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あたしは、猫。 作者:山本 風碧

第二章 花嫁がやって来た

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7 十の戒律

「はぁ」
 あたしはリュシアンの部屋を掃除しながらため息をつく。
 この部屋の掃除を始めて何度目だろう。ため息をつくと幸せが逃げていくとか言うけれど、『あの話』を聞いてから今までについたため息で、あたしはもう一生分の幸せを逃がしてしまっているかもしれない。
 あーあ。むなしいわ。そんなこと思っちゃ駄目って自分に言い聞かせるけど、どうしても駄目だった。
 ――お姫様と結婚。いいじゃない。結構な事じゃない。それこそ、究極の恩返しが出来たって、喜ばないと。
 そう思おうとするけど、心の中はぽっかりと大きな穴が空いたようだった。
 外を見ると木の葉が風と手を取り合って、くるりくるり、ダンスを踊っている。先日まで青々としていた庭の木々は少しずつ色づき、その葉は落ちていっていた。空は灰色。少し前までの鮮やかな景色は、秋風の刃に削られてだんだんと落ち着いた色合いを醸し出している。
 あたしはベッドに近づき、そのシーツを引きはがす。少し埃が舞い、鼻がむずむずした。窓を開けると冷たい風が流れ込み、ベッドの横の棚でひらひらと本がめくれた。
 あたしはシーツを丸めると、剥き出しになったベッドに腰掛ける。

 作戦は失敗だった。
シャルルに「試しにその姿で一緒に寝てみたらぁ? いい恩返しになるんじゃない?」ってニタニタ笑いながら言われたから、そんなものかって思ってやってみたのに。
 一緒のベッドで眠るのは出会ったときからずっとだった。でも人の姿で一緒に眠るってことが、どういう意味があるかってことくらい、分かってたつもり。確か人間の夫婦って一緒のベッドで眠るんでしょう? せっかく人間の姿になれたんだもの。真似事でも良いからやってみたかった。そうしてるうちにもしかしたら本当になるかもしれないじゃない!
 でもリュシアンは結局、真っ赤な顔をして困るばっかりで。猫のときは優しく撫でてくれるのに、人の姿のあたしには指一本触れようとしなかった。それになんだか怒ってるみたいだったし。まあ、あんまり怖くなかったけれどね。冷たく振る舞ってるつもりだったみたいだけど、顔が真っ赤じゃ迫力も半減よ。
 本当はいつもみたいに撫でてもらってり、抱っこしてもらったりして欲しかった。でも、あんなに困った顔をされれば、何も知らない振りをして、ただ横に寄り添うだけが精一杯だった。だってあたし、リュシアンに嫌われたくないんだもの。人間の姿になっても、そう簡単に好いてもらえるわけではなかったみたい。

 そうこうしてるうちに、あんな手紙が届くなんて。
 ――娘の婿になる気はないか――
 『人間』の『美人』な『お姫様』。家出猫のあたしが敵う相手ではなかった。
 リュシアンの幸せを考えれば、どうすればいいかなんて、いくらあたしの脳みそが小さくても、分かる。黙って――身を引くのだ。
 あたしはため息をつくと、視界に入った棚の上の古ぼけた本を手に取る。何気なく開くと、たくさんの文字がずらりと並んでいる。勉強した覚えは無いけれど、あたしは不思議と字は読めた。家も絵本ならよく読んでいたのだ。
 分厚いその本の表紙には、すり切れてほとんど見えないくらいの薄い字で、聖典、と書かれている。リュシアンは意外に信心深いのだ。朝晩にお祈りしてるのをよく見かけていた。
 背表紙を開くと、そこには大きな文字で書いてある。

  ……主が唯一の神であること
  安息日を守ること
  父母を敬うこと
  殺人をしてはいけないこと
  盗んではいけないこと
  うそをついてはいけないこと
  隣人の家をむさぼってはいけないこと……

 途中よく分からない言葉もあったけれど、これはあたしにでも分かる事が多く書かれていた。
 あたしが隣からパンを盗んできた時、リュシアンが怒った理由も分かる。『盗んではいけないこと』『隣人の家をむさぼってはいけないこと』。思い出すと、ため息がまた出て来た。
 ふと見るとその聖典には栞が挟んであった。パラパラとめくり、その頁に目を落とす。一文にそこだけ強調するかのように線が引いてある。

『全て――と寝る者は必ず――とする』

「――?」
 って、何て読むの? この言葉。
 つっかえたところで読む気が失せて、あたしは本を閉じると、掃除に戻る。
 窓から流れ込む冷たい風に外を見ると、いつしか空が茜色に染まっていた。
 夜が来る。この夜が明ければ、王様とお姫様がやってくる。あたしからリュシアンを奪いにやってくる。――考えたくない。
 そんな想いを押し殺すようにして、あたしは必死でリュシアンの部屋を磨き上げた。


 そして当日。あたしたちは王様とお姫様を出迎えるため、玄関前にある中庭にいた。
 この季節、中庭には花も咲かず、植え込みの木々も葉を落としていた。唯一庭を飾る噴水も、飛沫や耳に届く水音が寒々しい。そのちっとも歓迎ムードでないその庭は、まるであたしの心の中の風景のようだった。
 リュシアンはあまりの緊張のせいか、朝からお腹の調子が悪いらしく、青白い顔をしていた。
 どうも本番に弱いみたいなのよね。だって、リュシアンって、シャルルが言うには勉強だって出来るみたいだし、粉屋で肉体労働をしてるのは勿体ないって。
 リュシアンになんでって聞いたら、高等学校の入学試験でお腹壊して合格できなかったんだって。それも実力のうちだよってそう言うけれど……つくづく損をしてると思う。
 あたしはそんなリュシアンの側に一歩近寄り、彼の顔を見上げる。
 綺麗に櫛を入れて整えられた漆黒の髪が、雲の切れ間から差す光に照らされてつやつやと輝いていた。それは瞳の色と相まって彼をいっそう魅力的に見せていた。
 体にぴったりと合った濃紺の服が、とてもよく似合っている。いつだったかパレードで見た軍人さんが着ていたようなかっちりと襟の詰まった服。シャルルがせっかくだからとプレゼントしてあげたのだ。
 その服のポケットの中から、彼を熱烈な視線で見つめているシャルルを見るに、どう考えても自分のために贈ったんだろうとは思うけれど。
 ――リュシアンがお姫様に振られちゃえばいいのに。そんなことを心の隅で考えてたあたしだったけど……これじゃあ、無理かも、と思わざるを得ない。
 あたしといえば、今日は朝一番から変身して、身支度を終えていた。髪の毛は綺麗に結って、後頭部で纏めて、グレーのメイド服はいつもより丁寧にアイロンを当てている。顔色の悪さを隠すため、少しだけ紅をのせておしろいなどはたいてみた。あまり、眠れなかったのだ。
「大丈夫なの? そんな体調で。王様に失礼があったらいけないし、止めておいた方がいいんじゃない?」
 あたしはさりげなく、リュシアンを引き止める。
「今さら中止になんか出来ないよ。とりあえず会うだけ会ってみる。どういうつもりなのか確かめないといけないし」
「リュシアンは利用されてるだけかもしれないんでしょ? ねえ、シャルル?」
 ポケットから顔を覗かせていたシャルルは、突然話題を振られきょとんとしていたが、あたしの「とって食うわよ」という鋭い眼光に圧され、渋々のように頷く。
「ま、まあねぇ。でも」
「あたしも心配。騙されてたら? それでもいいの?」
 何か言いたげにするシャルルを遮って、あたしはリュシアンに言い募った。シャルルはやれやれと肩をすくくめ、ポケットの中に潜り込む。
 ――あたしったら、何て嫌な子なのかしら。なんで、素直に喜んであげられないの。それも今日になってぐずぐず言うなんて、往生際が悪いったら。
 そう思っても口が止まらなかった。だけど、
「そのときはそのときだ」
 リュシアンは何か覚悟したような瞳をあたしに向けた。咎められてるという訳でもないのに、妙に切り離されたような、薄いけれど確かにそこにある壁に阻まれたような、そんな気分になる。その珍しく鋭い光にあたしの口はようやく閉ざされる。庭に沈黙が広がり、噴水の水音だけがやけに大きく感じられた。
「アリス。……ごめん」
 リュシアンが沈黙を破るよう、ふと、そう漏らす。あたしはびっくりして目を見開いた。
「な、なによ。なに謝ってるのよ。謝ることなんて、何も無いでしょ」
 両頬に手を当てると、慌てて表情を取り繕う。顔になにかにじみ出てたのかもしれない。
 リュシアンはそんなあたしを見て、いつも通りの柔らかい表情に戻る。そして、あたしの大好きなその微笑みを顔に浮かべた。
「そう……か。そうだね。……じゃあ、ありがとうって言っておこう」
 その言葉が、妙に心に染みた。染みすぎて、痛かった。あたし……振られればいいなんて、そんなこと考えてるっていうのに。そんな風に言わないで欲しかった。
「そ、そうよ。それでいいのよ!」
 強がるしか無かった。あたしは、最後は叫ぶように言うと、それ以上リュシアンの顔を見ていられなくって彼に背を向けた。

 直後、ヒヒヒィィンと馬のいななきが聞こえ、あたしは顔を上げる。
 ――来た!
 石畳の上を木で出来た車輪がガタガタと壊れそうに大きな音を立て、走り込んでくる。その音に圧倒されつつも、あたしとリュシアンは馬車に近づく。車輪が悲鳴を上げるのを止め、馬車が止まり、やがてその扉が開いた。
 見覚えのある長い髭が馬車から現れ、髭の中に埋もれたその目があたしを見たかと思うと怪しく光る。思わず確認するようにリュシアンを振り返ったけれど、王の視線はやっぱりあたしに向けられているようだった。
 ――な、なに? あたし?
 今日は猫の姿ではないからまず目に留まるはずが無かった。だから堂々と姿を見せていたけれど……なぜそんな風に注目されるのか分からない。
 その探るような視線が気まずくて俯いたところ、白い革靴に包まれた小さな足が見えた。
 匂うような雰囲気に誘われ顔を上げると、寒々しい庭にそこだけ春が来たかのように、可憐な薔薇が一輪咲き誇っていた。
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