変わると言う事を探偵たるもの熟知しておかないとならないわけである。
そして、今この瞬間にコナンの体内にふつふつと煮えたぎる怒りはその後者に属した。
「おー! めっちゃ迫力あんな」
コナンと同じ様に窓の外を堪能していたある一人の男が唐突に叫んだ。
ふざけんな。
コナンは心の中で鋭く毒づき、隣に座る色黒の青年を自分に出来る最大限の眼力で睨み付ける。けれど、小学生の童顔では大して怖くもないのだろう。青年はコナンの視線を、あっけらかんと笑い飛ばす。
「なんや? そんな顔して。感謝される覚えはあっても、恨まれる覚えはないで」
「ハハ…… 誰が恨まれる覚えはねえだって?」
コナンの声が何かどす黒い物を帯びる。
「どうしても分からねえってなら一つずつ挙げてやろうか? なぁ、服部」
服部と呼ばれた男はようやく自分に向けられた只ならぬ殺気に気が付いたのか、顔をひくつかせ、両手を軽く挙げた。いわゆる”降伏”の姿勢である。
だが、一度はけ口を見つけた怒りはそう簡単には大人しくならないものだ。コナンはそれを無視して話を続ける。
「一つ目はな、服部。昨日オメーが勝手にオレの家に入って来やがった事だよ」
「あ、ああ」
「オメーのせいで蘭との会話が中途半端になっちまったじゃねーか」
コナンは不機嫌を少しの躊躇いもなく顔に表す。
「それは何度も謝ってるやろ」
「謝って済む問題じゃねーんだよ!」
大して悪びれた様子のない平次にコナンは声を上げる。
「大体何でオレが工藤邸にいるって分かったんだ」
睨み付ける目はそのままで、けれど口調の角は少し取って平次に問う。
「あのちっこい姉ちゃんに聞いたんや」
「は? 誰だよ、それ」
「ほら、あの阿笠っちゅーじいさんの家に住んどる……」
「灰原?」
「せや! そいつや」
コナンが眉間に皺を寄せる。
「なんで博士んちに?」
「東京着いてすぐに探偵事務所に行ったんやけど、誰も居らんくてな。お前らの行き先知ってる人探してたんや。それであの家に行ったら、あの娘が出てきた」
「アイツ、何て?」
「なんや、質問攻めか?」
「いいから答えろよ」
「”さあね、隣の仰々しい家でも探してみたら?”やって」
けったいな娘やな、と平次は付け足し、ふわりと欠伸をした。コナンは口元に手を当てて考える。
――アイツ、見てたのか。
思えば、灰原とは不自然な別れ方をしたままだ。あの時は蘭が行方不明になったと聞いて無我夢中で博士の家を飛び出したから仕方がない。そう言えばあの”ごめんなさい”の意味もきちんと聞いていなかった。其ればかりでなく、最近の灰原は少しおかしい。コナンに未完成の解毒剤を騙してまで飲ませるなんて彼女らしかぬ行為である。
――なにかを隠してる……?
「工藤?」
名前を呼ばれて思考が断ち切れた。我に返る。
「また考え事か?そんなに何でもかんでも背負い込むと潰れてまうで」
何て事無い暢気な口調ではあったけれど、胸にすっと落ちてきた。軽く頷く。
「そうだな」
「そうや。只でさえ今のお前には考えんとアカン事が」
「じゃ、二つ目」
コナンは平次の言葉をさらりと遮り、顔の前で指を二本立てた。
「まだ言うんか!」
「なんか文句あんのかよ」
ぎろり。相応しいかは別として、その擬態語が一番的を射ていると思う。平次に注がれた視線は厳しく険しい。
「いや……」と平次は思わず身じろぎする。
「ここどこだと思ってる?」
「は?」
「だから、オレ達がいるこの場所どこだと思ってんだ」
「どこって……」
朝焼けの奥に隣宅が見えた。哀は静かに高く聳え立つそれを見詰める。
「哀君?」
何を見ているんじゃ、と博士が歩み寄って来る。博士は、哀の視線の先に気が付くと顔を綻ばせた。
「新一君、か」
哀は否定も肯定もせず、ただ黙って口元を引き締めた。
朝日が差し込む。信じられないくらい眩しい。けれど、目は閉じない。暗闇が、怖いから。
「昨日は驚いたのう」
「本当に」
「蘭君が見つかって良かった」
そうね、と軽く相槌を打つ。
昨晩、帰って来た時の博士は酷い状況だった。額からは汗が噴き出し、白衣は乱れて中のシャツが丸見え。必死に走り回って彼女を探したのだと外見で察した。
当然と言えば当然だ。博士にとって彼女は孫同然の存在なのだから。それならば、私はどうなのだろう。
ねぇ、博士。私が突然居なくなったらあなたはどうするの。探し回る?疲れて立てなくなるまで走るの?そんなの、無意味よ。全て無意味だわ。
ばちり。博士と目が合う。訳の分からない気恥ずかしさが哀にそっぽを向かせた。
「それにしても、まさか彼が来るとは。そう言えば君は会ったんじゃったな」
「……忘れたわよ。そんなこと」
博士は優しく笑って哀の隣に立つ。
――探偵事務所に誰も居てへんねんけど。アンタ、何処に居るか分かるか?
昨日、服部平次に唐突に聞かれた内容だ。はっきり言って彼とはあまり面識がない。大阪府警本部長の一人息子で工藤新一に並ぶ探偵である事以外は殆ど知らされていない。故に答えて良いものか迷った。けれど、彼らの為に自分に出来ることはもう残されていない。そう思い直し、居場所を教えた。それに。
――それに、私には他にやるべきことが在る。それを全うしなければ。
「工藤君達は今何してるのかしらね」
哀がぽつりと呟く。
「新一君?ああ、きっと今頃は新幹線の中じゃろうな」
「え?」
「ん、何も聞いてないのか?」
何も、というふうに首横に振る。博士がにこりと唇に緩い弧を描く。
「旅行じゃよ」
「りょこう?」
まさかそんな言葉が飛び出てくるとは思ってもみなかった。
何やってるのよ。もう彼女とは話がついたの?こんな時に遊びに行くなんて何考えてるの。
哀の表情が突然険しくなった事に気が付いた博士は慌てて説明を付け足す。
「ほれ、今は夏休みじゃろう?それで服部君が無理矢理新一を引っ張って行ったらしい。それどころじゃないのにって新一から愚痴の電話を今朝もらってのう」
「ふうん」
「哀君……?」
「なに?」
「何がおかしいんじゃ?」
「は?」
「さっきまで顔をしかめとったのに、今は笑っとるぞ」
笑ってる?私が?
掌を頬に持っていく。確かに口元がやや上につり上がっていた。哀の肩が小刻みに震える。俯いた口から笑い声が漏れた。だが、それも一瞬で終止符を打ち、沈黙が訪れる。
なるほどね。なかなか仕事がやりやすくなったわ。まだ神に見捨てられてはいなかった、か。
わざと音を立ててスカートの埃を振り払った。
――心配じゃ。
それは、博士の口から零れた小さな呟きだった。哀が首を傾げる。
「なにが? 工藤君の事? 彼なら大丈夫よ。きっと気まずい旅行を楽しんでるわ」
「君の事じゃよ、哀君」
「私?」
「危ない事しとらんか。わしらに何か隠し事をしとらんか」
「何よ、それ」
「嫌な予感がする。何か悪いことが起きる気がしてならないんじゃ」
博士が小さく息をつく。
「彼女に工藤君の正体がバレたのよ。もう充分悪いことが起きたじゃない」
「いや、それだけじゃなくて……」
「いいえ。それだけ、よ。もう何もないわ。安心して、博士」
哀は博士の肩に優しく手を置き、微笑んだ。つられて博士もおずおずと笑い返す。博士は
「そうだな。わしの思い過ごしじゃ」と一人で納得したように苦笑すると、朝食の用意をすると言って哀に背を向けた。
博士の出て行った後、哀は目を瞑り深く息をつく。大丈夫。哀は小さく呟いた。
「大丈夫。何も問題ない。博士にも、工藤君にも、誰にももう迷惑はかけない」
いつまでも黙ってただ守りに入っているわけにはいかないのだ。覚醒せねば。その想いだけが哀を突き動かしていた。
哀は静かに研究室へと歩く。
パソコンの起動音が冷たい部屋に響いた。
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