九章 沈黙の傍らで
蘭は暗い部屋に一人座っていた。
暑い。誰も出入りせず、冷気を暫くの間通していなかった部屋は、とにかく暑い。うだるような熱気が蘭を包み、掴んで離さない。だが、不思議と汗が服に滲む事はなかった。常に背中に寒気を感じていたのだ。
辺りを見渡す。高い天井。広い洋間。聳える本棚。東京に在るにしては珍しい洋館を思わせる風貌だ。
ほんと、道楽息子なんだから……
くすりと笑い声がした。びくっと肩を震わせて周りを確認したが、人の気配はしない。どうやら今の笑い声は自分が発したらしい。信じられない。こんな時でも笑えるなんて、なんて図太いのだろう。
蘭はため息をつき、目を伏せた。
アイツの事を考えるといつも、そう。自分でも信じられないくらいに、わたしは図太く、楽観的になる。涙もろくもなる。酷く気持ちが揺さぶられたり、安心感に浸れたりする。
それだけ、わたしはアイツを想ってる。想ってる筈だ。なのに……
なのに、試すような事をしてしまった。一番残酷で、卑怯な行為だと判っていたのに。疑惑を持ったなら、直接問えば良かった。直接想いをぶつければ良かった。判っているのに。
――コナン君は新一なの?
今まで幾度となく抱いてきた同じ様な疑念。けれど、肝心な時に直視出来なかった。現実を受け止めるのが怖くなった。何故なら、今まではあんなに生々しく”新一”と言う存在に触る事はなかったから。
コナン君は新一なの?
言えない。訊けない。受け止められない。
ねぇ、怒ってる?
困ってる?
悲しんでる?
もし、来なかったら。
その考えが唐突に蘭を襲った。後ろに仰け反るほど、唐突に。
もし、来なかったら……それでいい。誰も来なかったらわたしは今まで通り、アイツを待ち、あの子と暮らす。それが一番良い。そうに決まってる。
もし新一が現れたら。メールを見た新一が現れたら……そうしたら素直に再会を喜ぼう。
「どうしたんだよ? あんなメールよこして」
「うん。どうしても、無性に新一に会いたくなっちゃったから」
「そ、そっか…… いや、その、オレもそろそろオメーのアホ面を見たかったと言うか……」
照れた様に頬をかきながら、そっぽを向く新一が目に浮かぶ。そんな少し艶やかな会話が出来るかも知れない。
もちろん、わたしに”会いたかった”などと言える素直さがあれば、の話だけれど。
それじゃ、もし。
もし”コナン君”が現れたなら、わたしはどうすれば良い。何でここに来たのと訊くの?自分で呼び出しておいて?
唇を押さえ、かぶりを振る。
まだ判らない。だって、わたしはまだ真実を聞いてはいない。勘違いかも知れないじゃない。そう、勘違い。こんなの馬鹿げた妄想だ。妄想? 本当に? ――違う。妄想なんかじゃない。
それは今までの様に唯の直感でなく、確信だった。
ねぇ、怒ってる?
困ってる?
悲しんでる?
教えてよ、新一。あなたは今どんな顔してるの……
蘭の耳が扉が開く音を捕らえた。扉には鍵を掛けていなかった。すぐに彼が入って来られるように。
「…蘭……」
小さく聞こえた声。足音。ゆっくりと振り向いて、そこに居たのは眼鏡を掛けた、見慣れた小学生の姿だった。
蘭は目を閉じ、すっと息を吸った。
コナンは玄関のチャイムを押そうとした手を止めた。
きっとドアに鍵は掛かっていない。理由は無いがそう思った。いや、感じたと言った方が正しいかも知れない。ドアノブに手を掛けると、案の定、扉は何の重みもなく開いた。きぃ……っと嫌な音が響く。自宅ながら少し気味が悪い。
家の中に足を踏み入れた途端、むわっとした熱気に襲われた。その熱気の中に彼女は居た。
反対側を向き、行儀良く椅子に腰掛ける細身のシルエット。艶のある長い髪の毛は僅かな光でも跳ね返す。
「…蘭……」
コナンは小さく呼び掛けた。蘭が振り向く。暫し閉じられていた瞳が、こじ開けるように開かれた。
「蘭」
もう一度確かめる様に呼ぶ。返ってきたのは蘭の弱々しい泣きそうな、笑みだった。
「蘭姉ちゃん、でしょ」
コナンは何も答えなかった。黙って蘭の元へと歩く。膝の上できつく結ばれている蘭の指は微かに震えていた。
蘭は、コナンがそれを見ているのに気が付くとキュッと指に力を込めた。
「蘭。あのさ」
「大騒ぎになってる?」
震える指先とは対照的にはっきりした口調に遮られた。思わず、え?と間の抜けた声を出してしまう。
「わたしが見つからなくて大変な事になっちゃってる?」
「あ、あぁ、まあ。蘭が行方不明って」
「えっ。まさか警察なんて呼んでないわよね」
「それは、ねーな。おっちゃんが『蘭は自分が探し出す』って言ってたから」
「なにそれ。たまに部活サボっただけなのに、大袈裟だなぁ」
「大袈裟って…… おっちゃん、すげー心配してたんだぞ」
「たまにはいいわよ。いつも娘の事なんかそっち退けなんだから」
肩をくすめて、口元に緩やかな弧を描く蘭。綺麗だ。思わず見入ってしまう。だが、大きくて形の良いその目は決して笑ってはいなかった。
背中の辺りが寒くなる。言葉に詰まる。ここに来るまでに、沢山の言葉を考えて来た筈なのにそのどれもが脳内から吹っ飛んでしまっていた。
冷や汗が頬を伝い、口元に当たった。何か言わなくては。だが、その口は重たくて、開くことが出来ない。
どうした。何か言えよ。言わなきゃ蘭に何も伝わらないだろう。
「ら……」
「やめて」
突然蘭が叫び、耳を塞いでうずくまった。
「蘭?」
コナンは戸惑いながらも蘭の元へと駆け寄る。
「ちょっと、待って……」
それは、まさに哀願だった。小さく消え入りそうで、何かを請う響きが含まれていた。胸がチクリと疼く。
言われた通りコナンは時間を置いた。蘭にはこの何倍もの時間待っていてもらったのだ。この位何でもない。時間は何でもないが、やはり沈黙は重たかった。
どのくらい経っただろう。五分かも知れないし、一時間かも知れない。やがて、うずくまっている蘭がポツリと言った。
「あの日……」
あの日。あの嵐の夜の事だろう。
蘭が顔を上げた。視線が噛み合う。その瞳に刻まれているものは怒りでも、悲しみでもない。あれは困惑か?
「あの日、わたしはコナン君のベッドの上で新一を見た」
ぽつり、ぽつり。蘭の艶やかな唇から零れ落ちる言葉をコナンは黙って聞いていた。
「見た、気がしたの。だって有り得ないよ。そうでしょ?夢だと思った。朝起きたら全部元通りになってる。そう信じたて眠ったの。
実際、次の朝いつも通りコナン君が起きてきた。あっ、いつもより少し疲れてるみたいだったかな。だけど、それだけ。背はわたしより低かったし、眼鏡も掛けてた。
普通ならこれで安心出来るよね。やっぱり勘違いだったって。だけど……駄目だった。どうしても不安でどうしようもなくて」
蘭はそこで言葉を切り、息をついた。
「やっぱり心の奥で勘違いじゃないって思ってたのかな」と力なく微笑む。コナンには返す言葉がなかった。蘭は続ける。
「それで昨日、ベッドの横で囁くコナン君の言葉を聞いて……」
「あの時、起きてたのか」
「ごめんね。寝てるふりしてたの」
蘭の髪がさらりと揺れる。
「コナン君――あなたの言葉を聞いて、どうすればいいのか判らなくなった… 今まで通りはもう無理なんだって思った……」
「蘭……」
「だから」
蘭の口調が少し強めに変わった。コナンはぎくりと体を震わす。
「だから、本当の事を教えて。コナン君はコナン君だよね?新一とは別人なんだよね?」
「……」
「お願い…… 答えて」
消え入りそうな蘭の声。穏やかな息遣い。
”蘭でいい!蘭のままがいい!”
不意に小さい頃の蘭の言葉が脳裏をかすめた。
”わたし新一がだーい好き”
”聞こうと思ってもこっちからじゃ聞けないから……”
”言い訳なんて聞きたくないよ…”
”一人にしないで……”
次々と浮かんでは消え、浮かんでは消えて行く蘭、蘭、蘭。小さい頃から現在に至までの様々な幼馴染みの姿。いったい自分の何処にこんなに沢山の彼女が居たのか。とにかく、底はかとなく出て来る。
だが、どれも今の蘭ほど苦しそうな表情はしてはいなかった。今の蘭は張りつめていて、少しでもつついたら破裂してしまいそうなほどで。
もう、限界だ……
コナンは目を瞑り、瞼の下に闇を確認すると、静かに自分の眼鏡を外した。蘭が息を呑む気配がする。
「蘭……」
蘭の息遣いが聞こえる。
「蘭、ごめん。オレは……オレの正体は……」
躊躇う様に目を伏せる。だが、それも束の間。コナンはすぐに顔を上げ、蘭に向き合う。
二人の視線が絡み合う。
「工藤新一」
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